幽霊って、本当に厄介だ
外は、すっかりと暗くなっていました。
私が夕飯の支度を丁度終えたのを、実は隠れて見ていたのではないか。そう疑ってしまうぐらい、丁度良いタイミングで、私の同居人は姿を現しました。
私の同居人である、幽霊のユカさんは、こう言いました。
幽霊というのは、自身が思うがままの存在になれるのだと。だからユカさんの場合は、夕飯もしっかり食べなくてはならないのだと。
『カナちゃんっ、ユカ、お腹ぺこちゃんっ!!』
「ダメですよ。きちんと手を洗ってきてくださいね」
『えぇ、めんどくさぁい!』
「ダメなものは、ダメです」
『ちぇー……』
すごすごと、席を立ちあがるユカさん。蛇口をひねり、水を排出させます。
ほっそりした、しなやかに動く両手と両指が、冷たい水に晒されています。
『やーらし、見てたでしょ、今』
「……見てません。それから見ていたとしても、やらしいことではありません」
『カナちゃんの、えっち』
「私は、エッチではありません」
『じゃあ、今日はしなくていいんだね?』
「誤解を招くような言い回しはやめてください。今日“も”です」
『ちぇー、素直じゃないんだからぁ。うひひのひ』
下種な笑いを浮かべながら、ユカさんは洗いたての指をわさわさします。
率直に言って、やらしくてエッチなのは、ユカさんです。間違いなく。
「じゃあ、食べていいよね。いただきます」
「はい、いただきます」
幽霊という存在は、既に死んでいるのです。ですから食事を取るというのは非効率的だと私は思います。正直、理解が出来ません。
「むぐむぐむぐ……」
それでもユカさんは、きちんとお箸を持って、ちょっと頬張り過ぎではないかという勢いで、白いご飯と、好物だという豚の角煮を平らげていきます。時折に、卵とレタスとトマトを盛り合わせただけの、簡素なサラダも忘れずに。
「しあわせ~」
「そうですか」
私も同様に箸を動かして、エネルギー源を摂取していきます。私の手料理を嬉しそうに咀嚼するユカさんの顔を見るのは、率直に言って好意を感じます。ただ、それを表に出せば、ユカさんが調子に乗ることは確定した情報です。それで私は少し俯きながら、時折様子を留める程度に、食事を続けるのでした。
その結果、上目遣いになりながら、ユカさんが食事をする光景を覗き込んでいたと、後日になって理解します。それがとても可愛らしかったと言われ、私は酷く後悔することになるのですが……。
『ねぇ、カナちゃん。今日のはちょっと、味が薄くない?』
「調味料の誤差は、1パーセント未満のはずですが」
『んー、なんというか、いっつも同じ味なのは、飽きちゃうな』
「じゃあ、食べなくてもいいんですよ」
『……うぅ、ごめんちゃい』
私に反論するということは、それすなわち、私のご飯が食べられないということです。ユカさんは、幽霊のくせに料理は出来るはずなのですが、料理は面倒だからしたくないのだそうです。最低です。
「ねぇカナちゃん。最後の味付けだけは、私も手伝おうか?」
「お断りします。それは調理を行う者に対する、最高の侮辱行為ですので」
「む~、カナちゃんの分からずやさんっ!」
失敬な。私はとても物分かりが良いと自負しているのに。しかしこれ以上反論すると、無限ループに入ってしまう可能性があるので、ここは無視することを選択しました。……すると私の内部で『納得がいかねぇー!』という言葉が聞こえてきますが、堪えて無視です。
それにしてもです。私の手料理に文句をつけたことを謝っておきながら、でもやっぱり薄いんだよなぁと、ぶつくさ言いながら、しっかりとおかわりをするのはどういうことなんでしょう。嗚呼、エンゲル係数が、増加の一途を辿ります……。
「分かりました。毎回煩く言われるのも嫌ですから、明日からは少し味付けを変えてみましょう」
「え、本当? きゃぁ、カナちゃん大好きー!」
「はいはい……」
処理が増えることになりますが、仕方がありません。明日からは、調味料を振りかける時は、デフォルトのランダム関数を利用しましょう。ただ、誤差の上限と下限調整は必要ですね。まったく、ユカさんは本当に、手間がかかります。
そうこうしている内に、机の上に乗った料理は、全て無くなりました。ユカさんは食べ終えると同時に、大の字を描くように、横になります。
「ごちそーさま。あーたべた、たべた」
「ユカさん、行儀が悪いですよ」
「だって、ゆうれいだもーん」
幽霊に、今更マナーだの、常識だのは必要ないということなのでしょうか。理解が不能です。
「お皿ぐらい、洗ったらどうですか?」
「うーん、面倒だけど、仕方ないなぁ」
文句をぼろぼろ零しながら立ち上がり、お皿を持って台所に立つ、私の同居人。しっかりと洗剤をつけて、ごしごしとお皿を洗っていく様子は、とても幽霊なんかには見えません。
とりあえず、ユカさんが真面目に後片付けをしているようなので、私もまた食後の休憩を取ることにしました。リモコンを手に取り、いつも目にするニュース番組をつけます。
――本日のニュースは、昨日に引き続き、“人工アンドロイド”に、人権を持たせるべきなのかという、国会の討論に対する情報をお伝えします。
――本日はコメンテーターの―――さんをお呼びしており―――
――えー、そうですね、私の考えは、彼らの心を尊重するべきだと―――
――ありがとうございました、それでは次の―――。
『カーナーちゃんっ。ぜぇんぶ、あらったよ、褒めてぇ』
「あ、はい、御苦労さまです。ユカさん」
『ありゃ、なんでまた、つまんないニュース番組とか見てるのお?』
「私には、それなりに興味深い内容なのですけど」
『はいはーい、チャンネルチェーンジ』
「ユカさん、私、まだ見てるのですけど」
『じゃ、違うの一緒に見ようよ』
「どうしてそういう答えが生まれるんですか……」
まったく、ユカさんの言うことは、いつも不公平で、理不尽です。納得がいきません。
『おっ、スミャスミャやってる』
「ユカさん、好きですね。スミャップ」
『まーね。歌は酷いもんだけど』
私の手からリモコンを取りあげて、ユカさんが勝手にチャンネルを変えるのも、日常になりつつあります。止めた番組は、とある芸能人5人組が、ゲストの芸能人を、料理でおもてなしをするという、人気のコーナーです。
『あぁ、これおいしそうだよ。ねぇカナちゃん。これと同じの、今度作ってよ』
「馬鹿言わないでください。どれだけ手間がかかると思ってるんですか」
『とぉっても?』
「そうです。とぉってもかかるんです。だから明日の朝ご飯はいつも通り、お味噌汁とご飯と、お豆腐です」
『えぇぇ! やだぁ。たまにはフォアグラとか食べたーい!!』
「無理です。それよりも早く、出て行ってくれませんか?」
『それは、絶対ヤダ』
キリリ……、と私の胸のどこかで、鋭い痛みが響いたような気がしました。
「どうしてですか。もっと居心地の良い場所も、あるはずでしょう。フォアグラを毎朝、食べさせてくれるところとか」
『あ、カナちゃん妬いてる?』
「ユカさんの発言内容から、事実を言ったまでですよ?」
『うわぁ、今日のカナちゃんは、ツンデレだぁ』
「……何ですか、ツンデレというのは」
にこおっと、どうしてだか満面の笑みを携えて、ユカさんは笑います。
プッチン。という低い音は、私の何かが切れた音では無く、テレビの電源が停止した音でした。続けて、天井につり下がっている、蛍光灯も不意に消えます。全身が、抗いようの無い力で、床に引き倒されました。仰向けにされ、闇の中、ぼやりと浮かびあがる、その存在。
すべては、幽霊の思うがままに。
ゆっくりと、吐息は重なりあって。
「……どうして貴方は、いつも贅沢ばかり、言うのですか」
『だって、飽きるんだもの。ずっと、ずうっと、ずううっと、生きてるとね』
「……もう、死んでいるじゃないですか」
『そお? ねぇカナちゃん。人が死ぬ条件って、なあに?』
「……質問内容が不適切だと思われます。私なりに解釈した言葉で発言しますと、生命の活動が衰え、そして生体維持が不可能であり―――」
それ以上の言葉は、発することが出来ませんでした。
私の唇に残った残骸を救い取り、上体に圧し掛かった存在は、目を細めて、いつもは見せない笑みを浮かべています。
『ユカ。バカだから、難しい言葉は分かんないんだよね。でもね、カナちゃん。そもそも人間は、ううん、この世界の全ては、どうして生きているということが分かるの?』
それは――。
「他者から、名前という記号を割り振られ、存在を認識され―――」
喉元を舌で舐められ、背筋に酷く冷たいものが奔りました。
それなのに、体から立ち上る熱源は、酷く不安定なのです。
アツイ。冷却処理が、追いつかないぐらいに。
覆い尽くされる全身。確かに重みを感じ、熱を感じ、息吹を感じ。
そして私もまた、擬似的なそれに支配されて―――。
『……生きているって、どういうことなんだろう。ねぇ、カナちゃん?』
「…………ッ!」
『……えへへ、今のトコ、良かったんだねぇ。もう一回、してあげようか?』
「ふぁ……」
『あらら、可愛い声出しちゃって……』
―――コードエラー。コードエラー。コードエラー。コードエラー。
―――コードエラー。コードエラー。コードエラー。コードエラー。
処理内容が不正です。値が正確でありません。変換できません。記述が間違っています。上限を超えています。下限を超えています。メソッドを呼び出せません。値に0が代入されています。宣言が正しくありません。ソースコードが正規の文字表現で無い可能性があります。プロパティを実行できません。デバッグを開始できません。デバッグに失敗しました。
「あ―――」
暗闇の中、真っ赤になりながら、動きを止めてしまった女性。
それに覆い被さっている、もう一人の女性。
彼女は、もう一度その吐息を触れ合わせようとして、しかし動きを止めた。
『ねぇ、これから、楽しいところだから、邪魔しないで頂戴ね?』
蠱惑的に嗤うその彼女は、ヒトとは思えぬ程に、美しかった。
白い裸体を晒し、そして伸ばされた片腕は、天井の一角――実験のモニタリングを行っているのであろう、存在を認知出来ないように設定された、カメラの存在へと向かう。
『そうねぇ。音声だけなら、許してあげましょうか』
本来ならば、内側の世界からは触れざることは叶わぬはずの、それ。
しかし、ゆらりと半透明に動く掌は、蝶を捕獲する蜘蛛のように、しっかりと捉えた。
『貴方達のお人形が、可愛らしい産声を上げる瞬間を、よぉく耳に焼き付けておくといいわ……ねぇ、お父さん、お母さん?』
そして内側の世界は、完全なる闇に包みこまれた。
GOOD NIGHT HUMAN。
そのメッセージだけを、外なる世界へと残して――。