日帰り勇者 八月一日
物語を語ろう。夏休みと共に――。
「あっちぃ……」
俺はベッドから起き上がり、カーテンを引いて朝日を迎えた。
この季節ばかりはうっとおしい、青空と太陽が燦然と輝いている。庭先から聞こえるセミの音が喧しく、体が水を求めて酷く乾いて仕方が無い。
役立たずにも近い扇風機は、一応“強”で回転しているはずだが、この暑さで熱風をかき回したところでは、無意味に等しかった。それでもウンウンと周り続けるそれが無ければ、俺は、もしかすると干からびていたかもしれないな。
八月の初日である今日は、その程度には真夏日であるようだった。
「はぁ……」
じとり、と全身を覆う汗が気持ち悪い。七月の半ばにかけてから、深夜にまともに眠れた記憶が久しく無いだろう。一度、シャワーを浴びて気持ち良く寝入ったはずなのに、数時間横になったらこの有様だ。苦心して持ち上げた全身は、軽くランニングでもしてきたと思える程にケダルい。
再びベッドに腰掛ける。のろりと頭を持ち上げて部屋の天井を何気なく見た。そこにはエアコンという、類稀なく貴重な電気機器が、“一応”あるにはある。
「あ、あついぃぃ……く、く~ら~……くぅ~らぁ~~のぉ、すいっちをぉ~……!」
お~ん、お~ん、きぼ~んと、今が丑三つ時であれば、ともすれば死者と間違えてしまいそうな、覇気の無い声だ。目線を落とさずともに感じる。俺の足首には今、黒い毛皮の塊が、べちょりとくっついているのだろう。暑苦しいことこの上ないので、軽く蹴飛ばしてから、無視して立ちあがる俺。
「こ、こら“勇者!” 私を脚蹴にするとは、なんたる無礼な奴っ! だが……心の広い私は許してやるっ! だから、早く、く~ら~のすいっちを点けるが良いっ!」
「残念だが、我が家のクーラー発動権限は、母にしか無い」
可愛い子には、旅させよ!
すなわち、苦労は大切だ!
だから、エアコンのつけっぱは、許しませんよっ!!
そんな、大人の建前、とってもステキっ!
いいから、節約しなさいって、言ってるのっ!!
家計はいつだって、火の車ーーーーッッ!!!
我らが一家の大黒柱。母、総江、魂の叫びである。
いつか一人暮らしを始めたら、夏は冷房をガンガンにかけてやると誓う、今日この頃。
つまり俺は、いまだこの時も両親の庇護を受けて育っている。ちなみに今年、十七になった。義務教育というものは、随分昔に過ぎ去っているが、高校を卒業するまでは、実家住まいが続くであろう身の上である。
痛々しい反抗期も過ぎ去った今、我が家での発言権は依然として低いままだ。涼しい思いをしたければ、縁側と言えないこともない、小さな庭先に風鈴を吊るし、それに向け扇風機を強速でぶんまわし、決死の思いを込めて、骨董品に近いかき氷機を、ガリゴリガリゴリやるぐらいだろう。それが今の現実だ。
「役立たずめ~~っ! あついぃ~あついぃ、あついよ~ぅ……」
「喚いたところで仕方ないだろう、バカ。余計アツイだけだ」
にじり、にじりと、地を這うようにして、再び足元へとやってくる。そしてこちらを見上げてくる視線と重なった。
「うぅ、仕方あるまい……ならば勇者、アイスじゃ。アイスクリームを買いにいくのじゃ。イチゴの奴が良い」
なんて奴だ。学生の貴重に過ぎる小遣いを、自身の金と同等に扱っているつもりか。
「ヒトの金をあてにするんじゃねぇよ。無一文の、居候の分際で」
勉強をするのが学生、しかも普通科の生徒ならば尚更。世間一般はそんな眼で俺達を見比べる。それに反抗しつつも、外聞の貴重さを経験で学びつつある俺達は、その一部に従うフリをして、日々を上手に生きている。
それはたとえば、時間をかけて良質の一冊を探し出し、帰ってから溜息と共に見る、二千も三千円もする参考書を買ったあの瞬間……。
「“マオウ”には分からないかもしれないが、金は貴重なんだよ」
「ふんっ、なんじゃ、ケチくさいヤツっ!」
「喧しい。お前は製氷皿の氷でも齧って、床の上で転がってろ」
「な、なぬううぅぅ……っ!?」
足元にくっついていたそれが、飛びあがる気配。次いで、どすん、と右の肩に重みが増す。
暑い吐息が、口の端から漏れ出て、首へと振りかかってきた。
「アイス、買え」
鋭く伸びた爪が、俺の首を左右から捉えていた。後ろ腰の辺りに、ばしばしと“しっぽ”が当たって、うざったい。少し首を傾ければ、肩で重石になっている存在の全様が映る。怒りに満ちた金の両眼は、いつもより細く、鋭い。……このバカ、マジだな。
「……分かった、分かったよ。だからとりあえず降りろ。クロ」
「本当かっ!?」
肩の重荷が降りるとは、こういうことも指すのだろうか。とんっ、と軽い音を立てて、床上に着地した重石であった小さな存在。俺の方へと振り返る。金色に輝く両眼を持って、全身を黒い毛並みで覆った黒い子猫が。
頭の上には二つの三角形の耳、小さな四つ足、尻から伸びた一本のしっぽ。もう一度確認する、至って普通の子猫だ。
「約束したからなっ!?」
だが喋る。何故にか喋る。金の瞳眼を余計にキラキラと輝かせて、しっぽを大きく震わせながら―――我が家の黒猫『クロ』は、喋る。
我が家の飼い猫であると同時に、異世界の魔王であるクロは、この世界の勇者である俺とだけ、言葉を通じあわすことが出来るのだった。
「オーケイ」
俺の了承の言葉は英語。それは俺自身へ放った意図も含めている。大丈夫、俺は大丈夫なのだという、そんな意味を気軽に込めた具合に。
自覚症状があるうちは安全圏のはず。すなわち、自分の頭がおかしいかもしれないと疑っているということだ。よし、オーケーオーケーィ。
最近になって、俺と、俺の周辺に忍び寄る、奇異な現実を、必要以上に俺は把握している。やはり全然問題無い。オーゥルラィ。
「やったー! コウキッ!“ひょーけつ”の、アイスが食べたいのじゃ! イチゴの“ひょーけつ”のやつ!」
俺の人生における理想のシナリオは、あくまで平凡に生きていくということに尽きる。
出来ることならば、自分の能力が許す限り優秀に、上手く世の中を渡りながら。
「あいすーっ♪」
だから、勇者だの、魔王だの、変な老人が突然に俺を拉致ったことなど、その先には中世の古城があっただの。それらは全て一抹の夢だったに過ぎない。なぁに、ちょっと人生に疲れてただけさ。
とりわけ『伝説の剣はお前にしか扱えん。さぁ魔王を封印するのだ、勇者よ』……ははっ、あれは酷かったな。
「あ、い、すっ♪ あ、い、すっ♪ ふふふっ、あ、い、すっ♪」
夢とはいえど、なんとか元の世界に戻ってきた俺は、心に誓った。
古めかしい、レトロゲームにありがちなシナリオは、俺の記憶から完膚無きまでに忘却すると。
そして、今までと変わらずに、日々を生きていくのだ。
「コウキッ! はやく着替えて、“こんびに”へ、アイスを買いにいくぞっ!!」
そんなつもり、欠片も無いな。何だって奇異な幻聴に対して、約束などしなくてはならないのか。
これは俺の、ただの独り言に決まっているのだ。身の程を知れ、このネコ畜生が。
お前は、冷蔵庫で冷やしたキャットフードを食べていれば、それで充分だ。
俺は算段を纏めると、ベッドから立ち上がり、廊下へと出た。クロもまとわりつくようにして、ついてくる。
「むふふふ、しかし、バニラやチョコも捨て難いな、そう思わんか、勇者!」
「はいはい」
「なんじゃ、その適当な返事は。まぁよい」
幻聴はよく耳に届く。しかしどうして日本の夏は、こんなにも理不尽なんだろうか。夏の陽炎が見せている幻は、小刻みにステップを踏んで、小躍りしているようにも見えた。
「おっといけない」
「どうした?」
「財布が部屋の机に置きっぱなしだった。クロ、ちょっと取ってきてくれないか?」
「うむっ!」
何の疑いも無く、部屋の中へと戻っていく愚かな幻。異世界よりやってきた夢の欠片は、愉快なほどに低脳だった。
俺はドアのストッパーを外す。ドアノブを手に引き寄せると、パタン、という音が響く。扉はあっけなく閉ざされた。
「にゃ?」
「魔王の封印、これにて完了」
俺は若干、芝居がかった口調を浮かべながら、階段の一歩を降りてゆく。
しかし、今日は物凄く暑いな。本格的に、真夏日の一日になりそうだ。
がりがり、がりがり、がりがりがりがりがりがり…………!
扉を爪でひっかく音。セミが鳴く音に混じって、耐える事無く後ろから響いてくる。
もう一度、俺は溜息をついた。そして振り返り、閉めたばかりの扉を開け放ってしまった。
「うにゃー!?」
僅かな隙間から飛び出すように出てきた影は、勢い余ってずっこけた。そして素早く持ち上げたその表情は、予想せずとも怒りに満ちていた―――かと思いきや、存外にも泣き出しそうな様子だ。細長いしっぽが、ぴぃんと天を指して、毛がざわざわしている。
「バカ勇者ッ、嘘つきッ、卑怯者ッ!!」
「……うるさい。お前は、もうちょっと遠慮というものを知れ、学べ、自重しろ」
「難しい言葉を使うでない、バカ勇者っ! アイスーーッ! ひょーけつの、イチゴアイスーーッ!!」
幻聴は、にゃあにゃあと、大きな声で鳴き続けた――のだろう。
この黒猫が繰り出す人の言葉、正確には日本語が、たとえ幻聴であったとしても―――その存在と、にゃあと響く音色は、すべての存在に行き届く。
「ちょっと、何やってるの、コーキ! また、クロちゃんいじめてるんじゃ、ないでしょうねっ!」
「兄ちゃん、テレビ聞こえなーーい!」
誰よりも見知った家族の言葉が響いて届く。階下、恐らくは出張している父を除いて、母と弟が食卓を囲んでいるのだろう。
面倒なことに、母と弟は、目の前の幻を溺愛している。まったく始末に負えない連中だ。
「クロちゃんイジメてると、あんた今月の小遣いなくなるわよーっ!?」
な、なんだと……!?
「アイスーーーーーーッ!!!」
「うるさいっ! 小さな子供か、お前はっ!!」
「アイス―、アイス―、アイスが食べたいのーーーーッ!!」
俺は率直に思った。こいつ、超ウゼェ。しかし俺の小遣いの一月が、幻と共に消えるのは、絶対に御免だ。では優先すべき事柄は何か。俺のCPUがキュラキュラと音を立てて回る。導かれる結論は、実にシンプル。
「……分かった。アイス買ってやるから、だから鳴き止め、いい加減」
俺は多分、凄く嫌そうな顔をしていただろう。それでも俺のつま先で、にゃあにゃあと駄々をこねていた存在は、ピタリとその声を留めた。
クロは、涙に揺れた大きな金色の眼を見開いて、ゆっくりと顔をあげる。対になるようにして、細長い黒のしっぽが落ち着いていく。
「……本当か、今度こそ、嘘じゃないのか?」
「……お前なぁ」
学生にとって、それぞれに夢を馳せるのだろう、一夏の物語。
一か月という猶予を得た、その最初の一日は、始まってしまった。
「一本、百円のやつまでだぞ」
「ふん、やはりケチくさいな。ところで、“しょーひぜー”は、込みであろうな?」
「仕方ないな、込みにしておいてやる。ありがたく思えよ」
八月一日。俺は朝飯を食い終えると、最も近場のコンビニへ、アイスを買いに家を出た。