第5幕 今日の日はさようなら
第5幕 今日の日はさようなら
1
縦横無尽に広がった『変幻自在』は三日月の光を反射させて、薄暗い空間に銀色の輝きを散りばめている。降りそそいだ血が滴っている部分は赤く滲んでいて、安物のルビーで飾られているみたいだった。
「もういいよ、変幻自在」
そう呟くと、巨大な弧を描いていた変幻自在は、銀色の軌跡を闇に刻みつけながら、掃除機に吸い込まれるコードのように、しゅるしゅると私の手元へと戻ってくる。最初に掴んだ時よりも、さらに縮んだ変幻自在は、ブレスレットにちょうどいい大きさになって、私の左手首にくるりと巻きついた。
余計なものが視界から消え去ると、マリアはいっそうちっぽけに見えた。私を睨む目には力がこもっているけど、顔にはまるで血の気が無く、全身が陶器のように青光りしている。きっといま、マリアは寒くて寒くて仕方がないだろう。大量に出血するとあんな感じになるんだ。
右手の指輪から中途半端な長さで垂れ下がっている血管は、死にかけのミミズみたいにぴくぴくと動いているけど、何かに変化する様子はない。どうやらマリアの力は準備に時間がかかるようだ。小さな身体に必要な血液を作りだすのもままならないなら、あれほど巨大な血の球を作り出すには相当の時間がかかったんだろう。私やエイを待ち伏せている間、せっせと血の球を作っていたマリアを想像すると笑えた。
私は無力で惨めなマリアに近づいていく。
マリアは震える拳を握りしめて、私に憎しみで染まった視線をぶつけてきた。
ごめんね、マリア。
きっと、その瞳には尊厳をかけた意地があるんだよね。
でも、私は虫けらを潰すみたいに、その意地を簡単に叩き割るよ。
だってこれは、けじめだから。
私はマリアの顔面に拳を叩き込んだ。骨の砕ける音が低く響き、何本もの歯が口から吐き出される。マリアは陥没したくしゃくしゃの顔を私に晒したまま遠ざかり、緩やかに海へと落ちていく。私は川を流れるゴミをぼんやりと眺めるような気持ちで、意識の消えたからっぽのマリアを見つめていた。
ヘキサは私から少し距離を置いて、黙って待ってくれていた。頼りないヘキサだけど、こういうところは大人の男なんだなって思う。
「……ヘキサ。私、お兄ちゃんのところへ戻るよ」
「……ああ」
「お兄ちゃん、怒ってる?」
「怒ってる……というよりは、荒れてたな。戻ったら驚くと思うぜ。とばっちりで何人死んだか想像もつかない」
「なにそれ?」
「戻ればわかるさ」
ヘキサは吐き捨てるように言った。意味がわからないけど、話したくなさそうなヘキサを問い詰めてまで聞き出すほどの興味はない。戻ればわかるというなら、それでよかった。
私は背中の羽を思い切り広げた。羽に染み込んでいた血が振り払われる。何だか力の限りに飛びたい気分になっていた。
「ヘキサ、マリアをお願い」
「ん? ああ、それは構わないが、ジュリアはどうするんだ?」
「私はあのエイを仕留めてくる。きっとあいつはお兄ちゃんを狙ってるだろうから」
私の言葉にヘキサが驚いた顔をする。その反応が意外で、私はヘキサに問いかけた。
「なに?」
「いや、よくアレの性質に気付いたと思ってな」
「ヘキサ、あのエイが何なのか知ってるの?」
「ああ。アレは天使の力に反応して襲ってくる生物兵器だ。通称『イディアット』。悪魔が天使を狩る時に利用されていたと聞いている。俺の調べた限り、この世界でアレが現れたっていう記録は残ってないがな」
「生物兵器? 悪魔?」
私は馬鹿みたいに聞き返していた。考えてみれば、私はいまの状況について何も知らない。与えられた力を使って空を駆け、襲われたから、挑まれたから戦っていただけだ。
私やお兄ちゃん、それにマリアが天使の力を使えること。ヘキサが自分のことを『解き放つ者』だと言っていたこと。あのエイのこと。そして、たったいま聞いた悪魔のこと。疑問は次々に浮かんできた。
「いろいろ聞きたいって顔してるな」
「あたりまえだろ! 私だけ何にも知らないじゃないか!」
ヘキサのニヤついた顔に苛ついて怒鳴りつけると、途端にヘキサは私を咎めるような目つきになった。
「何だよ! その目は!」
「ひとつだけ言わせてもらうぞ、ジュリア。話をする前に飛び出しちまったのはお前だ」
返す言葉が無かった。
「……まあ、後でなんでも答えてやるよ。ジュリアがアレを始末して、俺がマリアを拾っていく。お前らの兄貴のところへ全員が集まって、そうだな……もうあの店じゃ話もできないだろうから、どこかに場所を変えて、夕飯を食って、昼に飲み損ねたコーヒーでも飲みながら、のんびり話そうぜ。ジュリアの武勇伝も含めてな」
お兄ちゃんと一緒にご飯を食べる。
ああ、そうか……。そんな幸せな生活を私はしていたんだ。
そして、これからもその幸せは続いていくんだ。
きっとこれからは、今までとは違う日々が始まる。
でも、お兄ちゃんがいて、私がいて、マリアがいる。
いろんなことが変わっても、きっとそれは変わらない。
「……そうだね、それがいいね」
「なんだよ、にやにやしやがって。気持ちわりぃな、おい」
面倒くさいことがいろいろありそうだけど、いままでよりずっと幸せになれそうな気がした。細かいことは後回しだ。私はヤツを片付ける。そして、みんなでご飯を食べる。全部それからでいいよね?
私はヘキサに顔を向けたまま、お兄ちゃんを感じる方向に身体を向けた。
「じゃあ、私はあのエイを片付けてくる。ヘキサも、もたもたして遅くなんなよ」
「変幻自在を持ったジュリアなら楽勝だろうが……油断はすんなよ」
「わかってる、同じ失敗は2度しない」
「そうか。じゃあ、後でな」
「うん」
私は進むべき方向に顔を向け、再び羽を広げた。
「ジュリア!」
「なんだよ! まだ何かあんのか!」
羽ばたこうとした時に呼び止められて、舌打ちしながら振り返ると、ヘキサは意外に真剣な顔をしていて、躊躇いがちに言葉を繋いだ。
「……なぁ、お前とマリアは憎み合ってんのか……?」
ヘキサに少し失望した。せっかくいい気分になっていたのに、わざわざ呼び止めて、聞くのはそんなくだらないことか。私は思いっきり蔑んだ視線をヘキサに向けた。
「憎んでるし、嫌いだよ。でも、大事なんだよ。
私にはお兄ちゃんとマリアしかいなかった。それだけ言えばわかるだろ」
「だったら、なんでお前らはあそこまで戦うんだ。俺にはわからねぇ……」
ああ、コイツやっぱりバカなんだ。
理屈が大事なバカなんだ。
「そんなの簡単だろ」
私は高く舞い上がってヘキサを見下ろした。これ以上、バカに付き合う気はない。
「マリアが喧嘩を売ってくるからだよ」
きょとんとしたヘキサにニヤリと笑いかけて、私はお兄ちゃんに向かって飛び始めた。
もう、お兄ちゃんはすぐそばにいる。そう思うと、心が弾んだ。
ヘキサのきょとんとした間抜け面がふっと頭に浮かぶ。
私はおかしくてたまらなくなり、ゲラゲラ笑いながら風を切っていた。
2
闇に浮かぶ陸の光は、夜空の星を強欲ジジィがかき集めたみたいにぐちゃぐちゃだ。けれど私はその品のない光にどうしようもなく吸い寄せられてしまう。炎に飛びこむ蛾みたいで嫌だなって思うけど、抗おうなんて気持ちはこれっぽっちもわいてこない。
だって、あの光のなかにはお兄ちゃんがいるから。
あそこには私がいるべき場所があるんだから。
ゴミのような人間たちがホタルのように放つはかない光の群れをを見下ろして、私はお兄ちゃんの元へと夜空をすべる。そして私はお兄ちゃんの待つあのビルにたどりつく。
そう、これはあのビルだ。
あのビルのはずなんだ。
私は鉄骨だけになってしまったビルを見下ろしていた。
地上には赤い光があふれ、けたたましいサイレンが鳴り響いている。
屍になったビルの屋上。
お兄ちゃんはそこに立って冷たい三日月を見上げていた。