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1.リストカットガール

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1. リストカットガール

 この時間じゃまずいな。間に合わない。
 僕はぼんやりとそんなことを考えながら、新校舎の廊下を走っていた。右腕にかけてある時計を見ると、「01:16」と表示されている。チャイムまであと四分だ。
 入学して初めての全校集会で一年生は全員、柔道場に集合ということになっていた。僕はその武道場が分からず、第一新校舎の一階を走っていた。
 僕だけがクラスの皆から遅れてしまったのには理由があった。それは、数分前のことだった。

                    *

「五時間目は柔道場で部活動紹介があるから、今から皆で移動するんだが……まぁ、なんだ。ジェンダーフリーが叫ばれてる昨今だ。今日はまだ自己紹介が済んだばかりで、皆まわりの奴らのことがよく分からんだろうから、男女別じゃなく出席番号順に二列に廊下に並んでくれ」
 体育教師特有のハキハキした声で担任の北川先生はそう言って、クラスの生徒を柔道場へ連れて行くために、廊下に出席番号順に二列に並ぶように指示を出した。
クラスメイトは同じ中学校出身のもの意外はほとんど皆、会話をせずに大人しく北川先生の指示通りに男女混ざった出席番号の順に廊下に並んだ。
「おい。小野。……大丈夫か?」
 廊下で他のクラスが移動をするのを並んで待っているときに、僕の前にいた女子生徒の小野優梨子がハンカチを口に当て小さい体をさらに小さくして、苦しそうに咳き込んでいた。
小野とは中学校が同じで、入学してすぐの僕にとってはこのクラスでの唯一の知り合いだった。
 そう小野に問いかけると、小野は苦しいのか頬と耳を赤くしながら短い絹のようなボブカットの髪を揺らしながら言った。
「……。うん。平気。ちょっとむせちゃっただけだから」
 ちょっとむせただけのはずは無かった。
小野はもともと体が弱いらしく喘息持ちで、中学生だった時もよく授業中に保健室に行っていた。おそらく、今朝寒かったのが悪かったに違いない。
「本当? 気分悪いんだったら、先生に言いなよ」
「……うん」
 小野は初めて会うクラスメイト達の手前、恥ずかしいのか口をハンカチで押さえたまま顔を伏せてしまった。
その時、クラスに誰もいないことを確認した北川先生が教室から出てきた。
「よーし。前のクラスが移動したら行くからなぁ」
「あの、先生。小野さんが少し体調が悪いみたいなんですけど……」
 僕は、恥ずかしがってうつむいてしまっている小野に変わって、先生に言った。
「ん? なに、そうなのか小野?」
小野は苦しいのか恥ずかしいのか、顔を赤らめながら咳を押しこらえて小さく頷いた。
「そうかー。どうしようか、保健室行った方がいいよな。でも俺は今から皆を柔道場に連れて行かなきゃならんしな……」
 そう言って、北川先生が「そうだ!」とうい表情で僕の方に目を向けてきた。
「そうだ。春日と小野って同じ中学出身だったよな? それじゃあ、初めましてってわけじゃないわけだ。なぁ、ちょっと春日、小野を保健室まで連れて行ってやってくれないか?」
 まさかの展開だったが、自分から先生に「小野さんが体調が悪そうだ」と言った手前、断るわけにはいかなかった。
「……はい。でも保健室ってどこにあるんですか?」
「あぁ。職員室はわかるだろ? その職員室のある第一新校舎の一階の玄関の近くにあるんだけど……。まぁそこまで行ったら分かると思うぞ。じゃあ、よろしく頼む。その後、直接、柔道場に来てくれ」
「わかりました」
そう言って僕は小野に付き添って、保健室のある第一新校舎に向かった。
後になって気づいたが、僕は保健室同様、柔道場の場所も知らなかった。

                    *

そういう訳で、小野を保健室に連れて行って保健室の先生に病状を伝えた後、僕は柔道場を探しながら第一新校舎から第二新校舎へ、一人走っていた。
僕が第二新校舎に走って戻ってきた時には、すでにクラスの生徒達の姿はなかった。少しの間、どうしようかと周りを見渡してみても誰も見当たらず、午後のうらぶれた日の光が寂しげに閑散とした教室の机を照らしているだけだった。今まで大勢の生徒達が並んでいた廊下も、すごくがらんどうとしていて、さっきまでとは対称そのものだった。
一体どうしようかと僕は途方に暮れてしまって新校舎の向かいに建っている旧校舎へとなんともなしに目を向けた。すると視界の隅に一人の女子生徒の姿が入ってきた。ここから見える旧校舎の廊下を、一人、その女子生徒は歩いていた。
今日はまだ高校が始まって二日目。二年生と三年生はこれから一年生のためにやる部活動紹介に参加する生徒以外は、午前中でもうとっくに下校しているはずだった。きっと、彼女は部活動紹介をすることになっている二・三年生なのだろう。
旧校舎に柔道場はないと言うことは常識的にも分かっていた。だけど、気づいたときには彼女を目で追いかけながら旧校舎へ続く渡り廊下を歩き始めていた。
今、彼女は、階段を上り始めているところだった。追いかけたのはその見かけた女子生徒の後姿が気になったからじゃない。ただ単に柔道場の場所を聞いてみよう、そう思ったからだ。
そうして、僕は彼女の後を追って旧校舎に足を踏み入れた。
旧校舎の中は、理科室の薬品のような匂いと埃の混じったような匂いがした。
とりあえず階段を上って旧校舎の二階の廊下を見渡してみたが、彼女の姿は無かった。三階かな? そう思い踵を返して三階の階段を上り終えたときだった。
カチャッ
小さな金属のこすれる音がした。僕はなんとなく足音を立てないように、ゆっくりと抜き足差し足ならぬスリ足で廊下の方へ歩いていき辺りを見渡してみた。
カチャッ……ガチャッ
廊下の角の壁から顔を覗かせると、廊下の隅にある部屋の「第二特別教室」と書かれた部屋の扉があった。二回目の音は、きっと鍵をした音なのだろう。
僕は何かいけないことをしている。そんな気持ちがあったが、そんな気持ちよりも僕の中では好奇心の方が強かった。僕は第二特別居室へと、足音を立てないようにすり足で歩いていって第二特別教室の前に立った。この中で彼女は何をしてるのだろう。
教室の扉はボロボロで何箇所かつぎはぎの板がされていた。
近づいてみると、ちょうど俺の目の高さの位置にある板の角のつぎはぎの一つに、米粒ほどの隙間があるのが分かった。ノックをしようか、この隙間から中の様子を窺ってみるか少しの間だけ逡巡したが、やはり僕は後者の方を選んだ。
扉に顔を近づけてみる。
部屋はカーテンを閉めているのか、ほんのり薄暗かった。まず目に付いたのは、長机とその長机にきちんと収まっているパイプ椅子二つ。その長机の真ん中に口の空いた鞄が一つ、置いてあるのが見える。まるで物置のような人気のない教室だった。
だけどさっきの女子生徒がいるはずだと思い、僕はゆっくり視界を教室の奥の方へ向けるた。すると、窓際の壁の隣に、黒い人影があった。シルエットからして、さっきの女子生徒に違いなかった。彼女は俺の方に右顔を向けていて、右手に何かを持っているように見えた。
しかし、カーテンがしてあるせいで薄暗いため、どんな表情をしているのか、一体何を持っているのか窺い知ることはできなかった。ただ、身じろぎ一つしないその影には、ただ事ではない独特のオーラが漂っていた。静寂の中の影の陰鬱なオーラだ。
チッチッチッチッチッ……
そんな静寂の充満した部屋に、アカゲラのドラミングのような音が響いた。
その直後、彼女の右手に持った何かが鈍く光って、空間を鋭く切り裂くのが見えた。
僕は覗いてはいけないものを覗いてしまったのだと直感的に感じたが、目をそらせずにその光景を見ていた。
一呼吸の間を置いて、彼女の足元に何かが滴り落ちてくる。僕はその光景に吸い込まれるように、ただ無心で見入ってしまっていた。
一体、今、何があったのだろう。これは何かの幻想なのか。
カーテンが春の陽気な風に煽られて、光の筋がユラユラと揺れた。どうやら、窓は開け放たれているらしかった。その揺らめく光が、チラチラと彼女の姿を映し出した。その光に反射し、鈍く光っているものが見える。彼女が右手に持っていたそれは、カッターナイフだった。
そして視線を下に向けると、ルビーのように鮮やかに赤く輝くものがカーテンから溢れる一筋の光に反射し、輝いていた。それは彼女の真紅の血だった。まるで今、地上に生れ落ちた大粒のルビーのように輝いている。
それはまるで幻想的な風景だった。
風がカーテンを大きく揺らした。それに呼応するように光の筋も大きく小さく揺らめく。揺れたその光が女子生徒の横顔を照らし出した。
カッターナイフを持って、血を流して立っている少女。その彼女に僕は見覚えがあった。
それは、中学のときの陸上部の憧れの先輩、竹口先輩だった。

竹口先輩は言った。
『走っているとさ、時々ふと考えることがあるのよ。私は何でこんなに頑張っているんだろう、何でこんなきついことをしているんだろうって』
油蝉の声がうるさい、夏の昼下がりのことだった。
長距離トラックの練習の休憩時間。僕と竹口先輩は校庭にある木の木陰のなかで、スポーツドリンクを飲みながら息を整えているところだった。先輩は額にペットボトルを当てて、横になっていた。
その言葉に僕はこう答えた。
『それは、頑張ったら頑張った分だけ何かしら見返りがくるから…だから頑張ってるんですよ。努力は報われるんですよ』
 先輩は横になった体勢のまま、目だけを僕の方に向けた。
『そう…。そうだね。当たり前のこと…だよね。だけど、そんな当たり前のことが上手に理解することが出来ないんだね、私。春日くんは頭、いいんだね』
『いや、そんなことはないですけど…。…だから、先輩、夏大会まであと少しなんですから頑張りましょう!』
 僕がそういうと先輩は「ハハハハ」と少しだけ笑った。そして、スクッと立ち上がって校庭のトラックの方へと走っていった。

 そんな先輩が、今、僕の目の前にカッターナイフを持って血を流しながら立っていた。
 ――――― キーンコーンカーンコーン ……
遠くの廊下で始業のチャイムが鳴る音がした。
その音を耳にして、僕は現実に引き戻された。ボンヤリとしていた頭に、目の網膜に映りこんでいる映像が次第に脳の中できちんと回路を結び始める。
数秒の放心の後、僕はこの目に映っている光景がどういうことなのかということを、やっと理解した。
先輩が今、リストカットをしたのだ。
僕はゆっくり扉から顔を離し、足音を立てないようにその場から立ち去った。

                   *

その後、僕は十分くらい柔道場を探してさ迷った。
その結果、靴箱のある玄関を出てすぐの体育館の裏に柔道場を見つけ、皆よりも十五分ほど遅れて、一人柔道場の中へ入った。
「春日。ずいぶん遅かったな。なんかあったのか?」
 僕が柔道場へ入るなり、北川先生が寄ってきた。
「あっ。いえ。あの、柔道場の場所が分からなかったので……」
「あぁ。そうか……そうだよな。先生も、ちょっとうっかりしてたわ。まぁ、許してくれ。三組の皆はあそこに並んで座ってるから、出席番号関係なしで一番後ろに座ってくれ」
 そう言うと、北川先生は柔道場の奥の方を指差した。その方向へ目をやると、多くの生徒達が僕の方を見ていて、たくさんの生徒たちと目が合った。
普段だと絶対に緊張してしまうような状況だったが、何故かそのときは全く緊張しなかった。ただ頭の中がぼんやりしていて、北川先生の声も、多くの生徒の視線も、まるで僕と皆との間に薄い磨りガラスでもあるかのような感じがして、薄らボンヤリしていた。
ついさっき、見たものは何だったのだろう。
僕の頭は、さっき見た竹口先輩の鮮血と混じりあって、グルグルと渦を巻いていた。
「 ―――――えー、じゃあ皆さんに有意義な高校生活を過ごしてもらうためにも、どのような部活があるのか、今から部員の生徒たちに自分達の部活について紹介してもらいましょう。まずは、体育系の部活から」
 そう言い眼鏡をかけた教師が生徒達の前からフェイドアウトしていった。どうやら、今まで前置きの話をしていたようだった。
 僕は顔を少しだけうつむけながら、座っている生徒達の後ろをまわって自分のクラスの場所まで歩いた。
 クラスメイトの一番後ろにつくと、皆二列に並んで座っているなか一人の女子生徒が余って一人で座っていたので、彼女の左隣に行って腰を下ろした。
 僕が座るとすぐに、坊主頭で色黒の生徒が生徒達の前にゆっくりと歩いてきた。
「えー、こんにちは。野球部です。えー、僕達野球部は、去年、地区大会三位という結果に終わり、えー、先輩と一緒に悔しい涙を流しました ―――――」
 どうやら、先輩達による部活動紹介が始まったようだった。
「――――― えー、だから、野球未経験者の人でも構いません。えー、僕達野球部と青春の高校生活を過ごしましょう。えー、また、女子マネージャーも募集中です。是非、僕らと青春の思い出の詰まった高校生活にしましょう」
 坊主の先輩は、五分ほど「えー」と連呼しながら去年の野球部の活動と結果を話し、部員と女子マネージャーを募集していることを話し生徒の前から去っていった。
 そういう風な具合で、「去年は地区~位でした。部員とマネージャーを募集しています」という同じ内容を「あー」とか「えーと」とか間に挟む言葉を変えて、サッカー部やバスケットボール部などのさまざまな部活の紹介が三十分ほど続いた。
 さすがに皆退屈し始めたのか、周りでは少しずつ話し声が聞こえ、何人かの生徒は下を向いて眠っているようだった。
「ねぇ。あんたの名前、春日……だよね? さっき、女の子を保健室へ連れてった。私、若杉香織。よろしく」
「ん? あぁ……。春日歩です。よろしく」
 隣に座っていた彼女も部活動紹介に飽きた様子で、胡座をかいて座りながら右ひじで頬杖を突き、僕に話しかけてきた。なんだか、がさつそうな女子だなと直感的に感じた。
「えー、それじゃあ、次は文化系の部活。後、三十分くらいで終わるから。」
一旦、眼鏡をかけた教師が出てきてそう言い、至る所で「えー」や「まだあんの?」などというざわめき立った声があがった。
「はぁー。まだ続くの? 嫌になるよねぇ。なー、春日」
 若杉が、ゆるいウェーブをあてた肩まである薄茶色い髪を触りながら言った。
「うん。早く終わって欲しいよね」
 彼女の意見には全くもって賛成だったので、僕はそう答えた。
「だよねー。つまんないし」
そんな生徒達の声とは関係なく、文化系の部活の紹介が吹奏楽部から始まった。
 ザワザワとしている生徒達の中、次々と早口のような感じでそれぞれの部の紹介が進んでいった。
その間、僕は仕方が無く隣の若杉と「どこの中学校出身だ」とか「どんな部活をやってただ」とかとりとめもない話をして過ごした。
 そうこうする内に、さっきまで感じていたぼんやりとした感覚は消え去り、あの「第二特別教室」での出来事も何か悪い夢でも見たのだというように、頭の隅に追いやられてしまっていた。
「えー? 春日、中学ん時、陸上部だったの? あんた背ぇ高かくて、シュッってしるから、バスケットボールかなんかやってるのかと思った。で、成績はどうだったの? 何かの大会で賞取れた?」
 やっぱり、若杉は少しがさつな感じのする娘のようだ。
「いや、結局入賞すらすることはなかったよ。三年間続けたんだけどね」
「へぇ」
 そんな取りとめもない会話を続けていると、眼鏡の教師がまた前に出てきた。
「 ――――― えー。じゃぁ、次で最後だから。皆、最後くらい静かに」
 そう言って眼鏡の教師は、生徒達の間に広がる会話の延焼を鎮火させようと試みたようだったが、時既に遅し、だった。それどころか、生徒達は「やっと、終わった」「あー、長かった」などと更に騒がしくなる始末だった。
 おそらく毎年、この「部活動紹介」で初対面の一年生は「早く終われ」という気持ちで一致団結し、早く仲良くなるのだろう。
 哀れ、最後に部活動紹介をする生徒はそんな騒がしいなか、気まずそうにしながら生徒達の前にゆっくりと歩いてきた。
「やっと終りだよー。ふー、疲れた。そういやぁさ、さっき春日、保健室に連れて行った子、……小野だっけ? 知ってるみたいだったじゃん? もしかして、アンタらオナチュウだったの?」
 若杉が悪戯っぽいような微笑で聞いてきた。
「うん。小野とは同じ、第二中学だよ」
 そう答えながら顔を上げ、最後の部活動紹介をする哀れな生徒に目を向けてみた。
「へぇ、もしかしてあんたら二人って付き合ってたりすんの?」
 次の瞬間だった。
ズンッという大きな音をたてて、たくさんの磨りガラスが柔道場の天井から落ちてきて僕の周りを囲んだ。
 最後に前に立った女子生徒の手首。
マイクを持っていない左手首には腕時計がしてあり、その下には白い包帯が巻かれていた。
「え? ナニナニ? あたり?」
 隣では若杉が嬉しそうな声をあげていたが、僕にはその声が磨りガラスにさえぎられて上手く聞き取ることが出来なかった。
「 ――――― こんにちは。文芸部です」
 前に出て部活動紹介をする女子生徒。
僕は彼女を知っていた。
あの長い髪。
あのゆっくりとした落ち着いた喋り方。
それに左手首の包帯。

 それは、さっき僕が「第二特別教室」で見た竹口先輩だった。
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空とびペンギン 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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