「白崎 思織の中」
ーーーーーーー
あの時は風が強くて、木枯らしが吹いていたせいで身体の芯まで冷えるようだった。灰色の空には同じ色をしている雲が流されていて私はその行方を地平線の向こうまで追っていた。
屋上から見る校舎は何時も変わらない。春の日も夏の日も秋も、そして今の季節である冬も、人工的な校舎とそれを囲むように生え盛っている自然の木々から感じられる違和感を私はその日も感じていた。唯一見つけた違いは人の服装ぐらいかもしれない。
そっと柵に手を置いてその冷たさにおもわず苦味笑いがこぼれた。私の首に巻かれているマフラーが背中ではためいていて、くすぐられているようで痒い。着ているダッフルコートをきつく手繰り寄せて私は柵から離れた。
屋上の硬い床にごろりと横になる。寒いのは相変わらずだけどそれとは別の気持ちよさが私を包む。空と向かい合うと空がとても近くに感じられた。このまま眠ってしまうのもいいかもしれない。
「お前のマイペースぶりもここまで来ると褒めたくなってくる」
香矢が私の近くで胡坐をかいて座る。マフラーだけは巻いているもののそれ以外の防寒対策はしていなく真っ白はティーシャツと真っ黒なズボンだけだった。香矢の白くかすむ息を見つめてその寒さが自分にまで伝わってきそうだった。
けれど香矢は寒そうなそぶりを見せていない。私がよく見ている無感覚な顔をしていて、木枯らしに眉一つ動かさない。香矢のそのような反応を見ていると時々私と香矢は違う世界に生きているのではないかと不思議に思うことがあった。
「思織。何をしている?」
ふと気が付くと私は自分の指で香矢の体をなぞっていた。香矢の足は無駄な肉がついていなくて、膝頭は私のよりも固かった。私が香矢を触りたかったのは多分香矢と私が近くにいるのを身体で感じたかったからかもしれない。
香矢は唇を真一文字にして眠そうに目を細め、陰鬱な空気を私にかぐわせる。少し不機嫌な顔をしているのがいつもの香矢の表情だった。自分の体を触っている私の指先を睨みつけて、私はそれに気づいたからそっと香矢から手を放した。
「分かんない」
香矢に本当のことを言うのが恥ずかしかったから私は嘘をついた。香矢は呆れたように息を漏らしただけでそれ以上のことは追求しなかった。寒さは相変わらずだけど私と香矢の他愛無い言葉交じりのぬるさは何一つ変わっていなかった。
「それでさ、話って何?」
寝転んだまま私は香矢に問いかける。私がここにいるのは屋上にいたいからだけではない。香矢が私をここに呼んだからだった。空を覆う雲はますます厚くなり、その色も徐々に濃くなっていく。もしかしたら雨が降り始めるかもしれない。
「香のこと。最近元気がないから」
香矢は倒れるように私を同じように屋上の床に身体を預けた。私と頭の位置を逆にして私の頭の横には香矢の足が伸びている。あまり男らしくない細さだけど香矢らしいと思えばそれでもう疑問には思わない私がいた。
香矢の気配と彼が動くたびに衣擦れの音がする。それ以外は何も聞こえなかった。放課後の時間はとっくに始まっているから生徒たちは何か用がある以外はもう学校から離れているのだろう。
私はそのようなどうでもいいことをかんがえるばかりで香の顔さえ頭に思い浮かべられなかった。香には悪いけど彼女のことを考える気にはなれなかった。そして香矢が私にそのようなことを尋ねてくることに軽く失望していた。
「普通じゃない?」
「思織はそう思うかもしれないがいつも傍にいる俺からしてみれば」
「私につきっきりでやきもち焼いているかもしれないよ」
私は香矢の言葉を遮り、正直な自分の気持ちを述べた。香矢の話をもう終わらせたいという目的も含まれている。だからなるべくおちゃらけるように話したけど断定を込めて語尾をはっきりした口調になっていたかもしれない。
香矢は何も言わないが私の言葉があながち間違っていないことを認めているのだろう。私の言い方は自分なりにオブラートに包んだものだった。香がどう思っているのか。その手がかりの欠片は香の傍にいるだけで少しずつ集められていた。
香が傍にいるなら香矢だってその近くにいる。逆かな。香矢の傍にいるから香が傍にいる。そして私は香矢の傍にいる。だから香のことはいつも見ていた。
「それは分かっているよ。香が元気がないことだって思織に聞かなくても分かるよ。でも確かめたかったんだ。香は俺のこと好きなんだよ。愛しているといってもいい。口には出さないけどなんとなく分かる」
私は黙ったままでいる。いろいろと思うことはあるのだけど。香矢は私が黙っているからそのまま足を上げてその反動で上体を起こすと私にその顔を見せてきた。
「なぁ兄弟同士で恋愛が成立すると思うか?血のつながりは俺の中で結構大きいんだ。だから香の望むことにはできるだけ叶えていきたい。だけど恋愛を認めると血のつながりを否定してしまいそうなんだ」
私を上から覗き上げる香矢の表情は私をからかってもいなく、真剣なものそのものだった。香矢は私にひどいことを聞くものだと内心考えていた。それを肯定してしまえば私と香矢が今後今のままでいられる保証はない。
「さあね」
私は答えなかった。その代わりに私はある確信を抱いた。今日の香矢はどこかおかしい。私がよく知る香矢ではない。しかし見ためてきには香矢に間違いない。だけどある可能性を考えれば納得のいく答えが出来上がる。
「でも香矢が前にこう言っていたよ」
空から矢が降ってこようが香矢は私との関係については何も話さない。私が私と香矢の間をどう思っていようが香矢はかまわない。香矢がそう言ったことはないけど香矢の振る舞いからそれは自明のことだった。
そして香矢は私に香のことを話すこともなおさらない。私だって初めにここで知り合った香のことを少しは香矢から知りたいと思う。だけど私に香のことを話すことを明らかに避けている。それは話すのが面倒だというよりも香矢が本当に香を話すのを嫌がっていた。だから香矢は香のことを話さないし、私も無理に聞かなかった。
それにさっき香矢の身体をなぞってなんとなく理解した。目の前にいる香矢は香矢ではない。
「香は香矢に惚れているのではなくて、香矢の姿に惚れているんだって。要するに親近感と恋心を誤解しているんだって話していた。他人と触れ合う機会がないからこそその違いを理解できないんだって。私はそれで香が香矢から離れようとしなくて、他人を近づかせようともしないのに、香は香矢との関係を発展しない理由を納得したよ。そう思わない香矢。いや香」
私はむくりと起き上がる。目の前にいる香矢は驚いたように目を見開いたがすぐにまた元の表情に戻った。香矢によく似ているけど細かいところが似きれていない香の表情に。
あの時は風が強くて、木枯らしが吹いていたせいで身体の芯まで冷えるようだった。灰色の空には同じ色をしている雲が流されていて私はその行方を地平線の向こうまで追っていた。
屋上から見る校舎は何時も変わらない。春の日も夏の日も秋も、そして今の季節である冬も、人工的な校舎とそれを囲むように生え盛っている自然の木々から感じられる違和感を私はその日も感じていた。唯一見つけた違いは人の服装ぐらいかもしれない。
そっと柵に手を置いてその冷たさにおもわず苦味笑いがこぼれた。私の首に巻かれているマフラーが背中ではためいていて、くすぐられているようで痒い。着ているダッフルコートをきつく手繰り寄せて私は柵から離れた。
屋上の硬い床にごろりと横になる。寒いのは相変わらずだけどそれとは別の気持ちよさが私を包む。空と向かい合うと空がとても近くに感じられた。このまま眠ってしまうのもいいかもしれない。
「お前のマイペースぶりもここまで来ると褒めたくなってくる」
香矢が私の近くで胡坐をかいて座る。マフラーだけは巻いているもののそれ以外の防寒対策はしていなく真っ白はティーシャツと真っ黒なズボンだけだった。香矢の白くかすむ息を見つめてその寒さが自分にまで伝わってきそうだった。
けれど香矢は寒そうなそぶりを見せていない。私がよく見ている無感覚な顔をしていて、木枯らしに眉一つ動かさない。香矢のそのような反応を見ていると時々私と香矢は違う世界に生きているのではないかと不思議に思うことがあった。
「思織。何をしている?」
ふと気が付くと私は自分の指で香矢の体をなぞっていた。香矢の足は無駄な肉がついていなくて、膝頭は私のよりも固かった。私が香矢を触りたかったのは多分香矢と私が近くにいるのを身体で感じたかったからかもしれない。
香矢は唇を真一文字にして眠そうに目を細め、陰鬱な空気を私にかぐわせる。少し不機嫌な顔をしているのがいつもの香矢の表情だった。自分の体を触っている私の指先を睨みつけて、私はそれに気づいたからそっと香矢から手を放した。
「分かんない」
香矢に本当のことを言うのが恥ずかしかったから私は嘘をついた。香矢は呆れたように息を漏らしただけでそれ以上のことは追求しなかった。寒さは相変わらずだけど私と香矢の他愛無い言葉交じりのぬるさは何一つ変わっていなかった。
「それでさ、話って何?」
寝転んだまま私は香矢に問いかける。私がここにいるのは屋上にいたいからだけではない。香矢が私をここに呼んだからだった。空を覆う雲はますます厚くなり、その色も徐々に濃くなっていく。もしかしたら雨が降り始めるかもしれない。
「香のこと。最近元気がないから」
香矢は倒れるように私を同じように屋上の床に身体を預けた。私と頭の位置を逆にして私の頭の横には香矢の足が伸びている。あまり男らしくない細さだけど香矢らしいと思えばそれでもう疑問には思わない私がいた。
香矢の気配と彼が動くたびに衣擦れの音がする。それ以外は何も聞こえなかった。放課後の時間はとっくに始まっているから生徒たちは何か用がある以外はもう学校から離れているのだろう。
私はそのようなどうでもいいことをかんがえるばかりで香の顔さえ頭に思い浮かべられなかった。香には悪いけど彼女のことを考える気にはなれなかった。そして香矢が私にそのようなことを尋ねてくることに軽く失望していた。
「普通じゃない?」
「思織はそう思うかもしれないがいつも傍にいる俺からしてみれば」
「私につきっきりでやきもち焼いているかもしれないよ」
私は香矢の言葉を遮り、正直な自分の気持ちを述べた。香矢の話をもう終わらせたいという目的も含まれている。だからなるべくおちゃらけるように話したけど断定を込めて語尾をはっきりした口調になっていたかもしれない。
香矢は何も言わないが私の言葉があながち間違っていないことを認めているのだろう。私の言い方は自分なりにオブラートに包んだものだった。香がどう思っているのか。その手がかりの欠片は香の傍にいるだけで少しずつ集められていた。
香が傍にいるなら香矢だってその近くにいる。逆かな。香矢の傍にいるから香が傍にいる。そして私は香矢の傍にいる。だから香のことはいつも見ていた。
「それは分かっているよ。香が元気がないことだって思織に聞かなくても分かるよ。でも確かめたかったんだ。香は俺のこと好きなんだよ。愛しているといってもいい。口には出さないけどなんとなく分かる」
私は黙ったままでいる。いろいろと思うことはあるのだけど。香矢は私が黙っているからそのまま足を上げてその反動で上体を起こすと私にその顔を見せてきた。
「なぁ兄弟同士で恋愛が成立すると思うか?血のつながりは俺の中で結構大きいんだ。だから香の望むことにはできるだけ叶えていきたい。だけど恋愛を認めると血のつながりを否定してしまいそうなんだ」
私を上から覗き上げる香矢の表情は私をからかってもいなく、真剣なものそのものだった。香矢は私にひどいことを聞くものだと内心考えていた。それを肯定してしまえば私と香矢が今後今のままでいられる保証はない。
「さあね」
私は答えなかった。その代わりに私はある確信を抱いた。今日の香矢はどこかおかしい。私がよく知る香矢ではない。しかし見ためてきには香矢に間違いない。だけどある可能性を考えれば納得のいく答えが出来上がる。
「でも香矢が前にこう言っていたよ」
空から矢が降ってこようが香矢は私との関係については何も話さない。私が私と香矢の間をどう思っていようが香矢はかまわない。香矢がそう言ったことはないけど香矢の振る舞いからそれは自明のことだった。
そして香矢は私に香のことを話すこともなおさらない。私だって初めにここで知り合った香のことを少しは香矢から知りたいと思う。だけど私に香のことを話すことを明らかに避けている。それは話すのが面倒だというよりも香矢が本当に香を話すのを嫌がっていた。だから香矢は香のことを話さないし、私も無理に聞かなかった。
それにさっき香矢の身体をなぞってなんとなく理解した。目の前にいる香矢は香矢ではない。
「香は香矢に惚れているのではなくて、香矢の姿に惚れているんだって。要するに親近感と恋心を誤解しているんだって話していた。他人と触れ合う機会がないからこそその違いを理解できないんだって。私はそれで香が香矢から離れようとしなくて、他人を近づかせようともしないのに、香は香矢との関係を発展しない理由を納得したよ。そう思わない香矢。いや香」
私はむくりと起き上がる。目の前にいる香矢は驚いたように目を見開いたがすぐにまた元の表情に戻った。香矢によく似ているけど細かいところが似きれていない香の表情に。
ーーーーーーー
私が香の変装を見抜いても香の衝撃はあまり長くは続かなかったようだ。香は柵に寄りかかってそっぽを向いている。何を言ってもこっちを向いてはくれなかったけど柵から離れたほうがいいのではないかという忠告だけは従ってくれた。
香は私とすれ違い、そして歩き続ける。私は振り向くことはしなかった。香が香矢に成りすまして私の前に現れた理由はこれから話すことだろう。香は屋上の周りをくるくると回った後私の背後でその足を止めた。
「香も声変えられるのね」
私にしては感心のつもりだったのかもしれないけど香にしては皮肉のことだったかもしれない。横目で伺う香は空を眺めていた。私の肩にぽたりと小さな水滴が落ちる。頻度を増して雨粒が私たちの元へと落ちていく。
冷たい感触に身体を震えながらも、私が黙っているのは自分の意志だった。香は上を見続けながら閉じていた目をわづかに細く開き、笑い出すように大きく口を開いた。徐々に増え始める雨音をバックに香の声が響き渡る。
「何も聞かないのね。私が兄さんの姿を借りた理由。もしかしてもう知っている?」
私はこくんと頷いた。今までより一際大きい風が吹いて私のマフラーを勢いよくなびかせた。あまりにも大きくはためいたからそれがほどけて足元へと落ちた。寒い風が体の中に入り込んで血の流れが遅くなっていくようだった。
「もう兄さんに会わないでくれるかしら」
いきなり香が私に言葉を届ける。私の意識は一気に香のほうへと引き寄せられていた。香の声には揺るぎのない拒絶の意味が込められている。振り返ると今まで見たことのない自分の感情を表に出した香が立っていた。声と同じように拒絶が込められている。
「それを言うのは香が香矢を愛しているから?」
「それ以外の理由があって?」
小さく口を歪ませて香は笑う。私は香がそのように笑うのを初めてみた。なのに少しもうれしくない。香がそう笑うのは私を完全に敵対しているからだからだろう。本当はもっと仲良くしたかった。私が入学して最初に知り合った友達とは喧嘩はしたくなかった。
だけど、たとえどういう仲をつくりあげていようとも、私の中で譲れないものが在る。それが香の存在とは相反していて、私がどちらを選ぶかはもう決めてあった。
「でもごめん。香の頼みは聞けない」
香の中で香矢が大切な存在なように、私の中でも香矢は大切な存在だった。だからそれを譲るつもりはない。私が欲張りなようにも思えてしまうけど、今香矢を失ったら私は崩れ去ってしまいそうだった。
香はそのような私の返答を予想していて、そして容赦なく私をあざ笑っている。ひとしきり香は笑うと前よりも厳しい表情で私を睨みつける。香は私に嫉妬している。それは彼女の憎しみを油として激しく彼女の中で燃え盛っていた。
私はこのとき香とはもう相容れないことを思い知ってしまった。そして香矢と私の間を切り裂く確かなものを知っていることも予感めいた知覚をしてしまった。
「そうなのね。思織には分からないのね。じゃあ教えてあげる。兄さんは思織を利用しているだけなの。兄さんは私を遠ざけたいがためにただ思織と付き合っている振りをしているだけなのよ」
私は一瞬きょとんと顔を傾けたまま小さく口を開いたがそれを吹き飛ばすように笑い始める。香の冗談は少しも笑えない。それなのに私は笑いが止まらなかった。
「そんなこと……。そうだ。士友と付き合い始めたのも士友を利用しているだけなのでしょ」
「論点をすりかえないでくれる。でもそうね……それは同じことね」
天候はより悪くなる。いつのまにか風にも湿気が大きく含まれている。私のコートは水気をいつの間にか吸っていて、香のティーシャツも徐々に濡れていた。顔が濡れて私の瞳が涙ぐんできているように水で視界が遮られる。
「でも違うことが一つあるわ。兄さんが思織と付き合っているのは私のため。私が士友と付き合っているのは自分のため」
香はたんたんとしゃべる。私によく言って聞かせるように。私は香の言葉を拒否してしまえばしまうほど、彼女の言葉に耳を貸してしまう。
「思織は私以外で兄さんと誰よりも傍にいることは知っているわ。でも兄さんの気持ちを聞いたことはないでしょ?」
それは紛れもない図星だった。香は私の心の中を簡単に覗き込んでくる。それが占いをしていて人をみるのに慣れているわけでも、私と付き合いが長いためわけでもなく、香矢のことだからかもしれない。
香と香矢の絆という強い関係によって二人はお互いを知り合っている。そして私の前でそれを見せ付けてくる。香はしゃべり続ける。私を揺さぶり続ける。
「兄さんが思織と付き合っているのはどうして?私が兄さんから身を引かせるためでしょ?つまり兄さんは私のことを考えているの。いついかなるときも兄さんは私しか目に入っていないのよ」
香の声は今までにもなくはっきりとしている。自分の発言に絶対の自信を持っている。私は何も話すことはできず立っているだけで、そしてそれも誰かがつつくだけで倒れそうだった。香は私の姿に何かを感じ取ったらしい。
「もう分かったでしょ。兄さんは思織より私のほうが大切なの。」
「嘘だよ。だって嫌な顔していないもん。香矢は私と手を取り合っても、私とキスしても」
香を反論する私の声が震えている。香は私の動揺を手に取るように知っているのに私を笑いはしなかった。いつもの香らしい表情で私を見つめてくる。
視界がぐるぐると回り続けて、周りの木々のざわめきが大きくなっていくように聞こえていた。周りの景色が急速に変わり続けていく。香が一瞬で遠ざかったかのようにも目の前に迫ってきたかのようにも見えている。うろたえている私の頭の中で香の声が何度も響き渡っていた。
「そうだとしても、それが全部思織のためとは限らない。兄さんは私のためだけに行動してくれている。実際思織のことなんて二の次なの。思織のために何かしてくれた?思織のことを知ろうとしてくれた?」
答えられない。香矢との思い出で行っていることは私が香矢を知ろうとするものだけだった。香矢は私のことに何一つ干渉していない。それは香矢が私に興味がないのだけだろうか。香矢の中では私が周囲の他人と同じ目で見られているのだろうか。
「そのためにはお願い。思織」
にこりと笑って香は微笑んだ。私の立場を同情するように慈悲を込めた微笑を向けてきた。私はその微笑がまぶたの裏に焼きついて唇をふるふると振るわせるしかなかった。香矢は本当に私のことを愛してくれていないのだろうか。
香矢の言葉、表情、目線。なにもかもが揺らいでくる。私は首を振ってそれを振り払った。私との香矢との思い出がそんなかりそめなものではないはずだ。私を隅々まで見てくれた香矢の言葉を信じなければ、私は今にでも崩壊してしまいそうだった。
雨がより激しくなっていく。すでに私も香もずぶぬれだった。前髪から滴り落ちていく水滴を手で拭い私は自分という存在を確立させるために叫ぶ。もはや香に何を話してよくて、何を話していけないのかの区別をつけることができなかった。
「嘘だよ。だって、だって嫌だったら私とは付き合わなかった。私のことを触りはしなかった。私と身体を重ねたりしなかった!!」
遠くで雷鳴が鳴り響いた。私と香を引き裂くような遠慮を知らない爆音だった。一瞬光ったときに香の表情を私はまじまじと見た。
香は驚愕と動揺と、そして殺意をもう分離できないほどに混ぜあった顔をしていて、私はそれに本能から訪れる戦慄を覚えた。
「それは本当なの?」
「私だって香矢のことを愛しているの。香矢が私のことを愛してくれているのを信じている。だから香の言葉なんか信じない」
それを言った後で私の力は糸を切ったようにぷつんと途絶えた。香と、自分の言葉の重みに耐え切れなく、身体を縮こませていた。気が付くと私はずぶぬれのままで肩を震わせていた。
香はもういない。私はそれを気にはとめなかった。どちらかというと香の言葉の方が気がかりだった。香矢は私を利用、それも香のために私をいいように使っているのだろうか。
私はそれが信じられなかった。信じてしまうと私の中に在る香矢の思い出がガラス細工のようにひび割れてしまいそうだった。
「香矢。そんなの嘘だよね。私のこと好きだよね」
両手を屋上の床に押し当てて私は香矢に問いかける。私の胸の中にいる香矢は答えてくれなかった。嘘でもいいから私を励まして欲しかった。雨が私の背中を叩き、顔はどんどん濡れていく。それでも私は泣いていた。
私が香の変装を見抜いても香の衝撃はあまり長くは続かなかったようだ。香は柵に寄りかかってそっぽを向いている。何を言ってもこっちを向いてはくれなかったけど柵から離れたほうがいいのではないかという忠告だけは従ってくれた。
香は私とすれ違い、そして歩き続ける。私は振り向くことはしなかった。香が香矢に成りすまして私の前に現れた理由はこれから話すことだろう。香は屋上の周りをくるくると回った後私の背後でその足を止めた。
「香も声変えられるのね」
私にしては感心のつもりだったのかもしれないけど香にしては皮肉のことだったかもしれない。横目で伺う香は空を眺めていた。私の肩にぽたりと小さな水滴が落ちる。頻度を増して雨粒が私たちの元へと落ちていく。
冷たい感触に身体を震えながらも、私が黙っているのは自分の意志だった。香は上を見続けながら閉じていた目をわづかに細く開き、笑い出すように大きく口を開いた。徐々に増え始める雨音をバックに香の声が響き渡る。
「何も聞かないのね。私が兄さんの姿を借りた理由。もしかしてもう知っている?」
私はこくんと頷いた。今までより一際大きい風が吹いて私のマフラーを勢いよくなびかせた。あまりにも大きくはためいたからそれがほどけて足元へと落ちた。寒い風が体の中に入り込んで血の流れが遅くなっていくようだった。
「もう兄さんに会わないでくれるかしら」
いきなり香が私に言葉を届ける。私の意識は一気に香のほうへと引き寄せられていた。香の声には揺るぎのない拒絶の意味が込められている。振り返ると今まで見たことのない自分の感情を表に出した香が立っていた。声と同じように拒絶が込められている。
「それを言うのは香が香矢を愛しているから?」
「それ以外の理由があって?」
小さく口を歪ませて香は笑う。私は香がそのように笑うのを初めてみた。なのに少しもうれしくない。香がそう笑うのは私を完全に敵対しているからだからだろう。本当はもっと仲良くしたかった。私が入学して最初に知り合った友達とは喧嘩はしたくなかった。
だけど、たとえどういう仲をつくりあげていようとも、私の中で譲れないものが在る。それが香の存在とは相反していて、私がどちらを選ぶかはもう決めてあった。
「でもごめん。香の頼みは聞けない」
香の中で香矢が大切な存在なように、私の中でも香矢は大切な存在だった。だからそれを譲るつもりはない。私が欲張りなようにも思えてしまうけど、今香矢を失ったら私は崩れ去ってしまいそうだった。
香はそのような私の返答を予想していて、そして容赦なく私をあざ笑っている。ひとしきり香は笑うと前よりも厳しい表情で私を睨みつける。香は私に嫉妬している。それは彼女の憎しみを油として激しく彼女の中で燃え盛っていた。
私はこのとき香とはもう相容れないことを思い知ってしまった。そして香矢と私の間を切り裂く確かなものを知っていることも予感めいた知覚をしてしまった。
「そうなのね。思織には分からないのね。じゃあ教えてあげる。兄さんは思織を利用しているだけなの。兄さんは私を遠ざけたいがためにただ思織と付き合っている振りをしているだけなのよ」
私は一瞬きょとんと顔を傾けたまま小さく口を開いたがそれを吹き飛ばすように笑い始める。香の冗談は少しも笑えない。それなのに私は笑いが止まらなかった。
「そんなこと……。そうだ。士友と付き合い始めたのも士友を利用しているだけなのでしょ」
「論点をすりかえないでくれる。でもそうね……それは同じことね」
天候はより悪くなる。いつのまにか風にも湿気が大きく含まれている。私のコートは水気をいつの間にか吸っていて、香のティーシャツも徐々に濡れていた。顔が濡れて私の瞳が涙ぐんできているように水で視界が遮られる。
「でも違うことが一つあるわ。兄さんが思織と付き合っているのは私のため。私が士友と付き合っているのは自分のため」
香はたんたんとしゃべる。私によく言って聞かせるように。私は香の言葉を拒否してしまえばしまうほど、彼女の言葉に耳を貸してしまう。
「思織は私以外で兄さんと誰よりも傍にいることは知っているわ。でも兄さんの気持ちを聞いたことはないでしょ?」
それは紛れもない図星だった。香は私の心の中を簡単に覗き込んでくる。それが占いをしていて人をみるのに慣れているわけでも、私と付き合いが長いためわけでもなく、香矢のことだからかもしれない。
香と香矢の絆という強い関係によって二人はお互いを知り合っている。そして私の前でそれを見せ付けてくる。香はしゃべり続ける。私を揺さぶり続ける。
「兄さんが思織と付き合っているのはどうして?私が兄さんから身を引かせるためでしょ?つまり兄さんは私のことを考えているの。いついかなるときも兄さんは私しか目に入っていないのよ」
香の声は今までにもなくはっきりとしている。自分の発言に絶対の自信を持っている。私は何も話すことはできず立っているだけで、そしてそれも誰かがつつくだけで倒れそうだった。香は私の姿に何かを感じ取ったらしい。
「もう分かったでしょ。兄さんは思織より私のほうが大切なの。」
「嘘だよ。だって嫌な顔していないもん。香矢は私と手を取り合っても、私とキスしても」
香を反論する私の声が震えている。香は私の動揺を手に取るように知っているのに私を笑いはしなかった。いつもの香らしい表情で私を見つめてくる。
視界がぐるぐると回り続けて、周りの木々のざわめきが大きくなっていくように聞こえていた。周りの景色が急速に変わり続けていく。香が一瞬で遠ざかったかのようにも目の前に迫ってきたかのようにも見えている。うろたえている私の頭の中で香の声が何度も響き渡っていた。
「そうだとしても、それが全部思織のためとは限らない。兄さんは私のためだけに行動してくれている。実際思織のことなんて二の次なの。思織のために何かしてくれた?思織のことを知ろうとしてくれた?」
答えられない。香矢との思い出で行っていることは私が香矢を知ろうとするものだけだった。香矢は私のことに何一つ干渉していない。それは香矢が私に興味がないのだけだろうか。香矢の中では私が周囲の他人と同じ目で見られているのだろうか。
「そのためにはお願い。思織」
にこりと笑って香は微笑んだ。私の立場を同情するように慈悲を込めた微笑を向けてきた。私はその微笑がまぶたの裏に焼きついて唇をふるふると振るわせるしかなかった。香矢は本当に私のことを愛してくれていないのだろうか。
香矢の言葉、表情、目線。なにもかもが揺らいでくる。私は首を振ってそれを振り払った。私との香矢との思い出がそんなかりそめなものではないはずだ。私を隅々まで見てくれた香矢の言葉を信じなければ、私は今にでも崩壊してしまいそうだった。
雨がより激しくなっていく。すでに私も香もずぶぬれだった。前髪から滴り落ちていく水滴を手で拭い私は自分という存在を確立させるために叫ぶ。もはや香に何を話してよくて、何を話していけないのかの区別をつけることができなかった。
「嘘だよ。だって、だって嫌だったら私とは付き合わなかった。私のことを触りはしなかった。私と身体を重ねたりしなかった!!」
遠くで雷鳴が鳴り響いた。私と香を引き裂くような遠慮を知らない爆音だった。一瞬光ったときに香の表情を私はまじまじと見た。
香は驚愕と動揺と、そして殺意をもう分離できないほどに混ぜあった顔をしていて、私はそれに本能から訪れる戦慄を覚えた。
「それは本当なの?」
「私だって香矢のことを愛しているの。香矢が私のことを愛してくれているのを信じている。だから香の言葉なんか信じない」
それを言った後で私の力は糸を切ったようにぷつんと途絶えた。香と、自分の言葉の重みに耐え切れなく、身体を縮こませていた。気が付くと私はずぶぬれのままで肩を震わせていた。
香はもういない。私はそれを気にはとめなかった。どちらかというと香の言葉の方が気がかりだった。香矢は私を利用、それも香のために私をいいように使っているのだろうか。
私はそれが信じられなかった。信じてしまうと私の中に在る香矢の思い出がガラス細工のようにひび割れてしまいそうだった。
「香矢。そんなの嘘だよね。私のこと好きだよね」
両手を屋上の床に押し当てて私は香矢に問いかける。私の胸の中にいる香矢は答えてくれなかった。嘘でもいいから私を励まして欲しかった。雨が私の背中を叩き、顔はどんどん濡れていく。それでも私は泣いていた。
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上半身を起こしたときに私の身体が鉛のようになってしまったかと誤解した。掌に震えているものがざらついているように感じる。しかしそれが掌の表面がざらついていることだと気づくのにそれほど時間はかからなかった。
携帯がポケットの中で震えている。私はその振動で我に返った。携帯は私の気を引こうとまだその身体を震わせている。その振動が疲れていた私をより気持ち悪くさせていた。手でそれをつかみディスプレイをみて、私はすぐに眼をそらした。
見慣れていない数字だけどそれが誰のものであるかはもう知っている。なおさら気持ち悪くなっていくような数字の羅列だった。私はそれを何よりも忌み嫌っていた。
母親に違いないだろう。久しぶりに娘の声が聞きたいのかもしれない。だけど私は親に電話をする気に離れなかった。もう母親は私が知っている母親ではない。私の父と別れて別の人と新婚ごっこをしているあいつとは話したくなかった。
携帯はそれから先もずっと震えていたが、相手が諦めたのか動きを止めた携帯がそれから震えることはなかった。私は携帯が気の毒に思えたが、それ以前に母親から感じるむなしさの方が勝っていた。
だからおとなしくなった携帯に対して何もすることなくまたポケットの中に戻した。私が母を考えることはもうなくなり、そして自らそれを思い出すことは金輪際ないだろう。私は今まで寝ていた場所にもう一度転がる。
私を囲むように真っ白な布が張られていて、唯一布がない壁には窓がある。その向こうから太陽の光が木々の葉を通して、私の身体に優しく降り注いでいた。昼の生徒が活発になる時間帯に間違いないのにここだけは静かに落ち着く空間となっている。白い布と同じような色をしている天井にある蛍光灯の光が白くてとてもまぶしいが、暗いよりかはましだった。
保健室で寝るのは寮の部屋で寝ているのとは違ってシーツの匂いが漂白剤のような匂いがする。殺菌されているのがよくわかるのだけど使用感が少しも感じなかった。自覚はないけど私がここで寝ていたのも短い時間にすぎないのだろう。制服についている皺を気休め程度に伸ばして私は布団を一枚引き寄せる。
不思議と私は気が静まっていて、だんだんと周りの状況を理解していた。だけどここにいる理由がよく分からない。それを少しでも見つけようと首を動かす。
てがかりは周りに散らばってはいない。清潔感第一の保健室にそれを感じられるものはなく、小さな棚の上に私の鞄が置かれているだけだった。傍にはそれしかない。私の息づかいとシーツの上を歩く気配が大きく聞こえているぐらいだ。
誰もいないのだろうか。身体を動かして布の向こうを覗こうかと思ったが私は大きく身体を動かせなかった。そして声も出すことはできなかった。芋虫のようにベットの上を這い回るしかできない。けど私の気配を誰かが感じ取ってくれたのかはらりと白い布が捲りあがる。
白い布の隙間から現れたのはあからさまに心配そうな表情で私を見ている七子だった。七子はベットの傍で座り私の腕を掴む。私の腕はとても冷たくて、だから七子の手がとても暖かく感じられた。七子のおかげで私が温められていく。
「思織」
「七子。それで、どうして平坂先生まで」
七子が現れた時とは僅かに送れて平坂先生が現れた。私と目が合った平坂先生はやれやれといった表情で腕を組む。教師としてここにいるということを私は十分に感じた。
「白崎さんが私の授業中に倒れたのじゃない」
「私が……」
「そう。覚えがないならないでいいけど大変だったのよ」
七子がここにいる理由がまだ分からなかったけどたまたま運ばれていくのを目撃したのか耳に挟んだのかもしれない。私の探るような視線に気づいたのか七子はどこか居心地が悪そうに肩をすくめたけど私は七子の腕を強く握って七子をつなぎとめた。
私の心配をしてくれる七子がなによりもうれしく、私の中で強く響いていた。その様子を平坂先生は以前よりもうんざりしたような顔で見ていたから私は秘密をしられたような恥ずかしさを感じたけど七子の腕を離すことはできなかった。
「私が運んできたのだからね。あんたは身体が軽いからお姫様抱っこが楽チンだったわ」
「ありがとうございます。平坂先生」
得意げな顔をしている平坂先生を見続けるのと、お姫様抱っこをされていたのを誰かに見られているかもしれないことを考えると、ちょっと恥ずかしくそしてきまずくて、私は少しだけ身体をあげて七子と平坂先生が入ってきた隙間を覗き込む。薬品とか、医療器具がところせましと並んでいる棚のほかに、身長や視力を測る器具が部屋の隅で埃を被っている。
それ以外は誰もいない。私は黙ったままもう一度ベットに寝転がる。
背中が別途に当たった瞬間に一瞬だけ視界が反転してそれとともに吐き気が押し寄せてきた。私は七子と平坂先生に悟られたくないために我慢したけど平坂先生は私の状態変化に気づいたようだった。
「とにかく今はここで休んでいなさい。狩屋さんも帰るわよ」
「でも……思織が……」
「帰るわよ」
その平坂先生の言葉が鶴の一声となって七子はそれ以来黙ってしまった。そして七子は平坂先生に付き添われて保健室から出て行った。
七子が寂しそうに目をうるませていたが私は彼女を引き止めることはできず、はにかんだ笑いを浮かべて手を振るしかできなかった。七子には悪いけど眠気がだんだんと私の意識を奪っていた。
私は倒れたのか……。もしかしたら母親が電話をかけてきたのもそれについてかもしれない。だけど私は母親とはまだ話す気にはなれなかった。そしてそれすらも考えることなく私は眠気に支配されていく。身体が溶けていくようで私はそれが気持ちよかった。
ーーーーーーー
すごく寝苦しい。何回も汗だくで目覚めて、何回も眠気に負ける。起き上がるたびに感じる眠気は少しも減っていないように感じる。身体が痺れるようなのに意識は鮮明さを保っている。私はその感覚がいつもの私とはとても違っていて、それがすごく怖かった。
だけどどうすることもできないから私は無理にでも寝ようとシーツを顔のなかにうずめて目を閉じていた。そしてそれがいつかを知覚する前に私は眠っていて、そしてまた目覚めるという悪循環を繰り返している。
何回目かに起き上がったときに私の傍にその人が立っていた。保健室の外は夕焼けを通り越して、空が青黒く変色してる。保健室の中は薄暗い。そして私の傍にはその薄暗さとは一線を隠した暗さを持つその人が傍にいた。影法師かと間違うくらいの黒い姿に私は困惑を覚える。まるで騙し絵を見ているような感じで目の前のことを信用できなかった。
「香矢?」
枯れた声で香矢の名前を呼ぶ。魔女の姿をしているけど香のわけがない。だけど目の前にいる魔女は頷きはしなかった。なびくマントの下で魔女の身体がもぞもぞと動いている。そしてその中から自身の細い腕を私の前に見せ付けた。
小枝のような細い腕に握られているものがこの部屋の中で唯一つ輝いている。
「カッターナイフ?」
思ったことが口に出てしまった。言うつもりではなかったのに。魔女は私の言葉に何も反応することなくそのままカッターナイフの刃を取り出す。チキチキと銀色の刀身が私の前に姿を見せる。
その刀身に魔女は唇を薄く開き、私の反応をうかがう前にそれを私の胸にうずめていった。
上半身を起こしたときに私の身体が鉛のようになってしまったかと誤解した。掌に震えているものがざらついているように感じる。しかしそれが掌の表面がざらついていることだと気づくのにそれほど時間はかからなかった。
携帯がポケットの中で震えている。私はその振動で我に返った。携帯は私の気を引こうとまだその身体を震わせている。その振動が疲れていた私をより気持ち悪くさせていた。手でそれをつかみディスプレイをみて、私はすぐに眼をそらした。
見慣れていない数字だけどそれが誰のものであるかはもう知っている。なおさら気持ち悪くなっていくような数字の羅列だった。私はそれを何よりも忌み嫌っていた。
母親に違いないだろう。久しぶりに娘の声が聞きたいのかもしれない。だけど私は親に電話をする気に離れなかった。もう母親は私が知っている母親ではない。私の父と別れて別の人と新婚ごっこをしているあいつとは話したくなかった。
携帯はそれから先もずっと震えていたが、相手が諦めたのか動きを止めた携帯がそれから震えることはなかった。私は携帯が気の毒に思えたが、それ以前に母親から感じるむなしさの方が勝っていた。
だからおとなしくなった携帯に対して何もすることなくまたポケットの中に戻した。私が母を考えることはもうなくなり、そして自らそれを思い出すことは金輪際ないだろう。私は今まで寝ていた場所にもう一度転がる。
私を囲むように真っ白な布が張られていて、唯一布がない壁には窓がある。その向こうから太陽の光が木々の葉を通して、私の身体に優しく降り注いでいた。昼の生徒が活発になる時間帯に間違いないのにここだけは静かに落ち着く空間となっている。白い布と同じような色をしている天井にある蛍光灯の光が白くてとてもまぶしいが、暗いよりかはましだった。
保健室で寝るのは寮の部屋で寝ているのとは違ってシーツの匂いが漂白剤のような匂いがする。殺菌されているのがよくわかるのだけど使用感が少しも感じなかった。自覚はないけど私がここで寝ていたのも短い時間にすぎないのだろう。制服についている皺を気休め程度に伸ばして私は布団を一枚引き寄せる。
不思議と私は気が静まっていて、だんだんと周りの状況を理解していた。だけどここにいる理由がよく分からない。それを少しでも見つけようと首を動かす。
てがかりは周りに散らばってはいない。清潔感第一の保健室にそれを感じられるものはなく、小さな棚の上に私の鞄が置かれているだけだった。傍にはそれしかない。私の息づかいとシーツの上を歩く気配が大きく聞こえているぐらいだ。
誰もいないのだろうか。身体を動かして布の向こうを覗こうかと思ったが私は大きく身体を動かせなかった。そして声も出すことはできなかった。芋虫のようにベットの上を這い回るしかできない。けど私の気配を誰かが感じ取ってくれたのかはらりと白い布が捲りあがる。
白い布の隙間から現れたのはあからさまに心配そうな表情で私を見ている七子だった。七子はベットの傍で座り私の腕を掴む。私の腕はとても冷たくて、だから七子の手がとても暖かく感じられた。七子のおかげで私が温められていく。
「思織」
「七子。それで、どうして平坂先生まで」
七子が現れた時とは僅かに送れて平坂先生が現れた。私と目が合った平坂先生はやれやれといった表情で腕を組む。教師としてここにいるということを私は十分に感じた。
「白崎さんが私の授業中に倒れたのじゃない」
「私が……」
「そう。覚えがないならないでいいけど大変だったのよ」
七子がここにいる理由がまだ分からなかったけどたまたま運ばれていくのを目撃したのか耳に挟んだのかもしれない。私の探るような視線に気づいたのか七子はどこか居心地が悪そうに肩をすくめたけど私は七子の腕を強く握って七子をつなぎとめた。
私の心配をしてくれる七子がなによりもうれしく、私の中で強く響いていた。その様子を平坂先生は以前よりもうんざりしたような顔で見ていたから私は秘密をしられたような恥ずかしさを感じたけど七子の腕を離すことはできなかった。
「私が運んできたのだからね。あんたは身体が軽いからお姫様抱っこが楽チンだったわ」
「ありがとうございます。平坂先生」
得意げな顔をしている平坂先生を見続けるのと、お姫様抱っこをされていたのを誰かに見られているかもしれないことを考えると、ちょっと恥ずかしくそしてきまずくて、私は少しだけ身体をあげて七子と平坂先生が入ってきた隙間を覗き込む。薬品とか、医療器具がところせましと並んでいる棚のほかに、身長や視力を測る器具が部屋の隅で埃を被っている。
それ以外は誰もいない。私は黙ったままもう一度ベットに寝転がる。
背中が別途に当たった瞬間に一瞬だけ視界が反転してそれとともに吐き気が押し寄せてきた。私は七子と平坂先生に悟られたくないために我慢したけど平坂先生は私の状態変化に気づいたようだった。
「とにかく今はここで休んでいなさい。狩屋さんも帰るわよ」
「でも……思織が……」
「帰るわよ」
その平坂先生の言葉が鶴の一声となって七子はそれ以来黙ってしまった。そして七子は平坂先生に付き添われて保健室から出て行った。
七子が寂しそうに目をうるませていたが私は彼女を引き止めることはできず、はにかんだ笑いを浮かべて手を振るしかできなかった。七子には悪いけど眠気がだんだんと私の意識を奪っていた。
私は倒れたのか……。もしかしたら母親が電話をかけてきたのもそれについてかもしれない。だけど私は母親とはまだ話す気にはなれなかった。そしてそれすらも考えることなく私は眠気に支配されていく。身体が溶けていくようで私はそれが気持ちよかった。
ーーーーーーー
すごく寝苦しい。何回も汗だくで目覚めて、何回も眠気に負ける。起き上がるたびに感じる眠気は少しも減っていないように感じる。身体が痺れるようなのに意識は鮮明さを保っている。私はその感覚がいつもの私とはとても違っていて、それがすごく怖かった。
だけどどうすることもできないから私は無理にでも寝ようとシーツを顔のなかにうずめて目を閉じていた。そしてそれがいつかを知覚する前に私は眠っていて、そしてまた目覚めるという悪循環を繰り返している。
何回目かに起き上がったときに私の傍にその人が立っていた。保健室の外は夕焼けを通り越して、空が青黒く変色してる。保健室の中は薄暗い。そして私の傍にはその薄暗さとは一線を隠した暗さを持つその人が傍にいた。影法師かと間違うくらいの黒い姿に私は困惑を覚える。まるで騙し絵を見ているような感じで目の前のことを信用できなかった。
「香矢?」
枯れた声で香矢の名前を呼ぶ。魔女の姿をしているけど香のわけがない。だけど目の前にいる魔女は頷きはしなかった。なびくマントの下で魔女の身体がもぞもぞと動いている。そしてその中から自身の細い腕を私の前に見せ付けた。
小枝のような細い腕に握られているものがこの部屋の中で唯一つ輝いている。
「カッターナイフ?」
思ったことが口に出てしまった。言うつもりではなかったのに。魔女は私の言葉に何も反応することなくそのままカッターナイフの刃を取り出す。チキチキと銀色の刀身が私の前に姿を見せる。
その刀身に魔女は唇を薄く開き、私の反応をうかがう前にそれを私の胸にうずめていった。