日帰り勇者 七月某日
進学か、就職か。
多くの中学生が、前者を選択する例に違わず、俺は進学の道を選んだ。
勉強が出来るという基準において、俺はそれなりに優秀な学生だったが、この辺りで最もレベルの高い県立高校に入学するには、さらなる努力が求められた。
中坊の担任からは、努力をすれば充分に可能性はあるとも言われたが、その懸命に努力をするという行為を、俺は拒んだ。あくまでマイペースに、あくまで“自分の出来る限りで優秀に”。
それが、中学の時に既に自分に課せた、生きる指針であったから。
そのきっかけを与えてくれたヒトは、まだガキンチョであった俺の、しかし大切な人だった。
周囲が慌ただしくなっていくのを感じながら、俺はぼんやりと、進学に必要な勉強を続けた。そして安全圏が約束されていた進学高を受験し、合格を果たす。
その県立高校は、片道の通学が一時間近くかかり、おまけに坂道に挟まれて、切り崩した山中に潜むように設立された、チャリ通学には難儀な場所だ。
周辺には、遊べるようなところなど皆無だが、それでも無駄に豊かな自然に包まれたここは、嫌いじゃない。
明日、入学して二度目になる夏休みが、やってくる。
「――じゃあな、コウキ」
「おう、またな」
緩やかな上り坂の道が終わる。高校に入学してからの友人と、いつもの分かれ道で、手を振って別れた。
そして俺は、今度は下り坂の道を行く。少々急なところは足ブレーキを加えて、緩やかになれば全身で、夏の風を浴びて自宅を目指す。
いつもならば、よくて夕焼け空を帰りとする日々だ。しかし終業式である今日は、校長の長い話を耳にするだけで、昼前には家に辿り着ける。最高だ。
「んー、昼は何を食うかな~」
運動はもとより、脳みそを酷使したわけでも無い。それでも腹の音は響く。成長期はとっくに終わりを告げたと思っていたのに、腹の減るスピードは中学以上だ。最近、自分でもアホじゃないかと思えるぐらいに、大量の飯が胃袋に納まっていく。
そして幸いというべきか、俺は自分で料理を作るのが結構好きだったりする。家に帰って冷蔵庫を開ければ、昨日の夕飯の残り物から、何か調理出来そうな食材が残っているだろう。
「帰る途中で麺買って、冷やし中華作んのもいいかもな」
そんなことを一人呟く。そして走り慣れた山道のカーブに合わせ、自転車のハンドルを傾けた。
とまれ。
幾度となく見た、赤い三角マークの看板。ここはその警告通り、やや鋭角に、右方へと湾曲したカーブを描く道。
ほんの僅かな時間ではあるが、道の先が山を切り崩したアスファルトの壁に覆われ、見えなくなる。
しかしたとえ、カーブの先から突然車が現れたとしても、この道を毎日のように通学している俺にとっては、そこまで驚くべきことでは無い。
その油断が交通事故に繋がる―――のかもしれないが、俺は無意識のまま、適切な距離を取って、そのまま下り坂の最後を終えていく。
しかしこの日、開けた視界の先に、黄土色の“ローブ”を着た老人が見えた。俺とすれ違うであろう位置を、ゆっくりとした足取りで坂を登っていく。
「……(何かの宗教か? このクソ暑いのに大丈夫かよ。色んな意味で)」
互いが横切るその瞬間、俺は低俗な興味を得て、爺さんの顔を覗き込む。
爺さんは、奇妙な服装を被っているにも関わらず、その顔立ちの印象は、予想外に整っていた。
黄土色のローブから覗き見える表情は、どこか力強く、そして浮かび上がるシワの形すら、何かのアクセントに思える。
老年の魅力というのだろうか。男の俺でも「おぉ」と、感嘆の言葉を発してしまいそうになる程だ。
「(……アメリカ人、かな?)」
爺さんが日本人で無かったという点も大きい。ともすれば、ハリウッドの映画で、主役か名脇役を演じてもまかり通りそうな、青い瞳と生気の溢れる白髪を携えた老人。
「ややヤ、見つけましたゾ、勇者ドノ!!」
すれ違うその一瞬。爺さんの口元から、妙なイントネーションの日本語が聞こえた。欧米からやって来た英語教師のものとは随分違う、まるで無理に機械を通して発された、電子ボイスのような発音。
『トフ・グヴェル・ギグ・ネーシュ・ルバ……!』
次いで生まれるのは、日本語でも、そして恐らく英語や中国語でも無い言葉。過ぎ去った爺さんを振り返って見やると、何やら両腕を大きく広げていた。
夏の暑い日差しの中で、黄土色のローブを被り、仁王立ちをした老人。
しかも伸ばした片手の中には、奇妙にねじ曲がった赤い玉のついた杖を携えている。
『アーメン・ソーメン・ヒーヤーソーーメーーーン……!』
なんだそりゃ……魔法使いのコスプレか? こういってはアレだが、やはり外人は堂々としているな、恐れ入るわ。
俺は、目を合わすべきでは無かったなと思いながら、チャリを漕ぐスピードを僅かにあげた。
やはり夏はイカンな。猛暑とはいかずとも、この連日の暑さは、ヒトを狂わせる何かを孕んでいるのだろう。
俺の全身は、しっかりと目指すべき未来へと振り返った。真っ直ぐに帰るべき帰路を、見据えるようにして。
『ヘイ! チョトチョト、待つあるヨ! “テンイザヒョウ” ずれちゃうヨ……!!』
ダメだ、見た目は良いのに、本格的にオカシな爺さんだ。仕方がない。このまま坂道を降りて、しっかりと安全を確認することが出来たら、すぐに携帯電話を取り出そう。
心持ち、いつもよりブレーキの頻度を落として、俺と相棒の自転車は、真っ直ぐに坂を降りていく。
『仕方無い少年だネ……カレー・ウドーン・ラメーン・スッキヤーキッ・テンプーリャアァァァ!!』
既に遠ざかりつつある老人のタワゴトは、しかしその力を増している。何やら凄まじい威圧感を背中越しに感じる俺。
呑気に構えていたはずの意識が、徐々に冷静さを失っていく。
ズンッ! と巨大な足跡を打ちつけるようにして、背後から何かが迫ってくる。
……なんだ?
気づけば、俺の内側から、全力の警告音が鳴り響く。
落ち着け、アレはただの変質者だ。距離が開いたところで、落ち着いて通報してやればいい。近くには交番もある。しかしそんな心とは裏腹に、冷たい汗が全身から吹き出て止まらない。
……やばい、なんでか分からんが、いや、あの爺さんはどう見てもヤバいが、何かそれ以外にも、ヤバイッ!
何か―――そう、“何か”としかいいようの無い奇妙な感覚。よくは分からなかったが、一刻も早くこの場を離れたいことは確かだった。俺の心臓が、早鐘のように鳴り響く。
『――――ルティ・カラドッ!!』
それが、変質者である爺さんの最後の言葉だと、何故だか直観で感じた。
同時に、今までの生涯において、これまで得体の知れない不安を感じたことは無い。圧迫感に潰されてしまいそうだった。
一体、なんだっつーんだよっ!?
俺の意識など、全て無視すると言わんばかりに、その“何か”は、俺を飲み干した。
視界が、見えている世界が、一瞬のうちに闇へと変わる。
そして、訪れる白の閃光の群れ。
溢れんばかりに流れてゆく光の粒が、世界を書き換えていく。
逃れる術などなく、気がつけば俺は、青一色に包まれた世界の中にいた。
「………………ぉ?」
空、空、空。
そして、小さく脆弱そうに思える、途中で千切れたような雲の群れが見える。しかし今まで見たことが無いほどの圧倒感だ。
何故だろう。手を伸ばせば、すぐ届いてしまいそうな位置にあるからかな。よし、オーケイ。
風が吹く。坂道を自転車で暴走した程度では、決して味わえない強風だ。全身を斬り裂くような冷たさは、目を覚ますのに良さそうだ。
そうして、認めたくない現実は時を得る。目の前の光景を唖然と感じる全身に、認識が追い付いていく。
「――――ッッ!?」
今までに無い程に、全力でハンドルを握りしめた。同時にブレーキは限界まで引きしぼる。全身を預けるようにして、自転車にしがみつく。
しかし、そうしてみたところで―――“空の中”では、一片の意味すら見出せる訳がない!
「うおおおおおおあああああああああああッッッッ!?!?!?」
落ちる! 落ちる! 落ちる!! 落ちる!!
落ちるッッ!!!!
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる……と、世界が回る。支点、力点、作用点。テストの時だけ意識する、摩擦抵抗が俺の脳裏でチカチカ閃く。今のベクトルはどっちだ。
二次関数、物体は時間が経過するごとに、速度を上げて行き、やがて限界を迎えるらしい。俺の全身は、現在それを証明中である。
ニュートンは言った。リンゴが落ちていくのは、この世界に重力があるからなのだと。すべては星の中心へと、導かれて行くのだと。
Q:そして、空が青いのは何故か。また、午後の空が赤く見える理由も答えよ。
A:青い光の色は、最も波長が短いから。午後は、太陽光が大気中を進む距離が長くなり、青色の光が散乱の度合を増す。そして瞳には、赤い光が優先して見えるから。
これが走馬灯といふものか。なるほど、それにしても悲しきかな。まさか俺がここまで勉強熱心だったとは。
よし、父さん、母さん。今まで苦労かけてゴメン。明日からは、俺、もう少し真面目に頑張ってみるよ!!
万感の意を込めたそれを、世は、死亡フラグといふ。
「あぁ、明日から夏休みだったのになぁ…………コンチクショウ」
走馬灯は続く。友人に手渡した昼飯の代金とか、密かに憧れていた学園アイドルの「好きな人がいる」 発言とか。まぁ、俺じゃないんだろうけど。
やがて何処までも広がる青空の中に、こんもりとした、緑色の塊が視界に映り始めた。
「えー、地面も見えてきましたし、最後に一曲歌って、終わりにしたいと思います」
もはや、どーでも良くなってきた。一瞬の邂逅すら無いのだろうけど、地面と激突を感じてしまうまでには、意識を失っておきたい。
どうせ最後なのだからと、全身を大きく広げて、自転車から離れた。
青空の中を翻るようにして、風を全身で受け止め、自由に飛びまわる。
時折“チカチカ”と輝いて視界に映るのは、真夏の空に浮かぶ、太陽なのだろうか。
「―――――――!?」
“チカチカ”は、少しずつ大きくなっていく。あれは太陽では無いよと、頭の中で声が響いた気がした。それは俺自身の声だったのだろうけど、俺はそれが真実だと心の底から信じたい。そうでないと、俺は死ぬ。
微かな希望を込めて、ギリと歯を食いしばり、意味も無く自転車にしがみついて、そのチカチカがさらに大きくなるのを待つ。
やがて、それが太陽では無いという真実を、俺は見定めた。
「なんだよ、あれ!!」
果たして、声が届くのか。近いように思えて、互いの距離は相当の差があるに違い無い。さらに空中を漂う姿など、海の波間に押し寄せる、砂粒の一つにも満たないかもしれない。
「く、来るんじゃねええええぇぇーーーーッッ!?」
既に“チカチカ”は、その全貌が理解できるほどの巨大な姿が見えていた。あの生き物は、もしかすると、最初から俺のところへと向かっていたのかもしれない。そうでなければ、あの燃え上がるような赤い瞳で、ちっぽけな俺を見据えることなどしないはず。っていうか、そうでない限り、俺は死ぬ。
だから、遠くに見える“チカチカ”は、俺を助けてくれるはず。まさか俺を昼飯にしようとは思ってはいまい。っていうか、そうでない限り、俺は死ぬ。
太陽の陽光を反射して輝く黄金の鱗。俺は、あの姿をよく知っている。リアルでは無い世界で、何度も見たことがある。剣を交えて戦ったこともある。
―――グガオオオオオオオオオオオオオォォォッッ!!!
黄金のドラゴン。RPGゲーム風にいえば『ゴールドドラゴン』か。
世界すら一飲みしてしまいそうな巨大な口元から、咆哮が立ち昇る。俺の心臓はもはや限界だった。
「これはひどいクソゲーだ……」
最後に現実逃避をしてから、俺は意識を失った。