「志工 香矢の趣味」
ーーーーーーー
俺は自分のことを香矢という。俺とか僕とかを使うのは他人と話すときだけで一人で考え込んでいるときは大抵香矢という一人称を使う。士友の野郎に昔そう話したときキモイとかぬかしていたが、もう高二にもなって変えることなどできない。
ただどこかおかしいという感覚は持っている。自分のことを香矢と呼ぶとき、自分は香矢ではない。自分の体がなぜか別の人間の所有物であるような感覚を受け、ぎこちなさが体を駆け巡る。
しかしそれは仕方のないことだ。そのぎこちなさは不快なものではない。それを受け入れることは、香矢と香矢として呼ぶことのある種のけじめのようなものだ。
だから香矢は甘んじてそのぎこちなさを受け入れ、自身の中で自分ではない誰かが巣くっているような不安を口の中で転がすのだった。全ては香矢が香矢として生きていくためである。
授業が終わる。放課後が始まる。騒がしい時間が始まる。香矢の中で安息の時間が終わる。香矢は周りにひしめき合う喧騒に眉をひそませながら自分のための支度を整える。隣の大都井とかいう奴がこちらをじっと見ているのに気づいているのにそれに気づかない振りをする。
香矢は鞄を肩にかけると机の脇に置いてあった鞄の取っ手を手に取る。下側に車輪が着いていて取っ手を引いたまま運ぶことができるその鞄を使っている生徒はこの学校でも香矢一人だけだった。
ぐいと鞄を自分の方へ引き寄せる。からからと乾いた音が香矢の耳にだけ入ってくる。周りの人間はその音に気づかず自分のことだけに必死だ。その音は香矢の中だけでスイッチのような役目をしていた。
自身の身が引き締まる。霧が晴れたかのように視界がはっきりとして、体から淀んだものが抜け出ていくような気分がした。自分の時間が始まった。香矢はそう確信して鞄を引いたまま教室から静かに出て行こうとする。
大都井が見ているのが分かる。たおたおとしたまっすぐに伸びた黒髪に覆われるかのように日本人らしい肌をした大都井の顔が香矢の方を向いている。眠たそうにまぶたを下ろしている大都井の顔は可憐といった言葉以外思いつかず、女性としての魅力は十分だった。香矢はそれを認めている。
だけど暇さえあればこちらを見てくる大都井には心底うんざりしていた。香矢は大都井の視線を鼻息で跳ね除けると今度は本当に教室から出て行く。
香矢が家と呼ぶものは学校の寮だった。学校の施設として備え付けられている寮を使用している香矢の通学時間は歩いて数分である。
香矢はまだ帰らない。帰ったところでやることがない。本来は二人で使用するはずの寮も人数がいないからという理由だけで香矢だけで使っている。香矢はそれが偶然だとは思わない。自分はそういう星のめぐり合わせで生きている。
二人組みを作ると必ず自分が余る。その立場は絶対的だった。だけど香矢はそれが不運だとは一度も思ったことはない。どう扱えばいいのか途方にくれる他人と接することを考える前にあちらから離れていってくれる。これほど願ったり叶ったりな状況はない。
だから相方がいない寮部屋など香也にとって苦痛にも何にもならなかった。寧ろ一人になれる寮の部屋ほど気楽でいられるところはないのだった。けど香矢はまだ帰らない。理由は前にも言ったとおり帰る目的がないからだ。
ーーーーーーー
香矢が訪れたのは校舎の四階の一つ上の階。屋上しかない五階に香矢は鞄を抱えつつ階段を登っていた。
すこし矛盾しているようだが屋上しかないはずの五階にはもう一つ部屋がある。香矢は周りの目を気にすることはなく屋上の入り口に立った。開いていないはずの屋上の扉は鍵が壊されている。それはかれこれ数ヶ月壊れっぱなしである。
香矢はその様子をしげしげと眺め、屋上への入り口から離れる。屋上の鍵を壊した根性の在る奴と、教師たちのずさんな管理体制に感心する。だけど香矢の屋上への興味はそれで終わる。
もともと屋上に用はない。用が在るのは五階にあるあの部屋だけだった。からからと鞄を手で引きながら香矢はなぜか立てかけてあったベニヤ板を床に寝かせる。ベニヤ板をどかした先には小さな扉がある。
四辺七十センチほどの正方形の扉。それが扉だと認識できるのは一辺だけにつけられている蝶番と取っ手だけだった。正方形ほどのその扉をくぐるには子供ほどの体格が必要かあるいは体を丸くする必要がある。
香矢は後者を選び扉をくぐり、その向こうにある部屋に入った。小さな扉に似合うかのように向こうの部屋も狭い。一畳だけしか広さがなく、そして高さも一メートルほどしかない。自然と中腰になる。
部屋と呼べるものかどうかは分からないが、香矢は部屋とみなしている。この部屋に暇つぶしになりそうなものはない。唯一あるのは一つの机と二つの椅子だ。
どこか学校にあるには奇抜なこの一室だが香矢が以前入ったときと少しも変わっていない。そのことに満足げに鼻を鳴らすと香矢は持っていた鞄を開く。
中に入っているのは自分のサイズにあった学校指定のセーラー服と一つの黒マントだった。手早く自分が来ている学生服からそれに着替える。脱いだ学生服を鞄の中にしまい、黒タイツをはく。マントを上から羽織り見た目はどこを見ても変な格好をしている女子だ。完璧だろう。
最後に雰囲気作りのために先がとんがった三角帽子をかぶる。そして手鏡で自分の顔を映す。大きすぎずも小さすぎずもないバランスのいい瞳のちょうど中心から下の部分に小さい唇が柔らかい曲線を描いている。男としてはよく端正のとれたすっきりした顔つきとたまに言われていた。
そう言った奴らは今は自分のことをどう評価するだろうか。その疑問を自分の中で解決する。不敵に笑うその顔つきが鏡に写り香矢は、香として振舞う準備ができた。そして香の趣味が始まった。
俺は自分のことを香矢という。俺とか僕とかを使うのは他人と話すときだけで一人で考え込んでいるときは大抵香矢という一人称を使う。士友の野郎に昔そう話したときキモイとかぬかしていたが、もう高二にもなって変えることなどできない。
ただどこかおかしいという感覚は持っている。自分のことを香矢と呼ぶとき、自分は香矢ではない。自分の体がなぜか別の人間の所有物であるような感覚を受け、ぎこちなさが体を駆け巡る。
しかしそれは仕方のないことだ。そのぎこちなさは不快なものではない。それを受け入れることは、香矢と香矢として呼ぶことのある種のけじめのようなものだ。
だから香矢は甘んじてそのぎこちなさを受け入れ、自身の中で自分ではない誰かが巣くっているような不安を口の中で転がすのだった。全ては香矢が香矢として生きていくためである。
授業が終わる。放課後が始まる。騒がしい時間が始まる。香矢の中で安息の時間が終わる。香矢は周りにひしめき合う喧騒に眉をひそませながら自分のための支度を整える。隣の大都井とかいう奴がこちらをじっと見ているのに気づいているのにそれに気づかない振りをする。
香矢は鞄を肩にかけると机の脇に置いてあった鞄の取っ手を手に取る。下側に車輪が着いていて取っ手を引いたまま運ぶことができるその鞄を使っている生徒はこの学校でも香矢一人だけだった。
ぐいと鞄を自分の方へ引き寄せる。からからと乾いた音が香矢の耳にだけ入ってくる。周りの人間はその音に気づかず自分のことだけに必死だ。その音は香矢の中だけでスイッチのような役目をしていた。
自身の身が引き締まる。霧が晴れたかのように視界がはっきりとして、体から淀んだものが抜け出ていくような気分がした。自分の時間が始まった。香矢はそう確信して鞄を引いたまま教室から静かに出て行こうとする。
大都井が見ているのが分かる。たおたおとしたまっすぐに伸びた黒髪に覆われるかのように日本人らしい肌をした大都井の顔が香矢の方を向いている。眠たそうにまぶたを下ろしている大都井の顔は可憐といった言葉以外思いつかず、女性としての魅力は十分だった。香矢はそれを認めている。
だけど暇さえあればこちらを見てくる大都井には心底うんざりしていた。香矢は大都井の視線を鼻息で跳ね除けると今度は本当に教室から出て行く。
香矢が家と呼ぶものは学校の寮だった。学校の施設として備え付けられている寮を使用している香矢の通学時間は歩いて数分である。
香矢はまだ帰らない。帰ったところでやることがない。本来は二人で使用するはずの寮も人数がいないからという理由だけで香矢だけで使っている。香矢はそれが偶然だとは思わない。自分はそういう星のめぐり合わせで生きている。
二人組みを作ると必ず自分が余る。その立場は絶対的だった。だけど香矢はそれが不運だとは一度も思ったことはない。どう扱えばいいのか途方にくれる他人と接することを考える前にあちらから離れていってくれる。これほど願ったり叶ったりな状況はない。
だから相方がいない寮部屋など香也にとって苦痛にも何にもならなかった。寧ろ一人になれる寮の部屋ほど気楽でいられるところはないのだった。けど香矢はまだ帰らない。理由は前にも言ったとおり帰る目的がないからだ。
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香矢が訪れたのは校舎の四階の一つ上の階。屋上しかない五階に香矢は鞄を抱えつつ階段を登っていた。
すこし矛盾しているようだが屋上しかないはずの五階にはもう一つ部屋がある。香矢は周りの目を気にすることはなく屋上の入り口に立った。開いていないはずの屋上の扉は鍵が壊されている。それはかれこれ数ヶ月壊れっぱなしである。
香矢はその様子をしげしげと眺め、屋上への入り口から離れる。屋上の鍵を壊した根性の在る奴と、教師たちのずさんな管理体制に感心する。だけど香矢の屋上への興味はそれで終わる。
もともと屋上に用はない。用が在るのは五階にあるあの部屋だけだった。からからと鞄を手で引きながら香矢はなぜか立てかけてあったベニヤ板を床に寝かせる。ベニヤ板をどかした先には小さな扉がある。
四辺七十センチほどの正方形の扉。それが扉だと認識できるのは一辺だけにつけられている蝶番と取っ手だけだった。正方形ほどのその扉をくぐるには子供ほどの体格が必要かあるいは体を丸くする必要がある。
香矢は後者を選び扉をくぐり、その向こうにある部屋に入った。小さな扉に似合うかのように向こうの部屋も狭い。一畳だけしか広さがなく、そして高さも一メートルほどしかない。自然と中腰になる。
部屋と呼べるものかどうかは分からないが、香矢は部屋とみなしている。この部屋に暇つぶしになりそうなものはない。唯一あるのは一つの机と二つの椅子だ。
どこか学校にあるには奇抜なこの一室だが香矢が以前入ったときと少しも変わっていない。そのことに満足げに鼻を鳴らすと香矢は持っていた鞄を開く。
中に入っているのは自分のサイズにあった学校指定のセーラー服と一つの黒マントだった。手早く自分が来ている学生服からそれに着替える。脱いだ学生服を鞄の中にしまい、黒タイツをはく。マントを上から羽織り見た目はどこを見ても変な格好をしている女子だ。完璧だろう。
最後に雰囲気作りのために先がとんがった三角帽子をかぶる。そして手鏡で自分の顔を映す。大きすぎずも小さすぎずもないバランスのいい瞳のちょうど中心から下の部分に小さい唇が柔らかい曲線を描いている。男としてはよく端正のとれたすっきりした顔つきとたまに言われていた。
そう言った奴らは今は自分のことをどう評価するだろうか。その疑問を自分の中で解決する。不敵に笑うその顔つきが鏡に写り香矢は、香として振舞う準備ができた。そして香の趣味が始まった。
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香矢は別に女装趣味があるわけではない。だけど香として動くほうが活動しやすい。そのためだけに香矢はセーラー服を着ている。ばれない自信が在る。自分は身長は男子の中では短いほうだし、それに顔も童顔が一番の特徴だ。
唯一声だけは低く、変声期を過ぎた太い声色をしているのだけどそれも自分の特技が解決してくれている。だから香矢は香としてここで座っていられるのだった。さすがに名前だけは香矢を使うとばれてしまう可能性があるので、少し工夫して香という名前を使っている。
相手はPNとして割り切ってくれるので女らしい名前だったら別にどうでもいいのだった。
香矢は埃にまみれた机の上を拭き取り、その上に一つぬいぐるみを座らせる。何もなくてもいいのだけど何かあったほうがいい。これも頭にかぶっている三角帽子と同じで雰囲気作りである。
ピンクの毛皮の上に縦に長い楕円形の目をしている熊のぬいぐるみはその目線を香矢に向け続けるが香矢が返してくれなかったことに気分を害したのか、そのままくてんと机の上で横になった。
香矢は直そうともせず鞄の中から「夏の庭」を取り出すと読みふける。ここが熱がこもる場所ということを忘れて、何時間も居座り続ける意志を固めて香矢は活字の海の中に飛び込んでいく。
ーーーーーーー
香矢がここで行っていることは占いという言葉を借りた人生相談である。知名度と評判は水面下で広まっているらしく一週間に一人ぐらい訪れていた。
占いなど香矢には無理なことだった。ましてや人生相談など二十も生きていない香矢にとって不可能な任務同然である。だから人生相談は自分の主観で答えているだけである。占いも適当だ。
そしれそれはなぜかなんだかんだいって上手く言っている。当たるも八卦当たらぬも八卦といったことだろう。昔の人は上手い言い訳を考えたものだ。そして香矢はこの趣味を大いに楽しんでいる。
実際この活動は簡単には耳に入らない人と人との裏話を容易に聞くことができるのである。それほど退屈を満たす玩具になるものはない。そして人の悩みは人それぞれである。それに違いがあるからこそ香矢は退屈しない。
だから香矢はこの趣味をやめるつもりはなく、気が向いたときにこの屋上の隅に隠れている一室で香の人生相談室を開いているのだった。女装もすれば足もつかない。
本から一旦目を離し、しばしばする目を擦りまた本に目を戻す。この部屋はまるで外とは完全に切り離されているかのようだ。本当に何も聞こえない。
ここに座って早くも一時間がたとうとしている。香矢は淡々とページを捲りながらこの無音の空間を楽しんでいた。
それに終わりが告げられたのは夏の庭の半分くらい読み進めたあたりだった。蝶番が悲鳴をあげる。香矢は脚をもぞもぞと動かした。経験上この時間帯には誰も訪れないのだが、珍しいこともあるもんだ。
「どうぞ。座って」
本から目を離さずに香は入ってきた来客に指示する。香矢が出した声は男のそれとは思えないソプラノの声だった。声変わりを迎えてもそれ以前の子供のときの声を出すことができるのが香矢の特技である。
なぜか来客は香の支持には従わない。息を殺すような笑いがこの狭い部屋で反響する。
「相変わらずだな。香矢」
今の自分をそう呼ぶのは一人しかいない。香矢は三角帽子の切れ目から入ってきた人物の姿を確認する。いや、確認しなくても分かるのだが反射的に見上げてしまった。
学生服をここまで格好よく着れるのもこいつだけだろう。こいつの内に宿るカリスマ性のようなものが学生服を突き破るかのようににじみ出ているからだった。緩やかに波打っている髪型や、細身の体のくせにいかつい体つきや、その勝ち誇ったような目線はいつ見ても変わっていない。
それらはそいつだけが持っているものであり、そいつしか上手く扱えないものであり、そいつの強みになっていた。容姿が才能になるのなら間違いなくそいつは天才の類に当たるに違いない。
「何のようだ?」
香矢は、今度は男の声に切り替える。ここに来たからには香矢に人生の訓辞でももらいに来たのだろうが、こいつは絶対にそのような悩みを抱える人種ではない。
だからこいつは香矢に厄介ごとをもってきたはずだ。香矢の読みに肯定も否定もせず、こいつこと坂堂 士友がただ含み笑いを浮かべていた。
香矢は別に女装趣味があるわけではない。だけど香として動くほうが活動しやすい。そのためだけに香矢はセーラー服を着ている。ばれない自信が在る。自分は身長は男子の中では短いほうだし、それに顔も童顔が一番の特徴だ。
唯一声だけは低く、変声期を過ぎた太い声色をしているのだけどそれも自分の特技が解決してくれている。だから香矢は香としてここで座っていられるのだった。さすがに名前だけは香矢を使うとばれてしまう可能性があるので、少し工夫して香という名前を使っている。
相手はPNとして割り切ってくれるので女らしい名前だったら別にどうでもいいのだった。
香矢は埃にまみれた机の上を拭き取り、その上に一つぬいぐるみを座らせる。何もなくてもいいのだけど何かあったほうがいい。これも頭にかぶっている三角帽子と同じで雰囲気作りである。
ピンクの毛皮の上に縦に長い楕円形の目をしている熊のぬいぐるみはその目線を香矢に向け続けるが香矢が返してくれなかったことに気分を害したのか、そのままくてんと机の上で横になった。
香矢は直そうともせず鞄の中から「夏の庭」を取り出すと読みふける。ここが熱がこもる場所ということを忘れて、何時間も居座り続ける意志を固めて香矢は活字の海の中に飛び込んでいく。
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香矢がここで行っていることは占いという言葉を借りた人生相談である。知名度と評判は水面下で広まっているらしく一週間に一人ぐらい訪れていた。
占いなど香矢には無理なことだった。ましてや人生相談など二十も生きていない香矢にとって不可能な任務同然である。だから人生相談は自分の主観で答えているだけである。占いも適当だ。
そしれそれはなぜかなんだかんだいって上手く言っている。当たるも八卦当たらぬも八卦といったことだろう。昔の人は上手い言い訳を考えたものだ。そして香矢はこの趣味を大いに楽しんでいる。
実際この活動は簡単には耳に入らない人と人との裏話を容易に聞くことができるのである。それほど退屈を満たす玩具になるものはない。そして人の悩みは人それぞれである。それに違いがあるからこそ香矢は退屈しない。
だから香矢はこの趣味をやめるつもりはなく、気が向いたときにこの屋上の隅に隠れている一室で香の人生相談室を開いているのだった。女装もすれば足もつかない。
本から一旦目を離し、しばしばする目を擦りまた本に目を戻す。この部屋はまるで外とは完全に切り離されているかのようだ。本当に何も聞こえない。
ここに座って早くも一時間がたとうとしている。香矢は淡々とページを捲りながらこの無音の空間を楽しんでいた。
それに終わりが告げられたのは夏の庭の半分くらい読み進めたあたりだった。蝶番が悲鳴をあげる。香矢は脚をもぞもぞと動かした。経験上この時間帯には誰も訪れないのだが、珍しいこともあるもんだ。
「どうぞ。座って」
本から目を離さずに香は入ってきた来客に指示する。香矢が出した声は男のそれとは思えないソプラノの声だった。声変わりを迎えてもそれ以前の子供のときの声を出すことができるのが香矢の特技である。
なぜか来客は香の支持には従わない。息を殺すような笑いがこの狭い部屋で反響する。
「相変わらずだな。香矢」
今の自分をそう呼ぶのは一人しかいない。香矢は三角帽子の切れ目から入ってきた人物の姿を確認する。いや、確認しなくても分かるのだが反射的に見上げてしまった。
学生服をここまで格好よく着れるのもこいつだけだろう。こいつの内に宿るカリスマ性のようなものが学生服を突き破るかのようににじみ出ているからだった。緩やかに波打っている髪型や、細身の体のくせにいかつい体つきや、その勝ち誇ったような目線はいつ見ても変わっていない。
それらはそいつだけが持っているものであり、そいつしか上手く扱えないものであり、そいつの強みになっていた。容姿が才能になるのなら間違いなくそいつは天才の類に当たるに違いない。
「何のようだ?」
香矢は、今度は男の声に切り替える。ここに来たからには香矢に人生の訓辞でももらいに来たのだろうが、こいつは絶対にそのような悩みを抱える人種ではない。
だからこいつは香矢に厄介ごとをもってきたはずだ。香矢の読みに肯定も否定もせず、こいつこと坂堂 士友がただ含み笑いを浮かべていた。
ーーーーーーー
士友は対面の椅子に座りひざを組んで腰の辺りに組んだ手を乗せている。つくづく悪役すわりが似合う奴だ。香矢は感心しながら倒れていたぬいぐるみをそっと座らせる。
「お悩みは?明日の天気以外なら何でもお答えします」
業務口調の女の声で香矢はいやいや士友に話す。士友は即答した。
「ない」
だろうな。このような奴が実は俺気になっている人がいるんですと言ってきた日にや香矢は夜逃げしてこいつから離れる。いつかこの町に隕石が落ちてくるかもしれない。士友は退屈そうに頬をかきながら机の上のぬいぐるみをつついて遊んでいた。
「それではお引き取りください。お帰りはあちらです」
「この学校で起きた暴行事件のことを知っているだろう?」
ぴくりと意識せずに自分の眉が動くのが分かった。知っているも何もそのせいで明らかに寮に住んでいる男子を見る目つきが冷ややかになっている。他人の視線にはそれほどきにしない主義なのだが、覚えもないのに疑われているのは我慢できない。
香矢の記憶によると事件が起こったのは今から一週間ほど前だ。
学校の校内で女性が倒れているのが見つかった。名前は覚えていない。ただ倒れているだけならよかったものの事態を深刻にさせたのはその状態だ。
女性は確か、ほとんどの衣服が引きちぎられ裸同然だったらしい。そして腕や胸や、脚のいたるところに傷痕が残っていて、最後に女性は言葉が精神がやられているらしい。
そのぞっとするような様子のおかげで根も葉もない噂がどんどん出来上がり、校内での暴行事件として最近よく話題に上がっている。
「その事件が火種となって男女間は最近張り詰めている。
まさに一触即発だ。お前も覚えがあるだろう」
士友の説明に香矢は頷く。犯人がさっさと見つかったらそのことについていやみの一つでも言ってやりたいぐらいだ。
「とりあえず犯人の話は置いておくとして被害者のほうだ。最近まで昏睡状態だったが意識が先日回復した」
絶妙のタイミングで士友が相槌を打つ。そしてずいと自分の上半身を机の上にのせる。俳優のように笑うその顔のやや中心で鈍く光る瞳から話の核心に迫ろうとしていることを香矢は読み取った。
「そこでだ。お前に被害者の面倒をみていてもらいたいんだ。彼女を守る盾として」
士友と香矢の距離は十センチも開いていない。その向こうで士友は意味深な笑いをする。香矢はなぜ士友がここに来たのかうすうす理解した。女のふりも、男のふりもできる香矢なら二十四時間守れるということか。
そして香矢二つの顔をうまく使えば情報も集まりやすい。
「本当なら香ちゃんにも俺を手伝って犯人を捜してもらいたいのだけど被害者優先という奴?これでも感の良さと喧嘩の強さには期待しているんだよー。ボディーガードとしては折り紙つきだー」
語尾を伸ばしつつ士友は香矢の帽子を除こうとする。依頼主には自分の素顔を見せないようにしているので香矢はその視線をたくみにつばで防ぐ。それにしても自分で香と名乗っているものの、こいつに言われると背中に毛虫が這っているようだ。
士友の話はそこで終わった。つまりは女の子守をしろということだ。さてどうしようか。女の子守のほうは別にどうでもいい。ご機嫌を持つような会話をしながら後方数センチを歩いていればいいだけだ。
しかしもしかしたら士友の要求がエスカレートして、士友の行動の手伝いをしろと言い出しかねない。そしたらそのままずるずると士友はこちらに仕事を丸投げする可能性まで出てくる。それはなんとしても避けたいことだ。
そして今日の香矢にはどこか疑り深いところがあった。どうも士友のお願いには裏があるようでならない。こいつに散々苦労させられているということがより強く、広く警戒網を広げている。
ちらりと士友を見る。香矢の逡巡など関係ないかのようにぬいぐるみをいじめていた。ぬいぐるみは今にも机の上から落ちそうで、裸電球の光を反射しているその瞳はどこか涙が溜まっているような気がした。
香矢の視線に気づいた士友が目線をこちらに向けなおす。その視線は決断を催促している。だから香矢は大きくため息をつくとそれに答えることにした。
「いやだ」
赤い舌をペロンと出し香矢は士友を挑発する。香矢は子守にも探偵にもなるつもりはない。だけど自身には決定権がないことはもう知っている。ほんの少しだけ抵抗したかっただけだ。士友もそれを知っているからこそ、とても残念な顔をする。
「そうか。俺の親友の香ちゃんだったら困っている
俺を助けてくれると信じていたのに。
いや、残念だ。悲しすぎて涙が出てくるよ。
このままこの狭い部屋で自分の涙でおぼれてしまいそうだ。
しかしその涙は俺の悲しみを溶かしてくれない。
この悲しみを消し去るには俺は叫んじゃうかもしれないな。
香ちゃんと志工香矢は同一人物だとね。学校中で叫びまくっちゃうかもよ」
「分かった。協力する。それであなたは満足するのでしょう」
天邪鬼め。だいたいこれは協力といったことにはならず、いつかは香矢に丸投げをするのだろう。全く持ってこいつはいい性格をしている。
ーーーーーーー
士友はその後すぐに帰った。詳しいことはまた後で教えるということらしい。香矢はまだ客人が来るかもしれないからここに残る。ゆっくりしていられるのは今日だけかもしれないのだ。
夏の庭を読み終えて香ではなく、香矢としての姿に戻った後屋上の空には太陽が見当たらなかった。屋上の入り口はガラス扉の引き戸になっている。そこから星一つ見つけられないつまらない空を見上げて、香矢は階段を降りていった。
明日から忙しくなるのだろう。からからという鞄を引きずる音が余計に大きく聞こえて香矢は明日からのことを考えるとうんざりしてきた。
そういえば士友はなぜ暴行事件のことに興味を持ったのだろう。
寮の自分の部屋に戻ったとき香矢はふと疑問に思った。固いベットの上にごろりと横になりあいつの顔を思い描く。それが面白いくらいリアルに描写できて、香矢は手でその映像をなぎ払った。
どうせ何かの好奇心だろう。香矢は部屋の電気を消す。まどろみがやってくるのにそれほど時間はかからなかった。
ーーーーーーー
■人物
○志工 香矢 しこう かや
高校二年生の男子。けっこう気さくなほうで言葉使いは汚いものの
他人との付き合いを重んじるタイプ。
だけどなかなか他人と接触する機会を作らないので結局孤立している。
本人はそれを運がないだけだと考えているが本当は自分から近づかないだけ。
常に体の傍に置いてある車輪付きの鞄を手に放課後で占いをするのが趣味。
その際に女装をしているがそれは別に趣味ではなくて、
自分の正体がばれないための手段なだけ。
幸い低めの身長と細身の体型、
それに女声を出せる特技があるからまだばれていない。
人生相談を始めた理由は人の裏話をきけるということもあるが、
なんとなく人との会話を大切にしようと
無意識下で考えているのも理由の一つに入っている。
○坂堂 士友
香矢の友達。だがそう考えているのは士友だけで香矢は目の上のたんこぶのように感じ ている。香矢が放課後に人生相談を行っているということを知っているのは士友だけで ある。そしてそのことで弱みを握ってなにかと香矢に無理難題を押し付けるのが士友の 趣味であり、香矢が士友を邪険に扱う理由でも在る。
しかし外面はとてもよく、そして頼りになる存在を演じているので、周りからの信頼は とても厚い。男女とも親しまれている。香矢に向ける態度のほうが士友の本性。
今回もそのような人脈から頼まれた相談事を香矢に押し付けているのだろうか。それと もたんに自分からの好奇心なのかはわからない。というか決めていない。
士友は対面の椅子に座りひざを組んで腰の辺りに組んだ手を乗せている。つくづく悪役すわりが似合う奴だ。香矢は感心しながら倒れていたぬいぐるみをそっと座らせる。
「お悩みは?明日の天気以外なら何でもお答えします」
業務口調の女の声で香矢はいやいや士友に話す。士友は即答した。
「ない」
だろうな。このような奴が実は俺気になっている人がいるんですと言ってきた日にや香矢は夜逃げしてこいつから離れる。いつかこの町に隕石が落ちてくるかもしれない。士友は退屈そうに頬をかきながら机の上のぬいぐるみをつついて遊んでいた。
「それではお引き取りください。お帰りはあちらです」
「この学校で起きた暴行事件のことを知っているだろう?」
ぴくりと意識せずに自分の眉が動くのが分かった。知っているも何もそのせいで明らかに寮に住んでいる男子を見る目つきが冷ややかになっている。他人の視線にはそれほどきにしない主義なのだが、覚えもないのに疑われているのは我慢できない。
香矢の記憶によると事件が起こったのは今から一週間ほど前だ。
学校の校内で女性が倒れているのが見つかった。名前は覚えていない。ただ倒れているだけならよかったものの事態を深刻にさせたのはその状態だ。
女性は確か、ほとんどの衣服が引きちぎられ裸同然だったらしい。そして腕や胸や、脚のいたるところに傷痕が残っていて、最後に女性は言葉が精神がやられているらしい。
そのぞっとするような様子のおかげで根も葉もない噂がどんどん出来上がり、校内での暴行事件として最近よく話題に上がっている。
「その事件が火種となって男女間は最近張り詰めている。
まさに一触即発だ。お前も覚えがあるだろう」
士友の説明に香矢は頷く。犯人がさっさと見つかったらそのことについていやみの一つでも言ってやりたいぐらいだ。
「とりあえず犯人の話は置いておくとして被害者のほうだ。最近まで昏睡状態だったが意識が先日回復した」
絶妙のタイミングで士友が相槌を打つ。そしてずいと自分の上半身を机の上にのせる。俳優のように笑うその顔のやや中心で鈍く光る瞳から話の核心に迫ろうとしていることを香矢は読み取った。
「そこでだ。お前に被害者の面倒をみていてもらいたいんだ。彼女を守る盾として」
士友と香矢の距離は十センチも開いていない。その向こうで士友は意味深な笑いをする。香矢はなぜ士友がここに来たのかうすうす理解した。女のふりも、男のふりもできる香矢なら二十四時間守れるということか。
そして香矢二つの顔をうまく使えば情報も集まりやすい。
「本当なら香ちゃんにも俺を手伝って犯人を捜してもらいたいのだけど被害者優先という奴?これでも感の良さと喧嘩の強さには期待しているんだよー。ボディーガードとしては折り紙つきだー」
語尾を伸ばしつつ士友は香矢の帽子を除こうとする。依頼主には自分の素顔を見せないようにしているので香矢はその視線をたくみにつばで防ぐ。それにしても自分で香と名乗っているものの、こいつに言われると背中に毛虫が這っているようだ。
士友の話はそこで終わった。つまりは女の子守をしろということだ。さてどうしようか。女の子守のほうは別にどうでもいい。ご機嫌を持つような会話をしながら後方数センチを歩いていればいいだけだ。
しかしもしかしたら士友の要求がエスカレートして、士友の行動の手伝いをしろと言い出しかねない。そしたらそのままずるずると士友はこちらに仕事を丸投げする可能性まで出てくる。それはなんとしても避けたいことだ。
そして今日の香矢にはどこか疑り深いところがあった。どうも士友のお願いには裏があるようでならない。こいつに散々苦労させられているということがより強く、広く警戒網を広げている。
ちらりと士友を見る。香矢の逡巡など関係ないかのようにぬいぐるみをいじめていた。ぬいぐるみは今にも机の上から落ちそうで、裸電球の光を反射しているその瞳はどこか涙が溜まっているような気がした。
香矢の視線に気づいた士友が目線をこちらに向けなおす。その視線は決断を催促している。だから香矢は大きくため息をつくとそれに答えることにした。
「いやだ」
赤い舌をペロンと出し香矢は士友を挑発する。香矢は子守にも探偵にもなるつもりはない。だけど自身には決定権がないことはもう知っている。ほんの少しだけ抵抗したかっただけだ。士友もそれを知っているからこそ、とても残念な顔をする。
「そうか。俺の親友の香ちゃんだったら困っている
俺を助けてくれると信じていたのに。
いや、残念だ。悲しすぎて涙が出てくるよ。
このままこの狭い部屋で自分の涙でおぼれてしまいそうだ。
しかしその涙は俺の悲しみを溶かしてくれない。
この悲しみを消し去るには俺は叫んじゃうかもしれないな。
香ちゃんと志工香矢は同一人物だとね。学校中で叫びまくっちゃうかもよ」
「分かった。協力する。それであなたは満足するのでしょう」
天邪鬼め。だいたいこれは協力といったことにはならず、いつかは香矢に丸投げをするのだろう。全く持ってこいつはいい性格をしている。
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士友はその後すぐに帰った。詳しいことはまた後で教えるということらしい。香矢はまだ客人が来るかもしれないからここに残る。ゆっくりしていられるのは今日だけかもしれないのだ。
夏の庭を読み終えて香ではなく、香矢としての姿に戻った後屋上の空には太陽が見当たらなかった。屋上の入り口はガラス扉の引き戸になっている。そこから星一つ見つけられないつまらない空を見上げて、香矢は階段を降りていった。
明日から忙しくなるのだろう。からからという鞄を引きずる音が余計に大きく聞こえて香矢は明日からのことを考えるとうんざりしてきた。
そういえば士友はなぜ暴行事件のことに興味を持ったのだろう。
寮の自分の部屋に戻ったとき香矢はふと疑問に思った。固いベットの上にごろりと横になりあいつの顔を思い描く。それが面白いくらいリアルに描写できて、香矢は手でその映像をなぎ払った。
どうせ何かの好奇心だろう。香矢は部屋の電気を消す。まどろみがやってくるのにそれほど時間はかからなかった。
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■人物
○志工 香矢 しこう かや
高校二年生の男子。けっこう気さくなほうで言葉使いは汚いものの
他人との付き合いを重んじるタイプ。
だけどなかなか他人と接触する機会を作らないので結局孤立している。
本人はそれを運がないだけだと考えているが本当は自分から近づかないだけ。
常に体の傍に置いてある車輪付きの鞄を手に放課後で占いをするのが趣味。
その際に女装をしているがそれは別に趣味ではなくて、
自分の正体がばれないための手段なだけ。
幸い低めの身長と細身の体型、
それに女声を出せる特技があるからまだばれていない。
人生相談を始めた理由は人の裏話をきけるということもあるが、
なんとなく人との会話を大切にしようと
無意識下で考えているのも理由の一つに入っている。
○坂堂 士友
香矢の友達。だがそう考えているのは士友だけで香矢は目の上のたんこぶのように感じ ている。香矢が放課後に人生相談を行っているということを知っているのは士友だけで ある。そしてそのことで弱みを握ってなにかと香矢に無理難題を押し付けるのが士友の 趣味であり、香矢が士友を邪険に扱う理由でも在る。
しかし外面はとてもよく、そして頼りになる存在を演じているので、周りからの信頼は とても厚い。男女とも親しまれている。香矢に向ける態度のほうが士友の本性。
今回もそのような人脈から頼まれた相談事を香矢に押し付けているのだろうか。それと もたんに自分からの好奇心なのかはわからない。というか決めていない。