「志工 香矢の推論」
ーーーーーーー
興奮がおさまると身体は嘘みたいに冷えてくる。そして自分を否定的に見ることを香矢は避けられなかった。古都に香のことを話したのを後悔しているわけではない。古都の傍にいると決めた以上古都がいつかは知ることであったのは間違いない。
そしてこれは根拠のない自信だったが、古都なら香矢の過去を受け止めれくれると考えていた。なぜなら古都が周囲の人間に対してつかずはなれずの距離をおくタイプの人間であることを大体読み取っていたからだった。それが香矢には好都合だった。
しかしやはり香のことを思い出すと昔の古傷が痛む。
屋上の秘密の部屋で読んでいた「くじらの降る森」をパタンと閉じて、香矢は被っていた帽子を机の上に置く。うなだれているように帽子の先が折れているようすに香矢は親近感を感じた。自分が閉じた本の音が大きく聞こえるほど周囲は無音である。
香矢以外の人間は授業を受けているのだろう。それを意識しただけで香矢は笑いたくなるほどおかしさがこみ上げてくる。教室に入れないとはいえこうしていることは異常であるのだが、香矢にとってはありふれたことの何事でもなかった。だから自分とは違うことをしている人間の滑稽さについ口を和らげてしまっている。
ふと、机の上にあるぬいぐるみと目が合った。その目が香矢を心配しているように傾いていた。帽子のせいで机の隅に追いやられていたぬいぐるみをそっと引き寄せ自分のひざの上に抱える。その瞬間に自分の肌や髪の毛や、感覚が自分のものではないように感じた。
マントにセーラー服にぬいぐるみは全て香のものだ。そして今の香矢は香とほとんど違いがない。それのせいで胸の中にもやもやを抱えることはないどころか奇妙にすっきりとした爽快感がある。
自分がこういう姿をしている以上、香のことを忘れることはできない。一度は拒んだ香矢としての他人の触れ合いをもう一度始めているから、凍結させていた香の思い出が熱を持ち始めている。
ーーーーーーー
香は香矢の双子の妹として香矢に瓜二つだった。顔つきも背丈も言動も、双子だからという理由以上に二人は似ていた。香矢はそれを喜んでいたがある一点に関しては不安を抱いていた。
香はむやみやたらに自分に近づこうとする人間を片っ端から拒絶している。それが自分の肉親でも例外ではない。だからよく両親と対立していた。その関係はもう冷戦状態にまで発展し、もう会話さえ数ヶ月もない。ただ香矢だけは別だった。香が自分を開示できるのは香矢だけだった。
香がそれでいいのなら香矢は何も言うことがないのだがやはり兄として迷ってしまう。ただ自分も他人には関わらないように生きている以上香を責めることはできなかった。それにそれが悪かどうかといえば香矢は違うという答えを選ぶに違いない。香矢も香さえいたらそれでよかった。
この学校にある秘密の小部屋も香の到来を待っていたかのように存在していた。盲腸のように小さく作られたこの部屋の中で香は自分のしたいことをしている。香矢もそれを手伝うために同じ空間で二人きりになっていた。
「今日も夜遅くまでいるのだろ」
香はこくりと頷く。そしてぬいぐるみを抱きしめているその力を強めていた。明かりが少ないためか香の顔がよく見えない。それでも香がすこし紅潮しているのが分かった。香矢は座っている香と向き合い、香に黒いマントを羽織らせる。セーラー服がマントに覆われていき、学生から魔女に香自身の肩書きを変えていく。
香の占いはよくあたる。別に未来を予知できるということではなく、ただ単に他人の性格を見透かすことが得意ということだった。その人にあった助言をすることで問題を解決しやすくしているのだろう。香矢もある程度似たことができるが他人の奥底まで入り込むことができるのは香だけだった。
ただ他人から絶対的な距離を置く香がどうして占いなどという人と接触することをしているのかは分からない。それに魔女の噂を広めるために夜遅くに屋上を徘徊するということをするのも香矢には意味不明だった。
自分の手先が止まる。香がこちらを見ているのに気づいたからだった。香の瞳は香矢と同じ形をしている。でも鏡で見る自分の瞳とは印象が違っていた。それが香のかけている眼鏡のせいなのか。それとも……。
「あまり遅くならないように注意しろよ」
香矢はマントの首元をリボンで結びそして造形を整える。満足ゆくできになって香矢は香の肩を優しく叩いた。香が少し気恥ずかしく頬を染めながらはにかむ。香矢にだけ見せてくれるその笑みに香矢も香にだけしか見せない微笑で返す。
帽子を目深にかぶり表情を見えなくなった香を残し香矢は部屋から出て行く。香矢は妹として香を愛らしく思っていた。だが香はそのとき限りなく似ていて別の感情を抱いていたのだろう。香矢はそれに気づいていたがあえて気づかない振りをしていた。
ーーーーーーー
チャイムの音を聞いて香矢は自分の世界が秘密の小部屋に戻るのを実感した。もう香矢だけの部屋になってしまったこの部屋には埃の匂いが蔓延している。香矢はそっと帽子をかぶりなおすとひざに抱えていたぬいぐるみを机の上に戻した。
時間的に放課後を迎えようとしている。今日ここに来るとしたら古都か、士友か、大穴で赤の他人か。香矢は残りの時間を他愛ない物思いで過ごすことに決めた。
興奮がおさまると身体は嘘みたいに冷えてくる。そして自分を否定的に見ることを香矢は避けられなかった。古都に香のことを話したのを後悔しているわけではない。古都の傍にいると決めた以上古都がいつかは知ることであったのは間違いない。
そしてこれは根拠のない自信だったが、古都なら香矢の過去を受け止めれくれると考えていた。なぜなら古都が周囲の人間に対してつかずはなれずの距離をおくタイプの人間であることを大体読み取っていたからだった。それが香矢には好都合だった。
しかしやはり香のことを思い出すと昔の古傷が痛む。
屋上の秘密の部屋で読んでいた「くじらの降る森」をパタンと閉じて、香矢は被っていた帽子を机の上に置く。うなだれているように帽子の先が折れているようすに香矢は親近感を感じた。自分が閉じた本の音が大きく聞こえるほど周囲は無音である。
香矢以外の人間は授業を受けているのだろう。それを意識しただけで香矢は笑いたくなるほどおかしさがこみ上げてくる。教室に入れないとはいえこうしていることは異常であるのだが、香矢にとってはありふれたことの何事でもなかった。だから自分とは違うことをしている人間の滑稽さについ口を和らげてしまっている。
ふと、机の上にあるぬいぐるみと目が合った。その目が香矢を心配しているように傾いていた。帽子のせいで机の隅に追いやられていたぬいぐるみをそっと引き寄せ自分のひざの上に抱える。その瞬間に自分の肌や髪の毛や、感覚が自分のものではないように感じた。
マントにセーラー服にぬいぐるみは全て香のものだ。そして今の香矢は香とほとんど違いがない。それのせいで胸の中にもやもやを抱えることはないどころか奇妙にすっきりとした爽快感がある。
自分がこういう姿をしている以上、香のことを忘れることはできない。一度は拒んだ香矢としての他人の触れ合いをもう一度始めているから、凍結させていた香の思い出が熱を持ち始めている。
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香は香矢の双子の妹として香矢に瓜二つだった。顔つきも背丈も言動も、双子だからという理由以上に二人は似ていた。香矢はそれを喜んでいたがある一点に関しては不安を抱いていた。
香はむやみやたらに自分に近づこうとする人間を片っ端から拒絶している。それが自分の肉親でも例外ではない。だからよく両親と対立していた。その関係はもう冷戦状態にまで発展し、もう会話さえ数ヶ月もない。ただ香矢だけは別だった。香が自分を開示できるのは香矢だけだった。
香がそれでいいのなら香矢は何も言うことがないのだがやはり兄として迷ってしまう。ただ自分も他人には関わらないように生きている以上香を責めることはできなかった。それにそれが悪かどうかといえば香矢は違うという答えを選ぶに違いない。香矢も香さえいたらそれでよかった。
この学校にある秘密の小部屋も香の到来を待っていたかのように存在していた。盲腸のように小さく作られたこの部屋の中で香は自分のしたいことをしている。香矢もそれを手伝うために同じ空間で二人きりになっていた。
「今日も夜遅くまでいるのだろ」
香はこくりと頷く。そしてぬいぐるみを抱きしめているその力を強めていた。明かりが少ないためか香の顔がよく見えない。それでも香がすこし紅潮しているのが分かった。香矢は座っている香と向き合い、香に黒いマントを羽織らせる。セーラー服がマントに覆われていき、学生から魔女に香自身の肩書きを変えていく。
香の占いはよくあたる。別に未来を予知できるということではなく、ただ単に他人の性格を見透かすことが得意ということだった。その人にあった助言をすることで問題を解決しやすくしているのだろう。香矢もある程度似たことができるが他人の奥底まで入り込むことができるのは香だけだった。
ただ他人から絶対的な距離を置く香がどうして占いなどという人と接触することをしているのかは分からない。それに魔女の噂を広めるために夜遅くに屋上を徘徊するということをするのも香矢には意味不明だった。
自分の手先が止まる。香がこちらを見ているのに気づいたからだった。香の瞳は香矢と同じ形をしている。でも鏡で見る自分の瞳とは印象が違っていた。それが香のかけている眼鏡のせいなのか。それとも……。
「あまり遅くならないように注意しろよ」
香矢はマントの首元をリボンで結びそして造形を整える。満足ゆくできになって香矢は香の肩を優しく叩いた。香が少し気恥ずかしく頬を染めながらはにかむ。香矢にだけ見せてくれるその笑みに香矢も香にだけしか見せない微笑で返す。
帽子を目深にかぶり表情を見えなくなった香を残し香矢は部屋から出て行く。香矢は妹として香を愛らしく思っていた。だが香はそのとき限りなく似ていて別の感情を抱いていたのだろう。香矢はそれに気づいていたがあえて気づかない振りをしていた。
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チャイムの音を聞いて香矢は自分の世界が秘密の小部屋に戻るのを実感した。もう香矢だけの部屋になってしまったこの部屋には埃の匂いが蔓延している。香矢はそっと帽子をかぶりなおすとひざに抱えていたぬいぐるみを机の上に戻した。
時間的に放課後を迎えようとしている。今日ここに来るとしたら古都か、士友か、大穴で赤の他人か。香矢は残りの時間を他愛ない物思いで過ごすことに決めた。
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正方形の小さな扉を開いて光と共に現れたのは士友だった。期待が外れたことで気まずい雰囲気を香矢は作り出した。士友が来る確立が一番大きかったとはいえこいつを会話することが一番神経を注ぐ。
士友は香矢が落胆しているのを手に取るように分かっているのか何も言わずに椅子に座る。その間もにやにやとしたいやらしい笑いを崩すことはなかった。帽子の切れ目から士友の表情を観察する。
士友が動くことで埃がふわりと舞い上がり、ぬいぐるみの上に薄い層ができる。士友はいたって士友らしい顔つきをしていたが顔にさっとかかる影が大きく見えた。香矢は肌で感じていた。士友はどこか不機嫌だった。
身体の節々からその雰囲気がにじみ出ている。神経質に床を叩く足や、頭をかきむしるその手がその雰囲気に感化されているのだろう。表情が普通なのが逆に気味が悪く感じるようになっていた。
士友に不機嫌の種を植え付けたのは香矢だから香矢はその理由を知っている。そして理由は単純明快で、香矢が士友をここに呼びつけただけではなく頼みごとをしたからだった。
「頼まれていたものを持ってきたぞ」
鞄の中から出した本を机の上に置く。元から机の上に座っていたぬいぐるみを完全に無視した動作だった。ぬいぐるみは哀れにも本の下敷きになったが香矢がそれを抱き寄せることで救出した。
士友が取り出したのは図鑑だった。ただ小学生が読むようなものとは違ってもっと本格的な学術書のようなものである。香矢はそっと表紙をなでてその劣化の具合に息を呑んだ。それに現代では使われていない漢字を使った題名にもめまいがする。おそらくこの本は図書室から探してきたものであるが、それを探せたのは士友だからだろう。
「図書館ぐらい自分でいけよな、ったく」
「めんどくさいし、それに士友に選んでもらったほうが手っ取り早い」
士友は香矢の言い草に大きくため息をついて、この狭い部屋の中で無理やり足を組むとその本をおもむろに捲り始めた。ぱりぱりと黄ばんだ紙が離れる音が香矢の興味を引く。位置的に香矢は上下さかさまから読むことになるがそれでも何とか読むことができた。
植物、動物など名前も知らないものたちが所狭しと描かれている。しかし繊細な絵よりも緻密な文章が白い紙を黒く埋め尽くす勢いで書かれていた。ところどころ目にした記憶があるのはこの町で実際に見たものなのだろう。まぁそういうものを集めた図鑑なのだからそれが気のせいであることはない。
勿論梟も載っている。ただ写真技術が発達していなかった頃なのかそれらは全て挿絵だった。それでもその絵は実物となんら変わりないもので本当に今にも動き出しそうな躍動感を持っている。
香矢は士友がページを捲るたびに音にはならないため息を漏らしていた。自分からお願いしたとはいえ、予想以上のものを持ってきたのはさすが士友というべきところなのか。たまにはお礼でも言っておけばいいと思ったが、がらでもないのでやめることにした。
「これでいいのか?読み終わったらちゃんと返せよ」
「ああ」
片手で本をつまみ、予想以上なその重さに上体を引きずられそうになりながらもなんとか鞄の中に押し込む。一部始終を士友は観察しながら脚を組みなおして、香矢が持っていた本をゴミのような目つきで見ていた。
「しかしその図鑑を俺も一通り読んでみたがお前の言っていた虫のことはどこにも書いていないように見えたぞ。それがこの町の生物を記した本の中で一番分厚く、詳しく書かれているのは間違いないことだというのに」
「それは俺が決めること」
士友の言うことはおそらく間違っていなく、嘘をついているとしたら一通りというところだろう。だが香矢は妥協するつもりはなかった。士友とは違う目が付いている以上香矢にしか見えないことがあるかもしれない。
「そうか」
それだけ言うと士友は立ち上がった。香矢の一言で香矢の心の中を察したのだろう。立ち上がった拍子に頭を部屋の明かりにぶつけ電球が揺れる。当たらないところの場所に光が当たり景色が変わったように部屋の色彩が変化する。
ぬいぐるみを抱きかかえたまま香矢は士友を見上げる。士友は香矢の視線に何も感じていないように佇んでいたがどこか居心地が悪そうに眉間に皺を寄せていた。
「じゃあな。俺だって忙しいんだ」
「初めからずっとそれじゃないか。進んでいるのか?それ」
それというのはもちろん古都が被った傷害事件の真相だった。この部屋で初めて聞いてからこれまでなんどか士友の口からその進み具合を聞いているが、香矢が判断するにあまり進行していないように思えていた。
もしかしたら今日不機嫌なのも、調査に限界を感じているからかもしれない。だがそれはそれで香矢にとっては士友をからかうチャンスだった。
流し目のようにこちらを一瞥すると小さく息を吐いて、香矢を馬鹿にするように首を横に振った。いいえという意味合いではなくやれやれということだろう。
「俺が行き詰っているわけないだろう。喜べ。そろそろ真相に近づきそうだぜ」
一度立ち上がった士友はまた座りなおす。顎を両手の上にのせてトランペットを与えられた子供と一見違いはなかった。香矢は帽子を外して座りなおす。いくら士友の話とはいえ少しは真面目に聞かなければいけない。
士友は話したい欲求を抑えきれずに口の端と端を吊り上げてにたにたと笑っていた。このまま黙っていても今から話し始めるのは目に見えている。香矢は士友がより話しやすいように挑戦的な目つきで士友を睨む。
正方形の小さな扉を開いて光と共に現れたのは士友だった。期待が外れたことで気まずい雰囲気を香矢は作り出した。士友が来る確立が一番大きかったとはいえこいつを会話することが一番神経を注ぐ。
士友は香矢が落胆しているのを手に取るように分かっているのか何も言わずに椅子に座る。その間もにやにやとしたいやらしい笑いを崩すことはなかった。帽子の切れ目から士友の表情を観察する。
士友が動くことで埃がふわりと舞い上がり、ぬいぐるみの上に薄い層ができる。士友はいたって士友らしい顔つきをしていたが顔にさっとかかる影が大きく見えた。香矢は肌で感じていた。士友はどこか不機嫌だった。
身体の節々からその雰囲気がにじみ出ている。神経質に床を叩く足や、頭をかきむしるその手がその雰囲気に感化されているのだろう。表情が普通なのが逆に気味が悪く感じるようになっていた。
士友に不機嫌の種を植え付けたのは香矢だから香矢はその理由を知っている。そして理由は単純明快で、香矢が士友をここに呼びつけただけではなく頼みごとをしたからだった。
「頼まれていたものを持ってきたぞ」
鞄の中から出した本を机の上に置く。元から机の上に座っていたぬいぐるみを完全に無視した動作だった。ぬいぐるみは哀れにも本の下敷きになったが香矢がそれを抱き寄せることで救出した。
士友が取り出したのは図鑑だった。ただ小学生が読むようなものとは違ってもっと本格的な学術書のようなものである。香矢はそっと表紙をなでてその劣化の具合に息を呑んだ。それに現代では使われていない漢字を使った題名にもめまいがする。おそらくこの本は図書室から探してきたものであるが、それを探せたのは士友だからだろう。
「図書館ぐらい自分でいけよな、ったく」
「めんどくさいし、それに士友に選んでもらったほうが手っ取り早い」
士友は香矢の言い草に大きくため息をついて、この狭い部屋の中で無理やり足を組むとその本をおもむろに捲り始めた。ぱりぱりと黄ばんだ紙が離れる音が香矢の興味を引く。位置的に香矢は上下さかさまから読むことになるがそれでも何とか読むことができた。
植物、動物など名前も知らないものたちが所狭しと描かれている。しかし繊細な絵よりも緻密な文章が白い紙を黒く埋め尽くす勢いで書かれていた。ところどころ目にした記憶があるのはこの町で実際に見たものなのだろう。まぁそういうものを集めた図鑑なのだからそれが気のせいであることはない。
勿論梟も載っている。ただ写真技術が発達していなかった頃なのかそれらは全て挿絵だった。それでもその絵は実物となんら変わりないもので本当に今にも動き出しそうな躍動感を持っている。
香矢は士友がページを捲るたびに音にはならないため息を漏らしていた。自分からお願いしたとはいえ、予想以上のものを持ってきたのはさすが士友というべきところなのか。たまにはお礼でも言っておけばいいと思ったが、がらでもないのでやめることにした。
「これでいいのか?読み終わったらちゃんと返せよ」
「ああ」
片手で本をつまみ、予想以上なその重さに上体を引きずられそうになりながらもなんとか鞄の中に押し込む。一部始終を士友は観察しながら脚を組みなおして、香矢が持っていた本をゴミのような目つきで見ていた。
「しかしその図鑑を俺も一通り読んでみたがお前の言っていた虫のことはどこにも書いていないように見えたぞ。それがこの町の生物を記した本の中で一番分厚く、詳しく書かれているのは間違いないことだというのに」
「それは俺が決めること」
士友の言うことはおそらく間違っていなく、嘘をついているとしたら一通りというところだろう。だが香矢は妥協するつもりはなかった。士友とは違う目が付いている以上香矢にしか見えないことがあるかもしれない。
「そうか」
それだけ言うと士友は立ち上がった。香矢の一言で香矢の心の中を察したのだろう。立ち上がった拍子に頭を部屋の明かりにぶつけ電球が揺れる。当たらないところの場所に光が当たり景色が変わったように部屋の色彩が変化する。
ぬいぐるみを抱きかかえたまま香矢は士友を見上げる。士友は香矢の視線に何も感じていないように佇んでいたがどこか居心地が悪そうに眉間に皺を寄せていた。
「じゃあな。俺だって忙しいんだ」
「初めからずっとそれじゃないか。進んでいるのか?それ」
それというのはもちろん古都が被った傷害事件の真相だった。この部屋で初めて聞いてからこれまでなんどか士友の口からその進み具合を聞いているが、香矢が判断するにあまり進行していないように思えていた。
もしかしたら今日不機嫌なのも、調査に限界を感じているからかもしれない。だがそれはそれで香矢にとっては士友をからかうチャンスだった。
流し目のようにこちらを一瞥すると小さく息を吐いて、香矢を馬鹿にするように首を横に振った。いいえという意味合いではなくやれやれということだろう。
「俺が行き詰っているわけないだろう。喜べ。そろそろ真相に近づきそうだぜ」
一度立ち上がった士友はまた座りなおす。顎を両手の上にのせてトランペットを与えられた子供と一見違いはなかった。香矢は帽子を外して座りなおす。いくら士友の話とはいえ少しは真面目に聞かなければいけない。
士友は話したい欲求を抑えきれずに口の端と端を吊り上げてにたにたと笑っていた。このまま黙っていても今から話し始めるのは目に見えている。香矢は士友がより話しやすいように挑戦的な目つきで士友を睨む。
ーーーーーーー
士友は椅子に座りなおした後制服の上着を脱いで自分が座っていた椅子の背もたれにかぶせた。密閉したこの中では熱が篭るのもおかしくない。香矢の額にもうっすらを汗がにじんでいる。しかしマントを脱ぐつもりはない。
ここにいるのならマントは必要不可欠なものだ。べったりと肌にまとわり付く熱さには気にしない振りをして香矢は涼しい顔を作っていた。士友は香矢を感心する驚きを短い口笛で表現する。
お互いに真剣な雰囲気をこの狭い中で出し合うことは香矢にとっては気恥ずかしい。士友は目を閉じて考える仕草を見せていたがすぐに真剣な目つきを見せた。香矢の喉が一度だけ上下する。
「状況を整理しよう。とはいっても状況はいたって単純だ。世間では男子寮の人間が葵君を襲ったと考えられているな」
「まぁそうなっているな。しかも俺のせいでその噂がますます浸透していった」
不本意とはいえそれで名前も知らない他人に迷惑をかけていることを再確認してしまい香矢は自分が情けなく感じてしまいそうだった。
「世間ではどう思われていようが所詮噂は噂だ。そこでだ。仮に犯人が男子寮の人間ではないと仮定しよう。そうすると犯人は女子寮にいたとされる葵君にどうやって接近すればいい?」
「別にわざわざ女子寮で会わなくてもいい話じゃないのか?」
香矢はごく自然なことを行ったつもりだったが士友は口を大きく開き数秒間硬直する。そして香矢へと拍手を送った。香矢は別に何も言わなかった。士友の話の腰を折ることは今は避けたい。だから士友が話したいように話せておけばいい。
士友は拍手をし終えた手を胸の前で組むと軽く咳をする。
「お前の言い分は最もだ。ところがそれを否定しなければいけない事実がある。分かるか?」
「時間か?」
「そうだ。葵君が倒れていたその日のちょうど一日前に葵君は入寮したばかりなんだ。しかも入寮したときはもう日が暮れていたらしい。普通入寮して引越しの準備を終えて夜もくれたらもう外に出ようとかいう気はおきないだろ?」
最後は疑問系で言葉を投げかけた士友だがおそらく香矢に念を押す意味が込められていたのだろう。古都が普通という部類に入るのかとか、本当に一歩もその日は寮の外に出なかったとか疑問は多少は残る。
だが香矢もそれに同意せざるを得ない。士友のいうことは半分くらい自分の推量が含まれているような気がするのだが、説得力があるのは確かだった。しかし古都が入寮した日のことをよく調べられた。香矢はその情報網の広さと知識欲に舌を巻くことしかできなかった。
「つまり犯人が古都と接触できる場所は女子寮の中だけだった」
士友の口調が少しずつ早口になっていく。まるでサスペンスドラマで犯人を追い詰める名探偵のようだった。牛のような速度だが少しずつ結論に近づいている。
そろそろ香矢も士友が何を言おうとしているのか分かってきた。士友は右手で拳を作りそれを香矢の前に作る。全てを掌握しているという意志を見せているようなその力強さがひしひしと伝わってきた。
「犯人は女子寮の中を歩きまわれる人間」
絶対な自信と共に士友は断言する。力の篭った言葉に空気が一瞬で冷却されていく。いや、周りで停滞していた熱を士友が全て吸い込んだかのようだった。士友の顔が興奮で赤く染まる。香矢に話したのが最初で、そして誰かに話したくて身体の疼きを今まで無理やり抑えていたのだろう。
「でもまだまだ候補が多くないか?」
「それだけ分かれば十分だ。消去法で除外させていけばいい」
徐々に声が上ずっていく。自分の発言に酔っているのか士友は人差し指をぴんと立て、意気揚々と香矢に説明し続けていた。香矢はあまりにも士友がずっと早口でしゃべり続けるのでそれからはほとんど士友に話すままにさせておいた。誰を除外するかという情報は香矢が利用できるものではない。
「士友の言うことは分かった。簡単そうに言うけどよ……」
「はっ。簡単なことだ」
士友は勢いよく立ち上がる。その拍子に座っていた椅子が倒れるが本人は気にしていない。おそらく本人は気づいてさえいないだろう。そして自分の身体にはスポットライトが当たっていると錯覚しているのかもしれない。
香矢はため息をつきながらぬいぐるみを鞄の中にしまう。この部屋に篭って久しい。そろそろ日が傾いて空を青空ではなく夜空と呼ぶのにふさわしい時間になっていることだろう。士友は汗で濡れた自分の髪の毛を撫で付けていく。
「まだ確証がないがそれも時間の問題だろう。そろそろ終わるよ。そんな予感がするんだ」
「そうであって欲しいな」
「で、それにさしあたってお前に聞いておきたいことがある」
さっきまでの興奮を身体のどこにしまったのか。ここに来るときと零細な違いも見当たらない冷静さを取り戻し香矢を上から見つめる。このまま終わると思っていただけにそれは香矢にとって不意打ちだった。帽子に手をかけようとしていた右手の動きを止め、香矢は自分が右手を伸ばしているということさえ忘れかけている。
「俺が犯人を捕まえたとしよう。その後葵君とはどうするつもり?以前にも似たようなことを聞いたかもしれないがその口が言ったことは見たことはない」
これまで興奮していた様子とは打って変わって冷静な士友の声が香矢の熱を急速に奪っていく。香矢はまるで有刺鉄線が張り巡らされているような緊迫感に指の先も動かせなかった。
いつかは誰かに聞かれると思っていた。
古都の記憶を思い出させるという古都との約束があるが、それも士友が捕まえた犯人に古都の事を聞けばそれで終わる。つまり士友が事件の真相に近づけば古都との関係になんらかの影響があるといっても過言ではないだろう。
古都は香矢を頼りにしているのは無論承知の上だ。だがそれもいつまで続くのか分からない。古都と付き合うのに香矢よりも適任な人間が今後現れるとは限らない。
香矢を催促するように士友とぬいぐるみの四つの瞳が訴えている。香矢は帽子を机の上に置かれていた帽子を被ると抑揚のない声で一気にしゃべった。
「変わらないよ。今までもこれからも。古都を突き放したりはしない」
「ふぅん」
その自信がどこから来るのか分からないと士友の目は語っていた。香矢も自分で言ったことに自信がなかった。環境が変わって、関係が変わらないわけがない。香矢は一年前にそれを思い知っている。
香矢が思織と関係を結んだせいで香矢と香の関係が変わってしまった。でも香矢はそれを喜んでいた。香を支える立場にいづらくなったことは悲しいことだが自分の代わりに香を支えられる人間が現れたからだった。
しかし香矢は後悔の念が深く胸に突き刺さる。さっきの返答に対してではなくそれを士友に向かっていったことに。もういなくなった士友の目を思い出す。士友は心の底から香矢を見下していたのかもしれない。
士友は椅子に座りなおした後制服の上着を脱いで自分が座っていた椅子の背もたれにかぶせた。密閉したこの中では熱が篭るのもおかしくない。香矢の額にもうっすらを汗がにじんでいる。しかしマントを脱ぐつもりはない。
ここにいるのならマントは必要不可欠なものだ。べったりと肌にまとわり付く熱さには気にしない振りをして香矢は涼しい顔を作っていた。士友は香矢を感心する驚きを短い口笛で表現する。
お互いに真剣な雰囲気をこの狭い中で出し合うことは香矢にとっては気恥ずかしい。士友は目を閉じて考える仕草を見せていたがすぐに真剣な目つきを見せた。香矢の喉が一度だけ上下する。
「状況を整理しよう。とはいっても状況はいたって単純だ。世間では男子寮の人間が葵君を襲ったと考えられているな」
「まぁそうなっているな。しかも俺のせいでその噂がますます浸透していった」
不本意とはいえそれで名前も知らない他人に迷惑をかけていることを再確認してしまい香矢は自分が情けなく感じてしまいそうだった。
「世間ではどう思われていようが所詮噂は噂だ。そこでだ。仮に犯人が男子寮の人間ではないと仮定しよう。そうすると犯人は女子寮にいたとされる葵君にどうやって接近すればいい?」
「別にわざわざ女子寮で会わなくてもいい話じゃないのか?」
香矢はごく自然なことを行ったつもりだったが士友は口を大きく開き数秒間硬直する。そして香矢へと拍手を送った。香矢は別に何も言わなかった。士友の話の腰を折ることは今は避けたい。だから士友が話したいように話せておけばいい。
士友は拍手をし終えた手を胸の前で組むと軽く咳をする。
「お前の言い分は最もだ。ところがそれを否定しなければいけない事実がある。分かるか?」
「時間か?」
「そうだ。葵君が倒れていたその日のちょうど一日前に葵君は入寮したばかりなんだ。しかも入寮したときはもう日が暮れていたらしい。普通入寮して引越しの準備を終えて夜もくれたらもう外に出ようとかいう気はおきないだろ?」
最後は疑問系で言葉を投げかけた士友だがおそらく香矢に念を押す意味が込められていたのだろう。古都が普通という部類に入るのかとか、本当に一歩もその日は寮の外に出なかったとか疑問は多少は残る。
だが香矢もそれに同意せざるを得ない。士友のいうことは半分くらい自分の推量が含まれているような気がするのだが、説得力があるのは確かだった。しかし古都が入寮した日のことをよく調べられた。香矢はその情報網の広さと知識欲に舌を巻くことしかできなかった。
「つまり犯人が古都と接触できる場所は女子寮の中だけだった」
士友の口調が少しずつ早口になっていく。まるでサスペンスドラマで犯人を追い詰める名探偵のようだった。牛のような速度だが少しずつ結論に近づいている。
そろそろ香矢も士友が何を言おうとしているのか分かってきた。士友は右手で拳を作りそれを香矢の前に作る。全てを掌握しているという意志を見せているようなその力強さがひしひしと伝わってきた。
「犯人は女子寮の中を歩きまわれる人間」
絶対な自信と共に士友は断言する。力の篭った言葉に空気が一瞬で冷却されていく。いや、周りで停滞していた熱を士友が全て吸い込んだかのようだった。士友の顔が興奮で赤く染まる。香矢に話したのが最初で、そして誰かに話したくて身体の疼きを今まで無理やり抑えていたのだろう。
「でもまだまだ候補が多くないか?」
「それだけ分かれば十分だ。消去法で除外させていけばいい」
徐々に声が上ずっていく。自分の発言に酔っているのか士友は人差し指をぴんと立て、意気揚々と香矢に説明し続けていた。香矢はあまりにも士友がずっと早口でしゃべり続けるのでそれからはほとんど士友に話すままにさせておいた。誰を除外するかという情報は香矢が利用できるものではない。
「士友の言うことは分かった。簡単そうに言うけどよ……」
「はっ。簡単なことだ」
士友は勢いよく立ち上がる。その拍子に座っていた椅子が倒れるが本人は気にしていない。おそらく本人は気づいてさえいないだろう。そして自分の身体にはスポットライトが当たっていると錯覚しているのかもしれない。
香矢はため息をつきながらぬいぐるみを鞄の中にしまう。この部屋に篭って久しい。そろそろ日が傾いて空を青空ではなく夜空と呼ぶのにふさわしい時間になっていることだろう。士友は汗で濡れた自分の髪の毛を撫で付けていく。
「まだ確証がないがそれも時間の問題だろう。そろそろ終わるよ。そんな予感がするんだ」
「そうであって欲しいな」
「で、それにさしあたってお前に聞いておきたいことがある」
さっきまでの興奮を身体のどこにしまったのか。ここに来るときと零細な違いも見当たらない冷静さを取り戻し香矢を上から見つめる。このまま終わると思っていただけにそれは香矢にとって不意打ちだった。帽子に手をかけようとしていた右手の動きを止め、香矢は自分が右手を伸ばしているということさえ忘れかけている。
「俺が犯人を捕まえたとしよう。その後葵君とはどうするつもり?以前にも似たようなことを聞いたかもしれないがその口が言ったことは見たことはない」
これまで興奮していた様子とは打って変わって冷静な士友の声が香矢の熱を急速に奪っていく。香矢はまるで有刺鉄線が張り巡らされているような緊迫感に指の先も動かせなかった。
いつかは誰かに聞かれると思っていた。
古都の記憶を思い出させるという古都との約束があるが、それも士友が捕まえた犯人に古都の事を聞けばそれで終わる。つまり士友が事件の真相に近づけば古都との関係になんらかの影響があるといっても過言ではないだろう。
古都は香矢を頼りにしているのは無論承知の上だ。だがそれもいつまで続くのか分からない。古都と付き合うのに香矢よりも適任な人間が今後現れるとは限らない。
香矢を催促するように士友とぬいぐるみの四つの瞳が訴えている。香矢は帽子を机の上に置かれていた帽子を被ると抑揚のない声で一気にしゃべった。
「変わらないよ。今までもこれからも。古都を突き放したりはしない」
「ふぅん」
その自信がどこから来るのか分からないと士友の目は語っていた。香矢も自分で言ったことに自信がなかった。環境が変わって、関係が変わらないわけがない。香矢は一年前にそれを思い知っている。
香矢が思織と関係を結んだせいで香矢と香の関係が変わってしまった。でも香矢はそれを喜んでいた。香を支える立場にいづらくなったことは悲しいことだが自分の代わりに香を支えられる人間が現れたからだった。
しかし香矢は後悔の念が深く胸に突き刺さる。さっきの返答に対してではなくそれを士友に向かっていったことに。もういなくなった士友の目を思い出す。士友は心の底から香矢を見下していたのかもしれない。