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第4幕 BLOOD

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 第4幕 BLOOD

 1

 ・・・・・・もう、どれだけ飛び続けたんだろう。

 お兄ちゃんの気配はずっと感じているのに、ちっとも近づいている気がしない。どこまで行っても、コピーを並べたような空と海ばかりが続いて、陸地らしきものは一向に見えてこなかった。ヤケクソになって、こんなところまで飛んできた自分を殴り飛ばしてやりたくなる。
 空には赤みがさし始めていた。私が飛び出してから、だいぶ時間が経っている。お兄ちゃんはもう家に帰っただろうか? 人をひとりビルから叩き落したんだから、結構な騒ぎになっているだろう。マリアはちゃんとお兄ちゃんを守っているだろうか? 地面に叩きつけられた死体を見て喜んでいるんじゃないだろうか?
 私は一刻も早く、お兄ちゃんのもとへ戻りたかった。もっと速く、距離なんて意味がないくらいの速さで飛びたい。早くお兄ちゃんに会って、ごめんなさいって謝りたいんだ。そして、もう1度、お兄ちゃんの側で、お兄ちゃんを守りたいんだ。

 この先には、間違いなくお兄ちゃんがいる。
 だから、余計なことを考えず、ただ進めばいい。
 この、気が狂いそうになる同じ景色も必ず終わる。
 必ず、ここから抜け出してみせる。

 私は前だけを見て飛んでいた。
 そんな私の視界の端で、ちらちらと動く小さな何かがいる。
 私は舌打ちと共にそちらへ目を向けた。

 遥か上空に小さな浮遊物が飛んでいた。
 地べたから見上げる飛行機ぐらい遠いその姿を見て、私は全身の毛が逆立った。

 独特のフォルムと、つるんとした白い腹。
 そして、あの忌まわしいロング・テイル。


 間違いない。
 あそこにいるのは、奴――仕留めた筈の巨大な空飛ぶエイだ。


 気がつけば、私は奴を追って上昇していた。奴よりも高い位置を取って、離れていくその姿を追う。奴はお兄ちゃんを感じる方へ向かって、まっすぐに進んでいた。
 奴に追いついた私は、距離を取りつつ、見覚えのある黒い背中を見下ろした。私が剥ぎ取った部分が、他と比べて薄い色になっている。やっぱり、こいつはさっきのエイと同じ奴だ。
 私は尻尾に気をつけながら、奴の背中に乗った。攻撃してくる様子はない。

 気がついてないのか? あんなにしつこかった癖に。

 エイは目指す場所でもあるかのように、迷いなく飛んでいる。いまだったら、こいつを殺してしまうのも簡単だろう。尻尾をもぎ取って、皮を剥いで、骨まで砕くことだってできる。

 でも・・・・・・何だか気がのらなかった。
 気付いてない相手をやるなんて、不意打ちみたいで卑怯だし。


「それに・・・・・・この服も貰ったしね」


 私は胸に巻いたこいつの皮を撫でた。肌触りが最悪だけど、この質感は気に入っている。もう少し持ってくればよかったと思っているくらいだ。


「だから、見逃してやるよ。その気になったら、いつでもかかってきな」


 そう言って、こいつの背中を軽く蹴り飛ばす。まるで反応しない。鈍感だね。

 私は背中の上を歩いてみた。学校のグラウンドなんかよりずっと広い。もし、こいつが私のペットだったら、お兄ちゃんとマリアを乗せて、千日で世界を壊してみせるのに。毎晩、私にお話を聞かせてくれたお兄ちゃんへのお礼に、今度は私がお話を作ってあげられるのに。

 私はこいつの頭の先ぎりぎりまで来て、相も変わらない景色を眺めた。夕焼けが色濃くなって、空はずいぶんと赤く染まっている。後ろを振り返ると、真っ赤な太陽が海に沈もうとしているところだった。
 この夕陽を見ている自分を不思議に思う。朝、あの太陽を見た時は、まだ人間だった。いま、私は天使になっている。明日の朝日を見る時、私はどうなっているんだろう? 神様になっていても、人間に戻っていたとしてもおかしくない。絶対に変わらない日々なんてないって、思い知らされたから。


 ただ、私は絶対に明日の朝日を生きて見てやる。

 明後日も、その次も、その次の日も、私は生きて朝日を見る。

 お兄ちゃんと一緒に。

 不本意だけど、マリアも一緒に。

 生きて、生きて、生きて、生き抜いてやる。

 世界が終わっても、太陽が燃え尽きても、私は、生きる。


 太陽がその姿を完全に隠してしまうまで、私は夕陽を見つめていた。
 久しぶりに感じる、緩やかな時間。この瞬間、私は間違いなく幸せだった。


 進行方向に視線を戻した私は、これまでのことはすべて夢で、いまもフカフカのベッドで寝ているところなんじゃないかと疑ってしまった。



 私の視線の先には、夕焼け空より、ずっと、ずっと、赤い、


 ここから見た夕陽より、ずっと、ずっと、赤くて、大きい、


 この巨大なエイより、ずっと、ずっと、大きい、


 出来そこないの太陽みたいに、赤い、赤い、赤くて、丸い


 『血の球』が、


 巨大なアドバルーンみたいに浮かんでいた。


 血の球の下には、ゴミクズのように小さな何かがいる。


 そいつは、真っ白で大きな翼を持ち、サディスティックな笑みを浮かべている。


 会いたかったけど、会った途端に殺してやりたくなる、私と同じ顔をした女。


 そこには、翼の生えたマリアがいた。


 また、マリアは私の場所を・・・・・・


 ・・・・・・もしかしたら、マリアに明日は来ないかもしれない。


 そんな予感がした。


 いまは、いまだけは、自分の顔を見たくない。

 2

 グロテスクな血の球からは血管のような赤い紐が伸び、マリアの右手と繋がっている。紐の先の結び目ぐらいにしか見えないマリアは、世界一大きい、グロテスクな赤い風船を持っているみたいだった。
 きっと、あの血の球はマリアに与えられた特別な力。マリアは私と同じ羽を持ち、私にはない力を手に入れている。マリアより上の存在になれたと思ったのに、あっという間に追い抜かれてしまった。
 私は震える拳を強く握りしめ、ずっと遠くにいるマリアを睨みつけていた。普通ならマリアがいるなんて気付かない距離だけど、醜く歪んだ笑みを浮かべて、こちらを上目遣いに見ているマリアの顔が、双眼鏡を覗いているみたいにはっきりと見える。迫り来る巨大な空飛ぶエイを目の前にしているのに、その表情には余裕が浮かんでいた。

「・・・・・・お前はマリアを狙ってるんだ」

 エイは一直線にマリアへと向かっている。私を狙い、次はマリア。この巨大なエイには天使を襲う習性があるのかもしれない。
 だったら、もう1度私を狙えばいい。なんだか、コイツにまで無視されているようで面白くなかった。マリアなんて、羽があるだけで戦ったこともないのに。


 ・・・・・・そうだよ。マリアなんて戦えないじゃん。


 そう思うと、身体中の力がふっと抜けた。私は何を焦っていたんだろう。
 戦うことは私にしかできないじゃないか。
 羽が生えたって、特別な力を持っていたって、天使になったからって、マリアには無理だ。

 私はエイの頭を軽く蹴り、ほんの少し浮かび上がった。マリアがあの悪趣味な血の球をどう使うのか知らないけど、襲い掛かってくるコイツに対して、何ができるのか見せてもらおう。足元を轟々と流れていく黒光りしたエイの背中に向かって、私は『いっけえ!』って叫んでいた。

 大丈夫。マリアがピンチになったら、ちゃんと助けてあげるから。
 こういう時は私がいないと駄目だって、わかってくれればいいから。

 口の両端が自然に吊り上がっていくのを感じる。
 嫌だな。きっと私、マリアと同じ醜く歪んだ笑い顔をしてるよ。


 私から離れ、エイはぐんぐんとマリアに近づいていく。少しは怯えた顔をすると思ったのに、マリアの表情はさっきとまったく変わらない。
 マリアは鞭を振るう女王様のように、赤い紐をしならせて右腕を振り上げた。反らせた胸元からはみ出しそうになっているおっぱいを見て、私はようやく、マリアが白いドレスを着ていることに気付いた。幼稚園児の描くお姫様みたいなドレスなのに、丈が膝上までしかなく、裾からはフリル模様が見え隠れしている。紙コップぐらいの小さな王冠まで頭に載せているマリアの姿は、何かの罰ゲームかと思うぐらい、ちぐはぐで救いようがなかった。
 マリアが勢いよく右腕を振り下ろすと、赤い紐は大きく波打ち、血の球へと波動が伝わっていく。血の球は、電波を感知したラジコンみたいに、何の前触れもなく動き出し、エイの進路を塞いだ。
 エイはためらいなく血の球へと突っ込んでいき、バレーボールを床に叩きつけたような音が夕暮れの海に響き渡った。エイの体当たりを受けた血の球はゴムのように伸びて、あっという間にエイを包み込んでしまう。長く伸びた血の球は、まるでソーセージみたいだった。
 血のかたまりに取り込まれたエイは、スピードを落としながらもなお、マリアへと向かっていく。マリアが赤い紐の繋がった右手を再び振り上げると、エイが進んでいる側のソーセージの先がかすかに上を向いた。それと同時に、エイの後ろに溜まっていた血が前方へと流れこみ、新たなソーセージの先端を作り上げていく。エイはソーセージの内部を滑るようにして、進路を上へとずらされていった。
 終わりの無いソーセージの内部を進むにつれて、エイのスピードはさらに削られていく。次第に血のかたまりはその長さを縮めていき、エイが完全に動きを止めた時には、もとの完全な球形に戻っていた。平べったいエイが中でぷかぷか浮かんでいる血の球は、色彩感覚の狂った誰も欲しがらないビー玉みたいに見えた。


 唾を飲む音が、やけに大きく頭に響く。

 私はマリアを甘く見すぎていたかもしれない。
 こんなにもあっさりとあのエイを制してしまうなんて、考えてもみなかった。

 私の場所。私の存在意義。
 それが足元から崩れていくような気がする。

 私とマリアは一卵性の双子だ。もともとひとつだった命がふたつに分かれたのだから、どちらかはオリジナルのコピーでしかない。
 オリジナルはコピーよりも優れている。だから私はマリアに何ひとつ負けたくなかった。自分がオリジナルだって証明したかった。

 でも、何をしても、マリアにはほんの少しだけ勝てなかった。
 勉強も、皆からの人気も、背も、胸も、全部。

 だから私はマリアと違うものになろうとした。
 マリアが絶対に追いつけないことをやってやろうと思った。

 それが戦うこと。これだけはマリアに負けられない。
 マリアに戦いで負けたら、私はマリアの劣化コピーに成り下がってしまう。

 私はマリアを見た。マリアは私を見ていた。
 私を馬鹿にするいつもの表情で、マリアは私を見ていた。

「気付いてたのかよ・・・・・・」

 怒りで身体中の血が煮え立ってくる。
 何でもわかったような顔をしているマリア。
 いつまでも私を馬鹿にし続けるマリア。

 いちばん近くて、いちばん憎い存在。
 マリアに完全に勝たなければ、私は私を誇れない。

 マリアは血の球と繋がっている右手を、私に向かってゆっくりと差し出し、手のひらを上にして、親指以外の4指をクイクイと動かした。マリアの生意気な挑発は、下品でエロくて、最高に私をムカつかせた。

 ヤバイよ・・・・・・そこまで舐められたら私もメンツが立たないじゃん・・・・・・。

 羽がビリビリと逆立っていく。
 もう、止められない。止める気もない。

 私よりも強くなったと勘違いしている可哀想なマリアにお仕置きをしよう。
 2度と私に逆らおうなんて考えないように、私の存在をマリアの身体に刻み込んでやる。

 赤く染まっていた空には、夕闇が染み出している。
 海は凪いでいる。風は止んでいる。
 世界中の時が止まり、この瞬間は一枚の絵画と化した。

 静止した時を私とマリアが同時に破る。

 放たれた矢のようにマリアに突っ込んでいく私。
 静寂を打ち砕く指揮者のように右手を振り下ろすマリア。

 目の前にいるのは、マリアなのか、鏡に写った私なのか。
 そんなくだらない思いが、私の頭を掠めた。
17, 16

  


 3

 マリアの頭上に浮かんでいる桁外れの体積を持った血の球は、重力なんて存在しないかのように軽々と空間を移動し、私へと襲い掛かってきた。エイを取り込んでいるせいか、さっきよりもスピードが遅い。多少、早く動けてもデブはデブだ。
 マリアが馬鹿なおかげで、私は最短距離を行くことができる。進路を塞ぐように血の球を動かされていたら、ただ突っ込む訳にはいかなかった。あのエイでさえ突き破れなかった血の球に真正面から突っ込むほど、私は愚かじゃない。そうなった時は、海に潜るか上空に昇るかして、マリアの視界からいったん外れるつもりでいた。
 この空と海しかない広大な空間で私サイズの標的を見失うのは、砂浜にビーズを落とすのと同じことだ。世界中の宝石を懸賞金にされたって、誰も見つけられない。
 逆に、あんな巨大でブヨブヨした役立たずを引き連れているマリアは、月からだって見つけることができる。ひとつ舌打ちをして、いったん距離を取れば、もうマリアには打つ手がない。オオカミに狙われていることだけはわかっている丸々と太った羊のように、マリアはぶるぶると震えているしかないんだ。

 でも、とりあえずでもマリアから逃げ出すなんて、そんなめんどくさくて屈辱的なことをする必要はもうなくなった。マリアを守るはずだった血の球は、さっきまで私がいて、いまはもういない場所に向かっている。先の読めない愚かなマリアは隙だらけで、好きにしてくださいって言っているみたいだ。
 とろけるチョコに包まれたガトーショコラを差し出された気分で、私はマリアに向かっていく。がっついていると思うけど、魂が求めたら我慢なんてできない。我慢できるくらいなら、本当に望んだものじゃない。

 私は今すぐ、マリアをメチャクチャにぶん殴りたいんだ。
 私と同じ顔をしているなんてわからなくなるぐらいに殴りつけてやりたい。

 パンパンに腫れたマリアの顔が、現実よりもずっとリアルに私の視界を支配する。
 鼻水の混じった粘りつく鼻血が顔中に飛び散り、折れた歯が切れた唇の端から覗く。
 私の腕はぐったりとしたマリアの重みを感じている。
 私の拳はマリアを殴った後のジンジンとした心地よい痺れを感じている。
 膨らんだ目蓋の隙間でしかなくなったマリアの細い目からは、とめどなく涙が溢れ出す。
 信じられないくらいの不細工な顔で、口をパクパクさせながら、マリアは繰り返すんだ。

 ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・って。

 拳の痺れが広がったように身体中がジンジンと熱くなり、私は息を荒くした。

 1分後にはこの甘美な感触が現実になる。
 だって、現実のマリアはもう手の届く所にいるのだから。

 間抜けな血の球は、やっと過ちに気付いたのか、無理矢理に進路を変え、少しでも私に近づこうとしている。そのせいでスピードはさらに落ち、避ける必要さえないくらいに私と血の球との間隔は開いていた。ここまでくれば、さすがに状況を理解して慌てふためいているだろうと、私はマリアに意識を移した。

 マリアは冷ややかな目で、私を憐れむように見ていた。
 不覚にも、私はマリアの目を見て、一瞬、背筋がぞくりとした。

 血の球と繋がった赤い紐に導かれるように、マリアは右手をそっと前に伸ばし、肩の高さで止めた。赤い紐は女郎蜘蛛のお尻から出る糸みたいに、血の球からずるずると引き摺り出されている。


 嫌な予感がした。
 取り返しのつかない失敗をする前の心臓が凍りつく感覚。


「スカシてんじゃねえええぇぇぇっっ!!!」


 私はその感覚を振り払うようにお腹の底から叫び声を上げ、ひときわ強く羽をはばたかせた。マリアは顔色ひとつ変えずに、私がもっとも血の球に近づくタイミングで、右手に繋がる赤い紐をぐっと引いた。
 それを合図として、つるりとした血の球の表層に、ニキビのような無数のぶつぶつが隙間無く浮かび上がる。そして、潰したニキビから膿が噴き出すように、ぶつぶつのひとつひとつから、真っ赤な細い触手が放射状に吐き出された。イソギンチャクの触手に似たそれは、救いを求めて地獄の底から数限りなく伸びる亡者の手のように、1本1本が先を争い、絡み合いながらも、鬼気迫る勢いで私に追いすがってくる。

 今から血の球に背を向けて逃げ出したとしても振り切れそうにない。
 私に残された選択肢は、このままマリアに突っ込み、触手に捕まるよりも早く、マリアを叩きのめすことだけだ。マリアは私を舐めているのか、いま居る場所から動こうとしない。
 私は必死で空を駆けた。生暖かくてぬるりとした感触がちろちろと裸足の爪先を撫でている。触手の束は津波のように折り重なって、私のすぐ後ろまで迫っていた。
 なかなか捕まらない私に恐怖を感じたのか、マリアは私を見つめたままバックしていく。全速力で逃げなかったのは、私が触手に取り込まれて、あの血の球に引き摺り込まれるところを見たかったからだろう。
 私はマリアに乗り移られたみたいに、サディスティックな笑みを浮かべ、マリアとの距離をぐんぐん縮めていく。触手の波を従えて押し寄せる私に、マリアは初めて焦りの表情を見せた。
こちらを向いたまま、慌てて逃げようとするマリアの目は、ライオンに食べられるシマウマのように怯えていて、私はゾクゾクするような興奮を感じた。

 触れられる程に私はマリアに近づいた。マリアの顔は恐怖に引きつっている。

 調子に乗った私はマリアの鼻先に自分の顔を差し出して、マリアの艶のある唇にチュッとキスをした。マリアの唇は柔らかくて、血の味がした。

「安心しなよ、優しくするから」

 マリアはクラスでいちばんバカな男子みたいな顔で私を見つめていた。マリアを生かすも殺すも私の自由にできる。赤ちゃんの母親ってこういう気持ちなんだろう。
 こんな最高の時間をもう少し味わっていたいけど、ノロマなマリアのせいで、何本かの触手が、むき出しになっている私の脚を生意気にも撫で回している。私の腕よりも細い触手は、1本や2本ならアサガオの蔓ぐらい簡単に引きちぎれるけど、これ以上追いつかれたらマズい。

 私はマリアの喉を片手でガッ! と掴んだ。

「後ろのアレをしまいな。でないと死ぬよ」

 脅しじゃない。
 言うことを聞かなければ、マリアの細い首をもぎ取るつもりだ。
 楽しみはなくなってしまうけど、仕方がない。
 いっそ、その方がお兄ちゃんと2人きりになれていいかな、なんて思ってしまう。



「・・・・・・ひっかかったぁ、バァーカ」



 マリアは見たこともない、歪んだ笑みを浮かべて言った。
 マリアの顔は赤く染まり、目鼻の凹凸がみるみるうちになくなっていく。イカれた真っ白なドレスも、溶けるように赤く染まり、つるりとした球状の物質へと変わっていく。

 マリアは、
 ――マリアだったものは、赤い血の固まりになり、パシャン、と音を立ててはじけた。



 なに? これ?



 その疑問について考える余裕はなかった。
 私の足首に触手の束が巻き付く。そこを基点にして、生暖かくぬめぬめした血を纏った触手が私の左脚を這い上がってきた。

「いやっ!!」

 私は触手から離れようと、力の限りに前へ進もうとした。でも、私の左足をがっちりと捕らえた触手はびくともしない。私の脚を嘗め回す触手は、さわさわと膝の裏を撫で、腿に這い上がり、私のお尻へと伸びてくる。思わず私は膝を折り、エイの皮に覆われているだけの股を両手で押さえてしまった。戦うことを拒否した私の両腕が胸をぎゅっと挟み込む。
 私はもう、袋叩きにあっている亀と同じだった。身体を丸め、目を固く閉じて、私を蹂躙するものが去っていくのを待つだけの弱い存在。
 穢れた血を私の肌になすりつけながら、触手は私の身体を隅々まで嘗め尽くそうとしていた。隠されたところに大事なものがあるとわかっているのか、餌を求める鯉のように触手は寄り集まり、その先を私の手の奥にねじ込もうとする。
 後から後からやってくる触手は私の身体をさらに這い上がってきた。私は足元から触手に覆い尽くされ、包み込まれるように触手の束に飲み込まれていく。

「あっ!」

 私の手首に巻きついてきた触手に、腕を引っ張られた。最初は右腕、次に左腕。私は腕を引き上げられ、触手たちが狙っている部分を曝け出す格好になった。

「いやあっ!!」

 私は懸命に脚を閉じようとした。でも、既に右脚も触手に絡め取られていて、膝を内側に向けるのが精一杯だ。触手はぷるぷると震える私の腿を這い上がり、剥き出しになっている敏感な部分を執拗に撫で回した。
 思わず漏れる喘ぎ声と共に、血とは違う、ねばねばした液体が私の股に溢れ出してくる。触手はその液体を私の股に塗りたくるように動き、汚らわしい快感を私に植え付ける。
 その間にも、私の顔にまで伸びたほかの触手は、触れられるとビクッとしてしまう背中も、エイの皮1枚で守られている胸も、隠すことのできない脇も、好き放題に嘗め回し、やりたい放題に私を弄び、怒りも、意地も、誇りも、生きている意味も、お兄ちゃんへの思いも、みんなみんな腐った快感で塗りつぶしていった。
 私は唇を噛みしめ、爪が食い込むほど拳を握り、強制的に与えられる暴力的な快感に必死で耐えていた。

「・・・・・・んんっ・・・・・・いやっ・・・・・・いやあっっ!!」

 経験したことのない激しい快感が私の内側を食い荒らしていく。
 頭が真っ白になり、釣り上げられた魚のように、ビクンビクンと身体が大きく震えた。耐えて、耐えて、その上でイカされてしまった私は、繰り返し襲う快感の波に、何度も何度も身体を震わせ、そのたびに命乞いのような喘ぎ声を、薄暗くなっていく虚空に響かせていた。

 私をいいように嬲る快感の波が引き始めた時、両腕を吊るされている格好の私は、だらしなく口を開き、ハァハァと息を荒げ、涎を垂らしながらぐったりと俯いていた。
 いまの私は何も残っていない、空っぽで、汚らしい肉の塊りでしかなかった。


「素敵な格好ね、ジュリアちゃん」


 私は頭を持ち上げることができず、顔を傾け、目の前に浮かぶマリアを見た。
 頬に人差し指をあて、最高の笑顔で小首をかしげているマリアは、あの奇妙な格好と相まって、裸にされた私の心を恐ろしく不安にさせた。

 私には死という安らぎが訪れないことに、深い絶望を感じた。

 4

 私に纏わりついていた触手は、顔や、胸や、お腹や、脚に、幾筋もの血の跡を残して、するすると離れていき、私の背後でもぞもぞと寄り集まっているようだった。生温かい固まりが腰のあたりにでき、その感触は瞬く間に背中全体に広がる。私の背後には血の触手でできた巨大で柔らかな壁が、夕闇の中で真っ赤にそびえ立っていた。
 手首から先と足首から先は、血の壁に取り込まれていて、汗ばんだ手に握られているみたいだ。ぐったりとしていた私は、取り込まれた手首足首を外側に無理矢理引っ張られて、アルファベットのエックスみたいな状態で、磔にされていた。さんざん嬲られた股は開いたままで、スースーした感じが心もとなかった。

「・・・・・・その顔、とっても素敵。
 保健室登校してた子がちょうどそんな目をしてたわ・・・・・・」

 その子なら私も覚えている。誰が保健室に入ってきても、必要以上に怯えていた1年上の女の子だ。その怯え方が面白くて、みんなでかわりばんこに保健室へ行ってはからかっていた。確か去年ぐらいに転校したか、自殺した筈だ。

 ・・・・・・なるほどね、マリアには私がそう見えてるんだ。

 私を馬鹿にするいつものマリアの顔。
 普段よりも興奮しているのは、私が怯えているせいか・・・・・・。

 私は悪意に満ちた視線から目を逸らした。まばたきをすると、涙がこぼれそうだから、瞳を大きく見開く。唇を噛み、チラチラと目だけでマリアの様子を窺う。
 男は馬鹿でわかりやすいって言うけど、女だって発情している時は同じだ。男みたいにいつでも発情してないってだけ。
 今のマリアは憧れの女の子と初めてデートする男の子みたいな馬鹿面をしてる。理性のあるふりをしていても、女の子に触りたくて触りたくて仕方がないって顔だ。
 マリアはじりじりと近づいてくる。私は目をぎゅっと閉じ、首がねじ切れるくらい顔を逸らせた。血の壁に触れた頬に人肌ぐらいの温かさが伝わってくる。もしも今が冬だったら、この感触も少しはマシだったろうけど、真夏の海の上はクソ暑くて湿っぽくて、温もりなんか欠片も必要じゃなかった。
 マリアの息づかいが聞こえてきて、目を閉じていても、笑っちゃうくらいマリアの興奮が伝わってきた。今の私はマリアの理想そのものだろう。それを目の前にして冷静でいられるほど、マリアの趣味は半端じゃない。

 マリアに晒していた首筋に、ツッ・・・・・・と指先が走った。

「んっ!・・・・・・」

 私は弾かれたようにビクリと震え、いっそう身を固くした。
 マリアの生唾を飲み込む音が聞こえた気がした。

 マリアの吐息が荒くなってくる。
 あと少し・・・・・・あと少しだ・・・・・・。

 調子に乗ったマリアは私の首筋に舌を這わせた。敏感になっていた私は、意識が飛びそうになるのを懸命に堪える。マリアは軽く触れるキスを繰り返して、私の耳元に唇を寄せた。

「こんなに震えちゃって・・・・・・ジュリアってホントに脆いのね・・・・・・可愛い」

 マリアは私の耳に舌先を入れた。
 ゴワッという耳に水が入った時の音とともに、押さえ切れない嫌悪感が一気に爆発した。

「気持ちワリィんだよっ!!」

 目を見開き、すぐそこにあった舌を出したままのマリアの顔へ渾身の頭突きを放つ。マリアは言葉にならない声を上げ、突き飛ばされたみたいに後ろへ吹っ飛んだ。
 手応えあり。鼻と頬骨はイッてるだろう。

 両手で顔を押さえていたマリアは、しばらく呻いた後、ゆっくりとその顔を上げた。

「・・・・・・!
 クソッ! またかよ・・・・・・」

 マリアの理想を演じる芝居をやめた私は、思いつきの賭けが不発に終わったことを知った。マリアを引き寄せ、唯一、自由に動かせる頭で頭突きをする。単純極まりない作戦だ。
 うまくいったと思った。けど、目の前に浮かぶマリアの顔は、紙粘土の固まりを殴った時みたいに顔の中央が窪んだままで、元に戻る気配はない。
 何が起こったのか、私が理解するのを待っていたんだろう。
 苦しそうなふりをしていたマリアは、歪んだ顔で気味悪く笑うと、身体中を赤色に染めていき、血の固まりに戻って、パチンと弾けた。
 血の壁の後ろからマリアの下品な高笑いが響く。抑えのきかなくなった私は、身体が千切れんばかりに暴れ、声の限りに叫んだ。

「いつまでもコソコソ隠れやがってぇ! とっとと出て来い!
 出て来いってんだよ! マリアァァ!」

 どれだけ暴れても血の壁は私をピッタリと固定して動かない。マリアの高笑いはますます激しくなった。

「アハハハッ! ア、アンタって最高よね! 本当に!」

 狂ったように笑うマリアの声が頭上から響いた。壁の上端から顔だけを出し、ゲラゲラ笑いながら、私を見下ろしている。マリアの後ろには夕闇が広がり、チェシャ猫の笑みのような細い三日月がぽっかりと夜空に浮かんでいた。まるで、お月様までが私を笑っているみたいだった。
 マリアの身体がふわりと動き、壁の上に逆立ちをするような体勢になった。そのままの勢いでこちらに倒れこみ、捻りを入れて私の方へ向き直る。
 ゆっくりと降りてくるマリアは、私の頭の高さに足が届くと、白いヒールの踵で私のおでこに蹴りを入れ、血の壁に私の頭をめり込ませた。頭は血の壁にがっしりと掴まれる。動けなくなった私に対して、マリアはおでこの同じ場所を執拗に蹴った。

「ホント、馬鹿は声が大きくてやぁねぇ。
 猿知恵の猿芝居が見破られたからって喚かないでよ。
 ウザくてしょうがないわ」

「てめぇ・・・・・・」

 恐怖ではなく怒りで身体が震える。おでこから流れ落ちた血は鼻の脇を流れ落ち、唇の端を湿らせた。

「ふふっ、ジュリアってば、見たことないくらい怖い顔してる。
 特別にどんな顔か見せてあげるわね」

 マリアはまた右手を差し出した。エイを捕らえた血の球から伸びる、血管に似た赤い紐は、マリアの中指にはめられた指輪へと繋がっている。指輪にはルビーのように真っ赤な石が埋め込まれ、紐はそこから生えているように見えた。
 紐の一部がぷくりと膨らみ、それはたちまち人の姿へと形を変えていく。長い手足、大きな瞳、広がる翼。そして・・・・・・毎朝、鏡で見る、よく知った顔立ち。表面の色は赤から白へと変化し、私そっくりの人形が出来上がった。
 人形は、マリアを睨みつける私と同じ目で、こちらを睨みつけてくる。怒りに我を忘れた醜い顔。鏡を見るのとも、マリアを見るのとも違う、もやもやとした苛立ちを感じて、私はそいつが見えないかのようにマリアを睨み続けていた。

「どう? これがアタシに与えられた力、『ブラッディ・オーシャン』。
 アタシの血を無限に増やして、自由に操ることができるし、イメージしたものを、そのまま形にすることもできる。
 素敵でしょう? 殴る、蹴る、頭突きしかできなくて、化け物から剥ぎ取った皮を巻いてる原始人とは次元が違うわよねぇ」

 マリアは私にではなく、傍らの私に似せた人形に話しかけている。
 人形はいまにも死にそうな顔をして、神を崇めるようにマリアを見ていた。

「・・・・・・マリア様のおっしゃる通りです。
 私なんてバカで、デブで、ブスで、生きてる価値のないクズです。
 お願いです。私を殺してください。今すぐ殺してください」

 腐れ人形は、私と同じ声で、私が死んでも言わないことをべらべらと話し出す。くだらな過ぎる言葉の羅列には虫唾が走った。

「ねえ、レベル低すぎなんじゃないの? 見てるこっちが恥ずかしくなるよ」
「あら、リアリティがなかったかしら? じゃあ、こんなのはどう?」

 マリアは右手を小さくくるりと回した。
 出来損ないの人形は私を思いつめた目で見つめ、言葉を選びながらポツポツと話し始めた。

「私・・・・・・お兄ちゃんの言葉を信じられなくて、天使なんていないと思ってた。
 それは、お兄ちゃんに対するいちばんの裏切りだって気付いたから、私はお兄ちゃんの側を離れたの。私にはお兄ちゃんの側にいる資格なんてない。だから、お兄ちゃんに見つからないどこか遠くで、死んでしまおうって思った。

 ・・・・・・でも、やっぱり死ねなかった。いま死んだら、私はくだらない存在のまま消えてしまう。お兄ちゃんのためとか、お兄ちゃんの役に立ちたいとか、確かにそれもあるけど、いちばん大事なのは、私の存在に意味があるかないかだから。

 そうやって自分のことしか考えてなかったからこんな状態になったのに、私はいつまでも同じことを繰り返している・・・・・・。
 私は誰よりも強い。だから私には存在価値があると思ってここまで戻って来たけど、天使になったマリアに指1本触れられずに・・・・・・私は負けてしまった。

 マリアがいれば、私はいらない。お兄ちゃんも弱い私なんか必要としない。

 1度お兄ちゃんを裏切ったのに、私は私のことしか考えないで、お兄ちゃんから逃げ出した。私は何ひとつ変わらない、本当の恥知らずだ。
 それなのに、どうして許してもらえるなんて思ってしまったんだろう? どれだけ恥を重ねれば、私は私のしてしまったことを理解するんだろう?

 もうこの世界に私の居場所はない。それがただひとつの真実。

 ・・・・・・ねえ・・・・・・お願い。

 ほんの少しでも私を愛してくれるなら、
 ほんの少しでも私を可哀想と思ってくれるなら、
 DNAひとつ残らないぐらい、完全に私を殺して。
 私がこの世に存在した証なんて、何ひとつ残らないぐらい綺麗に殺してほしい・・・・・・。

 せめて・・・・・・せめて死ぬ時だけは、綺麗に死にたいから・・・・・・。
 お願い・・・・・・マリア・・・・・・お願い・・・・・・」

 マリアの傀儡にすぎない癖に、人形は私そのものであるかのように語り、ポタポタと涙まで流して俯いてしまった。

 反省のふりをした自虐。綺麗な死への憧れ。

 人形の語るモノローグは、少し前までの私の思考パターンを正しくトレースしていて、気を抜けば同じ考えに引き込まれてしまいそうだった。

「アハハッ! 黙った黙った! どう? 完璧? こんな感じ?
 アハハハハハハッ!」

 マリアはすべてわかったつもりで私を嘲笑っている。

 ・・・・・・でもね、マリアはぜんぜんわかってない。

 私はどんどん変わって、どんどん素敵になってるんだよ。

 マリアが浮かれれば浮かれるほど、頭の芯が冷えていく気がした。
 私は何がしたいのか。私はどうするべきなのか。
 いまの私にはそれがわかっている。

 私はマリアを静かに見つめた。
 マリアは高笑いをやめ、私に不思議そうな視線を向ける。

 ほら、マリアはこんな私を知らないよね?
 だからそんなに驚いた顔をしている。

 マリアは私の一部しか知らない。マリアは私の過去しか知らない。
 私はどんどん変わっているんだって、マリアは知らないんだ。
 何も不思議じゃない、当たり前のことなのに。

「・・・・・・確かに、私はそんな感じだったよ。それに恥知らずってのもその通りだと思う。お兄ちゃんを信じずに、お兄ちゃんから逃げて、それでもこんなに会いたいんだから」

「・・・・・・ずいぶんと素直ね。気持ち悪い」

「でもね、完全に間違ってることがある」

 マリアの表情に警戒の色が浮かび、私の真意を探ろうとしている。
 そんなことしても無駄なのに。

 マリアは絶対に今の私を知らない。
 だって、ついさっきまで、私も知らなかったんだから。

「私はもう、死にたいなんて思わない。
 DNAひとつ残さずに消えるくらいなら、私はDNAひとつからでも蘇ってみせる。

 私は私の思うようにする。私はただ、お兄ちゃんに会って謝りたいんだ。

 お兄ちゃんが私を許してくれるかなんてわからない。
 ううん、きっと許してくれないと思う・・・・・・。

 でもね、私は生きて、お兄ちゃんに償いをするって決めた。

 お兄ちゃんから何て言われて、マリアがここにいるのかはわからない。
 でも、私の邪魔をするのなら・・・・・・私は本気でマリアを殺すよ」

 私は間違いなく、思うままを話していた。

 生きていたいのに、死にたいと願う。
 愛されたいのに、忘れてほしいと願う。

 いつの間にか身についていた無駄なだけの嘘。
 そんなものは世界の果てに捨ててきたんだ。

 私たちは黙り込んで、ただお互いを見ていた。
 私は初めて、マリアに本当の言葉を話せたと思った。
19, 18

  


 5

 マリアは見たことのない表情をしていた。私の言葉が不愉快だけど、その不愉快さをそのまま出してしまうのを躊躇っているような感じで、こんな煮え切らない反応が返ってきたのは意外だった。マリアの知らない私がいるように、私の知らないマリアもいるのかもしれない。

 マリアは大げさにため息をつき、傍らで俯いている私そっくりの人形の頭にポンと手を置いた。

「あー・・・・・・やっぱり無理・・・・・・。

 ゴメンね、ジュリア。
 アタシ、ホントにアンタが大っ嫌い」

 マリアは人形の髪を鷲掴みにして、ゆっくりとその手を下げていく。首がありえない角度で曲がり、血でできている筈の人形から、ぶちぶちと肉が裂けていく音が聞こえた。

「生きて償いをする・・・・・・気持ちいいよねぇ、さんざん悩んで、答えが見つかったって思った時はさ。でもアンタの言ってるのって、『死んで償う』のとどう違うの? 私はこんなに頑張ってますってアピールのやり方を変えただけじゃない。

 アンタはいつでも、自分がいちばん可哀想で、自分がいちばん頑張ってるって顔をする。
 そのくせ、自分がいちばん愛してもらわないと世界が終わるみたいに騒ぎ出す。

 ホントにね・・・・・・ウザいよ・・・・・・。
 アンタの汚いオナニー見せられてるみたいで吐き気がする・・・・・・」

 ぶつり、と音を立てて、私の首がもぎ取られた。髪を掴まれてぶら下がっている私の生首はパンパンになって捨てられるゴミ袋みたいで、自分が意味もなく殺される夢を見せられている気がした。
 マリアの言葉にも、その行動にも、不思議と怒りは感じなかった。何だかマリアがとても傷ついているように思えて、うるせえっ! って叫びたいのか、どうしたの? って聞きたいのかわからなくなったんだ。

 黙ってマリアを見つめていると、マリアは急に怒りを露わにして、ぶら下げていた生首を私めがけて投げつけてきた。生首は身動きの取れない私の顔にぶち当たり、暗い海面へと落ちていく。私そっくりだった顔は、なんだかしぼんでいるように見えた。口元に鼻血が流れてきて、ようやく私はムカついてきた。

「ぐちゃぐちゃ、うるせえんだよ!
 人形の首なんかで満足してないで、さっさとかかって来い!」

「捕まったゴキブリみたいな格好でよく言うわね。

 ・・・・・・ひとつ教えてあげるけど、アタシはアンタが簡単に死なないって知ってるわよ。
 アンタがあのエイの化け物にボロボロにされても、しぶとく生き返ってくるのを、お兄ちゃんと見てたんだから」

「見てた・・・・・・?」

「そ。だからアンタを殺しても、そこら辺にポイ捨てなんてしない。汚物はちゃんと持ち帰らないとマナーに反するものね。
 アンタはあの化け物と同じようにブラッディ・オーシャンの中に閉じ込めて、内臓をさらすモルモットみたいにして飾るの。この世界が終わるまで、その無様な姿のままで永遠に固めてあげる。

 アンタに希望なんてない。
 お兄ちゃんに見捨てられて、意味の無い存在のまま、アンタはここで終わるのよ」

「できんのかよ。そんなこと」

「はあ?」

「あのエイを閉じ込めてる血の球も、マリアの作る趣味の悪い人形も、全部その血管みたいな紐で繋がってる。繋がってなきゃ駄目なんだろ? これから先、ずっとこのままでいるつもりなら、私も諦めないと駄目かもしれないけどね」

「・・・・・・繋がってなくても大丈夫だとしたら?」

 私は笑みを浮かべて、マリアの反応を待った。マリアは次の言葉を継いだ。

「あのエイはきついけど、アンタひとり分ぐらい、そのままの形で残せるわよ。勝手な思い込みでつまらない希望を持ってもムダ」

「嘘だね。今のではっきりわかったよ。繋がってなきゃ駄目なんだ」

「可哀想ね・・・・・・。ムダだって言ってるのに」

「本当に無駄なら、マリアはやってみせるよ。絶対に。
 そうすれば、絶望する私を見られるんだから」

 マリアは黙り込んだ。この場面での沈黙は正解のピンポンと同じ。どうやら、絶望するにはまだまだヌルい状況みたいだ。あとは、首をもがれても生き返れるかが問題だけど、そればっかりはやられてみなくちゃわからない。

 細い糸かもしれない。
 でも、私はお兄ちゃんに会ってみせる。

 絶対にだ。



「あー・・・・・・もう・・・・・・本当にウザい・・・・・・ウザいよ・・・・・・。
 ・・・・・・ごめんね、お兄ちゃん。アタシ、もう我慢できない・・・・・・」



 身体ががくんと揺れた。吊り下げられた両腕はそのままに、足首が上へと押し上げられる。私は血の壁に繋がれて、血の床に座っている格好になった。肩幅と同じくらいの広さに足首が固定されたままだから、いちばん見られたくない部分をマリアに向けて晒している状態だ。


「・・・・・・そんなに見たいのかよ、変態」

「冗談はそのイカれた服だけにしてよ。
 アタシが見たいのは、アンタが泣き叫ぶ姿。
 そのためだったら、臭くて汚いものだって我慢するの」


 首から上のなくなった人形の姿がぐにゃりと歪み、奇妙な形に変わった。短くて太い槍の先に丸っぽい三角の頭がついていて、異常に発達したエリンギみたいになっている。


「笑っちゃうわよねぇ・・・・・・。
 アンタ、これが何だかわからないんでしょう?
 童貞とか短小とか恥ずかしげもなく言ってるくせにね。

 ねえ、気付いてる?

 さっきアンタがアンアンよがってた時、たった1本の触手だって、アンタの中には入れてないんだよ。何にも知らないアンタへの優しさも、ぜんぜん気付いてないんでしょう?

 アンタはホントに・・・・・・本当に何も知らない・・・・・・。
 だから・・・・・・ウザい・・・・・・。だから・・・・・・ムカつく・・・・・・」


 どろりとしたエリンギが、ゆっくりと私に向かってくる。
 まさか・・・・・・アレを・・・・・・?


「『もう死にたいなんて思わない』って言ったわよね。
 でも、きっとアンタはすぐにまた、死んだ方がマシだって思う。

 アンタはいつも守られてるから、弱くて脆い。
 だから、あんたの言葉なんて何ひとつ信じられない。

 ・・・・・・すぐにわからせてあげる。
 アンタの心なんて、ガラスみたいに簡単に壊せるんだって・・・・・・」


 エリンギは膝を閉じた私の脚の下に潜り込んできた。パワーアップしたみたいに心臓が鼓動を刻み、苦しくなって息が荒くなる。目の前がうっすらと暗くなっていき、月明かりだけが頼りの中で、マリアの姿が遠のいていく。


 怖い。

 何だかすごく怖い。

 首をもぎ取られるよりもずっと。


「いまさらそんな顔しても遅いわよ・・・・・・。

 でも・・・・・・そうね・・・・・・
 ごめんなさいって、100回言ったら許してあげる・・・・・・。

 最後のチャンスよ・・・・・・言わなかったら・・・・・・アンタを壊してあげる・・・・・・。
 一生忘れられない初めてを味あわせてあげる・・・・・・」


 マリアの声も遠い。気絶してしまいそうになる。
 朦朧としていた私の感覚は、敏感な部分の少し下に、ぴとりと触れた生暖かいもののせいで急激に呼び覚まされた。眠りかけていた時にガクッとなってしまうみたいに、身体がビクン! と跳ね上がった。


「キャハハハハハハハハハッ!
 なあに? まだ始まってもいないのに、もうそんななの?

 怖い? ねえ、怖い?
 悪いこと言わないからさ、さっさとごめんなさいって100回言いな。

 でないと、また漏らしちゃうよ。

 キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」


 マリアの甲高い笑いが耳に纏わりつく。私の脚の下にいる最悪にグロテスクな物体は、入り口のところでピクピクと脈打っていて、おあずけを命じられた犬みたいに、よしと言われるのを待っている。今にも閉ざした扉を突き破って、中に入ってきそうな勢いだ。

 身体の震えは止まらない。信じられないくらいの汗が全身から噴き出している。

 でも私は、私の言葉が本物だって証明しなくちゃいけない。
 私は生きて、お兄ちゃんに償いをする。
 例えどんな目にあったって、私は生きるって決めたんだ。


「・・・・・・マリア」

「なあに? ジュリアちゃん?」


 私は最高に醜い笑いをマリアにくれてやった。


「・・・・・・その服、ありえねえよ。
 頭おかしいだろ? 死ねよ、キチガイ」


 マリアの顔が笑顔のまま一瞬凍りつく。
 とりあえず、上出来じゃない?


 なんだか、初めて歯医者に行った時みたいだ。
 何が起こるか想像つかなくて、不安だけがどんどん大きくなっていく。

 でも、きっと大丈夫。私はやれる。

 私の知らないことが世界にどれだけあったって、私は必ず乗り越えてみせる。
 マリアの知ってることなんて、たいしたことじゃないって笑い飛ばしてやる。

 踏み躙れるものなら、踏み躙ればいい。
 壊せるものなら、壊してみればいい。

 私は・・・・・・マリアなんかに壊されるほど脆くない。
 マリアのお楽しみが終わったら『もう終わり?』って言ってやろう。


 言ってやるさ、絶対・・・・・・。


 私は恥ずかしい格好のまま、震える身体で、かすむ瞳で、マリアを睨みつけた。
 マリアは舌を出して、上唇をぺろりと舐めた。


「オッケー・・・・・・そういうつもりなら、アンタの知らない世界を見せてあげる。
 屈辱と絶望って言葉の意味を、その身体に刻み込んであげる・・・・・・。

 さよなら、綺麗だったジュリア」


 血管の繋がったマリアの右手がすっと上がる。


「そして、ようこそ! 腐り切った世界へ!」


 マリアの右手が振り下ろされ、血管が螺旋を描く。螺旋は私の入り口に貼り付いているアレに向かって一直線に向かってくる。
 その瞬間まで、私は瞳を閉じないでいよう。それが、マリアには壊せない私の誇りだ。


 私の目の前で、マリアとアレを繋ぐ血管が、ぷつり、と切れた。


 螺旋は切れた血管の先をプルンブルンと振り回して消滅した。
 私にくっついていたアレもふっと離れた。お行儀が悪いけど、私は膝を開いてそこを見下ろす。巨大だったアレは、血の床の上でみるみる縮んでしわしわになり、皮だけになると、血の床に溶け込んでしまった。


「テメエ! せっかく盛り上がってんのに邪魔すんじゃねえよ!
 ブッ殺すぞ! このチンカス野郎が!」


 マリアが下品な叫び声を上げる。
 叫び声の先には・・・・・・アイツがいた・・・・・・。

 アイツは初めて会った時と変わらない、真っ白な羽を広げていた。
 私はアイツの羽の柔らかさを知っている。初めて触れた天使の羽。
 私を天使にしてくれたアイツ。初めてキスをしたアイツ。


「ヘキサ!!」


 私は叫んでいた。抑えていた涙が溢れ出した。

 マリアを睨んでいたヘキサは、私の声を聞くと、ほんのちょっぴりだけ私を見て、ほんのちょっぴりだけ優しい笑顔をくれて、はっとしたように私から目を逸らすと、顔を真っ赤にした。

 6

 素早くて無駄のないヘキサの飛び方はツバメみたいだ。マリアとの間に割り込んできたヘキサは、私を守るようにして羽の生えた背を向けている。月光に照らされ、ひんやりと輝く後姿は悪くなかった。

「はっ! ようやくのご到着? ずいぶんと間の抜けた王子様ね」

 冷静を装っているマリアからは、隠し切れない苛立ちが滲み出ていた。いつの間にか血の球はマリアの背後に移動している。キモイ触手の消えた血の球は中が透けて見え、風のない日の風見鶏のようにエイがじんわりと浮かんでいた。
 捕らわれの私を助けに来たヘキサ。立ちはだかるのは悪役のマリアと、その武器であるグロテスクな血の球。これでヘキサがカッコいいセリフを言ったら、出来の悪い芝居みたいだ。私が王子様の助けを待つお姫様なんて、ミスキャストにも程がある。

「性格の捻くれた女王様に言われたかねえな! お前、いったい何やってんだ?
 兄貴からジュリアを迎えに行けって言われてんだろ?」

 ヘキサの叫び声が、私の動きと思考を止めた。
 お兄ちゃんが・・・・・・私を迎えに行け・・・・・・?

「ヘキサ! お兄ちゃんが私をって! 迎えに、私をって!
 お兄ちゃん! えっと・・・・・・どういうことだよ!」

 しどろもどろになった私の声に、ヘキサは少しだけ振り返った。ちらりと見えた横顔には、私を小バカにするような笑みが浮かんでいた。

「簡単なことだろ。
 ジュリアが帰ってくるのを、あの兄貴は待ってるってことさ」

 得意そうにヘキサが語る。きっと私は、ぽかんと口を開けていたんだろう。身体中から力が抜け、吊り上げられている両腕が伸びて痛い。
 私の頭にお兄ちゃんの優しい笑顔が浮かぶ。私の頬に、お兄ちゃんの触れた手の柔らかさが蘇る。私の腕に、抱きしめたお兄ちゃんの小さな身体の感覚が戻ってくる。
 ぜんぶ失くしたと思った。失くしたものは、私が生きていくのにどうしても必要だって分かったから、どれだけかかっても取り戻そうって決めた。

 でも、ヘキサの話が本当なら、私は何も失っていない。
 すべては元通りで、私は私の望むすべてを手に入れたままだった。

 これはすごい奇跡かもしれない。
 天使になれたのと同じくらい、嬉しくて、優しい奇跡。

 脳みそが溶けてるんじゃないかってぐらい、後から後から涙が溢れ出してきた。気がつけば、私は赤ちゃんみたいに、大きな声で泣いていた。嬉しくて泣いちゃうのは最高に気持ちがいい。


「わっかんないなあ・・・・・・」


 小さな声だった。けど、私にはマリアの呟く声がはっきりと聞こえた。

「おいおいおい・・・・・・なんなんだ、ありゃあ?」

 続けて聞こえたヘキサの声で我に返ると、血の球がその表面を醜悪なニキビ面へと変えていく光景が目に飛び込んできた。

「ヘキサ! 逃げろ! 触手が来る!」

 私の叫び声と同時に、血の球から無数の触手が放出された。マリアを中心として広がる触手は、その先端を彼岸花のようにヘキサへと伸ばしてくる。周りを囲まれたヘキサは逃げることもできず、あっという間に捕まって、グルグル巻きにされてしまった。マリアがつまらなそうに右手を振ると、触手はヘキサを強く締め上げた。

「グァァァァァァァ!」

「弱ぁ・・・・・・。こんなくだらない奴のせいで、何もかも台無しか・・・・・・」

 マリアはいつもと違っていた。ヘキサをいたぶっているのに、喜びの欠片も感じない。私の知っているマリアは、冷静に誰かを苦しめたりはしない。アイスの棒をいつまでも舐め続けるみたいに、意地汚く興奮をしゃぶり尽くす。

「マリア! ヘキサは関係ねぇだろ! 手ぇ出すな!」

 私はヘキサが殺されるかもしれないと感じた。それは自分が殺されるより恐ろしい。
 マリアが私に向き直る。その顔は見たことがないくらい淋しそうだった。

「ねぇ、ジュリア・・・・・・。お兄ちゃんはさ、本当の姿に生まれ変わって、いろんなことが出来るようになったんだよ。逃げ出したアンタを、神様みたいに見守ったりね。
 さっき言ったじゃない? アンタのことを見てたって。
 あれはお兄ちゃんの力。きっと、いまもアタシたちを見てる」

 ヘキサは既に気を失っているらしく、唯一、触手に巻きつかれていない頭部が、がくんと下を向いていた。月光が作り出す触手の影に包まれたマリアは、薄暗がりの中で焦点の定まらない瞳を輝かせている。マリアが着ている筈の滑稽なドレスは、黒い影のせいで死神のローブのように見えた。

「ねぇ・・・・・・羽が生える時って痛かった?」

「はぁ・・・・・・?」

「アタシはさぁ、すごく痛かったよ。天使になるための儀式だからって、コイツとキスさせられてさ、気が狂うくらい痛くて、床に転がって暴れ回ってたの。
 でもね、お兄ちゃんもコイツも、アタシのことなんて気にもせずに、アンタを見てた。アタシは、助けて! って叫ぼうとするんだけど、どうしても声が出ないの。お兄ちゃんの背中に手を伸ばしても届かなくて、求めれば求めるほど、どんどん背中が遠くなる。
 アタシは冷たくて堅いコンクリの床で気を失って、目が覚めても、お兄ちゃんはまだアンタを見てた。アタシにだってアンタと同じ羽が生えたのにね」

(・・・・・・ジュリア・・・・・・聞こえるか・・・・・・ジュリア)

 マリアの告白に心を奪われていた私の頭にヘキサの声が響いた。思わず目を向けたけど、ヘキサはピクリとも動いていなかった。
 目を逸らした私に気付いて、マリアはいつもの笑みを浮かべた。たった今まで確かにあった淋しさや弱さは、マリアの顔からきれいに消え去っていた。

「その出来損ないが心配? やっぱりカス同士、通じ合うものがあるのかもね。
 人間に負けちゃうひ弱な天使と、何ひとつ私に勝てないダメダメなジュリア。
 お似合いよ、とっても」

(・・・・・・俺の声が聞こえていることを悟られるな)

 ヘキサの声は私にだけ聞こえているようだ。私はマリアに視線を戻した。

「ねぇ、ジュリア。アンタの顔も、アンタの身体も、ぜんぶアタシのものよ。いつも言ってるわよね。アンタはアタシの劣化コピーだって。どんなに頑張っても、出来損ないは出来損ないなの。生まれてきたことが間違いなんだから、さっさと世界から消えちゃえばよかったのよ。

 ・・・・・・なのに、お兄ちゃんは勘違いしてる。

 綺麗だった頃のアタシと、いまのアンタが同じものだと思ってる。
 アンタなんてアタシとぜんぜん違うのに!
 アタシの方がずっと綺麗なのに!

 ジュリアなんて、何も知らないだけなのに!!」

 伸びた触手のせいで、マリアの姿が見えなくなっている。まるで触手の檻に閉じ込められているみたいだ。誰の目にも届かない所で、マリアは喚き散らし、壊れていく。
 誰に知られることもなく・・・・・・。

(・・・・・・目を閉じるんだ、ジュリア。お前にも手に入れる武器がある)

 黙れ! ヘキサ! お前となんか話してない!
 私はマリアと話してるんだ! いま、マリアはすごく大事な話をしてるんだ!

(おい! お前までおかしくなっちまったのか! このままだと、俺もお前も殺されるぞ!)


「黙れ! バカヤロウ! そんなこと関係ねぇんだよ!!」


 空気が凍った。

 湿気に溢れたクソ暑い夏の夜なのに。
 空には雲ひとつなく、白い傘に包まれた三日月が輝いているというのに。

 波の音が静かに空間を満たしているようだった。
 こんなに高いところまで聞こえる筈がないのに。


 伸びたチーズが千切れるように、マリアを包む触手が開いていく。規則性を持たずに開いた隙間から、何ひとつ変わらない、私が知っているままのマリアが姿を見せた。

 たぶん、私はまた間違えた。どう言い繕ったとしても、きっとマリアには届かない。
 マリアなんて大嫌いだけど、でも・・・・・・もう少しだけ、マリアの話を聞いていたかった。
 私の知らないマリアと、もう少しだけ向かい合っていたかった。


「・・・・・・カス相手に喋りすぎたみたいね。
 ・・・・・・そうだ。アタシ、いいこと思いついちゃった」

「ガァァァァァァァ!!」

 骨の折れる音がして、またヘキサが叫び声を上げる。

「目が覚めた? アンタは出来損ないの役立たずだけど、アタシを天使にしてくれたから、お礼にいいもの見せてあげる」

 ミノムシのようなヘキサがくるりと向きを変えて、私と向かい合う格好になった。ヘキサは顔を背けて、私から目を逸らす。

「ダメよぉ、恥ずかしがっちゃあ」

 ヘキサの頭に触手が伸び、私を正面から見る角度で顔が固定される。触手はヘキサの目にも伸びて、閉じた瞼を無理矢理にこじ開けた。

「ほら、ジュリアももっとサービスしないとね」

 背中の壁から私の膝に触手が伸び、閉じていた膝が大きく外側に開かれた。見開かれたヘキサの目は、いちばん見られたくない場所に真っ直ぐ向けられている。

「やだ! 見ないで!」

 私はがっちり固定されている身体をばたつかせたけど、生暖かい血のソファーの上に乗ったお尻を、くるくる滑らせるくらいしか動くことができなかった。

「キャハハハハハッ!! その動きエロいよ!!
 ジュリアを見て、コイツのもすっごく固くなってるよ!
 キャハハハハハハハハハハハ!!」

 マリアの言葉に、思わずヘキサを睨みつける。

「し、しょうがねぇだろ! こういうのは、どうしようもねぇんだよ!」

「うるさい! バカ! 黙ってろ! バカ!」

「・・・・・・ほほえましいわねぇ。
 でも、おままごとの時間は、もう終わりよ」

 グルグル巻きになっているヘキサの股間あたりに触手が集まり、さっき私の中へ入ろうとしたのと同じものが形作られていく。私の身体が、また小さく震え出した。

「ヘキサとか言ったっけ? ごめんね、生でやらせてあげられなくて。
 だって、あんまり小っちゃいと面白くないんだもん」

(ジュリア! 目、閉じろ! 早くしろ! 早く!)

 選択肢はなかった。私はヘキサの言うとおり、きゅっと目を閉じた。

「お兄ちゃん! 見てるんでしょ!
 ジュリアなんて、ぜんぜん綺麗じゃないって気付いて!

 お兄ちゃんに相応しいのはアタシ!
 どんなに汚されても誇りを失わない、お兄ちゃんと同じ心を持っているのはアタシ!

 これから証明するからね! ジュリアがどんなに醜い生き物かを!」

(何も聞くな! 何も考えるな! ただ自分の心だけを見るんだ!)

 私は真っ暗になった自分の心に集中する。
 世界と私との境目が消えていき、私が世界になって、世界が私になる。

 ・・・・・・そうだ、この感覚は知っている。
 エイにやられて意識を失った時、私は世界に溶け込んでいた。
 それに、羽が生える時の激痛の中で、私は空っぽの世界と触れ合っていた。

 ここじゃない世界は、すぐそばにある。
 どこにもないのに、どこにでもある場所。

 私は真っ暗な世界の中でふわふわと浮かんでいた。

 目の前に銀色の光がぼうっと現れる。
 柔らかな光はぐにゃぐにゃと動き、短い棒状になって、ほんの少し手を伸ばせば触れることができそうなくらい、私に近づいてきた。


「それを掴め!! ジュリア!!」


 私はヘキサの声に目を開いた。

 巨大なエリンギを股間にくっつけた間抜けなヘキサの姿と、恥ずかしいドレスを月光に晒しているマリア。状況は何も変わっていないように思えた。
 けれどヘキサは笑っている。それに対して、マリアは目を血走らせて怒りに震えている。

 戸惑う私に向かって、ヘキサが叫んだ。

「ジュリア! その右手に掴んでいるのは何だ? 言ってみろよ!」

 右手? 確かに血の壁に埋まった右手が、何かを握っている感覚がある。そちらを見ることはできないけど、私は何を握っているのか知っている。チアリーディングのバトンのような銀色に輝く棒。

 この棒の名前は・・・・・・


「・・・・・・変幻自在」


「それがジュリアに与えられた力だ! 使い方も分かってるだろう!」


 知ってる。私はこの『変幻自在』の力を知っている。


「ああ! もう! どいつもこいつも、ジュリア! ジュリア! ジュリア!
 何にも知らないガキが、そんなに好きかよ!!

 みんな死んじまえよ!! 糞ロリコン野郎ども!!
 ジュリアなんて、メチャクチャに壊れちまええぇぇぇぇぇ!!!」


 マリアが血管の繋がった右手で大きく弧を描いた。


「伸びろ!! 変幻自在!!」


 私の後ろから大きな風船の弾ける音がした。変幻自在はあのエイでも破れなかった血の壁を貫き、銀色の輝きを放ちながらぐんぐん伸びて、マリアの作り出した血管のうねりへと襲い掛かる。

「そんな簡単に切らせないよ! アタシのブラッディ・オーシャンを舐めるな!」

 マリアは右手の指輪に繋がる血管を操り、変幻自在が叩き切ろうとした部分を膨らませて、衝撃を受け止めた。大きく歪んだ血管は、そのまま変幻自在を包み込む。

「如意棒なんて、おサルさんにはぴったりの武器ね!
 でも伸びるだけの棒なんて、アタシには通用しないよ! バーカ!!」

「伸びるだけ? マリアこそ私の変幻自在を舐めてんじゃねえ!
 弾けろぉ!! 変幻自在!!」

 私は変幻自在の先端部分を、巨大なウニのように変化させた。全方位に向けて鋭く突き出された棘が、ぶよぶよの血管を突き抜ける。

「これでおしまいだ!! そのまま回れええええぇぇぇぇ!!」

 変幻自在は、私の命令に忠実に従い、先端部分を高速で回転させ、細切れになった血管をあたりに撒き散らしていく。変幻自在が断ち切ったのは、マリアから近い、大動脈とも言える部分だ。私を拘束していた血の壁も、ヘキサを捕らえていた触手も、エイの浮かんだ血の球も、すべてがマリアから切り離された。

「駄目ぇっ!! ブラッディ・オーシャンが!
 私のブラッディ・オーシャンが壊れちゃう!!」

 私の手が、私の足が、そして私の羽が、縛り付けられていた血の壁からふいに自由になる。次の瞬間、背後の血の壁がバシャンと大きな音を立てて破裂した。血の球も、触手も、マリアの作り出したものすべては形を保てずに弾け、あたり一帯に滝のような血の雨を降らせた。
 マリアも、ヘキサも、血の雨に呑み込まれて私からは見えなくなる。血の球から開放され、息を吹き返したエイは、真っ赤に染まった世界を切り裂いて、飛び去っていった。

 轟音とともに大量の血液がすべて海に還っていき、後には血まみれの私たちだけが残った。真っ白だったドレスを血に染めたマリアは、叱られることがわかっている子供のように震え、青ざめていた。

 頬を伝う温かな血を舌ですくい取ると、口の中に鉄の味が広がる。
 同じ遺伝子を持っていても、マリアの血は私の血じゃない。

 私は舐め取ったマリアの血をごくりと飲み込んだ。
21, 20

蝉丸 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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