スペルズアリス
第四部「スペルズアリス」
古く色褪せた大窓から見える雲は黒く濁り大粒の涙を地面に打ち付けていた。
どうにもならない苛立ちを表すのは固く握られた手。アリスの部屋にはユウトの重たい沈黙が漂い、スーシィの責めたてるように強い眼差しとルーシェの脅えた姿があった。
「人間をやめる? 冗談でしょ」
乾いた笑いは一瞬。アリスの瞳は濡れていた。
「冗談でこんな変なこと言わないよ。けど、アリスの体を維持するならそれしかない」
ルーシェの説得も虚しい沈黙を生む。アリスの表情からはほんの些細な逡巡と憤激を抑え殺しているのを見て取れた。
「あのね、ルーシェ。あんたは竜族だからわからないの? 生かすために人の体を造り替えるだなんてそんな、そんなことが、許されると思っているわけ?」
溢れる双眸の雫は留まらない。ただ、声だけ気丈で顔からはひたすら流れ続ける。
その言葉にルーシェもまた悲痛な面持ちで声にならない声を上げて押し黙った。
スーシィがアリスに歩み寄ってそれを拭うとようやく自分が泣いていることに気がついたようだった。
「確かにそれは殺しているのと何ら変わりはないわアリス。けれど、あなたにもわかるでしょう? これ以外生き残る道は残されてはいないの」
アリスがついに激昂し、スーシィを突き飛ばす。
「ふざけないで! そんなひどい方法でしか生き残れないなんて知りたくもなかったわよッ。みんなで寄ってたかって私をいじめて楽しいの? 出て行って!」
手当たり次第にアリスは部屋の物を当てつける。ユウトがすかさずアリスの前に出ると上目遣いでアリスは睨め付けてきた。
「あによぉ……んたもそう思ってるの? 私が人間をやめればいいって。それでその後奇蹟でも何でも起きて私が治って、その後も人間をやめ続けろってそう言うの?」
スーシィとルーシェは静かに部屋を後にする。説得できるような状態ではないし、これ以上続けてもアリスの神経を逆撫ですると感じていた。
アリスは顔を伏せてスカートを引き裂く勢いのうちに掴んだ。
「私が人間をやめるっていうことはメイジもやめるっていうことなのに、みんな、平気な顔してた……」
そっと寄り添うユウトはただ自分の不甲斐なさを呪いながらアリスの背を撫でた。
「結局私はあんたをただ巻き込んだだけになったのね……ごめんなさい……」
何も言わずユウトはただアリスと同じ視線の先を見る。アリスはそこに何かを探すように目を細めていたが、そこには何もない。ただあるのは小窓の奥に映る朱く綺麗な夕日空。2人の主従の関係が終わりを告げるかのようにゆっくりと帳を下ろしていった。
ユウトは昨日の夜を思い出す。ただアリスに自分の世界の話をまた聞かせていただけだったが、アリスの表情は落ち込んだままだった。
ユウトはどこからか現れたルーシェに廊下で出会うと示し合わせたようにお互い視線を逸らす。
「ユウト、昨日は…………」
「ああ、アリスなら大丈夫だよ。でもしばらくはもうあの話はしないほうがいいかもしれない……」
ルーシェは目を伏せて謝った。言い方が悪かったんだとルーシェは落ち込みながら頭を下げる。ルーシェもアリスの言葉で傷ついているのにユウトはついにそれをルーシェに言うことはなかった。
しばらく生徒の喧騒に耳を傾けながら廊下を行く。途中ふと気になることがあったユウトはルーシェに聞いてみることにした。
「ルー、人間をやめるって具体的にはどうするんだ?」
「北の最果てにある吸血鬼の怪物に血を吸わせればいいの」
「石化魔法っていうのは?」
「流石、竜族ね」
スーシィは1人納得したように頷いてユウトの後ろから追い抜き先頭に並ぶ。いつからという愚問にスーシィはただ2人の間に入れなかっただけと濁す。
「研究所に行きましょう。アリスはまだ生きられる可能性があるわ」
スーシィのマントがひらひらと揺れるその背中を見ながらユウトたちは廊下を進んでいく。なぜかその背中が儚く見えてユウトは暗い気持ちになっていった。
「ルーシェ、確認したいのだけれど石化魔法はあなたが行使する魔法ではないのね?」
「うんそうだよ」
スーシィはほっとした様子で研究所の扉を開く。軽い音が虚空に広がった。
「最古の竜族が神話の石化魔法を持つのかと思ったわ。はいこれ」
ユウトは渡された本に書かれたタイトルを読み上げる。
「ヴァンパイア伝説? ちょっと待ってくれ、怪物ってこれか?」
「ええ、ただしそういうのが北の最果てにいるわけではないわ。ヴァンパイアは今では儀式を差す名称でしかないの。でもルーシェはこの怪物そのものを言ってる」
「つまり、ヴァンパイアという儀式を行って何か恐ろしい怪物を呼び出すのか?」
「そういうことね。血を吸われて結果的に石化するのがアリスになる、そういうことなのよね?」
「うん、人間は酸素の足りない場所ではマナを吸い込んで息をするのと同じで、血液が無くなっても少しだけマナで補おうとするの。だからって生きられることはないんだけど、そこに吸血鬼は自分のマナを流し込むんだよ」
「それで石化するってわけね」
「どうしてそんなこと……」
「神話時代に竜族の間では割とポピュラーだったとか? ルーシェが知っているっていうことは竜族が自らの遺伝子に刻んだということでしょうし」
「私のお母さんはこの方法は人間には禁忌だから教えないようにって言ってたけど、アリスの体内にある魔法はもう禁忌だから言ってもいいと思ったんだ」
スーシィは興味深く頷くと戸棚の中から小瓶を幾つも机に並べ始めた。
「竜族が人間に禁忌としている事なんて、もはや災害の域なのでしょうね。手順はわからないけれど、その儀式にどれくらいのマナが必要なの?」
ルーシェは小瓶を見てマナの蓄積量を見ていた。沈黙に耐えかねてユウトが尋ねる。
「この小瓶はアリスの暴走を起こしたときにも似たようなのがあったけど、今並べてるのは何なんだ?」
「純粋なマナよ。指向性は持たせてあるけど、還元は容易よ。さっきも話したけど、体内マナって言うのは日々回復するでしょ。私は毎日の回復量の余剰分をこうやって溜め置いてるのよ」
ユウトはその数に圧倒される。机には乗りきらない小瓶はまだまだ戸棚に沢山あった。
「スーシィ、この小瓶1つにどれくらいのマナが入ってるんだ?」
「昨日見た小さい先生の噴水が1とするならこの小瓶1つで1000かしら」
「1000?」
ユウトはそれを想像して軽く身震いした。
「そんなに凄くもないわ、こういうことをしても優れたスペルの前では敵わないのだから」
「スペルか……」
ユウトはあの夜を思い出す。相手は呪文によって生み出された人形だったが、魔法を持たないユウトは苦戦した。それどころか、アリスを守りながらではユウトには勝てない相手だったかも知れない。
「ルーシェ、そのヴァンパイアの儀式が竜族と人間とで別々に継承されてきたのはわかったけど、そもそもその儀式がどうして受け継がれているのかは人間と同じ理由なの?」
ルーシェはスーシィに穏やかな微笑を向けた。
「ううん、寿命を延ばすためという意味では一緒かな」
「なぜ? 竜族は種として見ても寿命は数百年を超えてるでしょう?」
「私たちは同じ竜族でも人間に擬態するから百年余りしか生きられないの。歳を取るごとにマナの蓄積が重くなって放出よりもその溜め置きに問題が出てくる。人間と意図するところは違うけれど、単純にマナを差し出すと苦痛が少なくなるから子孫を残せないときは利用するように決められてるよ」
スーシィは手元にペンを走らせて何かを記し始める。
「ありがとう、その話は人間にとってとても参考になったわ」
「ルーシェはどうしてそんなことを知ってるんだ?」
「生まれた時から竜族は親の知識を受け継ぐんだよ。人間は何も持たずに生まれるけど、私たちは生物の枠から少しだけ外れた生き物だから」
ルーシェはユウトの驚きに哀しそうな表情を浮かべた。
「何を驚いてるの、そうは言ってもルーシェはルーシェでしかないわ。遺伝子は受け継がれていくわけだし、そこまで外れているわけでもないわよ」
「そうなのかな」
「そうよ、どう見ても人間と変わらないわね」
どこか嬉しそうなルーシェにアリスのことを思い出してユウトはほっと胸をなで下ろす。
「ユウトもそう思うでしょ」
「ああ、ルーシェは可愛い女の子だよ」
ルーシェは顔を上気させて俯く。つい弾みで答えたユウトは一瞬目を白黒して言葉を間違ったかもしれないと思った。
「言うようになってきたわね」スーシィは怪しい微笑でユウトを見ていた。
「それじゃ、ルーシェ。この色男のために答えて貰うわよ、まずヴァンパイアの儀式は人間にとってはただのまやかし半分の儀式でしかない。でもこれからやるのは本物の代償を必要とする儀式になる。結論から聞きたいのだけれど、アリスはその代償として捧げて石化させるのよね?」
「うん、石化っていっても本当の石化ではなくて人間の場合は時間の流れを完全に止める魔法神秘で固定されてしまうの」
「それ、解除されるの?」
「ヴァンパイアが多分、教えてくれると思う……」
「……ヴァンパイアが?」
「うん」
スーシィは腰を抜かしたように後ろ手に下がった。慌ててユウトが躓くスーシィを支える。
「待って、待ちなさい。人間の伝承ではヴァンパイアは本物の怪物よ? 交渉なんて出来ると思えない。ヴァンパイアが暴れたせいで人類は滅びかけた……そういう伝承があるくらいなのよ」
「私の知識もそんな感じだよ。けど、そろそろ封印を解かないと可哀想っていう思いもみんな持ってる」
「可哀想ですって?」スーシィは呆れた顔をしてこめかみにこんと手を置いた。
「やろう、もしヴァンパイアがその行為をしそうになったら戦えばいい」
「ユウト、待ちなさい。これは下手をすればこの世界の問題にもなりかねないわ。戦うと言ってもその力は未知数よ」
「フラム園長の3人分くらいだと思うよ」
平然と言い切るルーシェに今度はユウトが呆然と立ち尽くす。
「そんなの勝てっこないな……」
「少し他の案を探しましょう」
ユウトは研究所から出てアリスのところへ脚を進めた。赤い絨毯の先で生徒の集団が待ち構えている。
「お前、確か使い魔だったよな」
「ああ」
不穏な空気にユウトは訝しげな視線を送った。奇妙な笑いが生徒の間に走る。
「俺たちの使い魔が最近運動不足でな、模擬戦をしてくれると助かるんだ。どうだ?」
時折ユウトの実力を試そうとして来るメイジは何人かいたが、それでもここまで悪意を感じさせるメイジはユウトも初めて会った。
「俺は今気分が悪いんだ。また今度にしてくれないか」
ユウトより体格の良い生徒は角張った顔でにたりと笑う。
「俺たちに今度はないんだ」
肩に置かれた太い指先がユウトの肉に食い込む。振り返ったユウトは睨みを利かすが男達は怯まない。
「手を退けてくれないか」
「退けてくれないか、だってよ」
笑い出す男たち。ユウトはそれが5人いることを確認した。
一瞬の閃光、そこにオレンジの光が走ると男たちは後ろへたたらを踏んだ。
「な、なんだ?」
突如現れた水色の瞳はリリアだった。それを見た男達は下半身が涼しいことに気がつく。
「うわあああ――」
ズボンは綺麗に切断され、隠さなければならないものが全て陳列していた。
「私は短気だ。次はそこに生えてるものが落ちる」
古く色褪せた大窓から見える雲は黒く濁り大粒の涙を地面に打ち付けていた。
どうにもならない苛立ちを表すのは固く握られた手。アリスの部屋にはユウトの重たい沈黙が漂い、スーシィの責めたてるように強い眼差しとルーシェの脅えた姿があった。
「人間をやめる? 冗談でしょ」
乾いた笑いは一瞬。アリスの瞳は濡れていた。
「冗談でこんな変なこと言わないよ。けど、アリスの体を維持するならそれしかない」
ルーシェの説得も虚しい沈黙を生む。アリスの表情からはほんの些細な逡巡と憤激を抑え殺しているのを見て取れた。
「あのね、ルーシェ。あんたは竜族だからわからないの? 生かすために人の体を造り替えるだなんてそんな、そんなことが、許されると思っているわけ?」
溢れる双眸の雫は留まらない。ただ、声だけ気丈で顔からはひたすら流れ続ける。
その言葉にルーシェもまた悲痛な面持ちで声にならない声を上げて押し黙った。
スーシィがアリスに歩み寄ってそれを拭うとようやく自分が泣いていることに気がついたようだった。
「確かにそれは殺しているのと何ら変わりはないわアリス。けれど、あなたにもわかるでしょう? これ以外生き残る道は残されてはいないの」
アリスがついに激昂し、スーシィを突き飛ばす。
「ふざけないで! そんなひどい方法でしか生き残れないなんて知りたくもなかったわよッ。みんなで寄ってたかって私をいじめて楽しいの? 出て行って!」
手当たり次第にアリスは部屋の物を当てつける。ユウトがすかさずアリスの前に出ると上目遣いでアリスは睨め付けてきた。
「あによぉ……んたもそう思ってるの? 私が人間をやめればいいって。それでその後奇蹟でも何でも起きて私が治って、その後も人間をやめ続けろってそう言うの?」
スーシィとルーシェは静かに部屋を後にする。説得できるような状態ではないし、これ以上続けてもアリスの神経を逆撫ですると感じていた。
アリスは顔を伏せてスカートを引き裂く勢いのうちに掴んだ。
「私が人間をやめるっていうことはメイジもやめるっていうことなのに、みんな、平気な顔してた……」
そっと寄り添うユウトはただ自分の不甲斐なさを呪いながらアリスの背を撫でた。
「結局私はあんたをただ巻き込んだだけになったのね……ごめんなさい……」
何も言わずユウトはただアリスと同じ視線の先を見る。アリスはそこに何かを探すように目を細めていたが、そこには何もない。ただあるのは小窓の奥に映る朱く綺麗な夕日空。2人の主従の関係が終わりを告げるかのようにゆっくりと帳を下ろしていった。
ユウトは昨日の夜を思い出す。ただアリスに自分の世界の話をまた聞かせていただけだったが、アリスの表情は落ち込んだままだった。
ユウトはどこからか現れたルーシェに廊下で出会うと示し合わせたようにお互い視線を逸らす。
「ユウト、昨日は…………」
「ああ、アリスなら大丈夫だよ。でもしばらくはもうあの話はしないほうがいいかもしれない……」
ルーシェは目を伏せて謝った。言い方が悪かったんだとルーシェは落ち込みながら頭を下げる。ルーシェもアリスの言葉で傷ついているのにユウトはついにそれをルーシェに言うことはなかった。
しばらく生徒の喧騒に耳を傾けながら廊下を行く。途中ふと気になることがあったユウトはルーシェに聞いてみることにした。
「ルー、人間をやめるって具体的にはどうするんだ?」
「北の最果てにある吸血鬼の怪物に血を吸わせればいいの」
「石化魔法っていうのは?」
「流石、竜族ね」
スーシィは1人納得したように頷いてユウトの後ろから追い抜き先頭に並ぶ。いつからという愚問にスーシィはただ2人の間に入れなかっただけと濁す。
「研究所に行きましょう。アリスはまだ生きられる可能性があるわ」
スーシィのマントがひらひらと揺れるその背中を見ながらユウトたちは廊下を進んでいく。なぜかその背中が儚く見えてユウトは暗い気持ちになっていった。
「ルーシェ、確認したいのだけれど石化魔法はあなたが行使する魔法ではないのね?」
「うんそうだよ」
スーシィはほっとした様子で研究所の扉を開く。軽い音が虚空に広がった。
「最古の竜族が神話の石化魔法を持つのかと思ったわ。はいこれ」
ユウトは渡された本に書かれたタイトルを読み上げる。
「ヴァンパイア伝説? ちょっと待ってくれ、怪物ってこれか?」
「ええ、ただしそういうのが北の最果てにいるわけではないわ。ヴァンパイアは今では儀式を差す名称でしかないの。でもルーシェはこの怪物そのものを言ってる」
「つまり、ヴァンパイアという儀式を行って何か恐ろしい怪物を呼び出すのか?」
「そういうことね。血を吸われて結果的に石化するのがアリスになる、そういうことなのよね?」
「うん、人間は酸素の足りない場所ではマナを吸い込んで息をするのと同じで、血液が無くなっても少しだけマナで補おうとするの。だからって生きられることはないんだけど、そこに吸血鬼は自分のマナを流し込むんだよ」
「それで石化するってわけね」
「どうしてそんなこと……」
「神話時代に竜族の間では割とポピュラーだったとか? ルーシェが知っているっていうことは竜族が自らの遺伝子に刻んだということでしょうし」
「私のお母さんはこの方法は人間には禁忌だから教えないようにって言ってたけど、アリスの体内にある魔法はもう禁忌だから言ってもいいと思ったんだ」
スーシィは興味深く頷くと戸棚の中から小瓶を幾つも机に並べ始めた。
「竜族が人間に禁忌としている事なんて、もはや災害の域なのでしょうね。手順はわからないけれど、その儀式にどれくらいのマナが必要なの?」
ルーシェは小瓶を見てマナの蓄積量を見ていた。沈黙に耐えかねてユウトが尋ねる。
「この小瓶はアリスの暴走を起こしたときにも似たようなのがあったけど、今並べてるのは何なんだ?」
「純粋なマナよ。指向性は持たせてあるけど、還元は容易よ。さっきも話したけど、体内マナって言うのは日々回復するでしょ。私は毎日の回復量の余剰分をこうやって溜め置いてるのよ」
ユウトはその数に圧倒される。机には乗りきらない小瓶はまだまだ戸棚に沢山あった。
「スーシィ、この小瓶1つにどれくらいのマナが入ってるんだ?」
「昨日見た小さい先生の噴水が1とするならこの小瓶1つで1000かしら」
「1000?」
ユウトはそれを想像して軽く身震いした。
「そんなに凄くもないわ、こういうことをしても優れたスペルの前では敵わないのだから」
「スペルか……」
ユウトはあの夜を思い出す。相手は呪文によって生み出された人形だったが、魔法を持たないユウトは苦戦した。それどころか、アリスを守りながらではユウトには勝てない相手だったかも知れない。
「ルーシェ、そのヴァンパイアの儀式が竜族と人間とで別々に継承されてきたのはわかったけど、そもそもその儀式がどうして受け継がれているのかは人間と同じ理由なの?」
ルーシェはスーシィに穏やかな微笑を向けた。
「ううん、寿命を延ばすためという意味では一緒かな」
「なぜ? 竜族は種として見ても寿命は数百年を超えてるでしょう?」
「私たちは同じ竜族でも人間に擬態するから百年余りしか生きられないの。歳を取るごとにマナの蓄積が重くなって放出よりもその溜め置きに問題が出てくる。人間と意図するところは違うけれど、単純にマナを差し出すと苦痛が少なくなるから子孫を残せないときは利用するように決められてるよ」
スーシィは手元にペンを走らせて何かを記し始める。
「ありがとう、その話は人間にとってとても参考になったわ」
「ルーシェはどうしてそんなことを知ってるんだ?」
「生まれた時から竜族は親の知識を受け継ぐんだよ。人間は何も持たずに生まれるけど、私たちは生物の枠から少しだけ外れた生き物だから」
ルーシェはユウトの驚きに哀しそうな表情を浮かべた。
「何を驚いてるの、そうは言ってもルーシェはルーシェでしかないわ。遺伝子は受け継がれていくわけだし、そこまで外れているわけでもないわよ」
「そうなのかな」
「そうよ、どう見ても人間と変わらないわね」
どこか嬉しそうなルーシェにアリスのことを思い出してユウトはほっと胸をなで下ろす。
「ユウトもそう思うでしょ」
「ああ、ルーシェは可愛い女の子だよ」
ルーシェは顔を上気させて俯く。つい弾みで答えたユウトは一瞬目を白黒して言葉を間違ったかもしれないと思った。
「言うようになってきたわね」スーシィは怪しい微笑でユウトを見ていた。
「それじゃ、ルーシェ。この色男のために答えて貰うわよ、まずヴァンパイアの儀式は人間にとってはただのまやかし半分の儀式でしかない。でもこれからやるのは本物の代償を必要とする儀式になる。結論から聞きたいのだけれど、アリスはその代償として捧げて石化させるのよね?」
「うん、石化っていっても本当の石化ではなくて人間の場合は時間の流れを完全に止める魔法神秘で固定されてしまうの」
「それ、解除されるの?」
「ヴァンパイアが多分、教えてくれると思う……」
「……ヴァンパイアが?」
「うん」
スーシィは腰を抜かしたように後ろ手に下がった。慌ててユウトが躓くスーシィを支える。
「待って、待ちなさい。人間の伝承ではヴァンパイアは本物の怪物よ? 交渉なんて出来ると思えない。ヴァンパイアが暴れたせいで人類は滅びかけた……そういう伝承があるくらいなのよ」
「私の知識もそんな感じだよ。けど、そろそろ封印を解かないと可哀想っていう思いもみんな持ってる」
「可哀想ですって?」スーシィは呆れた顔をしてこめかみにこんと手を置いた。
「やろう、もしヴァンパイアがその行為をしそうになったら戦えばいい」
「ユウト、待ちなさい。これは下手をすればこの世界の問題にもなりかねないわ。戦うと言ってもその力は未知数よ」
「フラム園長の3人分くらいだと思うよ」
平然と言い切るルーシェに今度はユウトが呆然と立ち尽くす。
「そんなの勝てっこないな……」
「少し他の案を探しましょう」
ユウトは研究所から出てアリスのところへ脚を進めた。赤い絨毯の先で生徒の集団が待ち構えている。
「お前、確か使い魔だったよな」
「ああ」
不穏な空気にユウトは訝しげな視線を送った。奇妙な笑いが生徒の間に走る。
「俺たちの使い魔が最近運動不足でな、模擬戦をしてくれると助かるんだ。どうだ?」
時折ユウトの実力を試そうとして来るメイジは何人かいたが、それでもここまで悪意を感じさせるメイジはユウトも初めて会った。
「俺は今気分が悪いんだ。また今度にしてくれないか」
ユウトより体格の良い生徒は角張った顔でにたりと笑う。
「俺たちに今度はないんだ」
肩に置かれた太い指先がユウトの肉に食い込む。振り返ったユウトは睨みを利かすが男達は怯まない。
「手を退けてくれないか」
「退けてくれないか、だってよ」
笑い出す男たち。ユウトはそれが5人いることを確認した。
一瞬の閃光、そこにオレンジの光が走ると男たちは後ろへたたらを踏んだ。
「な、なんだ?」
突如現れた水色の瞳はリリアだった。それを見た男達は下半身が涼しいことに気がつく。
「うわあああ――」
ズボンは綺麗に切断され、隠さなければならないものが全て陳列していた。
「私は短気だ。次はそこに生えてるものが落ちる」
リリアの言葉を待たずに廊下を走り去って行く5人。後ろ指をさされながら廊下に小さい悲鳴と笑いが溶けていった。
「……ありがとう」
ユウトはそれだけを伝える。
「学園内で流血はなしだと言ったのはお前のはずだぞ」
「ああ……ごめん」
ユウトは自分のしようとしていたことを顧みて溜息をついた。リリアはユウトの殺気に反応してやってきたに違いなかった。後ろ姿を見送ってからユウトはアリスの部屋を訪れる。
ノックに返事はなく、ノブを回すと扉が開いた。
「あれ?」
アリスは授業に出ていなかった。ベッドの中央が丸まっているのが見える。
「アリス、授業は?」
白い片腕を上げて手招きするアリスにユウトはそっと近づく。
「全然起き上がれないのよ。起きると眩暈がして……今日は休むわ」
風邪でも引いたのかと思うが、ユウトはスーシィの言葉を思い出した。
「何かほしいものはあるか? 食事は?」
「少しなら」
アリスの容体の変化にユウトはただ狼狽を隠すのに必死だった。
ユウトが部屋を出るとシーナが立っていた。手にはユウトが取りに行こうとしていた食事がある。
「おはようございます、ユウト」
「おはよう」
「今朝あ、アリスさんの様子を見に来たら何やら具合が優れなかったようで食事を取られたかどうか聞いたんです。そしたら怒られてしまって、でも授業も出てこられてないようだったので――」
はたとユウトを見上げてその表情に気がつく。
「ごめんなさい、こんなこと聞いてないですよね……」
「大丈夫、聞いてるよ」
今にも泣き出しそうなユウトにシーナの心は何かに踏みつぶされたように苦しくなった。
「アリスさんにこれを」
震える手でシーナはそのトレイをユウトに渡した。
「ありがとう。伝えておくよ」
「私に出来ることはこれくらいしかないんですよね」
「アリスは本当にシーナのこと嫌ってるわけじゃないよ」
「それはいいんです、今は精一杯だから……」
ユウトは震えるシーナの手を握る。胸に温かさが染み渡るような気がしてシーナはそっとユウトを見上げた。そこには自分より辛そうな顔があるだけでシーナは自分が何か罪を犯したような気分に恐怖する。
「シーナが居てくれて良かった」
シーナは抑えきれない感情から逃げるように早足でその場を去って行く、人混みに紛れて見えなくなるまでユウトはその背中を見つめていた。
午後の授業にユウトは1人で訪れていた。
ルーシェとスーシィは2人で何やら準備を進めるらしく、手持ち無沙汰になったユウトはアリスが授業の内容に遅れないようにと出席する。
「ですから、対法のマナである火はこの場合風の法へ転換される働きを持ちます。同様に土の対法があればそこから水は発生しうるのです」
ホールに響くアンナの小高い声にペンが走る音。その中に埋没したユウトは何かが遠のいていく焦燥感から独り呟いた。
「何やってんだろう、俺」
授業を聞いて何になるのか、アリスはどうなるのか。自分は何の為にとユウトは考えが巡っていく。
「だめだ、こんなことをしていても」
何も出来なくともユウトはただ座ってはいられなかった。真っ直ぐとホールを後にして冷たい廊下を歩き出す。研究室の扉を叩く頃には冷静な考えがやめろと告げていた。
「スーシィ、ルーシェ、何か手伝えることはないのか」
返事はない。自分の力なさに打ちひしがれながらユウトは来た道を戻った。
ふとその廊下の先に見知った姿を追う。
「アリス……?」
少し土気色をした顔でアリスは誰もいない廊下で振り向いた。布団から抜け出したような姿のアリスはただ朧気に立っていた。授業はまだ続いているのを知ってか、ユウトを見るなりアリスは少し困ったような顔をして笑った。
「どうしたんだ、体調は?」
「もう快復したわよ。それよりあんた、使い魔のくせにあっちこっち行くのやめられないの?」
どこかいつもより覇気が無く呆れたような口調のアリスだったが、いつもに増してアリスらしくユウトはそれが少し嬉しかった。
「悪かったよ、そんなことより何してたんだ?」
「さあ? あんたの顔を見たら忘れた」
アリスはそのまま部屋への廊下を歩き出す。背中に流れるクリーム色の髪が珍しく少しよれていて櫛も梳かさず部屋を出て来たのだとユウトは思った。
「どうしたの? 着いて来なさいよ」
「部屋に戻るのか?」
「そうよ、こんな格好で食事には行けないでしょ」
部屋にはいつもと変わらない光が差し込んでいた。この世界にも夕暮れというものがあることに最初は驚いたユウトだったが、今ではこの景色こそが自分の世界だと感じる。
「何ぼさっとしてるの」
差し出された櫛にユウトは少したじろいだ。細い指先がユウトの手に触れる。
「梳かせっていうのか?」
「あんたに使い魔らしい命令をしてやろうって言ってるのよ」
アリスの声は優しく落ち着いていて、椅子の上で脚を組んでいる。ユウトのやりたかったこととは少し違ったがアリスはユウトの気持ちを汲んでいるかのようであった。
「……最後になるかもしれないし」かき消えそうな声がユウトの心を見透かしたようなものだったことはユウトを動揺に震わせた。
黙って背中を向けているアリスの肩は少し薄くなって、ユウトが壊れ物を触るように優しく髪を取ると静かに溜息をついた。
「私の髪、梳かしにくいでしょ」
「よくわからない」
アリスは意地悪い口調でおどけてみせる。
「シーナにこういうことしたことないわけ?」
「ないよ。話す時間だってそんなに多くなかった」
「可哀想に、シーナは絶対やってほしいと思ってるわよ」
「そうかな」
静かに調子を合わせて頷くアリスにユウトは不安になった。
「……ね、私の髪ってどんな感じがする?」
「さらさらして……なんだよ、突然」
気恥ずかしくなってユウトは櫛の動きを止めるとアリスは濡れた目尻を手首で拭うように動く。
「気づけば1年だけど、思えば私たちあんまり学園以外のことを話す機会がなかったと思って」
アリスの細い髪は櫛を入れるほど緩やかな膨らみを持って美しく光る。
「……その、綺麗だと思うよ、髪」
「ほんと?」
夕に差した艶やかな光にアリスの白く浮いた顔が振り返った。驚きの後に嬉しさを噛みしめるような柔らかな微笑にユウトははたと自分を忘れる。
その一瞬の微笑は何か暗い影に覆われてアリスは神妙に再び正面へ向き直った。
「私はユウトに私の使い魔として、私は1人の人間として最後に大事なことを話しておかなきゃならないの」
「なんだよ改まって、最後ってスーシィ達は必死にアリスが生き残る道を探してるんだぞ。それに――」
いいからとアリスの声は語気を荒くする。頷きを返すとアリスはちょっとだけ鼻をすすった後にありがとうと呟く。
「いい? 私はこの呪いが解けたらある学院を目指すわ。リゴの魔導師よ」
明るい口調の声は虚しく部屋に溶け込んで消えた。
「リゴの魔導師……」ユウトの声は繰り返す。
「そうよ、世界で最も優れた魔法使いの組織なんだけど、そこの一員になる」
「どうしてそんなところに?」
「あんたには特別に見せてあげる」
ユウトは1つの指輪を見せられる。普通の銀色をした指輪だった。
「これはレジスタル家、私が養子になる前に持っていたお母さんの形見なの。私に呪いを掛けてまで欲しがったのは多分これだと思うのよ」
「どうしてそれをみんなには言わないんだ?」
「この指輪は本物じゃないからよ。言ったところで私がやろうとしていること、話せるわけないわ」
だから今まで黙っていたんでしょとユウトはその言葉に返す言葉もない。
「それに、偽物といっても一応の力はあるの。普段なら何の役にも立たないけれど、私はこれを使わなくちゃいけないんだと思う。きっとユウトがこの世界に来た理由も同じよ」
それは何なのかと尋ねるユウトにアリスは哀しげに視線を落とした。
「魔導師になったらね、世界中の困ってる人を助けてあげるの、そうして困らせてる人は懲らしめていく。そうしていつか本物の指輪を取り返すの。だって、力ってそういう使い方が一番でしょ」
これも同じよと努めて明るい表情で指輪を見せる。アリスの顔は依然として青白い。
頷くユウトにアリスはそっと肩を並べた。
「ありがとうユウト。私のところに来てくれて。そしてごめんなさい、あんたを元の世界に戻すことは出来ない。だって、私はどんな形であっても死にたくないしまだ役立てるもの」
ポケットから抜く握られた手を開くと金色の玉が浮遊していく。
「何もしなければ、もうすぐ私は死ぬ。魔力がね、今日起きたら……もうなかったの。凄いでしょ、私も正直焦ったわ。気づいたらユウト、あなたを探してた。ユウトが私にとっての最後にいてほしい人だって最後になって気づいた。私は大馬鹿者だった」
横顔は色のない哀しみを映す。
「アリス」
ユウトの声はアリスの声によって遮られる。
「昨日まではまだ充分あった。なのに、不思議よね……ユウトは魔力がなくても生きてるのに私たちはこれがなくなると死ぬんだから。多分今動けてるのはきっと最後の、私自身最後の悪あがきみたいなものなんだわ」
窓の奥にある夕暮れはいつもと変わらず空を黒く染めていく。立ち上がろうとするユウトの袖をアリスは握った。あまりに軽いその手をユウトははね除けられない。
「スーシィたちは間に合わない……のか?」
「ええ、施術者が消費した分だけ私の魔力は消えるのは分かってたし、ほんと言うとも、もうあまりよく見えないの」アリスの声は失望でも絶望でもなく、ただの説明だった。
「もっと早くに気づいていれば……良かったのか」
「それは違う。私は――」
そこに一瞬影が差したのをユウトは見逃さなかった。小さく笑うアリス。
「いまさら……今さらだけど私は無意味に死にたくない。このまま何もしないで綺麗に終わることも考えた、けれど……」
――それって生きていなかったのと同じでしょ?――
ユウトは声を耳を疑った。目を疑った。アリスの顔は笑っているのに泣いていた。
「死ぬことはこの学園では珍しくもない、みんなそれを覚悟して入学してくる。なのに、私は死ぬことしか考えてない。心の底では私を殺す人から誰かが守ってくれて、誰かが味方してくれるって勝手に望んでた。だって、私がそうなろうとしてるのに誰も助けてくれないなんてあるわけないってどこかで思ってて……」
立ち上がったアリスの名をユウトは叫ぶ。
「言っちゃうとね。私は、ユウトあなたが好き。最初に見た時からずっと、けどずっと恥ずかしかった。こんな呪われた私は弱い私はメイジとしてずっと劣っていると思っていたから。ユウトが訓練所にいる間に私はせめて普通のメイジになろうって頑張った。魔力を少し奪われたくらいじゃ何ともない魔法使い。そうしたら、今度、あんたは、誰よりも強くなっていて、私は――ただ、呪われた弱いままあんたのそばにいようとすることが精一杯の――」
「そばにいればいいだろ!」
ユウトの腕の中でアリスの頬は涙が伝う。
「本当に? ほんとう? 馬鹿なの……私の気持ちなんて何も、わからないくせに」
アリスがその指輪を嵌めて取り出した金色に杖を当てる。いつかの使い魔判定のツールはユウトの全身を光で包んだ。
「もし、私をまだメイジとして主として受け入れてくれるならこの契約を受け入れて。私がこの世界から消えても私の魂はユウトと一緒にいるから――」
黄金に輝く部屋はユウトに新たなルーンをながく長く刻み始める。同時にアリスの体が無数のスペルとなって消失していく。
「何だ……アリス、何をするつもりだッ」
「この指輪の力は命を代償にたった一つの命令を使い魔に与える指輪、私の最後の願い。神様はきっと私の願いを叶えるためにユウトを呼んでくれたのよ……」
Luqal coded a.registal.eliss.bell Fifth……(ア・レジスタル・エリス・ベルの名の下に五芒星の命令をする)
ユウトの脳裏にアリスとの思い出が蘇り、白く染まる。
『ユウト、さようなら』
――突如、学園の1室が吹き飛んだ。生徒達はどこに居たにも関わらず、地面の揺れを感じてよろめく。
「何?」
スーシィは黒髪を耳に掻き上げて明かりの落ちた部屋を光魔法で照らす。
「何か、アリスの気配がおかしい」
隣りにいたルーシェはそのおぞましい気配に毛を逆立てた。
どっと天井から何か岩が転がるような音がしてスーシィは明かりを向ける。
「何故学園の明かりは復旧しないの? あの学園長が手を焼くような事態ということ?」
「わからないけど、アリスのマナがゼロになった気がする」
「なんですって?」
スーシィの小さな手は俊敏に部屋の扉を開け放った。
暗い廊下の先に蠢く他の生徒の影と光、悲鳴や喧騒。暗闇の中で何かが起こっていることは明白だった。
「ルーシェ、ここは2手に別れてアリスを探しましょう。何か嫌な予感がするわ」
「うん」
レビテーションで身を包んだ2人は廊下全体を照らす光の筋を発生させて駆け出した。
「lolo ultulmerl…kiki uruikmel…dada slorijiol…imim aliekso….(エレメンタルに対なるものたちよ)」
剪定の魔法で学園全体を透視する。
そこにはアリスの影はないが、一際大きな混乱の場所があった。
「Kile nla Atem laylia!!(爆ぜ続け)」
天井まで一気に吹き飛ばし3階建ての建物に大穴を穿つ。スーシィはその場所にフライで到着すると悲惨な光景が広がっていた。
「これは……ユウトの仕業……?」
両断された使い魔たちは各々の場で息を引き取っていた。
「……カイン。あなたもなの」
「スーシィか? 俺のリースが……うくっ」
肩から斬りつけられたリースはか細い息でカインの腕の中にいた。血溜まりにいるリースは一刻の猶予もなく死の瀬戸際である。
「相手は誰?」
「わからない! 一瞬だったんだ……!」
スーシィの治癒魔法もリースの組織再生を促さない。虚しい魔法の光が闇に霞んで消えた。
その時、学園の窓が一斉に光った。
「学園長……」
校舎の庭にあらゆる教師と学園長が誰かを囲っている。
「アリス、あなたはやはりあの時私が殺さなければならなかったのね」
ユウトは黄金の光の中にいると思っていた。何が始まり、何が終わるのか、不確かな予感がして目を懲らすと周囲に見えるのは厳しい顔をした教師や学園長の姿である。
「殺してよい。死の使い魔は主の意志と相成った、アリスは死の前に己が宿命を悟れなかった。ワシの禍敗(かはい)によって来たところ。じゃがせめてこの老いぼれに無調法を改めさせておくれ」
青い剣は赤く染まり、根元には紅の炎が燻っている。
「……嗚呼、アリスは何処だ?」
辺りを見回すユウトの脳裏にアリスの声が響く。
『殺して』
痛みを抑えるように左手を頭に添えると誰かの姿が消えて目の前にフラムが立っていた。
「のう、ユウト。あの約束を覚えておるか? アリスの体に掛けられた呪いがワシの生徒達に害のあるものだったら、ワシは躊躇わず殺めるという話じゃ」
「覚えて……います」
「アリスはどうなったと思う?」
「ここに」
ユウトは左手のルーンを見せた。そのルーンは手の甲から腕、そして恐らくは全身に伝って網の目のようにユウトの瞳にまで延びていた。
「左様。それがワシら本来の姿。ワシらは言霊によって生きとる。そしてお主ら使い魔はその言霊の願いを受けたもうた存在じゃ。ワシらは言霊によって支配され生きており、お主らはその屈強な肉体に支配されて生きておる。この世界の1つの真実じゃ」
フラムは右腕を伸ばすと教師の1人が自らの杖をその手に持たせた。
「その禁忌を犯す者。これすなわち世界に仇なす者。ワシの生徒からそのような愚か者が出たこと誠に無念じゃ」
継いで左腕を伸ばし、同様に他の教師が杖を持たせる。
「Ygnadio laginasord(形有する新地の陽剣)」
杖に光が集まり周囲を照らし付ける。太陽が降り立ったような光の後にはフラムの両手に2本の光剣、舞い散る光の破片が囲う。
「剣術使いは剣で葬る。それがワシの昔からの流儀での」
見ると教師の姿は1人もない。
『殺して』
アリスの声が再びユウトの脳裏に響く。ユウトはその声をかき消すように力任せに剣を前に振った。
「Distako(新芽の園)」
地中が揺れ、地面から大木が噴出する。2人はその大木に押し上げられながら遙か上空へと昇っていく。
「炎で焼き払いし地は樹木によって新たな森となる。森は再び焼かれ大地はまた種をあたためる。言霊は神に依る」
ユウトはフラムに斬り掛かった。絶対に勝てる相手ではないと思いながらもユウトはそうせざるを得ない。それが自らの体の苦しみから解き放たれる方法だと確信しているからだ。
「すみません、先生」
フラムは大剣を交差させた剣にて受け止めていた。
「ワシはもうお主の師ではない。もうお主はここの生徒ではないのじゃからの」
「Rilegeje neilo――(炎撃)」
フラムの剣の一振りはユウトの想像を超えて滝のごとく伸びてきた。その先はもはや剣ではなく炎の光線となる。
身を捻って躱すと肺が焼ける感覚と後方の雲が切り裂かれ真二つに割れる。
「Mleira orgnation――(同調)」
白いマントが蒸気で沸き立つ。それは周囲に雲を造り、白い月を覆い隠し埋めていく。
「月は良いの、いつも変わらずワシらを照らし付け、いつも変わらず届かぬ位置にいる。じゃからこそ覆い隠さねばなるまいて」
「どうしてですか、フラム先生! アリスをどうして救ってやれなかった!」
その叫びにフラムはスペルで持って返した。死こそ手向けと老人の全身が打ち震える。
「誰がアリスの哀しみを分かってやれる! アリスは誰を恨めばいいんだ、アリスは誰に愛された! 俺を殺してアリスを無かったことになんかさせない。お前たちのせいだ……お前たちのせいでアリスは救われなくなったんだ!」
蒸気は雲に雲は霧にユウトの視界に朧気なフラムの姿が見える。しかし、その殺気は今までのどんな敵よりも強くユウトは身の危険を感じた。
だから『コロシテ』その言葉(スペル)をユウトは受け入れる。全身のルーンが金色の光を徐々に放つ。
「アリスが俺に最期に頼んだことがこんなことだなんて……」
「言霊の支配を受け入れるか迷える使いの子よ。お主は真に死神の使い魔だったようだの」
ユウトの黒い瞳が金色に瞬き始めた。剣は血のように赤く染まっていき、スペルは腕から金の蔓となって剣に絡みつく。大気がユウトに吸い寄せられ、豪風となって消滅していく。
「新たな神話か、ただの火糞(ほくそ)なのか」
フラムの片目が開くと剣が爆炎と共に熱をまき散らす。大木の足下は燃え始めユウトは炎に囲まれた。
「もはやこの世界の魔力の影響もないようじゃの。なるほど、最初のルーンは絶縁のルーンじゃったの」
フラムの剣の一振りは先ほどよりもひどい炎の暴虐だった。一瞬で呑み込まれるがユウトにはかすり傷1つ無い。
「ふむ、ならば」
フラムは炎剣を消滅させると手の内に蒸気が集結し始める。
不快な音と共に形成されていくのは氷の槍だった。それを地面に突き刺すと魔法陣が現れる。
「luture――(複製)」
天より無数の槍の雨が降り注ぎ、ユウトの周囲に無数の魔法陣が現れた。
「Timeractivtram――(時限界)」
ユウトの膝ががくりと折れ空間が重くなる。切り取られた真四角の空間は驚くほど緩慢に進み、ユウトも例外なくその効果を受ける。
「何をも受け付けぬのなら内から破壊するか外から別の理で支配するかじゃ」
杖を2つに束ね、フラムは詠唱した鉄を杖に固める。
「Mnafuncture――(練成)」
1本の長剣がフラムの腕から生えるのをユウトは見た。フラムの腕が剣に組成されたのだった。
時間の流れが緩慢になったとはいえ、ユウトは地金の部分でこの世界の人間とは違っている。軽快な足取りを取り戻して切り取られた空間ごとフラムに駆け出すユウトは恐れを知らぬ猛獣のような眼であった。
「これで力は互角かの」
赤い剣の一撃はフラムの身を沈めることは無かった。フラムの腕にある鉄剣は見事にユウトの剣を防ぎきっている。ユウトの顔色は変化しない、フラムは力任せにその剣を弾いた。
フラムによる追撃の斬撃はその音を山々に轟かせユウトの世界でいう機関銃を思わせる。
その一方的な攻撃を以てしてもフラムは優勢に立てない。
ユウトの剣捌きはフラムを徐々に追い詰めていった。
その様子をスーシィは剪定の魔法を持って見ていた。突如出現した大木の上で異常な魔力のやり取りがあることだけは分かる。
「ユウトにスペル化したアリスが憑依した?」
ルーシェがそばまでやってきてスーシィの言葉を聞いた。
「メイジのスペル化は契約のときにみんな使ってるよ」
「でもあれは――」
ルーシェは同意の意味で頷く。
「太古の昔に人間は滅び掛けた。自分の意識をより強固な生命に移しかえる法、それが使い魔と契約のルーツだよ」
「それじゃやっぱりアリスはユウトに自分を刻んだのね……」
「殺すってユウトの声が聞こえる」
「誰を?」
「誰とは言ってないよ」
スーシィの瞳は驚愕に開かれる。
「全てを殺すだとしたら? まさかそんなことをユウトが受け入れる?」
哀しげな視線をユウトのいる先へ向けるルーシェ。スーシィはその言葉の真意を思って口を開いた。
「本当に馬鹿な子ね……ユウトを、あの子は使い魔を元の世界に帰すことも野に放つこともせず、行き場のない自分の感情を世界へ代弁させることを選んだなんて」
野次馬の生徒が集まる中から青髪の影がスーシィに近づいてくる。
「……アリスさんはっ、神秘魔法から逃れるために何か大魔法を使ったんですか?」
シーナは肩で息をしながら庭の中央に生えた巨大な大木を見上げた。
「私も残念よ。アリスは私たちの知らない禁忌の魔法を知っていたんだから」
息も落ち着いてシーナは毅然と険しい表情になっていく。
「それって、それを教えた人がいるっていうことじゃないんですか?」
「……」
「ルーシェ」
「外れてはなさそうだよ。その禁忌はアリスの体にある神秘魔法と同じくらい条件が必要になりそうだし、下級メイジが使えるような難易度まで落とし込むなんて普通は無理だよ」
「そうだとしても問題は目的だわ」
「私はアリスさんに魔法を掛けた人がその方法を教えたように思えます。だって、アリスさんの使い魔はどの使い魔より特別です」
「方法を教えた人間は確かにそいつに間違いないでしょうけど。ここまで強くなる理由が分からない。フラムを相手にもう一刻よ、互角なんだわ。あの炎神と謳われた賢者であるビッグメイジと魔法を持たない使い魔のユウトが」
息を呑む3人の耳に周囲の喧騒が飛び込む。
「誰か落ちてくる!」
「学園長先生だわ!」
悲鳴と絶望、混乱と絶叫は3人の背後で飛び交った。誰もこの現実を受け止めることができない未熟さにスーシィは舌打ちをする。
「レビテーションを、早く!」
「はい」
シーナのレビテーションの狙いが定まらずにいると、そこに一筋の光が走る。
「ユウトよ!」スーシィが叫んだ。
「え、でもこの高さじゃ――」
その光はフラムを一瞬で追い抜き、地上に降り立つ。
「速い……」
現れたユウトに怪我は1つもない。ユウトは目を瞑り剣を頭上に掲げる最中、身動きできる者は一人もいなかった。そしてフラムは地上に近づくにつれて絶命を思わせる姿。
「……全てを――」刹那の声をユウトは聞き捨てる。
――ずしゃり。水を撒いたような音がユウトの頭上で鳴った。
「――いやぁあああ」
女子生徒の1人は叫んだ。老人は白いマントを真紅に染め散らせてユウトの剣を腹から突き出している。ユウトの形相はもはや人のそれではない。
「ユウト……」
「あれはもうだめだわ。完全に自我を失っている」
スーシィが八方に光の光球を飛ばして周囲を明るくしてもまだユウト自身が放つ黄金色はそれ以上に瞬いていた。
「ルーシェは戦える?」
「ユウト!」シーナはユウトに駆け出す。
「もう1人馬鹿がいたようね」
「クゥウウウ――」
ルーシェは竜化と共に叫び上げていた。本能に任せた竜化で息は荒く殺意を相手に送ってしまっている。
「それほどの相手というわけね」
ルーシェの尾がシーナの首筋に当たりシーナはその場に倒れる。ユウトは仁王立ちしたままフラムを転がして制止した。
ユウトは目蓋を薄らと開いていく。
「……」
ユウトの目には周囲の白い光の筋が反射している。黄金の瞳、その目尻から流れ出る大粒の涙はユウトの最後の心のようにも見えた。
「やっぱりシーナには見せないで正解だわ」
「ルーシェ。もし、ユウトを救える可能性があるとしたら何がありそう?」
『考えて見る』
「今のところシーナとあなたが生き延びるくらいしか可能性がないかもしれない。私がここでユウトを押し止めるから後をお願いするわ」
そう言うとスーシィはマントの中から小さいドラゴンを出して一声上げさせる。
「アリスは闇魔法ではなく古代魔法を調べていたのね。使い魔を取り込んだのではなく、使い魔に自らを取り込ませ何らかの方法で支配した。一体どちらが強いのかしら」
突風と共に現れた巨大な影は砂埃を舞わせて粉塵の中に舞い降りる。ルーシェはシーナを乗せて飛び立った。竜同士思うところがあったのか、その一瞬の視線の交差はまるで語り合うように強固だった。
「私はユウトが持つ魔力に依存しない動力源を知りたかった。人々が魔力から解放される日を願っていた。それなのに、その結果がこれとはね」
マントの中に大量に括り付けられた小瓶に杖を宛がっていく。
「私やフラムほどになれば、強力な切り札の1つや2つあるのが普通よユウト。例えば、私の国には死者を操る禁忌の魔法があったりね」
スーシィの杖が触れた小瓶、10個が砕け散った。絶命していたフラムは雷に打たれたように弾かれる。
「誰もがこんな魔法を使い始めれば、この世界は悲劇に満ちてしまう。人間はどこまでも愚かで身勝手な生き物よね。私はあなたを留める為だけに死者を持て遊んでいるんだもの」
地面に転がったフラムは人形のようにぎこちなく立ち上がると緑色の瞳を赤く変色させ、スーシィの横に歩き出す。それをユウトは黙って見つめていた。
「……お主の老体に鞭を打つ神経には恐れ入るわい」
「ごめんなさい。私も出来ればそのまま逝かせてあげたかったのだけれど、1人じゃとても無理よ。竜の血で一時的に生きてるだけだからあまり離れると土になるわ」
「肉体を変換したのじゃな。まあ、適切じゃよ。魔力の供給はあるがこれはワシの本来のものではない故、先のように真面には戦えぬ。死人の口が再び塞がる前に助言をしようかの」
それは至極単純なものでスーシィは呆れた。
「もっと戦闘に役立つ助言を頂戴」
「ならば、魔法以外で倒すことじゃ。使い魔ユウトはこの世界の万象とは真逆にある。鏡からやってきたような存在じゃ。絶縁のルーンもそれ故に、触れればたちどころに魔力を消滅させる力を持つ」
「魔力の……消滅?」
「左様、神秘魔法のせいかな、アリスの魔力は逆転の世界よりあの者を呼び出したのじゃろう。使い魔が魔力の影響を受けていたのはヤツが魔力というものを信じていたからに他ならぬ。自らで自分の体を痛めつけていたのじゃ」
「それって思い込みで傷を負っていたってこと?」
「左様じゃ、そしてさらにユウトは物理干渉さえもルーンによって緩和する。あらゆる干渉を完全に遮断した今のあやつはもはやこの世のものではない。一度戦えば死を覚悟せねばならん」
「幽霊相手に殴りかかるようなものね」
赤い剣はアリスの血を思わせた。自分が少しでも関係したアリスの問題にまったく手出しが出来ないという途方の無さに笑いしか出てこない。
フラムは皺の奥に表情のないまま杖を構えた。スーシィの放った魔力が地面を緑色に照らし、土が仄かに夜を照らす。
しかしその後、闘いは起こらなかった。
幸いだったのは、ユウトはそれ以上何もせず森へ消えて行ったことだった。
アリスの死と共に訪れた偉人の訃報は世界を震撼させる。
伝説の炎神を屠った使い魔。神殺し、死神、ビッグスレイヤーと呼称はいくつにも及び各地に拡がりを見せた。
使い魔ユウトを倒すことで自らを世に知らしめようとする冒険者もまた多くいた。
そんな一時の呼称や揶揄もやがては不動の異名となり、ユウトという魔物は世界の大陸中を恐れさせる存在となる。
それはおよそ2年後のことだった――。
大陸の中央に位置するジャポルの遙か下。カミュラという小さな国に魔法学校があった。
生徒の数も少なく教師も少ない。
そんな中で優秀な成績を収めた1人の少女は都会の魔法学園へ進級することとなる。
「気をつけてね、アリシア」
少し太り気味のお母さん、心配そうな表情を時折見せながら明るい笑顔をふりまくお父さん。アリシアは幼い胸に魔法使いへの希望と活躍を夢見ていた。
「行ってきます」
魔法使いはかつてないほど各地で才能を求める声が高まっていた。あらゆる国が何かに脅えるように魔法を追究し始めている。それは去年までなかった特待生制度を1つ取っても誰もが感じるところだった。
馬車の中は少し古臭く、アリシアは少し顔を歪めながらも腰掛ける。
「しっかりね」
窓の外に見える母の顔はいつになく無理をして笑っているのが分かる。アリシアはそっと手を振って大丈夫だよと言った。
「――やっ」
御者台の男の声にアリシアは一瞬肩を竦ませる。
動き出した馬車の窓からアリシアは身を乗り出してこの村の小さな景色を出来るだけ長く目に留めておこうと思った。
茶色い髪に風を受けながらアリシアは手を振る。栗目についた長い睫が少しだけ湿ってもアリシアはそれ以上は必死に我慢していた。
「泣けばいいのに」
隣に座っていた女の子が意地悪く呟く。アリシアは自分と年が同じくらいの子に少しだけ興味が沸いた。
「もしかして、あなたも魔法学校へ行くの?」
女の子は何も言わず、ただ馬車の外を眺めていた。
背中のマントはメイジの証。きっとこの子も辛い別れをしてきたに違いないと思った。
アリシアは再び窓辺を握っていつまでも両親に手を振っていた。
そこから遠く離れた地。サマロの湖だけが変わらず学園の隣で瞬いている。
「学園長、新しい新入生、編入生のリストになります」
「ありがとう、後で見るわ」
「お疲れですか?」
教師の男は自分より遙かに年下そうに見える少女に敬語を使った。
「ええ、学園内の風紀がここまで乱れるとは思っていなかったし、正直前学園長の手腕を尊敬するわ」
「お言葉ですが、出身地だけでも選定した方が良いのではないですか?」
「そんなことをしたら、強力な魔法使いなんて集まらないわ。どこぞの貴族が金と権力のために時世を利用し始めるんだから」
「申し訳ありません」
男は引き締まった顔つきで一礼すると高い鼻筋が印象的に映る。すらりとした顎のライン、険しい目つき、しっかりとした体。悪くない美男ではあった。
「あなた、なかなかいい顔してるわね。どこの出身だったっけ?」
「レレヌです」
「ああ、極寒の地ね。ここの気候にはもうなれたの?」
「お言葉ですが、赴任して半年になります。慣れたかと言われればとっくに」
「そうだったかしら、まあ顔で採用したようなもんだしね。私もそろそろ結婚を考えないといけないし」
「……」
学園長は男の前に立ってもへそのあたりにしか視線がない。
「どう?」
「は、何がですか」
当然男にそのような気はあるはずもなく、スーシィの実年齢も知らないために返答のしようがなかった。
「興がないヤツね。クビにするわよ」
「ちょっと待って下さい!」大慌てする男の背から他の声がする。
「あの、お取り込みのところ失礼します」
現れたのは男教師とは対極的にまだ少年のような教師だった。
「マーちゃん。遅かったわね」
「僕をマーちゃんって呼ぶのはやめて貰えませんか、スーシィ園長」
「学園長ね、それにマーちゃんはマーちゃんよ、あなたを採用する条件の1つがそれだったはずよ」
「そ、そうですけど……」
ブロンド髪に小顔の少年はあどけない瞳で男を見上げる。
「ユーレス先生でしたか、丁度良かった。今日こちらに着いた学生が女子生徒なんです。僕どうしたらいいのか……」
「あら、女子生徒は女性教師の役目でしょ。アンナはどうしたの」
「アンナ先生なら入学式まで休暇を取っておられたかと。私が行きましょうか」
「休暇? お子ちゃま先生にはハードスケジュールだったかしら。とりあえず、あなた達2人はだめよ、女子校舎に入ったらまた収集がつかなくなるわ」
スーシィはマントを羽織って部屋を出る。
「それでは、私は研究があるのでこれで」ユーレスが一礼して去って行くと、残された少年のような教師は廊下を歩き出すスーシィに縋るような瞳で見た。
「僕がこう言うのも何ですけど、すっごく可愛い子なんで男子寮には近づけないように気をつけてくださいね」
「あら、珍しく男らしい発言ね、マレアス君」
「一言余計ですよ! それに僕はその名前あんまり気に入ってないんです」
マレアスのマントは珍しく前任の学園長を思わせるような白だった。
「そのマント。どうしたの?」
「これですか? 祖母が送ってくれたんです。珍しい生地で作られてるんだそうです」
スーシィは何か嫌な予感と共に廊下を歩いていく。マレアスはふと身を翻した。
「それじゃ、僕はここで。いいですか? くれぐれもさっきの話、よろしくお願いしますよ」
普段、女子の容姿に口を出すようなことのない人柄だけにスーシィはいたずらっぽい微笑を浮かべてマレアスに近づいた。そっと耳元にささやく。
「お付き合いのお願いはしないの?」
「もうっ、からかわないでください!」
顔を真っ赤にして去って行くマレアスを笑いながら見送ってスーシィは階段を降りていく。
石造りのエントランスには少女がぽつりと1人立っており、その出で立ちから田舎上がりの下級娘だということは見て取れた。
「こんにちは、レディ」
はたと少女はスーシィに振り返る。田舎娘にしてはさもありなん、褐色を帯びた健康的な肌と茶色い髪、黒っぽい瞳はごくごく普通の少女に見えた。
これが、凄く可愛い? スーシィは胸中でマレアスの言葉を疑ったが、そこは個人の見解だと割り切って話を続ける。
「ようこそ、フラメィン学園へ」
「あ、はい! よ、よろしくおねがいします」
緊張しておどおどする少女の姿を見るのを楽しむようにしてスーシィは説明をする。
「入学式まではまだ日があるから部屋へ案内するわ。今は教員のほとんどが出払ってるから適当にこの学園を見て残りの数日を潰して貰う格好になっちゃうけど」
「はい、わかりました」
この子はひょっとするとだめかもしれないとスーシィは分析する。魔法の素養だけではない、どんなときにも冷静で居られなくては戦いの中で呑まれてしまう。こと戦闘においては冷静沈着さ、それは絶対必要な素養だった。
「名前は?」廊下でスーシィの半歩後ろを歩く少女。
「アリシアです」
「本名のほうよ」慌てたようにアリシアは聞き返す。
「本名……ですか?」
「そう、私はスーシィと呼ばれてるけど本名は別にあるわ。ス・ズロービン・シィラニコフ・ベル。こういうの聞いたことあるでしょ?」
「ない……です」
「ならあなたの先祖は家名を捨てた魔法使いの末裔になるわ」
「そう、なんですか?」
「本名、真名とも呼ばれるそれはそのとき使えていた王と先祖から賜るものだし、あなたの住んでいた国に元々あなたの祖先はいなかったというだけの話よ」
アリシアは納得したように頷いていた。
「そういえば、私の村には長い名前を持つ人はいません。もしかしてみんなそうなんでしょうか」
「新国ならわざわざ名乗る人はいないかもしれないわね。どこの国?」
「カミュラという国です」
「十数年前に出来た国だったわね、王様は何をしているの?」
「魔法を学ぶために街には通いましたけど、詳しくは――」階段を上っていく2人は1人の生徒とすれ違う。
「あ。こ、こんにちは!」
「あ、はい。こんにちは」
男子生徒は面食らい恥ずかしそうに駆け降りていく。
「あなたもしかして自分に魅了の魔法を掛けてる?」
「え、どうしてですか?」
スーシィは訝しみながらもアリスの部屋の前に訪れる。
「どうしたんですか?」
「昔の友人の部屋なのよ、ここ」
そういって中へ案内すると、そこは綺麗に清掃されていた。かつてのアリスの名残はなくともアリスを否応なしに思い出させるその部屋は少しだけ物哀しい。
「大丈夫ですか?」
「ええ、何でも無いわ。それより、向こうでは召喚の儀を行っていないの?」
「はい、召喚は職業魔法使いになってからと言われていたので」
「ここではなるべく早くに使い魔を呼んで貰うことになるからそのつもりでいてね」
「は、はい」
徐に杖を取り出すアリシアの手を慌てて掴む。
「何考えてるの、ここでっていう意味じゃ無いわよ」
「え、でもすぐに呼んで貰うって」
「環境が変わってからすぐに呼ぶのはあなたの精神に負担だから、なるべくって言ったのよ。まずはここに慣れてから」
そう言うスーシィにアリシアはほっと胸をなで下ろす。
「それじゃ、荷物を置いたら食堂に案内するわ。といっても今は春の休日だからやってないけれど」
アリシアはスーシィと別れた後、学園内を一通り見終わってから部屋に戻ってきた。
空虚なだだ広い部屋に少し怖くなりながらベッドの上に寝転がった。
「はあ、疲れた」
体も洗わないで寝るのはイヤだった。しかし、洗浄の間までの距離はあるいて数分。そんなところまで往復するのを考えるとアリシアは明日の朝にしようと思ってしまう。
「眠るの?」
誰かの声がした。またあの女の子が目の前にいた。アリシアはその子がどうして自分の部屋にいるのかと問いかけようとする。
「…………」
目を瞑ると気持ちよい心地に呑まれていく。胸の苦しさを少し和らげるために細い両足をベッドに乗せた。
「はあ」
服が皺になっちゃうかなと思ったところでアリシアの意識は暗闇に溶けていった。
頭の中が振動するような音でアリシアは飛び起きた。
「なにっ?」
部屋の中は昨日と変わらない。自分はどこにいるのだろうと思ってからカミュラから留学していたのだと思い出す。
校舎に響く鐘の音。日はとっくに昇っていて朝日が窓から絨毯を照らし付けていた。
「やだ、服が」
案の定、服はよれきっていてアリシアは下着姿になってから自分の鞄を開ける。
「あんまり持って来てないもんな」
学園の制服が支給されるようになるまでアリシアはほとんど服が無かった。
それほど裕福な家庭でもなかったし、下着の替えは持たせてくれたけど衣服の替えは1着だけだった。
「はあ」
昨日の服からぽろりと2つの棒が落ちる。
「うそ……」
陽に照らされた杖は2つになっていた。先端に歪な木の裂け目。
「折れた……? うそ、うそうそうそっ!」
両手でその2つを持って日にかざしてみても全く変化はない。ゆっくりとその先端をつなぎ合わせるとぴたりと1本の杖になる。
「こんなことって……」
アリシアは顔を覆って崩れ落ちる。
「…………」
折れた杖を膝の前に置いてもう一度目を覆う。ゆっくりと指の隙間から折れた杖を見る。
「2本……」それを何度も繰り返す。
「2本、2本……2本!」
現実はどうやっても変わらず、アリシアは大きな胸をたゆませながら絨毯の床に仰向けに倒れた。
「うぅ……」
涙がぽろぽろと零れ始め小さな唇がわななく。母親が1ヶ月分の生活費と同じだと言って買い与えてくれた杖。それがあっけなく折れた。これから輝かしい学園生活が始まろうというのに。
「いつもは体を洗うから……」
昨日に限って魔法の練習もせずに寝てしまった。その罰のように折れた杖、その仕打ちはあんまりだと思った。
「アリシア? いるの?」
「え?」
アリシアは大慌てで服を着て2本の杖をポケットに押し込んだ。
「今行きます!」
「どうしたの? 大丈夫?」
扉の前にいたのはスーシィの姿だった。
「あなたここ最近見かけなかったから呼びに来たのよ。もう入学式だし流石におかしいと思って」
「え?」
アリシアは入学式という言葉におかしな返事を返した。
「どうかしたの?」
「あの、昨日私が来てお会いしましたよね」
「何言ってるの。昨日はミュバードから5人の生徒がやってきたのよ。あなたが来てからちょうど1週間。これで特待生2090人が揃ったわ、とりあえず定員を満たしたところよ」
アリシアは軽く昨日の記憶を辿ってみた。しかし、どうやっても1週間もの記憶の1日分もない。昨日来て、今日が入学式なのはおかしすぎた。
「先生、私――」
「あ、スーシィ学園長。入学式の流れについてですが……」
スーシィが男の教員と話し込んでいる間、アリシアは周囲を見渡すと見知らぬ顔が大勢行き交っている。
一見してすぐにここの制服ではない服を着ているのが新入生だというのはわかった。
「みんな強そう……」
そして綺麗な子も多い。田舎娘の自分より都会の子の方が何倍も綺麗に見えるし、衣服も上等だった。男の子もみんな大人びた雰囲気がある。
「ごめんなさい、アリシア。私はこれから少し職員会議をするからあなたは先にホールに行って」
「わかりました」
教員と何か話しながらスーシィは去って行った。アリシアは1人心細くなりながらも昨日の記憶を頼りにホールへと向かう。
「わあ、すごい人だ」
今まで見たこともないほど大勢の人たち。大人から子供まで数千人の大移動だった。
『あー、聞こえるかな。拡声魔法異常なしです』
雑踏の中に響く音響テスト。プラカードを掲げた大型のドワーフは新入生を案内していた。
「新入生はこちらですよォ」
ドワーフの後ろで学園の生徒が喋っている。アリシアはその流れに入るとそこには大きなテーブルが用意されていた。
「だからよ、ここの訓練所っていうところが凄いらしくて、あの伝説の使い魔もそこで誕生したって話」
特待生専用のテーブルに着くと見知らぬ女子生徒が何やらリボンのようなものをアリシアの腕に巻きつける。
「じっとして、これ一応クラス分けのリボンだから」
巻かれたリボンの色はオレンジだった。見ると全員同じようなものをつけていた。
隣の席が動いて同じ色のリボンが腕に巻かれているのをアリシアは見つける。
「あ、同じクラスだね」
煤けた薄い水色の髪、冷めた瞳。ぞくりと背筋に冷たい感触があったような気がして、アリシアの上がった頬はゆっくりと降りていった。視線だけ反対側に移してみるもそこには先ほど偉そうな態度で話していた男の子たちがいるだけである。クラスも違うし、話す気にはとてもなれなかった。
『あー、ではこれから入学式を行う。一同、起立してください』
喧騒が止んで数千人が立ち上がった。アリシアは周囲を見回しながら自分と似たような人を探すもそれらしい人はいない。全員が殺伐とした様子でどこか自分だけが浮いているような気がして暗い瞳を正面に向けた。
『まず、我らが学園長よりご挨拶です』
アリシアは少しだけ気を持ち直す。
突如何の前触れもなくテーブルが振動してホールに騒めきが走った。
「おい、何の真似だ」
あちこちから不満の声が出る中、それは徐々に悲鳴に変わる。
「こんにちは、私が学園長のスーシィです」
テーブルの上、それも20名余りの各テーブルに1人のスーシィが現れたのだ。
「空間射影? いや、転移か複写か……」
どこかのテーブルから火の手が上がるがその瞬間、生徒の1人が上空を舞って視界の端へ消えた。
『あー、いたずらで攻撃しないように。その魔法は学園長自らが考案した新魔法です』
スーシィは一同を見渡すと杖を仕舞う。
「もう攻撃しようと考える愚か者はいないわね?」
じゃあ、始めるわよとスーシィは口を開いた。
「君たちがこの学園に入学するにあたって、1つ決定的なことは前代の学園長フラムの意志とは関係なく集められたということよ。今、この世界は新たな危機に直面したの」
数百人のスーシィが一斉に上空に魔法を放つ。
そこに浮かび上がった1人の少年。
「彼はユウトという名よ。元々は魔力も力も持たないひ弱な人型の使い魔と思われていた。それを嫌がった主のメイジは彼を訓練所に送ったわ」
映像は8年後の凛々しい姿へと変わる。
「そして、彼の身体能力はラジエルの騎士と勝るとも劣らないものとなって帰ってくる」
ラジエルの騎士という言葉にどよめきが起こった。
「あの、ラジエルの騎士って……」
「ラジエル国で栄えた剣だけでメイジと対抗する剣士のことよ。驚くべき身体能力と魔法に対する熟達した対処で強さを極め名を馳せていた。なぜそこまで剣に拘ったのかは謎のままに滅んだ国だけれど」
生徒の1人がスーシィに声を掛ける。
「そのユウトが世界の危機になったのですか?」
「良い質問ね、結論から言うとそうなるわ。彼はこの2年の間どこかに消えている。死んでいるのか生きているのかは私の友達が調査中よ。それとは別にね、この世界に穴が開いてきているの」
「穴?」
「私たちはそう呼んでいるわ。具体的にはマナが淀んで穴になったところね、そこから何かが起きるわけじゃないんだけれど、これが開かれる理由は1つしかない」
「世界のマナ崩壊」
「そう、よく知ってるわね。歴史を知っている人は分かると思うけれど、およそ原因は分かってるわ。ユウトの魔力消滅の能力が発動しているからよ」
「何故ですか、世界各国が彼を捜索して討伐するのに躍起になる理由がそれだけなんて」
「魔法使いは何で生きているのかしら、食料? 水? 睡眠? それとは別にもう一つ、マナがある。でもそれが今脅かされているの、たった1人……いえ、1匹の使い魔によって」
騒然となる一同の顔ぶれはまだあどけなさの残る少年少女ばかり、この中から一体何人のビッグメイジ級が誕生し、さらにフラムを超えられるのか。それはもはや途方もなく無謀な賭けに思えた。
「私たち人類は今結束して1つの脅威に立ち向かわなければならない。もし、彼を倒せたなら名声も富も権力も全てが約束される。立ち上がる時よ、マナビトの人々よ」
ホールでのスーシィの演説とも言える入学式が終わり、教室で緊張のままに座るアリシアはどこか居心地が悪かった。
これからたった1匹の使い魔を倒す戦いが始まると思うとアリシアは何か胸がざわざわと落ち着かなくなる。しかしそれが特待生の規約でもあった。
「今週は特待生全員に使い魔を召喚して貰います。4の使い魔以外を召喚した者は即刻退学となるから気をつけてください」
まだ小さい2人の教師は連れ添って教壇に立っている。その教師1人を50人近い生徒が取り囲む様に授業を受けるのはかなりの異様さだった。
「待って下さい、4の使い魔って確か……」
「はい、あなた方は魔法とは別の力を持つ使い魔を召喚しなければなりません」
アンナと呼ばれる彼女の使い魔は人型精霊を背後に立たせる。教室に息を呑む声が上がった。
「やだ、先生。私たちさっき入学式でその精霊の話を聞いたばかりなんですけど」
「ええ、この人型精霊は敵と判断した者を死ぬまで攻撃します。私に殺気を送っている生徒は気をつけて下さいね。いつこの精霊があなたを敵だと思うかは私にもわかりませんから」
アンナはそう言うと精霊を背景に溶け込ませた。それと同時に午後の鐘が鳴る。
「授業はこれで終わりです」
息をつく生徒たち、アリシアも小さい肩を落として安堵した。
「全く、これでは学校どころか、軍事育成所だ」
灰色の髪をした長身の男子生徒が眼鏡を指で乗せ直して起立する。
「ふん」
乱暴に扉を閉めて退室し、それに続くように他の生徒も不満を露わにして退室していく。
ただ1人、無感情に教卓を見ている少女がアリシアの目に止まった。
「……」閑散とした教室でアリシアの視線と交差する視線。
夕焼けで少女の髪は灰色に見えて、パープルの瞳がじっとアリシアの瞳を射貫く。
「あ、あの……」がたりと席を立つ少女。
アリシアは誰もいない教室に1人残されて席を立った。
廊下に出ると行き交う人の中から色々な会話が入ってくる。聞いちゃいけないと思いながらもアリシアはその声を無視できなかった。
「ねえ、聞いた? この学園に国の監査が入ってるって話」
「監査? 何それ」
「魔法警察よ。今回2年前の事件でやらかしたでしょ? 結局自分達でも処理できないからそういうのが内部にいるんだって」
「ええ、やだよ。ただの学園じゃないの?」
「さっきも誰か言ってたけど、ほんと軍事だわ」
アリシアは脚を早めて部屋へ急ぐ。絨毯の上に見窄らしい靴が浮き立った。
意志の強そうな瞳の上についた眉が哀しげに垂れ下がる。
「はあ……」
部屋について扉に持たれると長い溜息が着いて出る。
「お母さん、お父さん……」目尻を拭ってアリシアはベッドの上に身を投げた。反動で少しだけ浮いた体。天井に仰向けになると天蓋に何か書いてあった。
負けないで。
「……」ここに昔いた子を思って少しだけ安堵の笑いが漏れた。きっと昔にここにいた子とは良い友達になれそうだなと思いながら机に羊皮紙を広げる。
インクの付いた羽ペンを動かして文字を綴っていく。
「お父さん、お母さんへ」
――。――――。
『第一話:イクシオン』
「3班、4班は迂回して後方へ回れ」
「6班と7班は側面から強襲」
「「了解(ルージュ)!」」
森の中で動く複数の影。木々の細波に紛れた影の音。
「魔法陣展開!」
森の中一体に光が走る。
「目標捕捉! 4班、5班!」
「Igunario!(疾風壁)」
木々をなぎ倒して爆風が起こる。その中心にいるのは人の影をした何者か。
「抜刀させるな、ヤツは魔法を無力化する!」
「Keiha miniar irualista……(深淵の大地に眠りし)」
「ふっ」
蒼い剣が風の障壁を断ち切る。大木がその衝撃波で6本なぎ倒される。
「桁外れだな……6班、7班!」
「Stea irudia!(石像剣士)」
地面の魔法陣から現れた石像50体余り。蒼の剣士は事も無げに粉砕していく。
「まだこちらの位置はバレていない。詠唱急げ!」
黒髪の剣士は襲い来る石像に剣を突き立てるとそれはぼろぼろと崩れ落ちる。
「あいつ、石像もまるでバターか何かですよ」
「言ったろ、ヤツは魔法を無力化するんだ」
「信じられませんでしたよ、この目で見るまでは」
蒼い剣の速度は急速に速くなっていく。光の斬撃が赤く変化していった。
「まずいな、報告通りだ」そのとき白のエレメンタルから声が響いた。
『こちら、6班マグトリア。隊員全員のマナは残りわずかです』
『同じく7班、イルルナ。こちらも魔力はほぼありません』
「よし、お前らは後退し4班、5班のスペル補助だ。私が時間を稼ぐ、完成次第連絡を」
『ルージュ』
「隊長1人で? 無茶ですよ!」
「全員、私にマナを回せ。ありたっけな」
木の葉の影から飛び降りて疾走する女性隊長の背を隊員は不安げに見送った。
「……」黒髪は肩まで伸びており、お世辞にも綺麗とは言えないその青年を女性隊長は見つめる。
「貴様が死の使い魔ユウトか。なるほどな、全身にスペル化した主を宿し、全ての魔力を無力化。金色の両眼、赤き血の剣聖、死神の使い魔か」
女性の身なりは一見して肌に密着したスーツのようだった。赤い髪に知性を備えた目つき、高い鼻筋に小さい唇。そしてその構えは格闘者のようである。
「来る、Conet onnc(接続)!」
女の四肢に閃光が迫る。女の動きが人間のそれでないとすれば、ユウトのそれは光の速さだった。その女は断ち切られるも切断された胴体を瞬時に蘇生し、攻勢に出る。
驚愕に目を見開いたユウトの顔面に拳がヒットし、ユウトは後方へ滑る。
「やはり、予想通りだ。見たか?」
『はい』
「全員、マナの供給はやめレジスト魔法を私にコネクトしろ。何重にも重ねたレジストならこいつに打撃ダメージを与えられる」
『ルージュ』
女の体、そのスーツが虹色に発光し蠢く。
「来い」
先に動いたのはユウトだった。大剣の一振りは爆風でもって女を地面に留めない。吹き飛ばす力を上に逃がした女はわずかに宙に浮いた。
ユウトは動きに変化のない女の心臓に突きを放つべく跳び上がる。
「滞空戦術を心得ているのがお前だけだと思うな」
その光速の追突は女の分身を貫いた。何が起きたのか理解する間もなく側面を取った女の膝蹴りがユウトの脇腹を穿つ。
「ぐっ――」
ユウトは大木の中に埋まるほどの速さでもって吹き飛ばされる。
『やりましたか、隊長』大木が倒れ土煙が起こる中、女の声が凛と響いた。
「脇腹の何本かはもらった。だが……」
「ぐぐ……」
「使い魔のくせに地金が相当タフなのだろう」
『そんなっ、すみません隊長。もう魔力が……』
「なるほど、凄まじい消失の力だな。もう無理はするな。あいつの無力化は範囲を変化させられるのだろう。今まで気づかなかった私にも責任はある」
女の体の虹が消える。ユウトは黄金の瞳を女に向けた。
「さて、どうするか」
『隊長、魔法式完成しました。いつでも行けます』
「遅いぞ、ポイントで待機しろ」
『はっ』通信の後に女は熟考する。その零コンマの内容はこうだった。
「(ヤツは魔法を無力化するが、周囲を破壊することはない。つまり無意識下であの能力を行使しているわけではない。従って意識の表層にないものを無力化の範囲に定めていない。あくまで一定の速度をもって自分に接触したもの、あるいは自らが敵と定めたものに無力化が発動している。つまり……)」
女の体が砂のように溶けて消える。
それを追ってユウトが残影に剣を振り抜いた。
「無駄だ、お前は今私の術中にある」
そうして死角から飛んできた石をユウトは事も無げに弾き返す。
「(恐るべき身体能力と動体視力。加えて並外れた戦闘技術。これならば今まで誰もこいつの弱点を知らなかったのも無理はない)」
さらに死角から3連の投石。それをユウトは防ぎ切れず最後の1つをすんでのところで躱した。ユウトの頬に赤い筋が通る。
「(自然物はやはり無効化していない)」
「4班、5班。一旦引くぞ。討伐は中止する」
『何ッ?』
「こいつは生け捕りに出来る。いいな、隊長命令だ。撤退だ」
『馬鹿な! 撤退などありえない。こいつは国際討伐指令の対象だぞ。お前ら、ポイントまでヤツを引き付けろ』
「やめろ! こいつはそんな手にかかるようなヤツじゃない!」
……。…………。
――牢の中から1人の女が連れ出された。石造りの壁を眺めていると開けた大広間の正面に男が立つ。その隣には荘厳な身なりをした若き男が腰掛けていた。
ここは宮中、侍従長が王に報告書を読み上げる。
「特殊討伐隊の結果のご報告です。死者163名。重傷者37名。うち特殊討伐班は1班を残し壊滅です」
「国の先鋭を集めこれだけの被害をもたらした原因は何だったのだ?」
「お答え差し上げろ、エリサ隊長殿」
「はい、2班のゴイド副隊長が撤退命令を無視し強行に出――」
エリサは不意に後ろへ吹き飛んだ。距離にして10歩ほど後ろでようやくとまりエリサは徐に身を起こす。
「痴れ者が、死者の責任にするなど隊の長にあるまじき行為。王よ、このものの処分は重罪に値します」
「ふむ」
王の赤い瞳はエリサを射貫くように鋭く静かだった。
「1つ聞こう。死神の使い魔と呼ばれる魔物は結局のところ、勝ち目がない相手だったのか?」
「……いいえ」
「では、なぜし損じた? 己の量分を知らぬ愚かな連中ではなかったはずだ」
「私は例の使い魔を捕縛できると判断いたしました。ところが、副隊長は討伐……あくまで絶命させることに拘ったのです」
「当然であろうが! ヤツはこの国のみならず世界を脅かすマナの氾濫を生む存在ぞ! それを殺さずして捕らえようなどと――」
「黙れ、グリモール。貴様の意見など聞いておらぬ」
王の声は若いが確かな威圧を持っていた。
「うっ、申し訳ございません。我が君」
「それで、その使い魔を捕らえてどうできるというのだ?」
「はい、あの使い魔を支配下におくのです。そうすれば、我が国の強大な力となります」
「それが可能であると?」
「無力化は可能です。支配するのも恐らく可能かと」
「王様! お言葉ですが、この者は憶測でものを言っております。信じる必要はございません」
王は片手でその意見を封じる。
「面白い、その使い魔を生け捕りにして見せよ」
「なっ――王様ッ?」
王は視線だけ横に逸らすと侍従長を睨め付ける。
「この国にいる先鋭はもはやこやつと3人しかおらぬ。殺しただけでは我が国の戦力はどう補う。その使い魔をもらい受けねば割りに合わぬわ。どのみち東に位置するラヴハムはこちらの隙を今か今かと伺っているのだからな」
「は、ですが――一級のメイジはもう……」
「何、これを口実にフラメィン学園より優秀なのを譲り受けるまでだ。本来は遺体を送りつけて学園を頂くつもりだったが、返って手間が省けた」
エリサは険しい顔で床を睨んでいた。
「良いか、重傷の3人を回復させ次第例の学園へ行け。首を縦に振らぬようであればあらゆる実力行使を許可する。我が国の恐ろしさを思い知らせてやれよ」
エリサに架けられた手脚の手錠が解かれる。その音がいつまでもエリサの耳奥で重苦しく響いた。
数日後、学園長の元に1人の教師が駆け込んでくる。
「た、大変です。スーシィ学園長」
「先生ね」
「これを見て下さい」
その一面にはイクシオン部隊の安否が気遣われる見出しがあった。
「西の四大国の1つ、イクシオン部隊が使い魔討伐を最後に消息不明。これって……」
「このことを生徒には?」
「いえ、まだ」
「じゃあ、黙っておきなさい。いずれは分かることでしょうけれど、徹底的に情報規制しなさい」
「わかりました」
テーブルに置き去りにされた紙切れをスーシィは睨め付ける。
「あの錬磨された部隊を消すなんて……ユウトの力は本物なのかもしれないわね……」
2年前、スーシィの前から突如逃走したユウトにはもしかしたらまだ自我があるのかもしれないと思っていた。
「イクシオン部隊が消息不明の疑いですか。これで彼の知名度はさらにうなぎ登りですね」長身の若教師は腰を折ってスーシィの前にコップを置いた。
「元々国の極秘部隊みたいなものよ。消えたところで誰も確認しようなんてないでしょう」
「人の口に戸は立てられぬもの。プテラハは隣国と冷戦状態にありますから少しのゴシップでも大きく揺さぶられるでしょう。この火種、下手を打てば我々も危ういですよ」
「火の粉が雷神イクシオンでは振り払えないといいたいわけ?」
「闇の女神なのですから、振り払うのではなく呑み込むのはいかがですか」
「あんた、クビにするわよ」
「ちょっと待って下さい!」
慌てる男教師の背中から控えめなノックが響く。
「入っていいわよ」
恐る恐る開いた扉から見えたのはアリスの部屋を使っている少女だった。この学園の制服にまだ慣れないのかもじもじと指をへその辺りで編んでいる。
「あなた確か、名前はアリシアと言ったわね」
「はい。実はその、学園長にお話しがあって」
「なに、何でも言ってご覧なさい」
「退学、したいんです……」
男教師はスーシィの片手の合図で静かに部屋を後にした。
「そこに座って。ほら」
スーシィはアリシアに手を添えてソファーに座らせる。何も話さないアリシアにスーシィは声を掛けた。
「理由を聞いてもいいかしら」
「私、向いてないと思うんです。ここでやっていく自信もありません。友達もできない、周りも脅えてるか怒ってる人ばっかりで……」
「わかるわ、ごめんなさい。その原因を作っているのは私の教育方針のせいよ」
アリシアは少しスーシィの顔を見てまた伏せる。
「だから、退学……したいんです」
「その前に1ついいかしら。どうしてあなたはこの特待生の制度を受け入れたの?」
「それは、えっと……」
「お金のため、名誉のため、力のため、ここにいる生徒たちは何らかの目的があるわ。逆に言えば、それくらいしか持たない生徒ばかりよ」
アリシアはスーシィの言いたいことがわからず顔を上げる。
「あなたは何かもっと別のもののためにここへ来たのじゃないの? だから悩んでいるんでしょう?」
それを聞いてアリシアは小さく頷いた。
「さっき友達もできないって言ったけど、そんなことはないわ。今はみんな自分のことで精一杯だけどそのうちちゃんと出来る。だから安心して」
スーシィはアリシアの手を取ると優しく握った。
「ありがとう、ございます」
アリシアが部屋を退室すると男の教師が戻ってくる。
「いいんですか」
「何がよ」
「彼女には無理だと思います。まだ魔法の授業も始まっていないのにあれでは」
「さあどうかしらね」
突如部屋が揺れる。テーブルのカップが倒れ中身がテーブルに色をつけた。燭台の炎が自動で火をかき消すころには学園内の教師は全員杖を構えていた。
「何ごと?」
「わかりません、見てきます」
学園を闇の中から見つめる者達がいた。
『ポイント、35、47、87に高濃度マナの反応』
「空間検知、索敵魔法を終了しろ。ポイント35にて66のタイミングで仕掛ける」
『ルージュ』
スーシィは剪定の魔法を発動すると高濃度のマナが学園全体を包囲しているのがわかる。
『各教員に告げる。第一級非常事態宣言発令』
鉄の軋むような音が学園全体に鳴る。
『生徒は全員自室より緊急転送の用意』
スーシィは急速に接近する1つの気配を目で捉えた。
窓が粉砕され、黒い侵入者が走り込んでくる。
「WukuA!(守れ)」
スーシィの小柄な体が敵の足蹴りで宙に浮く。天井に接触すると同時にスーシィの体は霧散し黒い球体がいくつも弾けてテーブルの上に集結する。女は舌打ちをしながらテーブルの上に立つスーシィを睨め付けた。
「転移と衝撃緩和の複合魔法、お前で当たりか」暗闇に女の眼光が走る。
「どこの手先か知らないけれど、リゴの魔術師程度なら後悔することになるわよ」
スーシィの片手に黒い風が纏わりついた。
高速で突き出される女の右拳。その連打を全てスーシィは片手で捌いていく。
「ふん」
女は机を蹴り上げて足場を崩した。スーシィが机の影になったところに女は高速詠唱で風の刃を三連放つ。
スーシィのマントだけがぼろぼろに舞い、机も3つに落ちた。しかしその中にスーシィの姿はない。
「消え――」
『隊長、後ろです!』
咄嗟に防御の姿勢になった女にスーシィは巨大な岩の鉄槌を直撃させる。
刹那、空間が衝撃で歪み窓ガラスが粉々に砕けた。部屋の壁を3枚貫通して女は3つ目の部屋の壁に体を強かに打ち付けて停止する。
『魔法陣固定完了しました』
「よし、私のチューナーにしろ」
『ルージュ』
女のスーツに白い閃光が走る。体の骨折の全てが瞬く間に再生する。先ほどの女の動きとは全く違う異質な速さでスーシィの目の前までわずか零コンマだった。
衝撃波を受ける部屋の壁が軽く揺れると、スーシィの体は同時に15回の連撃を受けて反対側の部屋を突き破っていく。
「――あり得ない、魔法使いの戦い方じゃないっ」
4つ隣の部屋でスーシィは華の掛け軸が落ちるのと同時に立ち上がった。
穿たれた15の攻撃全てに呪い(活性)のスペルが付加されており、スーシィから体力を奪っていく。
「いや、これがイクシオン……」
スーシィは杖を振って自室に空間固定を掛ける。先ほどマントに仕込んであった小瓶がどれほど防御に使われたのかなど今は考えたくも無かった。
『隊長』
「わかっている。完全に閉じ込められたが問題な――」
刹那の白。部屋そのものが閃光と共に炸裂し、3階の高さから女の体だけが飄々と吹き飛んでいく。
「(ダメージが無いと分かっていながら部屋から引き離した。まさか――)」
「お前たち、移動しろ」
『隊長、敵に見つかりました。多数です』
「く……わかった、無駄な抵抗はするな」
学園の裏、林の中に落ちた女の前にスーシィの姿が現れる。女の白い閃光は消えて今は黒いスーツのままふくよかな胸の前で腕を組んでいた。
「一時が万事、とでもいいに来たのか」
「そこまで傲ってはいないわ」
「ならば何故やって来た」
「個人的に多勢に無勢というのは好きじゃないのよ。私たちの方はまだ決着がついてない」
そうでしょと言うスーシィに女はにたりと口元を歪めた。
「それが傲りというものだ」
女が走り出すと同時、スーシィの体ががくりと痺れたように止まる。
「な、に……」
咄嗟に杖を構えようとするも持ち上げた先から動かなくなる。
女は杖をはじき飛ばしスーシィを組み伏せた。魔法具をスーシィの首に装着させるとスーシィの瞳が虚ろになっていく。
「よくやったレヴィニア」
黒いスーツが後ろの空間に溶け込み人型を形成していく。女の姿はマントに長袖のジャケット、紺色のズボンと膝まである茶けたブーツに変わっていく。
「はあ、痛くて解除されちゃった」女の隣りに鈴の音のような声が響いた。
子供に似た髪の長い人間。ピンク色のそれは黒いドレスを身に纏ってスーシィに対して丁寧にお辞儀をした。
「敵の魔法を受けるのがお前の役目だ」
「そうだけど、はあ……。この間の使い魔みたいに魔法を無効化できるんだったら私エリサじゃなくてそっちに憑依したいわ」
「どういう、こと……」スーシィが震える声でその2人目を見る。
「私の使い魔だよ。憑依のルーン、この使い魔自身の能力はさっきお前が受けた通りだ。敵の魔法をドレインするのではなく侵食する。吸魔、悪く言えばサキュバス型の使い魔さ」
「……」スーシィは敵をあますところなく見るが、普通の少女に見える。
「驚きようが凄いわね。そんなに私ってば強いかしら」
「レヴィニア、調子に乗るなよ、あの程度の魔法で痛いと言っていたら裂かれた瞬間に私たちの負けだ」
「裂くですって? ほんと……なんて恐ろしいことを言うの。やっぱり私はあの無口な男の子の方がいいわ……あの逞しい体、とても素敵だった」
「もういい、憑依に戻れ」
「んもう、憑依している間は喋れないんだから少しくらい喋ったっていいじゃない」
レヴィニアは黒い霧のようになってエリサの体に再び纏わり付いていく。スーツ姿は再びスーシィの目の前に立った。
「恐ろしい使い魔ね」
「ふん、首輪で魔力を遮られていると思うが立てるか。お前を捕虜としてこちらの要求を通させてもらう」
「そんなことをしなくても解放するわよ。ただの小手調べだったんでしょ」
「さて、どうかな」
2人は校舎の中に入ると一斉に多数の教師に囲まれる。
「学園長!」
「(お前たち、状況は)」
『脱出は可能です』
「(よし、私がペンを置いたら戻って来い)」
にらみ合いの最中にエリサはスーシィの首に杖を当てて声を張り上げた。
「全員一歩も動くな。人質の交換だ」
部下を連れてくる教師にエリサは違うと言い放つ。
「部下の身柄は必要ない。私が要求するのはこの学園にいる生徒16名の命をこちらに譲るという契約だ」
スーシィを含めた教師たちに動揺が走る。
「生徒は関係ありません」
「いいや、関係ある。お前らの学園を襲撃したのは最初からこの要求を呑ませるためだ。使い魔ユウトによって我がプテラハのイクシオンは半壊した。この責任はお前たち学園側にある」
「無茶苦茶だ、勝手に討伐しようとしただけだろう」
エリサは杖をその声のする教師に向けた。
「どこにそんな証拠がある? 民を襲われたことで守らざるを得なかったと言ったら、それをお前は否定できるか」
教師たちは全員黙ってしまう。スーシィは無言で意識だけを保っていた。
「理はこちらにある。学園長の言葉が無ければ承認できないと言うのであれば聞いてみれば良い」
スーシィは首かせを緩められると咳き込みながら四つん這いになり周囲を見渡す。
「……生徒16人と言ったか、例えその16人を選定したとしても本人の意志はどうする」
「今それが関係あるか? 黙って要求を呑んで貰う。この場は学園長の命でもいいが、そのあとはきっちり16人分の代償を払って貰う」
目の前に提示されたのは契約の書面だった。
「国際条約違反だ。お前は今国際レベルの犯罪を犯している!」
男の教師が1人走り込んでくる。その手に握られた杖をエリサがノンスペルで吹き飛ばした。
「何ッ? 杖なしで――」
「言っておくが、部下を捕らえたところで私が下手に回ると思ったら大間違いだ。今この場でサインしないのであれば、ここにいる学園長を殺す。その後はこちらで殉職した16人分のメイジを殺す」
「殺す? 何故そのような横暴が許される」
「我々の同胞を死に至らしめた要因を作ったのはお前たちだからだ。責任を取って死んで貰うのは至極当然のこと。無論、こちらの要求を呑むのであればこちらの選んだ16人は命を繋ぐだろう」
スーシィの手前に羽ペンと書類を置くエリサ。
「学園長!」
先の教師がエリサの置いた書類に火の粉を放つもその魔法は悉く打ち消される。
それを打ち消したのはエリサではなく、捕まえていたはずの部下だった。その全員がエリサの背後にいる。
「なにを……」
「私の足元が部下の転送地点なだけだ」
「転送装置付きの魔法靴だと? プテラハではそんな魔法具を開発しているのか?」
スーシィは手元にペンを置いた。契約書を奪うように取るとスーシィを突き放す。
「確かに契約は成立した。以後、私の選んだ16人は私の部下とさせてもらう」
「部下だと?」「待て、それは略奪だぞ!」
「不満があるのならお前たちの王に報告し我らプテラハのメイジと事を構える覚悟をしろ。自分達の尻ぬぐいすらできない国に勝算があるのかよくよく考えてな」
エリサたちはスーシィを残してどこかへ光と共に消えた。
「ふん」
女は机を蹴り上げて足場を崩した。スーシィが机の影になったところに女は高速詠唱で風の刃を三連放つ。
スーシィのマントだけがぼろぼろに舞い、机も3つに落ちた。しかしその中にスーシィの姿はない。
「消え――」
『隊長、後ろです!』
咄嗟に防御の姿勢になった女にスーシィは巨大な岩の鉄槌を直撃させる。
刹那、空間が衝撃で歪み窓ガラスが粉々に砕けた。部屋の壁を3枚貫通して女は3つ目の部屋の壁に体を強かに打ち付けて停止する。
『魔法陣固定完了しました』
「よし、私のチューナーにしろ」
『ルージュ』
女のスーツに白い閃光が走る。体の骨折の全てが瞬く間に再生する。先ほどの女の動きとは全く違う異質な速さでスーシィの目の前までわずか零コンマだった。
衝撃波を受ける部屋の壁が軽く揺れると、スーシィの体は同時に15回の連撃を受けて反対側の部屋を突き破っていく。
「――あり得ない、魔法使いの戦い方じゃないっ」
4つ隣の部屋でスーシィは華の掛け軸が落ちるのと同時に立ち上がった。
穿たれた15の攻撃全てに呪い(活性)のスペルが付加されており、スーシィから体力を奪っていく。
「いや、これがイクシオン……」
スーシィは杖を振って自室に空間固定を掛ける。先ほどマントに仕込んであった小瓶がどれほど防御に使われたのかなど今は考えたくも無かった。
『隊長』
「わかっている。完全に閉じ込められたが問題な――」
刹那の白。部屋そのものが閃光と共に炸裂し、3階の高さから女の体だけが飄々と吹き飛んでいく。
「(ダメージが無いと分かっていながら部屋から引き離した。まさか――)」
「お前たち、移動しろ」
『隊長、敵に見つかりました。多数です』
「く……わかった、無駄な抵抗はするな」
学園の裏、林の中に落ちた女の前にスーシィの姿が現れる。女の白い閃光は消えて今は黒いスーツのままふくよかな胸の前で腕を組んでいた。
「一時が万事、とでもいいに来たのか」
「そこまで傲ってはいないわ」
「ならば何故やって来た」
「個人的に多勢に無勢というのは好きじゃないのよ。私たちの方はまだ決着がついてない」
そうでしょと言うスーシィに女はにたりと口元を歪めた。
「それが傲りというものだ」
女が走り出すと同時、スーシィの体ががくりと痺れたように止まる。
「な、に……」
咄嗟に杖を構えようとするも持ち上げた先から動かなくなる。
女は杖をはじき飛ばしスーシィを組み伏せた。魔法具をスーシィの首に装着させるとスーシィの瞳が虚ろになっていく。
「よくやったレヴィニア」
黒いスーツが後ろの空間に溶け込み人型を形成していく。女の姿はマントに長袖のジャケット、紺色のズボンと膝まである茶けたブーツに変わっていく。
「はあ、痛くて解除されちゃった」女の隣りに鈴の音のような声が響いた。
子供に似た髪の長い人間。ピンク色のそれは黒いドレスを身に纏ってスーシィに対して丁寧にお辞儀をした。
「敵の魔法を受けるのがお前の役目だ」
「そうだけど、はあ……。この間の使い魔みたいに魔法を無効化できるんだったら私エリサじゃなくてそっちに憑依したいわ」
「どういう、こと……」スーシィが震える声でその2人目を見る。
「私の使い魔だよ。憑依のルーン、この使い魔自身の能力はさっきお前が受けた通りだ。敵の魔法をドレインするのではなく侵食する。吸魔、悪く言えばサキュバス型の使い魔さ」
「……」スーシィは敵をあますところなく見るが、普通の少女に見える。
「驚きようが凄いわね。そんなに私ってば強いかしら」
「レヴィニア、調子に乗るなよ、あの程度の魔法で痛いと言っていたら裂かれた瞬間に私たちの負けだ」
「裂くですって? ほんと……なんて恐ろしいことを言うの。やっぱり私はあの無口な男の子の方がいいわ……あの逞しい体、とても素敵だった」
「もういい、憑依に戻れ」
「んもう、憑依している間は喋れないんだから少しくらい喋ったっていいじゃない」
レヴィニアは黒い霧のようになってエリサの体に再び纏わり付いていく。スーツ姿は再びスーシィの目の前に立った。
「恐ろしい使い魔ね」
「ふん、首輪で魔力を遮られていると思うが立てるか。お前を捕虜としてこちらの要求を通させてもらう」
「そんなことをしなくても解放するわよ。ただの小手調べだったんでしょ」
「さて、どうかな」
2人は校舎の中に入ると一斉に多数の教師に囲まれる。
「学園長!」
「(お前たち、状況は)」
『脱出は可能です』
「(よし、私がペンを置いたら戻って来い)」
にらみ合いの最中にエリサはスーシィの首に杖を当てて声を張り上げた。
「全員一歩も動くな。人質の交換だ」
部下を連れてくる教師にエリサは違うと言い放つ。
「部下の身柄は必要ない。私が要求するのはこの学園にいる生徒16名の命をこちらに譲るという契約だ」
スーシィを含めた教師たちに動揺が走る。
「生徒は関係ありません」
「いいや、関係ある。お前らの学園を襲撃したのは最初からこの要求を呑ませるためだ。使い魔ユウトによって我がプテラハのイクシオンは半壊した。この責任はお前たち学園側にある」
「無茶苦茶だ、勝手に討伐しようとしただけだろう」
エリサは杖をその声のする教師に向けた。
「どこにそんな証拠がある? 民を襲われたことで守らざるを得なかったと言ったら、それをお前は否定できるか」
教師たちは全員黙ってしまう。スーシィは無言で意識だけを保っていた。
「理はこちらにある。学園長の言葉が無ければ承認できないと言うのであれば聞いてみれば良い」
スーシィは首かせを緩められると咳き込みながら四つん這いになり周囲を見渡す。
「……生徒16人と言ったか、例えその16人を選定したとしても本人の意志はどうする」
「今それが関係あるか? 黙って要求を呑んで貰う。この場は学園長の命でもいいが、そのあとはきっちり16人分の代償を払って貰う」
目の前に提示されたのは契約の書面だった。
「国際条約違反だ。お前は今国際レベルの犯罪を犯している!」
男の教師が1人走り込んでくる。その手に握られた杖をエリサがノンスペルで吹き飛ばした。
「何ッ? 杖なしで――」
「言っておくが、部下を捕らえたところで私が下手に回ると思ったら大間違いだ。今この場でサインしないのであれば、ここにいる学園長を殺す。その後はこちらで殉職した16人分のメイジを殺す」
「殺す? 何故そのような横暴が許される」
「我々の同胞を死に至らしめた要因を作ったのはお前たちだからだ。責任を取って死んで貰うのは至極当然のこと。無論、こちらの要求を呑むのであればこちらの選んだ16人は命を繋ぐだろう」
スーシィの手前に羽ペンと書類を置くエリサ。
「学園長!」
先の教師がエリサの置いた書類に火の粉を放つもその魔法は悉く打ち消される。
それを打ち消したのはエリサではなく、捕まえていたはずの部下だった。その全員がエリサの背後にいる。
「なにを……」
「私の足元が部下の転送地点なだけだ」
「転送装置付きの魔法靴だと? プテラハではそんな魔法具を開発しているのか?」
スーシィは手元にペンを置いた。契約書を奪うように取るとスーシィを突き放す。
「確かに契約は成立した。以後、私の選んだ16人は私の部下とさせてもらう」
「部下だと?」「待て、それは略奪だぞ!」
「不満があるのならお前たちの王に報告し我らプテラハのメイジと事を構える覚悟をしろ。自分達の尻ぬぐいすらできない国に勝算があるのかよくよく考えてな」
エリサたちはスーシィを残してどこかへ光と共に消えた。
苔の生えた城壁の中に差し込む日の光は灰色の岩盤を強く照らし付けていた。
学園の主都ウルラ。ここにそびえ立つ宮殿にフラメィン学園長のスーシィは園長着任以来、約2年ぶりに再び訪れることとなった。
「王様がお待ちです」
荘厳な扉の向こうに広大な空間が広がる。ぽつんと向こう側に見える金色の座が玉座だった。
「スーシィ学園長、これはどういうことなんでしょうか」
護衛の人数が明らかに少なく、この大広間に至っても謁見の間だというのに十人に満たない護衛しかいない。
「前に来たときよりさらに減ったようね」
「わけがわかりません」
近づいて行くと華奢な王の姿が徐々に輪郭を持って露わになっていく。
「止まれ」
20歩の距離、しかし声はよく通った。
「ご報告致します」女侍従長の用件が淡々と述べられる。内容は学園内での先の出来事であった。それを顔色1つ変えることなく王は聞いている。
「以上になります」侍従長の声が終わると王はしばし間を空けて明瞭に言った。
「まずはこの場を許せ異国の女王よ。そして返答は『良い』だ、今はそちらの問題に取り合っている暇が無い」
少女の声だった。スーシィは慣れない声を頭の中で反芻しながら顔を上げる。
「取り合っている、暇が無い……?」
「そうだ、イスムナの女王よ。我らは今それどころではない」
「優秀な生徒が16人も他国へ横奪されようとしております。それ以上に由々しき事態がありましょうか」
教師の1人もスーシィの後ろから付け加えた。
「黙れ、玉座の前で不遜は許さん。王様がどれほどお心を痛めておられるか――」
王は細い腕を上げて侍従長の言葉を遮る。
「心など痛めておらん。ただ、あれがなくなるということは凶兆でしかない故……」
言葉はそこで止まり、空白の時間が流れて行く。そっと侍従長が王の顔を覗き込む。
「王様はお疲れのご様子――」
「や、起きておる」少女は前髪を手で軽くとんと叩くと正面を見据えた。
「イスムナの女王よ、ここに来た本当の理由はなんだ。まさか、よもや我に助言を求めにやって来たわけでもなかろ」
「……救援を頂ければと」
「救援? は、馬鹿を言うでない。そちらの学園にはもはや一国の軍隊並の戦力があるではないか。逆にこちらに人員を回して欲しいくらいだ。正直に申せ」
「今から2年前にア・レジスタル・エリス・ベルという少女が罪人容疑の記録に残っているはずです」
教員2人の顔が驚きに変わる。
「ほう、人型の4の使い魔ユウトに関する話よな。確認せよアニラ」
「罪状者の名簿を」
しばらくして、王にその名簿が提示される。
「確かにいる。容疑者専用の首輪を付けて帰したと思うが」
「その者が禁忌であるスペル化によってユウトに憑依、これが暴走した……」
「そう聞いておる」
「では、その首輪の行方はご存知でしたか」
「それは知らん。しかし、それが機能しなくなれば報告書に書かれるはずだ」
「確認致します」
侍従長が名簿を確認すると声を上げた。
「ここには首輪の機能停止については書かれていません。つまり、機能はしています。首輪はコントラクトの力で管理しておりますから、間違いありません」
「つまり、首輪はユウトかアリスに付いたままということを意味するでしょう」
スーシィの言葉に王は表情を変えない。
「しらなんだ」
「恐らく首輪を破壊すればどちらかが絶命し、使い魔ユウトは活動を停止します」
「つまり、いつでも止められるとな」
「はい、彼女らの命は王様の手の中にあると言えます」
「確かに確証のない話ではあったが、何故2年も経った今になってそれを伝えた?」
「なくなったものについて教えて頂きたいのです」
侍従長は身を乗り出して憤激する。
「貴様! 王様と袖較べのつもりか! 遠国の女王風情が不遜にもほどがあるぞ!」
王は少女の声で高らかに笑った。玉座を片手で二度叩くと、すと立ち上がる。次の瞬間にその表情は虚無に戻っていた。
「良いだろう。我を翻弄しようとした女王風情には1つ敬意を払いたい」
王は左腕を横に伸ばすと侍従長が焦りにそわそわとしながらその隣りに跪く。
「王様、お心をお鎮め下さい。今はタイタニアメイジの作戦実行の時、王様に何かあれば全体の指揮に関わります」
「では、我が愚弄されているのを貴様は黙って見過ごせというのか。自ら手討ちとすることの何が不満なのだ」
「私は王様の身を案じ――」
「黙れ……我にこれ以上の恥を掻かせることは許さん。それ以上の徒し言葉はお前の首を撥ねるぞ……」
侍従長が王に持たせた杖には五色のエレメンタルがねじ切られたような工芸があった。
「立て、遠国の女王よ。我と1つし合いといこうではないか」
細い体は重そうな衣装を引き摺りながら近づいてくる。
「何の為にですか」そう言いつつもスーシィは立ち上がった。
「何が為。決まっておろう、此処にいる者に我らがどういう存在なのか示さねばならん。でなければただ、お前は我に不遜を働く戯け者にしかならないでな。お前を処刑せねばならなくなる」
スーシィは自らの杖を手にして僅かな戦慄に気を絞る。
「他の者は下がらせよ」一斉に一歩後退する動きはまるで洗練された兵士だった。
無言の2人の間に石の冷めたい空気が流れる。
「一応名乗っておこう。この国の王である我はル・キルトラ・アカリヤ・ヤベル。サマロ国の王にしてアカリヤ王とは我である」
スーシィも杖を構えるが、どう見ても正面の王は少女だった。白すぎる地肌は人の温かさを感じない。青い瞳は冷たく輝き、ろうろうと輝く真紅の髪は腰の辺りでゆらゆらと風もないのに揺れていた。蝋人形のような顔立ちの美しさは逆に不気味さを覚える。
「私の名はス・ズロービン・シィラニコフ・ベル」
「我はお前を一民草としての敬意をもって言葉に表したのだが、これは正式な王国間の決闘だったか?」
「これだけの証人がいれば正式にできるでしょうね」
「我は王、それは傲りではなく事実としての王だ。その王にまた王としての名を連ねるお前は誠に――」
「私にはあなたが女の子にしか見えないわ。大人達の身勝手な都合で担ぎ上げられた王よ」
「……愚弄もそこまでいけば死罪かな。まあ良い、お前が勝てば何でも話してやろう」
「私も元女王と断って名乗った方が良かったかしらね」
それを合図に王の足元から白い光りが吹き上がる。
「lakuma irunka. kel jiyuna mikurioasikaioo dakiruea――(世は常に対照的である。それは我々の頭脳が対照的に出来ていることに起因する)」
王の詠唱の長さは全く過去に類を見ない。ただひたすらに詠唱を唱えるだけの王にスーシィは攻撃すべきと杖を振る。
「Flables explizt!(爆発の火!)」
杖の先から生まれ出た頭大の火は白いベールに溶かされ消える。
「無駄だ。我の詠唱を遮ろうと思えば、二等級以上の魔法でなければな」
「二等級……ですって?」
「それが我の装備(レジスト)だからだ」
王の詠唱はまだ続く。床に現れた魔法陣の数は無数に分裂していき、室内を埋めていく。
万華鏡のように部屋を燦爛と輝かせるそれに衛兵達も感嘆の声を漏らした。
スーシィはマントの中にある小瓶を1つ割って瞬間的な高出力魔法を生み出す。
「Kile nla Atem!!(爆ぜろ)」
熱風と炎の光に室内が白く瞬く。煙の中から杖を構えた王の姿。
「二等級と言えば二等級でか、凡人の域をでんな。そして我の詠唱は完了した。用意は良いか」
瞬間の閃光。スーシィの眼前にあったのは氷の針だった。身を屈めて数本を回避する。
「(速い!)」何十歩も先の石壁に虹色の破片となって散る氷のそれは全くのノンスペルで放たのだった。
「WukuA!!(守れ)」
大気を何百倍にも圧縮しわずかな氷の破片すら止めてみせるスーシィの杖はその出力に耐えきれず激しく踊る。
「sho(飛翔)」
王の杖は一瞬のうちに左右に振られると床にはめ込んである石畳が宙へ浮く。絢爛な杖を光の軌跡と共に振り石畳は無数の砂へと変化しスーシィの周囲を囲っていく。
「aka(統べる)」
砂はスーシィを呑み込んだまま拳の形容を成して圧力を掛ける。王は杖を回すように大きく振って天井を指す。風切り音が鋭く響いた。
拳の塊はそのまま天井に激しく打ち付けられて粉砕する。侍従長を含めた王の側近たちが天井をシールドして損害を防いでいた。
天井から現れたスーシィは杖を細かく振って砂を発火させる。
「Atera cuos(爆炎)」
王の周囲三十歩の範囲に及ぶ巨大な砂火の粉。大気の酸素を燃焼しながら花火のように降り注ぐ。
王の姿は炎に包まれ、不安の声が漏れる。
一方でスーシィは冷静に火の粉の囲いから離れて着地した。
確かな気配が炎の中から覗える。
「遠国の女王よ、さすがにこの程度ではなかろう。我を失望させるなよ」
城全体が揺れるほど巨大なマナの練り上げ。スーシィはその巨大な魔力に足が竦んだ。
「ura tuikna wdor――(現世の照魔鏡)」
炎の中から現れる紅い装束に身を包んだ王の姿が1つ2つ……。
「何……?」
朧気にその姿は3つ4つと増えていく。
「私とは明らかに違う複製の魔法ね」
ため込んだマナを媒体とした複製ではない、投射した複製。その証拠に重力を無視した空中にまで王の姿は現れる。
その数は悠に100を超えようとしていた。
「その姿は実体なのかしら? それともそこに見えているだけかしら」
「さて、どう思う? 私の魔法の真はこの照魔鏡にある。恐らくお前にもう勝ち目はないだろう」
天井に及ぶまでおよそ100の王に囲まれたスーシィは四方から撃たれる魔法に防戦一方となる。火、水、風、岩、ほぼあらゆる魔法が一斉に放たれる。
「う、詠唱力も魔力も全て同格での一斉攻撃なんて馬鹿な話……」
「その程度では国柄も知れるというものぞ」
スーシィの体は耐えきれず遙か後方に吹き飛んでいく。
「ri tolbalt a rich――(変格融合)」
スーシィの黒マントの中で小瓶が全て破裂する。赤の霧がスーシィの周囲に纏う。それは青いマナと混ざり紫色に変化(へんげ)する。
「明鏡止水とはよくいったものだ。互いの錬磨が常に最善手を導くのであればこの結末は必然。互いの切り札をこうして見せ合うという披露宴はなかなか乙なものだ」
スーシィは紫の竜の翼を背に持っていた。翼と尾が付きその周囲は熱と蒸気するマナで歪んでいる。スーシィ自身の肉体の変化なる亜人化。白い地肌はもうどこにもない。
「この戦いは死闘ではないはず。これ以上のし合いが必要なの?」
「お前は我に余興を見せているのだぞ。最後までその責務を全うせぬか」
100を超える王はゆっくりと円形に並列する。全員がスペルを詠唱し、杖から暴虐の砲撃を放つ。
竜化したスーシィは広間の柱を縫うように飛び、そこに滝飛沫の如く魔法の暴虐が襲う。
距離を取ったスーシィに魔法の雨が降り注ぐ。
「Aruia――(複製)」
スーシィの影が2つに分身する。
「なるほど、複製か……しかしそれだと、本当のお前は戦闘後に膨大な事象処理を強いられるはずだ。一歩間違えれば禁忌になる恐ろしい魔法を考案したものだな」
2人になったスーシィに王も纏まって対抗することはせずに分断することを余儀なくされた。王は同士討ちを嫌う戦闘スタイルに転換したことでスーシィ1人あたりの負担は常に十数人程度まで激減する。
「1つ答えて貰いたいのだけど、ユウトの件に対して国は問題視しているの?」
1人の王がスーシィの爪に切り裂かれる。魔法の雨の中で99の王が再び陣形を変化させる。円錐型になることで全方位に対応した同時攻撃を展開した。
「その問いを特別に許可すれば答えは否だ。我は問題視していない。しているのであれば、2年も放置するわけがなかろう」
「そんな馬鹿な! ユウトは世界を揺るがすマナの歪みを生み出す存在となったはず」
スーシィが魔法を被弾して一瞬後退する。
「ならばその憶測は間違っている。遠国の女王も目が曇ったようだな」
ノンスペルでスーシィの腕から色が伸びる。マナの凝縮された剣が王の陣形を両断した。
「ふむ。確かに実体をごまかしてしまえばいくらでもマナは流用できるし、スペルも不要か。これは面白い」
女王は再び陣形を変える。天井から半球型の陣になりもはやスーシィを狙うこと無く空間全てを焼き払う豪火を放つ。
「あ、あなた……」
スーシィは咄嗟に部下の前に立ってレジストを展開した。
「これで酸素量はほぼゼロになっただろう。ここからはマナを吸って生きるしかなくなる。もはや大魔法は使えぬ」
スーシィの体が1つに戻っていく。王の体も1つに戻っていった。
「遠国の女王よ。私からも1つ質問させてもらおう。お前の国にあったファンタスへの鍵はどうした? 消えているようだが」
「随分昔の話よ。黄金の暁十二師団、奴らが来た時私の母上が死んだわ」
「なるほど、しかしそれは本当の意味での死ではなかろう。イスムナの女王は決して死なぬと聞く」
「ええ、しかし父上は本当に死んだ。そのせいで母は正気を失い行方を眩ませた」
「黒い髪はそのせいか。ファンタスの毒に当てられよく生きていたものだ」
「ファンタスの毒……ね」
風の層が光の屈折によって知覚できる。詠唱無しで迫って来たそれを僅かな差で躱すとスーシィのマントが真っ二つに裂けた。
「殺すつもり?」
「二度言わすな、死罪である。それに我はまだお前と決着をつけておらん」
「じゃあ、死ぬ前にもう一つ教えて貰うわよ。この国が失った神器は何?」
「我の質問から我の問題を当てたか、頭は回るくせに礼儀を知らんとはとんだ女王だ」
「よほど言いたくはないようね」
スーシィは構えた杖と空間に魔法陣を展開する。王が驚愕に声を荒げた。
「これは……ダブル……トリプル……クワドロプルスペル!」
一度に放たれた黒の弾丸は王の身を裂くように思われた。しかし、それは直前で軌道を曲げて地面に跳ね返る。
王は身構えた手の間から酷烈な視線をスーシィに突き刺した。
「全く、興が削がれるわ。消滅しない魔法がどれほどリスクの高いことか」
「怖じ気づいたの? それなら良かった」
「戯け。我を小娘と言い、その後は怖じ気づいたかだと……よほど死にたいと見える」
振った杖からそのまま軌跡が発光して鞭のように色を残す。
スーシィはその光線を紙一重で避けるも後ろにあった柱はその鞭の部分だけ綺麗に消失した。
背後を確認してその石をも溶解させる威力に息を呑む。
「純粋圧縮のマナ……しかも運用量が大魔法クラス……」
「メイジの頂点に立つのが王である。そこには性別も歳も関係しない。お前も王であるために身を削ることを容赦なく求められたはずだ」
青い瞳には色がなかった。どこまでも感情を殺した声にスーシィは頬を緩ませる。
「ええ、わかるわ。王の地位と力を守るために私もあらゆるものを捧げた。でも、人間は誰でも欲を持つ生き物だわ。それは絶対に変えられない、生きている以上は王だけの器には留まれない」
黒い弾丸が石壁を跳弾してスーシィの真横を横切った。
「ユウトはね、王として生きる道で苦しむ私の目を覚まさせた。生きる力をくれた使い魔なのよ。だから、私は彼を助けるためにこのリスクを甘んじて受け入れる!」
さらに用意される魔法陣は地面に8つ。全て先ほどと同じ弾丸だったが、それが狙う場所は王ではなかった。
「馬鹿な……12の魔法を同時に操作などできようはずがない……」
「操作なんかしてないわよ、してればとっくにあなたに攻撃されてる。これは『賭け』よ」
王の唇が歪んだ。わずかに見せた王の焦りは今までで最も人間らしい。それ故に王は自分の感情を制御できなくなっていった。
「お前は愚か者だ! 一歩間違えれば死角から跳弾した魔法の弾丸が体を貫く! その確率は10分に1回は確実だろう、何が賭けだこんなものは正気の沙汰ではない!」
「元はと言えばあなたが部屋の空気を消し去ったからこうなったのよ。言ったわよね、最善手が状況を作り出すと、あなたの頭の中ではここから勝利の道を算出できないの?」
「わ、私は……」
「計算だけが売りの王なんて聞いて呆れるわよ。戦いは計算じゃない、不確定要素を有利に動かすだけが戦いの全てでは無い。環境さえ変われば実力は五分になり得る。それはどちらが先に死ぬかという究極の定義に帰結するものであればそれもまた戦いなのよ」
「戯れ言を……私を愚弄し、このようなつまらぬ賭け合いの策を弄するなど品性というものを知れ女王」
王は背後からの衝撃に両手を地面に突く。あたった弾丸でレジストである衣装が砕け散った。それが2等級のスペルであったことに驚愕する。
「我が、私になったわね」
「き、貴様……」
アカリヤ王は杖を握りしめて立ち上がった。再びスペルを詠唱した。
「なぜだ……何故魔法が発動しない」
「この空間のマナ量は術者の防壁魔法で一定量に固定されている。加えて2等級魔法が12個展開され続けていれば後に残ったマナはここにいる全員が吸い尽くし始めているのでしょう」
「馬鹿な……そんなはずは……」
「そうね、本来ならないところに補完されるのがマナの性質。でも勉強不足だわ、息を吸えなくなるということは私たちの生命維持がマナ消費に取って代わると云うこと。極限に薄まったマナの中では魔力をスペルとして構築するより先に生命維持が本能で優先される。あなたのメイジとしての素質の限界がこの地点なのよ」
「王様! 防護壁を解除致します!」
「ならん! 今解除すれば弾丸はお前たちをも貫くだろう」
「し、しかし我らの命より王様の――」
「ならんと言っておるのだ。私に死より重い敗北を味合わせるつもりか」
「……は、はっ」
スーシィにも余裕はない。首筋を掠めた弾丸がスーシィの横髪を寸断していった。
「仕方あるまい、どちらが王としての器かは、神に委ねようではないか。それほどまでに実力が拮抗していたことに驚きを隠せないが」
「あら、心外だわ。私はあなたのような少女が私と同じ実力にあったことがむしろ脅威よ。どこの王もこんなに強いんじゃ滅多なことで争いは起こりそうにもないわね」
「私など他国から見れば毛並みの悪い王に過ぎん。他はもっと純粋な魔力の桁が違う」
スーシィの腕が吹き飛ぶ。片膝を付いてスーシィはマントの切れ端を腕に巻き付けた。
王の足元に転がったスーシィの腕を見て王は哀れみの視線を投げる。
「ほんに正気の沙汰ではない。しかし、負けを宣言するつもりもない。お前が自滅するというのなら私は黙って見ているだけだ」
「ふふ、もし仮に魔法を解除して戦ったとしても大魔法なしで決着など付けられるはずも無い。素手で殴り合った方が早いくらいよ。そういう意味ではこれが一番最善だわ」
「そうかな。弾丸の12を維持し私の魔法を封じているつもりかもしれんが、案外策はありそうだ」
王は柱に近づいて行く。柱を背にスーシィと向かい合う。
「はっ……」
「仮にと言ったが、構造上ではこの柱は壁だ。これで跳弾が背中から襲ってくることはない。となれば後は正面と左右。お前を正面に据えた今の状況で果たして弾丸が私に当たる確率はいかほどだろうか」
「確率は変わる……」
「そうなるだろう、そして貴様の腕からの出血は魔法陣を1つ解除して回復に回すべきだ。でなければ出血で意識は消え、魔法陣もいずれ崩壊する。さらに回復魔法を使おうとすれば私の攻撃魔法とどちらが速いかは言うまでもなかろう」
スーシィの顔は徐々に青くなっていく。正面の王は目を瞑ってただ時を待っていた。
「降参するのだ、遠国の女王。お前は充分に我を楽しませたのだ。もう死罪とは――」
「u gal doa――(魔石の球)」
13個目の弾丸が発射される。それは王の脚を砕いて跳弾し影に消える。
「はっ……そんな、魔法は使えないはず……」
「あなた、ちょっと図に乗りすぎよ。私は勝つわ、この程度で恐れていて戦いが務まるわけないわ」
魔法陣はスーシィの腕から発生していた。
「自らの体の一部を触媒にしたのか……しかしこれでは……」
空間に歪な音が鳴り響く。弾と弾がぶつかる不協和音が耳障りなほどに鳴り始めた。
「まて、何故だ? なぜ弾が同じ周期上に並列し始める」
「それが物の性質でしょう。マナは重力の制限を受けない。そして塵は同じ周期上に流れ始める」
「弾が塵と同じ……」
「不規則性に違いは無いわ。一見ランダムに見えても繰り返していくことでその中に密集する空間とそうではない空間が生まれる。その流れはやがて1つの規則になるのよ」
「意志を持つというのか……」
「意志では無く、法則よ」
その弾丸は空間を生き物のように密集して飛んでいる。スーシィはそれに干渉するために杖を伸ばした。
「Bala(集え)」
王の正面に弾の群が迫る。回避も防御も追いつかない速度で一面に王の衣服が散った。
スーシィは王の打倒を確認する。しかし、その違和感に気がついたときスーシィは自分がまだ一歩も動いていないことを思い出すように赤い絨毯を足元に感じ始めた。
「流石であった」
20歩先からの言葉。わずかに疲弊を思わせる王の言葉にスーシィははたと顔を上げる。
「我の幻を打ち破り、自我を取り戻した。誠に見事だ」
背筋が冷たい汗で覆われて自身のマナが枯渇寸前なのを知ったスーシィは奥歯を噛んだ。
「幻影魔法……この国の神器は鏡?」
「左様、正確には黄金鏡だ。とてつもなく悪性の神器。今はその割れた破片をお前に見せたに過ぎない」
「私がそれを見て死んだらそこまでの話になるところだったのね」
「黄金鏡は見た者の心を惑わす神器。死ぬかどうかは人それぞれだ」
「一体いつから取り込まれてしまったのか、まるでわからなかった……」
王は短く溜息をついて視線を下げる。
「この神器の恐ろしさはそこにある。見ようと思っていた時と見た時の認識がずれるようなのだ。結果としていつの間にか求めた者の心を操り、支配してしまう。故にこの国では幾重もの厳重な保管によって守られていた」
傍らに控えていた侍従長が険しい顔つきで口を開いた。
「王様、それ以上は配下達の手前何とぞご容赦ください」
「我とてこのような話はしたくもない。しかし、お主らの中にこの鏡を見てみたいと思う者はいるか? 破片ですら危険な代物、奴らが盗んだ大部分は今もこの世界のどこかで使われているのやもしれんのだ」
「それは何故破片になったの」
「もともと分割したものを封印していたのだ。1つにするには強大すぎる力故の神器だからな」
王は閉口したように見えるスーシィに嘲笑にも似た声をわずかに上げて見据える。
「わかったであろう。これが我が国を挙げて事にあたる次第だ。マナの歪みどころの話でない。我らは明日にでも黄金鏡に取り込まれ、いつの間にや支配されておるかもしれんのだ」
スーシィの自嘲したような声はふと王の中の心をざわつかせた。
「ユウトがいればその問題がより早く片付くとは思わない? あの使い魔はルーンの力を無限に行使する神器のような存在。私が此処に来たのはあなたの協力があって初めてユウトを元に戻す算段がつくことを計算できる段階になったからよ。時間が惜しいのはこちらも同じ。かといってここで歩み寄らなければ2つとも逃すことになりかねない」
王はわずかな静寂に思考を巡らせて玉座から杖を2回振る。瞬きの間に一面の光が集束し人の形を象る。
「なっ、調停者!」
侍従長は焦りのあまりに王の顔を窺った。
「砂漠の女王、こちらから出せるのはこの人材だけだ。お前には戦果を期待する。これは、パートナーとしての契約だ」
言下に振り返った少女は赤い瞳に赤い髪を携えた鋭い気配の少女だった。
「ルルーナ。これから一時的にこの者に協力し、使い魔ユウトを手中に収めよ。アカリヤ王の命令ぞ」
「承知いたしました」
少女同士の奇妙な会話にスーシィらは気味の悪い気分を味わいながら一礼する。
「ご助力感謝いたします」
ルルーナの放つマナの気配はかつてのフラムと変わらなかった。
その頃、学園の中では生徒がプテラハに連れて行かれるという噂で持ちきりだった。
混乱の中で退学を申請する者も後を絶たず、何故そのような噂が漏れたのかは教師も究明までには至らなかった。
そんな最中、会議室ではスーシィの失態とルルーナという強力なメイジをどう扱うのかが話し合われている。
「スーシィ学園長、私たちの生徒が16人もプテラハに譲り渡す契約を署名したというのは本当ですか。それも学園長自らが捕らわれ、自らが助かるのと引き替えに」
ホワードは年甲斐もなく声を荒げて円卓に身を乗り出す。
「ですからあの時私は言ったのです。生徒を第一に考えず、特待生などというかたちでアリス事件に関わる生徒を呼び込むのは反対だと」
ユーレスが冷静な顔で両手を組んだ。
「私も言及したいことがあります。スーシィ学園長はイクシオンのリーダー格と思われる者をなぜ追撃したのかということです。私たちが部下を捕らえたことで一時はこちらが有利だった」
「過ぎたことを……問題は生徒がプテラハのメイジによって危険に晒されているということではないのか」
スーシィは教師たちの会話を聞いて頭を抱えるように片手を上げる。
「あの、スーシィ先生」
「学園長よ」
マレアスが半泣きになりながらスーシィに小声で訴える。
「もう少し、マナの放出を抑えて貰えませんか……僕これじゃあとばっちりです」
「こっちは女王に神器で取り込まれそうになってヘトヘトなのよ。悪いけれど手加減してるほど余裕はないわ」
そう言うとスーシィの手から水が伝って円卓を光らせる。
論争の最中にあった者達も円卓の上に流れる水にはたと気づいてスーシィを見た。
「何の真似ですか、これからどうしようかというときに」
スーシィはこの水を瞬時に凍らせる。
「私たちに必要なことはこれからではなく、この事態をどう凍結させるかよ」
「凍結ですと?」
「使い魔ユウトが全ての事の発端になっているのならあなた達はただ時間稼ぎをすればいい。私の教え子が帰ってくるまでのね」
「例の出自不明の学生ですか。確かに彼女は4の使い魔を召喚した稀少なメイジではありますが……あれはアリスのそれとは違い魔力を有する4の使い魔ですぞ」
「その側にイノセントドラゴンがいることはご存知?」
全員の顔色がわずかに変わったのをスーシィは見逃さない。
「とんだ茶番ですな。もしそのような事が事実であれば、私たちが身を粉にして集めた特待生など鼻から不要ではありませんか。もともと特待生そのものが囮だったということになる」
「なんということを……私たちを騙したのか」
「いえ、まったくの囮というわけでも無いわ。本当にユウトに匹敵する使い魔を出すものが現れるかもしれない。その可能性も少しは考えている」
けれどとスーシィが続けるのに誰も口を挟まない。否、挟めなかった。空間を満たすのはスーシィの放つ異質な冷たい空気。教師たちが何か言を発する度にその温度は低くなっていき、それが無言の圧力だと分かっていながら教師の誰1人としてそれに対抗できなかった。
「本当にそれだけでユウトをどうにか出来ると思っているのかしら。炎神フラムと呼ばれる四大魔術師を破ったユウトに今この国でまともに戦える者がいるとしたらそれは誰? 断じて昨日今日で入学した特待生なんかじゃないわ」
もはや口を挟むのも烏滸がましい。四大魔術師はフラムが最後の1人となって久しく、ここ百年余りはそれぞれの国が魔法の力を変化させて強さを求めていた。
「私は自分への最後のけじめとしてここに留まっているだけの人間よ。この国の王でさえただでは協力しなかった。その意味をよく考えなさい」
スーシィは無言のうちに光の粒となって消失する。その姿が実体ではなかったことに気づかされ皆が驚き恥じ入っていると、王の謁見に同伴していた教師が徐に口を開いた。
「我が国の王はそれでも力をお貸しくださいました」
「ルルーナといったか?」
「はい。見かけは少女のようですが、実力は恐らく期待できるかと」
「王様の派遣だものな、相当に違いない」
そうだと騒ぐ教師の中でユーレスだけは悲愴な面持ちで声を荒げた。
「違う……そうじゃない、そうじゃないです!」
その形相に教師たちの浮いた心も淀み始める。
「これは過去の異名である炎神フラムという名を試しているんです。もはやユウトという使い魔を倒すことこそが四大魔術師を超える一つの指標とされるという意味にとって変わった。これが、これこそ王の考えに違いありません」
「た、確かにフラム学園長は名高き四大魔術師の1人ではあった。しかしそれはもう百年以上も昔の話であって――」
「では、逆に伺います。手っ取り早く自国の魔法使いが最強であることを示すにはどうすればいいと思いますか?」
「それは……」
教師の誰も意見は述べられなかった。それが逆にユーレスの言葉を肯定しているようである。
「ユウトという使い魔が四大魔術師の指標となるのであれば、それは各国がこぞって狙うに値する。いや、実際もうすでにプテラハは狙っているがユウトの居場所が分かってしまえば今後ともその使い魔は狙われ続けるだろう」
瞳の奥で漆黒を映す中年の男は落ち着き払った声で淡々と言い終えると円卓から立ち上がる。
「私たちにはスーシィという異国の王女を学園長にした責任がある。彼女の方針は間違ってはいないし、世界をこれ以上混乱に陥れるのは得策ではない。今は黙ってプテラハの要求を呑むべきだ」
そう言い残して男は空間にスペルを綴って転移する。
教師たちはそれぞれに言いたげな顔をしながら独り言のように呟いた。
「プテラハの言いなりになるなど……生徒には何と説明すれば良いのだ」
「いっそ、試験を作りませんか?」
ひらめいたようにマレアスは身を乗り出す。若さ故の明るさは教師らにもわずかな光を与えたようだった。
「まずプテラハという国は魔法軍隊として知名度が高いことを生徒に知って貰いましょう。我々にとっては優秀な生徒が他国に行ってしまうのはマイナスになり得ますが、やる気を出させることがまず必要です。彼らの中にプテラハに行きたい者があればそれを後押しし、教育水準を同じにして実力に差が無くなるようにすれば彼らも志望する者を取らざるを得ないはずです」
ホワードは白髭を掻くようにして長杖を持ち直しながらマレアスを見つめる。
「マレアス君」
「はい」
「君は1つ重要なことを見逃してないか。彼らが魔法軍の中でも恐らくはトップのエリートたちであると云うことだ。教育水準を同じにして特待生制度の意味がなくなってしまっては魔法界そのものの損失に他ならない。であれば、彼らに我が国の人材損失の穴埋めを教育費などで打診するか、もっと他の強攻策が必要だ」
それに賛同したのは風の魔法使いロジャーだった。
「私もそう思います。プテラハの言い分を鵜呑みにしては魔法界そのもの、延いてはこの世界の均衡さえ危うくなりかねません」
薄緑色の帽子の下に影が落ちるとロジャーは立ち上がって円卓に残る教師を見た。
「私たちは魔法使いである前に教育者でもあるのです。誰が好んで他国のために優秀な生徒を育てるのでしょう。売国奴どころか教育者としての鑑にもならない。教育費などというもので彼らが支払いをするとも思えない。もはや私たちには特待生に教えることが出来るものなど何もないのです」
教師達はそれぞれが頷きロジャーの言い分をもっともだと褒めそやした。
「では、使い魔召喚の儀に細工を施すしかありませんな。皆もそれでよろしいですかな」
広い平原の中、転送先に集められた特待生は集合授業を行うと聞いていた。
いよいよ使い魔の召喚が始まる。そう囁かれていた生徒たちの目の前に1人の人物が立つ。木造りの台から小さい体を突きだして声を張り上げた。
「今日はあなたたちに使い魔を召喚して貰うわ。こちらから1人ずつ、召喚と契約を交わして4の使い魔を召喚できた者は晴れて特待生から優遇生となれるわよ」
「優遇生ってなんですか」
「王国神官クラスの職位が約束される特別な生徒よ。それじゃ、時間も惜しいから早速始めるわ」
特別な魔法陣が9つ用意されその前に特待生が列を作り始める。
数にして2090人。
多くの教師がその誘導作業に追われる中、陣を管理する教師は固い表情で生徒たちの詠唱を見守っていた。
「3の使い魔ですね」
呪文を教わり召喚を行っていく生徒たち。異形のモンスターから愛らしい動物まで呼び出されるも、そのほとんどが3の使い魔だった。期待外れに肩を落とす者から愛着を持つ者、契約を結ぶのに戸惑う者など滞りはなくその作業は進んでいく。
それでも元々の素質が高いため、詠唱を覚えてから扱うまでの時間はものの数分しかかからない。
ほぼ半数を終えた頃にはすっかり日が沈み、夜も深くなっていた。
「今日はこれで終わりにします。召喚を終えなかった者は明日またここへ集まって下さい」
スーシィが生徒全員を見送った後、固い表情でその場を後にすると教師たちは示し合わせたように集まる。
「大丈夫だったか」
「1人も4の使い魔は召喚していません」
その言葉に安堵する一同。アンナやマレアスはその場からそっと離れた。
「何処へ行くんだ2人共」
アンナは小さい肩をびくりと震わせて光の魔法に白肌の顔を映す。
「私はルネアの様子を見に行くだけです」
アンナがそのまま去って行くとマレアスは振り返りながら真っ直ぐにユーレスを見た。
「ここにいる皆さんはどうかしています。魔法を修めることがどれほど苦難に満ちたものであるかは皆さんが一番よくご存知のはず。なのにその生徒たちのパートナーを決めるたった1度しかない召喚の儀に細工するなんてそれこそメイジの鑑にもならない」
教師たちの顔に動揺が走る。ホワードが重々しくマレアスに近づく。
「君も賛同してくれたんじゃないのか。こうしなければ我々は母国を裏切ることになるのだ。それは死よりも重い罪だ。我々に戦う術がない以上こうして生徒を守るほかない」
「それは……詭弁です……」
ユーレスが教師たちの輪から外れて声を上げた。
「マレアス先生の言うことも最もです。私たちは生徒の安全と言っているが、裏を返せば他国に生徒が渡るのを恐れているだけだ。それは国の忠義に反すると。しかし、その件については既に王へ謁見がかなったことで解決しているではないですか。王は我々にルルーナというメイジを派遣して下さった。彼女が王の代弁なのです」
「彼女に責任を転嫁するわけには行かないでしょう。そんな真意のわからぬものを勝手に解釈することなど許されない」
「ですから、ここは彼女本人に意見を聞こうではありませんか」
ユーレスがマレアスを見るとマレアスは頷いて校舎へ走って行った。十数人の教師はその背中を見ている中、老人のような教師が徐にユーレスを窺う。
「そのような方法で生徒を見捨てることに意義があるのかね」
「大人たちは責任の所在を恐れているだけです。生徒のことももちろん心配でしょうが、誰だって罪の無いことをしたいのが人間です。ただその免罪符は正義でなくたって構わない」
老人の口元はよくも悪くも歪んで見えた。
「それに、同期の友達が助けを求めていましたから」
「人間を知った気になっていると、思わぬところで足を掬われるぞ」
「忠告ですか」
「忠言耳に逆らうか?」
ユーレスは黙してマレアスの影に焦点を合わせる。マレアスは赤毛の影を背中に引き連れてくると息も絶え絶えに訴えた。
「っさあ、今やっていることをこの方に話して下さい」
「…………」
教師は誰1人として口を開かなかった。それが意外だったのか焦りを見せるマレアスが口を開き掛けたとき、教師が声を上げる。
「実は前々から伺おうと思っていたのですが、なぜあなたはお一人でこちらに来られたんですか」
「何故……」ルルーナはそれきり声を発しない。教師たちに落胆の色が広がっていった。
「やはりそういうことですか」
「致し方ありますまい」
教師は一様に暗く沈んだ表情で各々に散っていった。最後にはユーレスと老人、そしてマレアスだけが残る。
「どういうことですか」
マレアスは何か得体の知れない感情に揺れ動きながらルルーナの辺りに歳相応の不安げな瞳を泳がせた。
「調停者じゃよ」
老人は静かに言い放った。ユーレスの視線に頷きながらルルーナに杖を向ける。
「 」
ルルーナの瞳が一瞬発光したかと思うと老人の杖は燃えて灰となった。
「感情を持たない王の命令だけを受けて動く傀儡と言えばわかりやすいかの。調停者はその起源を王の暴走を戒めるものとして代々役割を担い、民の代弁者として生きていた時代がある。しかし、長い歴史の中で王の血は民衆に溶け込み、王としての力が問われ始めた。」
ルルーナは燃える杖を見届けると再び色の無い瞳を取り戻してマレアスを見ていた。
ぞっとすると同時にマレアスは不安を露わにする。
「こんな人にどうやって意見なんて聞けるんですか。この国の王様は自身の国を作るメイジに感心がないのですか?」
「それは恐らく我らに戦いを求めておるんじゃろう」
「プテラハとの戦いですか?」
ユーレスは手を顎に持っていき考え込みながら老人より先に否定した。
「違う、多分ユウトという使い魔とだ。一連の原因は全て彼にある。彼が無事に始末されればプテラハは己の未熟さを認めざるを得ない。また、ユウトを倒せたとなれば魔法的にはこちらの国が上だということを暗に証明できる。プテラハが強気で要求することはやはり難しくなるだろう。最小の力の投入で最大の結果を出す方法を選ぶ。これが今の王のやり方なんだ」
老人は蓄えた髭を撫でながら黙って目を瞑っていた。
「調停者と呼ばれる者の強さがいかにせよ、我々はどちらかに着かねばならぬ。使い魔を殺して力を誇示する側にまわるか、生かして奪われる側にまわるのか。プテラハに協力すれば使い魔は死にはしない。しかし、たった1匹の使い魔と千を超える生徒では比べるまでもない。王様はよく考えておられる」
夜も更けていく中、3人は静寂の中に肯定を示していた。
「あり得ないわ」
学園長の一室でスーシィは眉間に皺をつくって机から壁を睨んでいる。
どう考えてもおかしいと思うのは特待生の半数を過ぎて4の使い魔がただの一体たりとも召喚されないことについてである。
「魔力も素養も完璧な人材を集めて魔法陣まで用意したのに……」
4の使い魔を召喚できないのであれば、特待生など烏滸がましい。ユウトほどの例外でなくともカインやシーナのような魔力を持つ使い魔は召喚できて不思議ではないと思う。
「1000――」
それに近い数の召喚が終わった今、スーシィは過ぎたことを悔やんでも仕方が無いとも自分に言い聞かせる。万が一、全員が4の使い魔を召喚出来なかった場合はユウト攻略が当初の面子になるというだけの話であった。
シーナからの連絡は毎晩届くものの、ユウトを攻略するにあたって確実性のある話は未だに無い。
イクシオンの壊滅を聞いてより不確実性が高まったともいえた。
「とにかく明日ね」
明日で全てが決まる。スーシィは寝室に姿を消した。
明日はユウト攻略に光明が差すのか、不確実のまま挑まなければならなくなるのか。
スーシィの机の上に広げられた新聞の見出しにはイクシオンの壊滅を聞いた隣国が1匹の使い魔に軍を動かし始めたと出ていた。
明朝、霧の中に残りの生徒1022人が集められる。
この中にはアリシアも含まれていた。当然アリシアが召喚を渋る理由は自前の杖が折れているからであり、今朝になってようやく糊でくっついたのだった。
スーシィは諦観にも似た顔つきで淡々とメイジの矜持を語り、また生徒も4の使い魔を召喚できるとは考えていない。
そんな葬儀のような雰囲気の中、一際強い瞳を持っていたのがアリシアが一番始めに話し掛けた少女だった。
「では、名前を」
「カ・アルタシア・ノルアナ・ヤベル」
「カタルナだな。よろしい、それじゃ詠唱を教えるからそれに倣って」
スペルを聞いて理由もなくカタルナは魔法陣を眺め始める。
「魔法陣がどうかした?」
端正な鋭い目つき、カタルナが異質な少女であることは誰が見ても一目瞭然だった。教師は自らの心が見透かされるのではないかとその瞳から逃れるように視線を逸らす。
カタルナは持ち上げていた杖を下ろして魔法陣から脚を離した。
「どうしたんだい」
「体調が優れない。もう少し後にする」
「そ、そうかい」
教師を尻目に立ち退くカタルナはアリシアと視線を交わらせた。
「次は……名前を言ってくれる?」
「アリシアです」
「アリシアは本名がないんだね。よし、それじゃ詠唱を教えるから倣ってくれるかな」
アリシアは魔力の出力を最大にして杖に力を込めた。
光の集束は途端に鉄を裂くような音に取って代わり、周囲に異常を知らせるに充分な気を引いた。
「アリシア! 魔力を込めすぎだ、光の集束に戻して」
「で、でもっ」
アリシアは杖が折れそうだとは言えなかった。
「焦らなくて良い。召喚魔法はゆっくりで大丈夫だから」
指先の神経と同化した杖が悲鳴を上げているのがアリシアには分かる。ゆっくりと魔力を注いでいては折れる。それよりは出力を全開にして魔力の通り路を作り、杖の切れ目を支えながら呪文を唱えた方が成功すると思えた。
「Luqal!!」
瞬間、地面が岩盤となって吹き飛び、魔法陣の書き記してあった芝生は根こそぎ消えて無くなった。
「ああ……」
失敗だと誰もが思った。杖も何処かへ吹き飛び、見当たらない使い魔にアリシアは呆然と立ち尽くして皆が自分の列に戻り始めた頃だった。
「っぇ――」
土の中から手が生える。
「うそ……」
「何してるんだ、アリシア。早く手を引っ張ってあげて!」
「は、はい!」
クレーターになった穴の中央に伸びた腕を引っ張るもアリシア1人の力ではどうにもならない。そこで教師や生徒が徐々に集まりだして数人がかりで引っ張り出すとようやくその全身が露わになった。
「これは……」
スーシィが駆け寄ってきてわずかに頬を緩ませる。
「4の、使い魔よ」
見たことのない異国の服にアリシアと同じ茶色の髪。それは男の子の姿をした使い魔だった。泥にまみれて気絶しているものの聡明な顔つきをした少年である。
その様子を傍から眺めていたカタルナは吹き飛んだ土に残った魔法陣に触れて状態を確かめていた。触れると同時にかき消えてしまう。
「組成が反転してる……魔力を注ぐと地面に抜けていくようになっていた?」
本来は魔力が外へ逃げないようになっていなければならない魔法陣が地面に抜ける魔法陣となっている。カタルナは周囲を見渡して他の魔法陣での召喚を見た。
どの魔法陣も3の使い魔しか召喚出来ていない。では何故アリシアは4の使い魔を召喚できたのか。
カタルナはこの魔法陣に何か仕掛けがあるのだと推測し、アリシアが教師に叱責を受けているのを聞き入った。
「杖がなくなったとはどういうことだい」
「ごめんなさい、召喚するときに弾けてしまったんです」
「あんなに目一杯魔力を注ぐからだろう」
「は、はい……」
カタルナはその杖を探そうと地面に魔力を帯びた風を送った。
召喚をするのに魔力を無駄に使うなど、本来はやってはならないのにカタルナはこれがどうしても必要だと思えてならない。
精神を集中して風の中に魔力を帯びた杖の破片をなんとか見つけ出す。歩み寄っていくと折れた杖の欠片が転がっていた。
「なにこれ」
そこには糊付けした後が少し残っていてカタルナの細い指にも少し張り付いた。
「糊が熱で融解した後」
ねちねちと指でいじってみるも糊に違いないと確信し、カタルナはその胆力に驚愕した。
信じられないという驚嘆だった。そもそも、杖が折れた状態で召喚に挑むなど馬鹿げた話だし、そこに最大の魔力を注ぎ込んだということも考えられない。メイジが一番最初に習うのはスペルの扱いでは無く魔力の危険性、その流用における絶対的なルールだ。それを軽々と無視して偶然とはいえ4の使い魔を呼び出した。下手をすれば四肢が吹き飛ぶか神経が断絶し、二度と使い物にならなくなっていたであろうリスクを彼女はどう考えていたのだろうか。
知らなかっただけかもしれない。そう考えるとカタルナはそれこそあり得ないと思う。
「仮にも特待生が」
何か並々ならぬ事情があってやむにやまれず召喚を強行したに違いなかった。
でなければ、自分の命を崖下に擲つような真似が出来るはずが無い。カタルナにはアリシアが怪物のように見えた。
「凄いじゃ無いか、4の使い魔だって?」
他の生徒たちがアリシアの介抱する使い魔に興味津々だった。召喚を終えたものは次々と別の場所に移動されるのに対してアリシアは介抱を名目にまだ近くにいた。
カタルナはそっと近づくとアリシアと目が合う。
「あ……」
入学式で覚えていたのかアリシアは笑顔でカタルナの言葉を待っているようだった。
「あなた、4の使い魔を召喚できたの」
「うん、杖はなくなっちゃったけど……」
「はい」
カタルナは持っていた杖の片割れを差し出した。
「あ、ありがとう!」
アリシアはそれがよほど大切なものだったのか両手で受け取ると涙ながらに感極まった声を上げた。
カタルナがそれをみて少し動揺する。
「そんなに大事な杖なの」
「……うん、お母さんが初めて私に買ってくれた杖だから」
カタルナは虐げられ続けていた自分の家とは全く違うのだなと思った。冷えた瞳を細めると本来の目的を聞き出す。
「その杖、初めから折れていた。どういうこと」
「寝てる時にね、折っちゃったの……でも新しいのを買うお金も時間もなくて」
「先生には言わなかったの?」
「言ってない」
「言った方がいい。その杖で魔法なんて使ったら死んじゃうかも知れない」
「う、うん。ありがとう」
「別に」
お礼を言われるようなことじゃないと笑顔に突きつけようとしてやめた。自分にはまだやるべきことが残っている。3の使い魔など召喚してしまえば生きている間にあの家には帰れない。
王立神官魔法師。それが最低ラインだった。それが無理なら魔力の楔で心臓を打ち抜くしかない。そのための4の使い魔。全身全霊を掛けて望まなければならなかった。
「ねえ、あなたの名前は?」
アリシアが人の意気込みも読まずに語りかける。カタルナは半ば投げやりで答えた。
「カタルナ」
「へえ、可愛い名前だね。私はアリシアっていうの」
先に4の使い魔を召喚したという事実がカタルナに不快感を与える。
いずれにせよ、あまりもう喋る必要は無いと言わんばかりにカタルナは列の最後尾で目を瞑る。
魔力の流れに気配を尖らせて魔力がどこに逃げているのかを探った。
仕掛けているのならこれが教師かそれに連なる者の仕業だということは充分に理解している。スーシィなどという見かけによらない年増のメイジも気にくわない。こんなことをすること事態がはっきり言ってしまえば愚かで無意味なのだ。
カタルナは他の人間が4の使い魔を召喚できるかどうかなどに興味はない。
陰謀を暴いてしまおうという正義感もない。
あるのはただ、どいつもこいつも自分を舐めていると感じる敵愾心だけだった。
カタルナは靴を脱ぐと足下から魔力の分散されている地中に向けて魔力孔を作る。
自分でも恐ろしいことを考えていると思った。カタルナは例えるなら吸引器のようになろうとしていた。自らの魔力をゼロになるまで魔力の収集に費やし、他人の魔力を自身に経由させた上で召喚魔法を行使しようとしていた。
アリシアどころの愚行では無い。下手を打てば自分の体は粉々に消えるか、肉だけが残って神経が消える可能性もある。他人の魔力を運用するという実例はそれほど少ないわけではないが、推奨されているわけがない。
メイジ個人には絶対優性属性というものが存在する。
火が得意、水が得意、風が得意、土が得意。それらの優性を決定付けるのは親の遺伝であり血族の証明である。
カタルナはそういった血を一気に取り込んで爆発させようとしていた。
「もう終わったかね」
「いえ、まだカタルナさんが」
アリシアの声に教師達がカタルナを見る。
一見ただ普通に裸足で立っているだけなのだが、何か普通では無い様子に教師は大急ぎで学園長の名を叫んだ。
「これは、これは何をしてるのでしょうか」
カタルナは徐々に全身が青白く輝き始め、地面から生える草を枯らしていた。
「Leye o navelia(剪定の目)」
スーシィはここにきてようやく教師達の目論見を看破し、カタルナが何をやっているのかを理解した。
「すぐにここから人を非難させて。学園に最大限の結界を張って頂戴。2089人分の魔力が全方位に炸裂する可能性があるわ」
「な、なんですとっ!」
教師たちの顔は青天の霹靂でも受けたかのような衝撃に満ちたものだった。
「はやく! 生徒たちの命が第一よ。こうなっては私ももう止められない」
スーシィは慌てて駆けていく教師を尻目にカタルナを凝視した。衣服はとうの昔に燃え尽き肉体がマナによって融解し始めている。まるで溶鉱炉のように熱い。カタルナは自身に保護魔法を付与していながらその運用段階で頓挫しようとしているところだった。
周囲を見渡してまだ逃げていないアリシアが目につく。
「ちょっと、あなたも早く非難するのよ!」
スーシィが必死に訴えるがアリシアは気絶した4の使い魔を背負おうと苦戦していた。女の子が男の子を担ぐのは容易ではない。スーシィはそばにかけよって手伝おうとする。
「すみません」
アリシアは限界以上の魔力消費なのかほとんど立てないようだった。スーシィは4の使い魔を置いて行くように言うとそれは嫌だと首を振る。
「彼女の名前はわかる?」
「カタルナです」
スーシィは大爆発を起こしかねない火薬を前にアリシアへ魔法を使うことは躊躇われた。
学園までのわずかな距離だが、スーシィがレビテーションなどの魔法を使うことは今カタルナの魔力運用にヒビが入る可能性が高い。
「カタルナ、聞こえる? あなたの魔法運用は失敗よ! よく生徒の魔力が地中へ逃げていることを突き止めたと褒めたいけれど、あなたがその魔力を使う前に体がすべて溶解してしまうわ」
スーシィは再生魔法を使おうとしてこの強大な魔力の瓶のどこを再生するつもりなのかと思い至る。
「っく」
本体に魔力を当てればそれこそもう取り返しがつかない大惨事になることは明白だった。
同時にカタルナは自分の魔力が全身を焼くような痛みに必死に堪えていた。
失敗する可能性が高いことは分かっていながら利用できる魔力を利用しないという手が考えられなかった。アリシアと同じ事をしても4の使い魔が引けるとは限らない。
カタルナにはそれが許せず、それで引けなかった時、あのとき利用していればと後悔するよりは失敗してでも高リスクでハイリターンを選んだのだ。
「Fifth pentalias……」
執念の詠唱にスーシィはただ息を呑むばかりだった。使い魔の召喚は断じて命を懸けるようなものではない。それは歴史の中で生まれた価値観だし、世界にとっても普遍の考え方だ。
この愚かな生徒を置いてアリシアと逃げるべきか、この生徒のそばで死を恐れず何かが出来ないか見守るべきか。それはスーシィにとってもかなりの苦渋を迫られる決断だった。
「頑張って、カタルナ!」
アリシアはただ1人、カタルナの名を叫んだ。
「あんたたち……本気でどうかしてるわ……」
特待生は変わり者揃いであるがそんなことは関係ない。気が狂っていると思った。これだけの異常な光景を目の当たりにして死という恐怖がない生徒、自分の体を道具のように使い魔の召喚に文字通り命を懸ける生徒。スーシィは再生魔法を外部からではなく内部から行使しようとカタルナの足下に手を置く。
カタルナが失敗すれば自分も死ぬだろうとどこか冷静な思考でそう分析しながら魔力を注ぎ込んでいく。
「alction coded……」
そこで周囲に残された8つの魔法陣が弾け飛んだ。忌々しげにスーシィはその魔法陣を見送ってカタルナの治療を続ける。
カタルナの溶解は思ったよりも進行が早く激痛の中で肺と喉を守りながら正しいスペルを発音するのは至難に思えた。しかし、これが成功すれば確実に今までにない強力な使い魔が引けるのは確実である。
何しろビッグメイジの候補が2000人分という規模の大召喚なのだ。
「頑張るのよ」
アリシアを除けば4の使い魔の召喚はゼロという事実に対してスーシィは味方に裏切られたことを思う。
体内魔力を使い切られ始めてスーシィの腕が震え始める。
カタルナの身体が臨界を迎えて光の集束に向かい、もうだめだと思ったとき最後のスペルが聞こえる。光だけはそのまま空へと呑み込まれていった。
崩れるカタルナの向こうに小さな影を見てスーシィは固まる。
「え?」
幼い子供。まだ10才にもならないような子供が立っていた。見覚えのある姿にスーシィは恐る恐る近づいて行く。
「あなた、名前は?」
黒い髪、黒い瞳、そこにあるのは間違いなくあの使い魔と同じ出立ちである。
「…………」
少年は答えなかった。スーシィをじっと見た後は周りを見回してただ静かに涙する。
その時、声が天より響き渡る。
『契約は遂行された。お前の時間を貰い、私の力を行使した。願わくば私の消滅を世に伝えよ』
天より降り注いだ声の主は風と共に消え、残された黒髪の少年は異国の服を纏ってカタルナへと近づく。
「ユウト……ユウトなんでしょう?」
スーシィが駆け寄って肩を持つも少年は首を横に振った。
「僕の名前は……ラグナ」
ラグナは『時』の意味という言葉にスーシィはすぐに思い至る。時と慈愛の現人神と呼ばれる存在アガリペラを数年前に証明しようとした一団があったこと。空飛ぶ船団で向かった先にただの1人も帰還者がいなかったことで有名な事件があった。
時を司る神というものの証明に出かけた世界で唯一初めての一団だった。
まさかそんな事件にユウトが関わっていたのかとスーシィは腰を落とす。
「ユウトよ。面影も……すべて」
そこでスーシィは言葉に詰まった。ではなぜユウトは子供に戻っているのか?
自分とは違い魔法の影響とは考えられない。そもそもユウトはアリスと契約によって縛られている。召喚に応じられるはずもなかった。
では、ここにいるユウトは何処から来たのか?
スーシィは何か得体の知れない恐ろしい力が間接的に働いたのだと思った。
もし、彼をユウトだと信じてしまうと自分はとんでもない失敗か、罪を犯すことになるだろうという確信が芽生える。
一呼吸置いてスーシィは立ち上がるとラグナに向かって手を差し出した。
「分かったわ、ラグナ」
4の使い魔を召喚できたのがたったの2人ということもあって校内では噂で持ちきりだった。きっとその2人はいずれ王都へ招喚されるだろうというものだ。
それとは別に特待生は4の使い魔を召喚することが目的だったと噂され、他国の非難が集まった。
カタルナが意識を取り戻すとそばに少年が座っていた。
自分が召喚した使い魔であることはすぐに分かったものの、その使い魔ははっきりいって幼くまだ子供でとても強そうではない。魔力も感じられずカタルナは失敗したのかと落胆して仰向けに戻り天蓋を見つめた。
「――っ」
何かを呟こうとしたところで咳き込む。息を吸うと喉に激痛が走った。
「大丈夫?」
少年がカタルナの顔を覗き込む。大丈夫だと示そうとして腕を上げるとカタルナの腕には白い包帯がミイラのように巻かれていた。
「目が覚めたんですね」
淡く派手な桃色をした生徒がカタルナの身を起こして水を飲ませる。
生活委員という腕に巻かれた文字がカタルナの目に入ると気分を忌々しいものへ変えていった。
「も――」また喋ろうとしたところで苦痛に耐えられず咳き込む。
「喋ろうとしないでください。全身が火傷のようになってしまったんです」
それを聞いてカタルナは顔面に手をやった。指先からはあまり感触が伝わってこないが強く擦ると包帯が巻かれていると感じる。
「強く触ったらだめですよ。跡になりますから」
「…………」何かを訴えるようにカタルナは生活委員の女子を見たが軽く微笑むだけで部屋を出て行ってしまう。カタルナは自分の両腕を見てそれから胸元の下も包帯があることを確認した。心なしか視力も子供のいる向こう側はよく見えなかった。
「(これが、代償?)」
変わり果てた自分にカタルナは目の前の少年を見ながら思う。
「(そして失敗したんだ)」
乾いた唾を呑み込むようにしてカタルナは声にならない声を上げて涙を流し始めた。
「意識が戻ったようね」
不意に後ろから響いた声にカタルナは文字通り白くなった手で涙を拭いた。
「酷い姿になったでしょう。生きているのが不思議なくらいよ。あなたは2089人、正確には2088人の魔力を運用してその子を召喚したのよ」
指差された先には不安そうな顔でカタルナを見る少年がいた。
「ただやり方が少し問題だったわね。自分を魔力のパイプにしてしまうなんて方法では身体が破裂しかねない。下手をすればあそこにいた生徒全員が死んでいた。そのことは分かる?」
カタルナは確かにそうだと思った。2000人もの魔力を突然爆発させてしまえば学園もろとも消えてしまったかもしれない。
カタルナは頷きながら声を上げようとして押し留まる。
「別に済んだことだし必要以上に責めるつもりもないけれど、はあ……」
スーシィは頭を抱えて首を振るとベッドの側にあった椅子に腰掛けた。
「本当はあなたを退学処分にするつもりだったわ。私に報告すればあなたは普通に4の使い魔を召喚できたかもしれない。少なくとも生徒全員の命を危険に晒すことはなかった。けれど、私たち教師の方にも問題があった。あの魔法陣に細工をしていたのは教師だったのよ」
そこでカタルナは全てを悟った。
「あなたは目の前にあるチャンスに命を懸けただけだものね。それは誰にも責められないわ。学園側はあなたを処分しないし、治療に全力を尽くすわ。ただ、火傷の跡は長引くでしょうね。顔の傷は残らないように私が何とか努力するけれど、治療薬が普通じゃ無いから手が足りなくなったらそこの使い魔を借りるかもしれないわ」
いい? と聞くスーシィにカタルナは頷いた。
「コントラクトはその状態じゃ無理でしょうし、後何か言っておきたいことはある?」
スーシィが出した紙とペンにカタルナは綺麗な文字で『ありがとうございます』と書いて手渡した。
午後になって授業を終えたアリシアがカタルナの部屋を訪れる。
そばに立つ細身の男は撥ねた髪を掻きながら辺りを見回して溜息をつく。
「へえ、これがカタルナって女の子の部屋か。アリシアの部屋よりなんか良い匂いだな」
「ちょっとナイン」
「はいはい」
軽口を叩くのが癖なのかとカタルナは思った。ナインと呼ばれる男は不躾に部屋を見回すとへえだとかなるほどだとか癪に障る言い方をする。
「早く元気になってね」
静かにそう言って手を握るアリシアにカタルナは話し掛けることは出来ない。
ただ紙とペンで『ありがとう』と書いて見せるのが精一杯だった。
「お、なんだこのチビ」
「もう、ナインは外で待ってて」
チビと呼ばれて持ち上げられるラグナはそのまま一緒に外に追い出されてしまう。
「何で僕まで……」
廊下に出たナインは全く気に留めていない様子でラグナに話し掛けた。
「お前もこっちの世界に召喚されたんだってな。どんな世界から来たんだ?」
「ん、覚えてない」
「へえ、お前の顔はそうは言ってないけどな。まあ、いいや」
ラグナは腕から降ろされる。唐突にナインは得意気に片腕を上げた。
「俺の能力、見せてやるよ」
ナインが指を立てた。指先から音が鳴ると同時にナインの姿が消える。
「こっちだ、こっち」
ラグナの後ろにナインが立っていた。これはなんだと思うと同時にとんでもない事が起きたのだと思う。
「凄いだろ。スペサルな技だろ」
「瞬間移動?」
「違うな、俺は歩いて移動しただけだ。もともとこんな能力は無かったんだが、どうやらアリシアって女の子に召喚されてから備わったっぽいんだよな」
「時間圧縮じゃないのか」
「難しい言葉を使うなチビのくせに」
ラグナは眉間を寄せてそれきり無言になる。
「怒っちゃった? 名前を教えろよ、チビって呼ばれたくないんだろ」
「ら、ラグナ」
「ラグナあ? どう考えてもチビに似合う名前じゃ無い」
「そっちだってナインなんて数字じゃないか」
「は? なんで分かるんだよ。……この世界にナインっていう数字の呼び方はないって聞いたぞ」
「あ」
ラグナは息を呑むと動揺に視線を逃がして部屋に戻る。
「あ、おい!」
入れ違いにアリシアが部屋から出てくると不機嫌そうに眉を潜めてナインを見た。
「女の子の部屋をじろじろ見たり匂い嗅いだりしないで」
「ごめん」
ナインはアリシアの背中を追って廊下で尋ねる。
「あのラグナとかいう使い魔はどう見ても子供だろ。何か魔法みたいな力を持ってるのかな」
「わかりません、そんなことより恥ずかしいから他の女の子をじろじろ見ないで」
心外な言葉にナインは吃驚した。
「いくらなんでもすれ違う女の子をじろじろ見たりしてないんだが」
「ならどうして目で追ってるの。私なにもしてないのに睨まれたりするよ?」
「うっ」
ナインは申し訳なさそうに眉を垂れる。
「こっちの世界では髪の色がピンクだとか紫だとかコスプレでもない限りなかったんだよ。地毛で染まってるのが不思議で仕方ないんだ」
「なら私の髪でも見ててよ」
「いや、その髪色はよくいたから」
アリシアは一瞬目を丸くしてからまた不機嫌そうに口を尖らせた。
「とにかく、私の前で、いえ、どこにいようとそのいやらしい目で女の子を追いかけないこと」
「意外と束縛系だな」
「何か?」
折れた杖を構えて言うのでナインは大人しくもうしないと誓う。
自室まで戻るとその扉の前に立っている小さい影にアリシアは見覚えがなかった。
「あの、何処から来たの?」
「あ、あアリシアさん?」
小さい身なりをしたそれはラグナと同じくらいの歳に見える。もじもじと手を揉みながら俯いてアリシアの視線を避けた。
「そうだけど……生徒――」
「生徒じゃ無いです! 先生です!」
廊下の雑踏がぴたりと止んだ。愛らしい子供の声に注目が集まると誰かの呟く声が風に乗ってアリシアに届く。
「あ、ルネア先生だ」
可愛いだとか先生っぽくないという声が行き交う中でアリシアの後ろの影が動いた。
「これで先生かよ!」
なぜかナインは感極まったようにルネアの脇を挟んで持ち上げる。
「ちょっ、何するんですか!」
「こんな可愛美しい先生見たことないぞ」
「ぁ、美しい?」
アリシアは焦ってナインの襟首を掴んだ。
「ちょっと! やめてって。本当に先生だったら私退学になっちゃう」
「先生です!」
ナインに担がれながらルネアは紅潮を隠すように両手を頬に当てている。ナインは一瞬考えながらルネアを廊下に降ろした。
「分かったよ」
「ふう、ありがとうございます。実はアリシアさんに広間に来るように伝えたかったんです」
「え、それなら手紙でも良かったんではないですか」
「手紙だと遅くなってしまうので、かきゅうの用事です」
「わかりました」
広間では段の上に教師らが顔を揃えて正座していた。その前方にいる生徒の数は2000を超えている。
その全員が使い魔召喚に関わった生徒であることは明白だった。
「今回の件では大変申し訳ないことをしました」
スーシィの隣で頭を垂れる教師に生徒らの不満の声が投げられる。
「4の使い魔を召喚できなかったのはお前らのせいだ」
「ふざけるな! 申し訳ないで済まされるか!」
魔法でも撃ってきそうな剣幕に杖を取り上げられた教師たちは全員冷や汗を掻いた。
「何故こんな事をしたのですか」
その声に答えるように教師の1人が徐に口を開く。
「君たちが4の使い魔を召喚するとプテラハに連れて行かれる可能性があったからです」
スーシィは打ち合わせと違うと思いながら教師を睨め付けた。
「そんな、プテラハとこの学園は関係ないはずではありませんか」
噂は本当だったのかと野次が飛び交う中、教師は拡声魔法陣の上で訥々と話す。
「襲撃事件の後、事を穏便に済ませるために契約書を書かされました。彼らは契約を呑まない場合には国家の紛争も辞さない覚悟だったのです」
その説明にスーシィが割って入る。
「それは脅しに過ぎないわ。一方的な契約書を書かされたと言っても既に国王には話を通してある。みんなの安全は教師である我らが守れるという保証もあった。それは撃退したことで証明されたはずよ」
そのことに並んだ教師たちは物言いたげに睨んでいた。生徒たちは教師の勝手な判断のせいで4の使い魔を得られなかったこと。特待生と云ってその実は誰もその先がなかった偽りの餌だったことを訴えた。
スーシィは生徒たちの意見に耳を傾けながら教師らの独断で行われた部分については大筋で同意した。
「特待生制度は確かに4の使い魔召喚によってこの国の中枢に加わることが約束される制度ではあったわ。けれど、まず大前提としてユウトがこの世界に存在する限りはこの国はいつでもプテラハのような野蛮な国に付け入る隙を与えることになる」
これには生徒たちも大多数が納得したように押し黙る。
「ユウトを排除するという前提が4の使い魔召喚の意味に含まれていることを分からないような生徒であれば、そもそも国の中枢に置かれることはないでしょうね。そんなくじ引きのようなうまい話が全てとは思わないでほしいのよ」
最期まで反論していた生徒たちももはや子供の駄々のようになっていく。そこでスーシィは一気に畳みかけた。
「でも、ここに並ぶ教師たちが勝手に魔法陣に細工を行ったことに対してのお詫びはさせて貰うわ」
生徒らにどよめきが走った。
「一部来ていない生徒がいるけれど、その生徒は除いてここにいる生徒だけにある権利を与えるわ」
その大胆な権利の告知は眠っているカタルナの部屋まで聞こえるような大きな歓声によって応えられた。
教師たちは全員が唖然としていたが、解雇されるのではないかという恐怖からか誰もその案に反対はしなかった。ユウト討伐への志望者を募るというそれは先鋭部隊を作るということでもあった。
学園での騒ぎが始まったのはそれから数日したユウト討伐への志望者を募っている最中だった。
スーシィやその他の教師にもその話は耳に入り、喧々諤々とした職員室では誰もがプテラハの事件における恐怖を内に秘めていた。
「開戦とはどういうことだ。ラヴハムは何故今このタイミングで仕掛けた」
「しかし、こうなるとプテラハは我々の学園を占拠するやもしれません」
「生徒を魔法兵に駆り立てると? あり得んだろ」
スーシィはそんな職員室に入るとゆっくりと教師らを睥睨して歩き出す。
「スーシィ学園長! お聞きになりましたか」
中年の教師がスーシィに詰め寄る。それを見て他の教師らも集まってきた。
「今こそ、今こそ亡き学園長の代理をお願い致します」
教師たちは揃って同じことを訴える。フラムの遺言通り、スーシィはフラムに代わって学園長を務めてきたが、それも限界を感じていた。
原因はこの無能さにあるとスーシィは思う。こちらの意図も読めないくせに命令を無視して突っ走り、その後始末は自分がやると思っている。スーシィは彼らにとらわれずに倦まずたゆまず努力など出来ようはずもない。
フラムはこの教師たちを自らの力で持って恐怖のうちに支配していたらしいが、それが失敗であることは容易に見て取れた。
「お願いします、お考えをお聞かせください」
「お願いです、スーシィ学園長」
スーシィは息を吸い込むと今まで生きてきた中で最も大きく声を張り上げた。
「黙れぇ!」
一瞬のうちに訪れた静寂は言葉にならない動揺に裏打ちされたものだった。
「お前たちは何もわからないの? 生徒がまともに4の使い魔を召喚できなかったからラヴハムは進行を開始したのよ! 4の使い魔という存在はユウトによって格上げされた。その意味は軍事的な意味にとって変わるということくらい、教師なら分かりなさい!」
誰も開口できなかった。唯一後ろに居たユーレスはスーシィに言葉を放つ。
「お言葉ですが、スーシィ学園長。こうなってはもはや平和的解決は得られないものと思います。プテラハは間違いなくこの学園に魔法兵を要求するでしょう」
「そんなものを聞き入れると思う? 全力で阻止するわ。あなたたちも自分たちの撒いた種だということを自覚して頂戴」
老人が驚きのあまりに腕を開いて見せる。
「一国の戦争の発端を我々が? は、スーシィ殿は少々お若すぎるようだ。そのような――」
「今後、私に逆らう者がいれば一時的に解雇とさせて貰うわ。私自身本来の責務を擲って、ユウトのためにここにいるということを忘れないでほしいわね」
スーシィが退室した後、教師は口々になぜあんな方が学園長なのかと噂し合った。
そして詰まるところ、フラムは教師全員を同格とは見なしていなかったことを悟る。
それは偏にメイジとしての技量だけでなく、人格としてもだということは誰もが認めたくない事実であった。
一方でプテラハの王城内では物々しいやり取りが始まっていた。
「リドムバルトの領地が占領された模様です」
「何?」
王の持っていた金のグラスは動揺に震える。
「兵の数はおよそ3万。我々の領地全ての兵の約2倍はあります」
「まさか、こちらのイクシオンが件の学園に押し掛けたのを知っているのか」
「追跡されていた様です。学園で召喚の儀は失敗に終わったというタイミングと一致します」
王の椅子が拳の唸りを受けた。
「斥候300人をリドムバルド、ラヴハムに放ち各領地における余力兵を常に監視させよ。さらに奇兵師団を編成し進軍先の領地に1万を潜めよ」
「1万っ? 我が国の戦力のほぼ全てとなりますが、よろしいのですか」
「王国存亡の危機であろうが、同時に時間が許す限り傭兵を各地からできるだけ集めるのだ。進軍先のバルオ領内にはできるだけ民兵を編成するよう勅書をまわさせろ。イクシオンは分かっているな?」
「はっ」
慌ただしく部屋を後にした侍従長と入れ違いにエリサが厳めしい顔つきで入室する。
「エリサよ。遅かったではないか」
頭を垂れて膝を着くエリサに王は卑下するような視線を送った。
「遅ればせながら申し上げます。私に全軍の指揮権をお与え下さい」
「なにゆえだ」
「此度の全ての責任は私にあります。使い魔の討伐失敗、並びに鋭兵である部下の損失。私が名誉を挽回できるとすれば戦場でしか有り得ません」
「はは、ふははは――」
王は顎をしゃくり上げて声高々に嗤笑する。
「自惚れるな、イクシオンの名が聞いて惘れる。お前は何のためのイクシオンか、申してみよ」
「軍の最高司令官であります。陛下」
「この空け者が!」
王の手に再び握られたグラスがエリサの手前で液体を飛び散らせた。
「俺が任ずるイクシオン部隊に軍の指揮能力など求めておらぬ。俺の軍は俺が指揮する」
「では、私は……」
「まだわからぬのか、お前の役目は一貫しておる。使い魔ユウトを拿捕し、俺の軍に加えるのだ。命に替えても遂行せよ、さすればお前の失態は全て不問にしてやる。もちろん、お前の家族への罪も問わぬ」
「……はっ」
エリサは青ざめた顔で立ち上がり音もなく退室していった。
「元帥を買って出ようとは、エリサも変わったものだ」
王の持つグラスに再び液体が注がれると、王はそれを水でも呷るかのように飲み干した。
「ラヴハムの女天子め……我が国とイクシオンを侮った報いを受けさせてやろうぞ……」
難攻不落となったリドムバルドの要塞はプテラハの王を大いに苛立たせた。
兵力が倍違うということは攻めるに攻めきれず、まして奇襲によって紛れを求める戦略では奪還は不可能とさえ思われた。
そして最も不可解だったことはラヴハムが倍以上の兵力を持ちながらリドムバルドを占領してからまったく進軍をしないことであった。奇襲を読んでのことか、あるいは出方を伺っているのか、他国にも広がる緊張に両国は一触即発の状態を保ちながら一週間が過ぎた。
「ジャポルから勧告書です」
侍従長の声で王ははたと自らの読みを誤っていたことに気がつく。
「我が中立国ジャポルは此度の戦争において、使い魔ユウトを差し出した国へあらゆる援助を約束する」
「なんだと……?」
最後の一文に周囲の兵たちは狼狽よりも戦慄に打ち震えていた。
「ジャポルが他国の戦争へ介入する? どこが中立国だ。一体なにを考えている」
「わかりません。しかしこれは、我々にとってもラヴハムにとっても悪い条件ではない。むしろ、全てがうまく収まるように介入してきたと言えるでしょう」
「よもや、ラヴハムの狙いは最初からこれだったのか? ジャポルの狙い通りに事が進めば我々のどちらかが消えて、ジャポルにとっては敵対勢力が1つ消えると同時に自国の魔法文明を大きく躍進させることとなるだろう。それどころか、この勧告書は単純に国2つの力でもってユウトを討伐しろと言っているではないか」
「これはあまりに、あまりの侮辱ですぞ」
「ジャポル……強大な中立国ではあったが、抗争を嫌っているのではなく、いかに効果的に介入するかを知る国のようだ。そしてラブハムの天子もこの勧告書を読んでいる頃だろう。兵力をどれだけ割くのかにもよるが、その判断を見てからでは出遅れる」
王はラヴハムの王になったと仮定し、空想の中で思考する。相手はどう出るのか、その裏をかいて出し抜くことは出来るのか。それを代弁するかのように侍従長が進言する。
「重要なのはラヴハムと我々の勝利条件が必ずしも一致しないということです。ユウトを討伐しジャポルへ献上するか、あるいは我々の軍勢に加え入れたとしても、時間がかかるのは必至。ならば、残る問題は膠着状態をどのように維持するのかということになります」
「存外、敵は3万を動かすかもしれん」
「なんと、いやしかしそんな」
「ラヴハムは他の領地を無視して我が本城の目先であるリドムバルドまでわざわざ進軍してきた。その意味は距離にしかない。例え3万の軍を躱しこちらから全軍をもって本国の領地へ進行しても1ヶ月はかかる。途中リドムバルドを奪い返さずに進軍はできん。とすれば2ヶ月は見ることになるだろう。そうなれば、本国へ攻撃を開始する頃にはジャポルの援軍がギリギリで到着することになる」
「そ、その通りでございます」
王の読みは完璧だと思われた。ラヴハムは3万を動かしてもユウトさえ討伐、ジャポルへ早馬で送ることができればジャポルを盾に出来る。そうなれば、プテラハには攻撃する余地もなく、最悪立て直したユウト討伐の軍と挟み撃ちとなってしまう。
「ユウトの存在がこの戦いの全ての要になりそうだ」
「イクシオンは発っております」
「それで良い。この戦争に勝つためにビッグメイジをも狩る魔物を手駒にしようではないか」
エリサが部下の4人を連れて向かう先は学園であった。
戦闘員の補充は必定。それは単純にエリサにとって魔力としての意味合いしかない。
元々何の訓練も受けていないメイジを実戦で投入することはできない。
加えてスーシィという破格のメイジがいてはエリサとて無駄な戦力を使いたくはなかった。
ただ一つ交渉のカードとして使えることはお互いにユウトという使い魔を手に入れたいということだった。
これには確約が必要である。互いの杖を交換する、もしくは使い魔を差し出すくらいの確かな契約が必要だった。
「私は嫌よ」
エリサの使い魔であるレヴィニアは馬の上でエリサの腰を強く絞める。桃色の髪がふと風に靡くと細い眉と赤い瞳が一瞬露わになる。
「ユウトを確保するには必ず多量のマナを使うことになる。戦闘で勝つのではなくひとまず封印する。そのためにはあの特待生の生徒を使わない手はない」
「だとしても。私はそんな取引の材料にはならない」
「ユウトに憑依したいと言っていただろう。実現する」
「ほんと?」
レヴィニアの顔に光が差した。
「あいつは魔力を無尽蔵に吸い込むが故に問題になっているが、お前の魔力は誰も扱えない分量じゃないか。お前が憑依して一気にマナを流し込めばユウトはその体質を変化させることができるかもしれん。うまくいけば奴を支配するスペルをはじき飛ばせる」
「そんな賭け事するの?」
「どのみちお前がその魔力を手放さなければいつか国が1つ消失しても不思議ではないのだろう?」
「そうだね。確かにそういう意味では私の運命の人かも」
「人であるなら良かったな」
「人でいいんだよお、なかなかイケメンなんだから」
馬は木々の間を走り抜けて若葉が揺れた。
それからの異変は一瞬だった。馬が倒れると同時木々が白み昼の光を白一色に変える。
強烈な閃光は敵の罠と悟るのに充分でエリサとレヴィニアの2人はすぐに飛び退いた。
その一瞬の判断が出来た者は他に2人。残りの2人は白い光に目を焼かれてその場に倒れ込んだ。
「うぅぅ――」
転移を使って仲間をエリサの周囲に集めると背中合わせに警戒する。
「誰だ、不意打ちとはそれでもメイジか」
「アッハハハ」
木陰から現れた白装束に赤の螺旋模様。絢爛な装飾はラヴハムの最高位に属する神官クラスであることに違いなかった。
「天子のお守りがこんなところで油を売っているとはな」
眼光は黄色く異質な色を帯びてエリサを射貫く。その頭上に携えた白んだ緑色の髪が揺れる度エリサの神経はぴりぴりとしたものへと変わっていった。
「LoreLir(鴉の灯火)」
呪文がエリサの耳に届くより速くその魔法はエリサの脇を通り過ぎて行った。
「光魔法……ここまで熱量を持った光魔法は……」
はるか後ろで木が倒れ笹の葉を騒めき立たせる。同時に川のせせらぎのような美しい声が鳴った。
「ラヴハムで最も神に近いのは私だ」
「――天子!」
エリサは仕掛けることを決意すると同時に動いていた。敵の王1人を目の前にして交渉しようなどとは考えない。
「Conet onnc(接続)!」
背後に残したたった2人の魔力と接続する。
エリサはレヴィニアを纏い、瞬足を手に入れる。
天子は微動だにしていない。エリサの手刀が天子の白肌に突き刺さろうかという間際でレヴィニアの声が避けろと叫んだ。
「――ッ」
光の集束と拡散。あまりの光量を前にエリサはわずかに身体を硬直させた。
そこに叩き込まれる拳。一撃目は腹に、二撃目は鳩尾に。エリサは衝撃から本能的に防御に構えるがそれを見透かしたように突きだした腕ごと掴まれて関節に衝撃が走った。
「うぐ」天地が逆転したかと思うも束の間、痛覚の後に気力で視界を取り戻すと顔面に足先が迫る。
寸前でエリサの腕が地面を押し返して空中で半回転した。空打った足先の風が頬を撫でていくと同時に天子自らが接近戦に挑んできたのだと知る。
エリサはその剛胆さに息を呑みながら光速に近い連打をその身に叩き込んだ。
確かな感触はあった。天子の身体は胸の双丘を揺らしながら期待通りに後退する。
しかしそれはダメージを与えた側としては疑問の残る感触だった。
「人間だな」
女の声がエリサに届く。まるで、人にあってはならないような口調にエリサは久しく感じていなかった恐怖を感じた。
徐に取り出した杖を見てエリサが走る。元よりエリサの接近戦は魔力を動力に変えた攻撃。魔法を打ち合うつもりなど毛頭なかった。
「―」
一呼吸にも満たない間に起きる閃光。それはエリサの頬を掠めてはるか後方へ向かう。
エリサが分かったのはそれだけだった。
「どうした?」
エリサは気づけば天子の眼前で普通の速さに戻っていた。その拳を容易に躱す天子から距離をとり、光の行き先を振り返ると倒れる2つの影がある。
エリサは自らの敗北を認めるにはまだ早いとレヴィニアを解除して杖を取り出す。
「エリサ、もうだめ。逃げよう」
「Arke――」
「―」
先に付きだした杖がなくなり、腕が骨と化す。一瞬の閃光のうちにエリサの胸に大穴が穿たれていた。
「エリサ!」
そのまま座り込むエリサにつまらなさそうな視線を向ける天子。辺りには煤となったエリサの灰が立ち昇り、その奥で冷えた黄色の瞳はレヴィニアに止めを刺すこともなく森の中に消えて行った。
「あれが、天子……」
レヴィニアに握られた手をわずかに握り返すとエリサは力無くその手を地に降とした。
学園で行われた特待生への優遇措置。教師の責任は重いものの、件の戦争が始まったことでユウト討伐は無理だと考える生徒は多かった。
また責任を感じた教師も特待生にいくつか高官とのコネクションを約束したことでさらにほとぼりは冷めていく。
4の使い魔を召喚していないことが、逆に彼らに逃げ道を与えたのだった。
「集まったのがこれだけとはね」
スーシィのドラゴンを前に5人。それはカタルナとアリシアを除けば目新しい顔はルルーナしかいない。3日前に学園へきていたシーナは心許ない人数を前に落ち着いた様子だった。
「戦争が始まったところには誰も行きたがらないですよね」
「それでも1人くらい居てもいいと思うのだけれど」
「ビッグメイジを倒した奴を倒しに行くんだろ。自殺行為だ。魔法なんてめちゃくちゃ痛いんだぜ」
ナインの指先に刻まれたルーンが一鳴りするとシーナの正面に突然現れる。
「美しいお嬢様、俺のことはナインとお呼び下さい」
異常ともいえる瞬間移動に一瞬驚きを見せたものの、隣りに立っていたリリアはその鼻先に剣を突きつけた。
「冗談が好きならそのまま続ければいい。私は冗談でお前の鼻をそぎ落とす」
「怖えこと言うなよ」
そそくさと立ち去るナインはアリシアの一声で大人しく正座を始める。
「それにしてもシーナ、あなたが帰ってきてくれただけで心強いわ」
3日前に再び学園に訪れたシーナは前にも増して女性としての艶やかさがあった。長い髪は前より伸び腰下に届いている。
「また会えて嬉しいです、スーシィさん」
「たぶん今のシーナなら一国の王様くらいは相手にできると思うよ」
ルーシェだけは相変わらず少女然としていた。竜というのは2年ほどでは何も変わらないのかとスーシィは興味深く思った。
「あなたに鍛えられた人間がどうなるのかはかなり興味深いわ」
「……少しいい? 私も一緒に行く意味はあるの?」
スーシィの背後にカタルナが小袋を腕から下げて見えていた。影にはラグナが隠れるようにして着いている。近くに来てみればその痛々しい包帯はまだ取れていない。
「ラグナだけを借りることもできるけれど、誰かが大局を見て判断することも必要なのよ。あなたには魔法戦闘の指揮を頼みたいわ。あの洞察力に期待してね」
意外な言葉にシーナは感嘆の声をあげる。
「スーシィさんがそこまでこの方を褒めるなんて本当に凄い方なんですね」
「……」
カタルナはシーナを一瞥して先を行った。
特にこれ以上話がなさそうだと判断しての行動だった。シーナはカタルナの後ろを洗練された足運びで歩く子供に目を見張る。
「私たちも行きましょう」その声はシーナにとって遠くに聞こえた。
ナインの叱責にかかりきりのアリシア。ドラゴンのルーシェ、シーナとリリア。そしてスーシィ、カタルナ。最後の1人であるルルーナはただ無言で着いて来ていた。
シーナはスーシィの後ろに着いてそっと声をかけた。
「あれは、ユウトなんじゃないんですか?」
スーシィは予期していた質問に首を振る。
「ユウトだとして、本人がラグナと名乗っているのよ。しつこく問い質すわけにはいかないわ」
「でも……」
「いい、シーナ。今はこの時間軸にいるユウトを助けることに集中しましょう。ラグナはユウトかもしれないけれど、ユウトじゃないかもしれない。ただ分かっているのは彼が私たちに味方してくれてるということよ。あの子のことは今は気にしないで全力を尽くすのよ」
シーナは力強く頷いた。ラグナが偽名であることは分かるし、シーナが幼い頃のユウトを見間違うはずもない。シーナがユウトだと確信してもその幼い姿が何故そこにあるのかは本人が語るまで知る由もなかった。
ドラゴンが向かった先はリドムバルド領の南東にある小さな街だった。
街が見えたところで山の中腹に降りると一行は地面に足をつける。夏の気配が近づく森の中は草木で覆われていて脛が流れて歩きづらかった。
「何だよ、もう少し街の近くで降りたっていいだろ」
「あなたはこの女性陣の中で唯一愚痴をいう存在ね」
「俺たちの世界では脚を使って森を歩いたりしないの。森から街にアクセスしないの」
「それは興味深いわね、どうやって移動するのかしら」
「車だよ、車。アクセル踏んで一気に行けるわけ」
「魔法で飛んでいくようなものかしら」
スーシィはそれが水素という燃料を使って動くものだと知るとユウトの話を思い出してラグナを見た。
「あなたの世界ではガソリンという燃料は使わないの?」
「ガソリン? いつの時代だよ。ガソリン使うのは趣味とかで玩具をいじる人たちかな」
「あなたと似て異なる界から来たと思われる人はガソリンを使うと言っていたわ。けれど、その感じだと呼び出される時間軸が異なるのかしら」
「あ、もしかしてそれってこいつのこと?」
ラグナが指されるとびくりと肩を震わせて俯いた。
「なんだよ、お前にどんな後ろめたいことがあるわけ」
「俺に構わないで」
ラグナの声は幼い頃のユウトの声そのままだった。
「早く行きましょう。日が暮れると森は怖いですよ」
シーナがユウトを流し見て先に歩き出す。ところが、ルーシェだけは目をきらきらとさせてラグナに飛びかかった。
「間違いない、ユウトだよ!」
スーシィとシーナはぎょっとした表情で2人を見る。
「は、離して」
「どうしてユウトは何も言わないの? 私がユウトの匂いを間違えるわけないよ。それにその声を聞いてあの時のこと思い出したもん」
ところがその2人を後ろからカタルナが割って入る。
「待って、ユウトユウトって何なの。これは私の召喚した使い魔」
「ユウトはユウトだよ。私の好きな人」
ルーシェはその小さい体にユウトを抱きかかえて離そうとしない。カタルナは無表情に怒りを隠してスーシィを向いた。
「この人、何を言っているのか全然わからない」
「私もわからないから困ってるのよ。その容姿は間違いなくユウトだし、彼女の話によれば匂いも本人みたいね」
「あのお、行かないんですか」
アリシアはシーナより進んだところで振り返っていた。
「歩きながら話しましょう。ユウト、いえラグナが何も話してくれない以上は説明できることなんてほとんどないけれど」
その後カタルナが受けた説明はカタルナにとっても信じがたいものだった。
ユウトを知る3人ともが、彼をユウトにしか見えないと言うのである。
「少なくとも彼、ラグナは私たちから逃げることはないようだし、無理に聞き出そうとも思ってないの。ただ、どうして話したがらないのかが気になるけれど」
ラグナは相変わらずルーシェの腕の中でナインにからかわれていた。
「じゃあこの使い魔は強いの?」
カタルナの訝しむような声にスーシィは首を振る。
「わからない。彼が強くなったのはアリスに召喚されて何年も経ってから。召喚当時は本当にただの子供だったのよ」
「わっかんねえ。こんなガキがこの世界を騒がすような存在になるってのか? こんなに小さきゃ剣も握れんだろ」
ナインは腰に差していた剣をラグナに持たせる。ラグナの腕はぐっと沈み、ルーシェの腕の中から支えているのがやっとといった具合だった。
「重そうね」
「当たり前だ。戦力外だよ、どう考えてもな」
剣を取り上げるとナインは先を歩く。スーシィは空いたカタルナの横に並んだ。
「契約を結んでいないのだったわよね」
「声を出せるようになったけれど、マナはまだうまく扱えない」
「でしょうね。リハビリも込めての遠征だし、危険と思ったらラグナと街に居てもいいわ。私たち学園の立場としては何も強制しない」
カタルナは首を横に振るとラグナに強い視線を送りながら喉に力を込めた。
「チャンスがあるなら名誉を取る道を行く。私にはそれしかないから」
スーシィは一体何度こういう生徒を見てきただろうと思う。その大半は口先だけの生温い生活から外へ出た勢いで出世を夢見る子供たちだった。
目の前のカタルナもまたそういった子供たちと言葉は変わらない。
覚悟の違いを言葉だけで知ることなど到底無理だし、スーシィも人の言動だけで判断する気にはなれなかった。
「その気持ちが死ぬまで持てるのならあなたは本物なのでしょうね」
詰まるところ人の可能性とは継続にこそあるとスーシィは諭したかった。
「使い魔で失敗していれば私はそこで終わりになる」
しかし当の本人は時たま1つの挫折によってその後の全ての可能性を諦めることがある。
言葉にこそ出さないが、スーシィはこの少女カタルナには何かを好きになる機会はあるのだろうかと疑問を抱く。
人生における価値がメイジとして国王に仕えることであれば、その他の人間の価値をどう捉えるのか。カタルナは間違いなく誰かの価値観で生きている人間であり、そのことに気づかない人間でもあった。
「あなたの欠点はそれね」
スーシィの言葉にカタルナは鋭く目尻に瞳を寄せる。
「何かをしなくちゃいけない人生なんてのは人生ではないのよ。そんなものに縛られるとしたらその人生はただの虚無になる」
「先生とはいえ、私の生き方に口添えは結構。名家には民への責任と義務がある」
話は終わりと言わんばかりにカタルナは歩を速めた。
「……それをプライドと言うのよ」
スーシィの声はか細くカタルナには届かない。
街に近づくと砦の石積みから声が投げられた。
「この区域は商人以外、誰も通れん」
斥候兵が徐に数人近づいてくると通行する理由を尋ねてくる。
「なに? 討伐だあ?」
斥候兵は出身国の証明である魔法札の開示を求めた。
「サマロのウルラ領か。まあ、あそこはビッグメイジがいたから威厳があったような国だしなあ」
「俺は昔そこのビッグメイジに会ったことがあるが、ただのジジイだったぜ」
斥候たちは嘲笑しながら魔法札をスーシィに返しす。
「通れよ、何のための討伐かはしらんが商人の妨げになるような魔物は1匹でも消えて貰った方がいい」
最後尾にいたルルーナが脇を通り過ぎると息が詰まる感覚に斥候の男はぞっとした、
「はっぐ――」
周囲にいた仲間たちが息を荒くする様子を見て狼狽する。
「どうした? お前って癪持ちだったか?」
「違う、あの最後に居た奴……あれはビッグメイジだ……」
それだけ告げると男は監視の交代を要求し、砦の中へと消えて行った。
男は悪い夢をみた気分だった。神格化されたフラムが死んだ時、存在するだけで周囲の者を畏怖させるほどの魔力を持つビッグメイジに二度と遭うことはないだろうと思っていた。それが間違いだと知った男は次の日、忽然と姿を消した。
「検問だ、お前らこの街に入れると思っているのか? 戦時中は商人以外お断りなんだ」
門番は一際不機嫌な調子でスーシィたちを眺めると口元を歪めて汚い笑いを見せる。
「そうだお前たちあれだろ、娼館に用があるんだろう」
「そんなところに用は無い」
リリアの声に男は真顔に戻った。全員の顔がそうではないと言っている。
「なら通行は許可できない。どうしてもと言うのであれば通行料を払って貰おう」
スーシィは毅然と門番の腰の高さから見上げた。
「何を勘違いしているのか知らないけれど、通行料が必要ならあなた達は国益に反する逆賊として捕らわれるでしょうね」
「おい。子供がなんか言ってるぜ」
門番たちは笑い合い槍を地面に打ち鳴らした。
「何なら、この竜を呼んで街中に降りてもいいのよ。あなた達に排除できるのであれば通行料以上の働きは出来るでしょうし」
スーシィはそう言ってフードの中から竜の子供を取り出すと門番たちは顔を見合わせて息を呑む。
「通れ、魔物を連れたメイジだと最初から言っていればこんな真似はしない」
一行が街へと入るのを見送ると門番は互いの視線を合わせて頷く。
「魔力色を記録しただろうな」
「はい、奴らが街中で何かすればすぐに分かります」
「ここ数日で魔物を持ったメイジなんて来たこと無かったんだ。密偵かもしれん、充分に警戒しておくよう衛兵に連絡を」
「分かりました」
「何なのですか、今の人たちは」
アリシアが独り言のように不満を語る。
「街が少し大きくなるとああいった国の傭い職というのは横柄になっていくのよ。大義よりも力や権力に目が眩んでしまうんでしょうね」
カタルナがルーシェの腕にいるユウトを取り上げた。
「私たちは別行動で宿を取る。もうすぐ日が暮れるし、この街でしか買えない装備も見たい」
「私も行く」
ルーシェの声にカタルナは否定の意志を示した。
「やめて、貴女は人間じゃない。後ろから光魔法をかざして見たとき皮膚組織がまるで鱗みたいに光ってた。仲間なら最初に自分の正体くらい明かして」
「……でも」
ルーシェは一瞬躊躇いカタルナはその戸惑う姿を尻目に人混みへ消えて行く。
「ユウト……」
その微妙な変化に気づいたのはスーシィだった。シーナのそばに移動してスーシィは先を促す。
「ルーシェは2年の間にどれくらい魔法を使ってたの?」
シーナはその質問の意図を汲んで答えた。
「活動に支障がない程度には使っていたみたいです」
スーシィの顔は険しくなった。イノセントドラゴンがどれほどの魔力をため込んでしまうかは寿命に直結する問題でもある。
かつて初めて会ったときと変わらないのであればルーシェの体の変調は今回が初めてではない。
「私たちも宿を取りましょう。明日からユウトを捜さないとならないのだから」
街に入っていったカタルナは脚を止めた。
「何なの……」
活気はなく、道に行く人はほとんどが貧相な身なりをしている。土と煤に塗れた人の傍らで品数の少ない露店が建ち並ぶ。
その身なりの良さを見て周囲の物乞いが手を伸ばした。
「頼む、銅貨でいい。恵んでくれないか」
カタルナが身を引くと衛兵の男が声を上げる。
「そこのお前ら、散れ!」
蜘蛛の子を散らすように物乞いたちは去って行く。石の道に布が駆けていくと衛兵の男が下品な笑いを浮かべて立っていた。
「お嬢さん、もしこの街が初めてなら案内しようか」
カタルナは走った。背中をラグナが追う。見かけよりもずっと速くに走るカタルナは衛兵が見えなくなった通りの途中で歩くようにして止まった。
「この街の宿を探さないと」
この街でしか買えない装備など期待する気持ちは全くなくなっていた。
元よりそれは離れるための口実で目的達成のために彼女たちの不確定要素はあまりにも多くそれが障害となりそうなことは予感めいている。
「力を貸して」
ラグナにそういうカタルナの言葉は偽りの無い懇願だった。ラグナの小さな手にカタルナはバッグから取り出した宝石を乗せる。
「俺に出来ることなら」
カタルナの一言でラグナは元来た道を戻っていく。
スーシィたちは街の様子に驚きながらも宿と食べ物にありつくことだけは出来ていた。
「戦時中とはいえ酷い有様ね。それほど軍を動かすのにお金が足りないのかしら」
豆を煮込んだ簡素なスープと固いパンに一行は何とも気の休まらない昼食を取っている。
「足りないなんてもんじゃないよ。男も金もみんな持って行かれた。私らに出来ることはここでラヴハムの軍に殺されるのを待つことだけさ」
宿のオーナーが頼まれた発泡酒を持ってグラスを配る。身なりこそ裕福には見えないがそれなりに手慣れた手つきで酒を注いでいった。
「何これニガイ……」ルーシェがグラスを押してテーブルの上に伏せった。
「この街は前線に一番近いんだ。仕事をしようって奴もみんな逃げ出しちまってこの有様さ。何しろ、事を構えるならまずこの街に拠点を置きたいだろうからね。そういう意味ではお客さんたちは変わり者だね」
スーシィはチップを支払うと酒に口に付けて喉を潤した。
「悪くないお酒ね。冒険者とも考えられるわよ」
「これでもこの商売は長くてね。冒険者とそうでない人くらいは見分けられるんだよ。特にお客さんくらい強い人には鼻が利くのさ」
スーシィはもう一度チップを払うとオーナーの目の色が変わった。
「ここ数日、街の外で軍か衛兵の動きが何かと活発なんだ。何かをしようとしているというよりは何かを探しているような感じだね。早馬で行き交ってはいるが連絡にしては数が多いからね。まあ、それと同じくらい幌馬車も多いんだ。もちろん中身は死体だね、何せ臭ってくるもんだから」
そこでぴたりとオーナーの口は止まる。スーシィは苦笑いしながらチップをもう一度握らせた。
「いいかい、死体が出るってことは何かと争っているんだ。もちろんラヴハムの軍じゃない。そんないたずらに兵力を使えるほどプテラハは軍兵がいないからね。街から民兵を取る位なんだから分かるだろ? とにかく争っている。それが何かと言うのは1つしかないね」
シーナやアリシアも声を潜めたオーナーの言葉をじっと待つ。
「秘密兵器さ。とびきり危険な戦況をひっくり返すような兵器がこの近くにあるんだよ」
「ありがとう。もう充分だわ」
「また何かほしいものがあれば注文しておくれ」
オーナーはカウンターの奥へ戻っていくとスーシィは溜息を着いた。
同時に店内に甲冑をきた数人の男たちが入って来てげらげらと笑い声を上げる。
「冒険者ですね」
シーナたちを見ると男たちは顔色を変えて近寄ってきた。
「こいつあ驚ぇた。こんな美人がこんな終末の街にいるなんてよ」
かっと笑いが起こるとオーナーが大声で叫ぶ。
「あんた達、うちのお得意様に手出しすると衛兵が出てくるよ」
舌打ちする男達にむかってスーシィは含みのある笑顔を向けた。
「もしその気があるなら今日の夜は鍵を掛けないで寝てなさい。明日の朝には立ち上がれないようにしてあげるから」
歓喜の声に男達は後ろの席に着いた。出て行こうとした客を引き留めたことにオーナーはチーズの差し入れでもってお礼をする。
リリスは一連のやり取りを見て眉間に皺を作った。
「くだらん、何のつもりかはしらんがユウトの討伐の段取りを早く進めろ」
「これだから旅の興を知らない子供は困るわ。あなたいくつよ」
「それが問題か?」
シーナが宥めると同時にナインは撥ねた髪の上に手を置いて嘆息する。
「俺が無視されるとかないぜ。この美人ハーレムの中で唯一男である俺を無視だぜ?」
アリシアがけたけたと笑い出した。
「ナインはボーイッシュな女の子に見えるんだよ。可愛い顔してるからね」
「酔いが回ってるようね」
「契約もう一回やったらもっと強いルーンにならないかなあ」
頬を赤く染めたアリシアはナインの横で立ち上がった。
「その契約は違う意味の契約となるかもしれんな」
「ナイン、あなたにこの酔いつぶれたアリシアを任せるわけだけどその契約とやらが果たされたとき彼女が笑っていなければ脳みそを取り出させて貰うわ」
「は?」
「生きた人間、いえ動物が意志もなく道具として生きていく魔法を臨床試験する材料がほしかったのよ。目の前にあるならやらない手はないわ」
「怖えこと言うなよ」
「下衆ばかりだな」リリスが発泡酒を呷る。
「それで、問題はその軍の斥候が捕まえられるかどうかと言うところね」
スーシィに一同が同意する。アリシアだけは机の上で寝息を掻いていた。
「私が今日中に周辺の斥候を探るから明日、斥候の情報に従って捜索を始めましょう」
夜の一室でカタルナは神妙に一連の話を聞いた。
全てはラグナのもたらした情報で手にはラグナに渡した宝石と同じものが緑に輝いている。
「それは持っておいて。ルーンがない以上はその宝石に頼らざるを得ない」
互いの連絡のための宝石だった。決して安くはないし、誰でも持っているようなものでもない。
「そっちに向かう」
「そうね、もう充分。気をつけて」
風のエレメンタルでもあるその宝石をカタルナはペンダントに填めて身につけた。
ルーンはまだ刻めなくともカタルナは少しだけ安心した様子でベッドに横たわる。
魔力を回復するためかほどよい倦怠感に包まれ、カタルナは小さく寝息を立て始めた。
少ししてラグナが部屋に訪れる。鍵も掛けずにこの廃れた街での警戒心のなさは育ちが良いせいだとラグナは思った。
そして首元に覗くペンダントにラグナは一層の動揺をみせる。
受け入れ難い真実ともう一つの真実が確信へと変わり、ラグナは空いたもう一つのベッドに横たわった。
明朝に早めの腹ごしらえをしたスーシィたちは宿から出ると同時に衛兵に取り囲まれた。
「この中に重罪人の魔力を検知したと報告がある」
「魔力検知ですって?」
ジャポルでしか存在していなかった最新魔法具がこんな片田舎の街に存在している理由をスーシィは驚きを持って反応する。
「若干足りないようだが、重罪人は確実にこの中にいるはずだ。罪状はジャポルでの禁忌魔法使用と公務執行妨害だ」
忘れもしない数年前、ユウトを手に入れるために行った大魔法。スーシィはわずかの間に様々な行動を予測した。逃げられないという結論とは別に残りのメンバーで可能性があるのかどうかと考えが及ぶ。
「どうした、いないはずはないぞ。罪人を庇うのであれば全員監獄にぶち込むまでだ」
「それは恐らく私よ」
ナインの口笛が耳につく。アリシアはその後頭部を叩いた。
「どういうことですか、スーシィさん」
「そういうことよ。前にも説明したでしょ。私はユウトを手に入れようとしたことがあるって。それはこういうかたちになって自分に返ってきたというだけの話よ」
「無駄な抵抗はするな。逃げれば罪は重くなる」
「逃げないわよ。魔力検知なんていう最新鋭の魔法具をこんな片田舎街で使用されるとは思っていなかった私の落ち度だわ」
スーシィは大人しく連行されて行く。途方に暮れる一行の中で声を上げたのはナインだった。
「で、ユウトとかいう野郎をまだおっかけるのか? もう司令塔いなくなったぞ」
「司令塔って……」
「私は1人でもやります」
シーナが前に出るとルーシェが後を追うように動く。それに制止をかけたのは赤毛のルルーナだった。
「スーシィ王がいなくなったのであれば、私が指示させて貰う」
これまでほとんど口を利いてこなかったルルーナの抑揚がないしゃべりは事務的ですらある。
「私は祖国サマロと私の君主に対して害をなす魔物を狩る。調停者として協力者のスーシィ王が不足とあってはスーシィ王にとって代わるのは私だ」
「いいえ、それは違う」
カタルナはくすむ水の髪を風に靡かせて立つ。ルルーナの無表情とカタルナの無表情は見かけに置いては変わらない。似ているとも言えた。
そこに激情があったとすれば、ルルーナはただ忠誠に尽くそうとし、カタルナは自らのプライドだった。
「hyeli isscula(火花)」・「hyeli isscula(火花)」
一瞬の詠唱が両者の中央に光を起こした。
「私の特技は相手の詠唱を完全に復唱することなの。言葉より先に相手のスペルが分かる」
ルルーナはいつの間にか抜いた杖を下ろして1人歩き出した。
「私はアカリヤ王に仕える者。お前たちは何に仕えているというのだ。王に仕えぬ民など私の知るところではない」
風に乗る言葉は耳朶に触れると、その姿と共にかき消えていった。
「戦力がさらに減ったじゃねえか」
ナインの声にカタルナは首を振る。
「関係ない。彼、ユウトはもうここにいるのだから」
その言葉に促されるように影からラグナの姿が現れる。
「記憶喪失だっただと?」
ナインは指を打ち鳴らしてラグナの背後から頭を鷲掴みにする。
「ちょっとナイン!」
「ちょっと思い出すようにシェイクしてやろうと思ってな」
「やめろ、だいたい忘れているとは言っても断片的だ。だから言うのを躊躇っていたんだ」
リリスはいつもの不機嫌さを増して顎を引く。
「なら、その整理がついたということか? 今まで黙っていた理由は」
「俺に発動したのは現神アガリペラの力だろうと思う。ただ、アガリペラはその……俺が倒したと思うから契約がなんだと言った最初の言葉がよくわからない」
「嘘……現神を倒したの?」
ルーシェに頷くユウト。
「倒したのは俺の力じゃ無い。そのうち話すよ」
「良かった……ユウト」
シーナの抱擁をなすがままに受け入れるユウトはただ「ごめん」とだけ呟く。
「それにまだ終わってない。もう1人の俺は消えていないし、たぶんそっちがアガリペラの真の目的のような気がする。黙っていたのはこの恐るべき事実が真実である確実性が無かったからだ」
「お前、ガキの姿のくせしてしゃべり方がおかしいぞ」
ユウトは無視して話を続ける。
「昨日、俺の中で1つの記憶を思い出した。シーナ、昔にあげたペンダントをまだ持ってる?」
「もちろんあります」
シーナのペンダントは空のまま首にかかっていた。
「ありがとう」
ユウトは静かに深呼吸して言葉を紡いだ。
「現神アガリペラは自分が消された過去を改変している。その存在を俺に置き換えて再び神の存在証明を行おうとしている」
誰もがそれに耳を疑った。
「まてまて、その現神アガリペラ? って何なんだよ」
ナインだけはアリシアと同じく首を傾げている。
「現人神アガリペラは現存する最古の神。時と慈愛の現人神。その不在証明は失敗に終わった。そのはず」
カタルナの説明にユウトは同意する。
「失敗した。最深部に辿り着いたのは俺だけだった。あの場から生きて帰れたのはアガリペラに別の算段があったからだと思う」
ユウトは片手を上げ甲を見せるとそこには1つのルーンが浮かび上がっていた。
「私が昨日コントラクトをしようとしても出来なかった。このルーンは他の誰かのもの」
「俺の存在は別の過去によって証明されようとしている。そうなれば、もう1人の俺の方は新たな現人神アガリペラとして君臨することになるはずだ」
「じゃあ、アリスさんにスペル化の魔法を教えたのって」
「それは違う。アガリペラは俺が神格化するのを待っていたようだったし、自ら干渉できるような状態にはなかった」
ナインは呻り声をあげて腕を組んだ。
「ちょっと待てよ、ってことはお前は神を倒してその恨みを買って乗っ取られたお前を倒さなきゃならんってことか?」
「大体はあってるな」
「だが、そうなるとお前はなぜ前のユウトの記憶まで持っているんだ?」
「それは俺もよくわからないが、向こうの体にあるべき俺の精神がこういうかたちで外に放出されたせいじゃないか。アガリペラは時を改変することで自分の存在を強引にこの世界に再び顕現しようとしてる。少なくとも俺はそう感じる」
「私も同意見」
カタルナの声を最後に沈黙が訪れた。
「勝てるのかよ。お前」
「俺か、まず無理だな」
ユウトは即答しながらそれでもと続ける。
「ここで逃げるという選択肢は俺にはない。仮にも多くを殺めているのは俺の体だし、このままだと本当にアガリペラは止められなくなる。今のあれを支配しているのはただ1つ『殺せ』っていう言葉(スペル)だけだ」
ナインは空を仰いだ。
「とんでもねえ場所に来たもんだ」
「1つ聞きたいことがあるんだけど」
ルーシェは真面目な面持ちでユウトに向き合う。
「向こうのユウトはもうユウトじゃ無いの?」
しばしの沈黙。ユウトは静かに首を振った。風が一陣吹き抜けていく。
「わからない。今の俺がどうなっているのかは……ただ、慈愛の神でもあるアガリペラは数年前に消失した。そして再びこの世界に存在を匂わせている。それは俺の記憶が食い違っていることからも明らかだ」
「それがペンダントなんですね」
頷くユウトはそれこそが確信だと言い切る。
「俺の記憶は今、2つある。1つはアリスの使い魔として生きた記憶。もう1つは暗くもやがかかっているが、アリスが存在しないシーナの使い魔として生きた記憶だ」
その言葉にシーナは息を忘れたように硬直した。心臓が高鳴り音が遠のく。
「そう、だからこれは私の問題でもある」
そこでカタルナが服を捲ってみせる。そこには虹色に輝く皮膚が見えた。
「魔力が溜まっている……?」
「彼の存在が記憶の通りとなるのなら、私は召喚に失敗して死ぬという運命に置き換えられる。その場合は学園全員の生徒の命が消える可能性もある」
「そんな……」
「これ以上、どんな最悪があるんだよ」
ナインの言葉に一行は言葉を失ってしまう。
「もっと言えばスーシィ学園長がこの討伐に介入できないのはたぶん特待生を集めたせい。ユウトを目的とした行動は全て他の要因、原因によって置き換えられていく。アガリペラの復活が近づけば近づくほどアガリペラに到達できる存在は減っていく」
ルルーナは1人でユウトと対峙していた。
それは僥倖だったか、はたまた不幸だったのかは他のしるところではない。
ただ、簡単に遇うことができた。そう感じざるを得ないのは確かであった。
「コロス……コ、コ――」
もはや理性をもった人間とは思えないそれは金の光に包まれた神々しい魔物だった。
「Delctent――(能力上昇)」
ルルーナの四肢に赤い霧が吹き荒れる。身体組成をエレメンタル材質に変質させるリゴの魔導師と変わらぬ手法で強靱な体へ変化する。
「Abat jidtlrt――(使い魔召喚)」「Abat crea――(装甲顕現)」「Abat tecter――(磁力集束)」
セットスペルによる同時呪文によってルルーナの周囲に3つの変化が訪れる。
「まず始めに言いたいこと、俺を道具のように扱うのは感心しない」
隣りに現れた4の使い魔でもある彼は間違いなくルーンを宿したルルーナの使い魔だった。
身長はユウトより頭1つ抜けている。武器はないが全身に纏う防具は洗練された外見であった。
「二番目に言いたいこと、剣士とやるなら相手の剣は何処かにやって欲しいかな」
高い鼻筋の上から覗く双眸は鋭く勇ましい。眉が目蓋を隠すように近づくと男の足下が爆ぜた。
肉迫した2人の攻防はイクシオンに見た女との攻防を凌ぐ素早さで交わされる。
雨あられのごとき速さの炸裂音が響き終わると同時に2つの影が距離を取った。
「三番目。ルルーナ、こいつクラス5行ってるよ。まともにやってちゃ勝てない」
それを合図にルルーナは再び詠唱を開始する。
途端に周囲が暗くなり、男の拳に怪しげな影が集束していった。
「決死の覚悟か……」
男は珍しく4番目を言わずして再び跳ねた。
ユウトの一太刀は男の胸元を通り過ぎて行く。それと同時に炸裂する両手の連打はユウトの左手が全て防ぎきった。その様子は雨が地面に弾けるのと同じで寸分の狂いも無い。
打撃に飽きた男は両手を広げて突き出す。
「Ba Kirle!――(波動)」
ユウトの左腕が空間ごと圧搾されて体が矢のように飛び消える。
紙くずのように変形しながら森の中を真っ直ぐに縫っていくユウトの体は誰が見ても絶命を思わせるものだった。何本の木々が打ち砕かれたか知れず埃と塵に充ちた森をゆっくりと2人が歩いて行く。
「なあ、こんな滅茶苦茶な魔力の使い方をしたんじゃ体が――」
「この魔物は魔力を消滅させる能力を持つ」
それからの会話はなかった。ルルーナと男の関係はあまりにも淡泊だった。
「う、うぐ……」
ユウトは地面に体を折って蹲っていた。男はそこにあるクレーターを見て息があるだけ、いや四肢がついているだけでも奇跡に思った。
「そんな」
男の声を代弁するルルーナの声。ユウトはゆらりと立ち上がった。
「う、後ろだ」
確かな人間の声を前から聞くと同時に背後に感じた気配に向かってルルーナは杖を振った。
でたらめな魔力の放出は木々を焼き払い、大地を焦がす。フラムのように一瞬の放出だったがルルーナはわずかに加減したことを強く後悔した。
「まさか、神官風情が彼をここまで追い詰めるとは」
現れた白髪の老人。老人というのは灰色の肌に窪んだ眼窩がそう見せるのであって実際の年齢はまったくわからない。皺よりも人間の血色を感じない不気味な肌を持つ細身の体は炎の中にあっても全く危ういところが無い。
「こいつ――」
こいつはだめだ。ルルーナの五感がそう告げていた。撤退を合図するには時間がなかった。向かって行った使い魔がはじき飛ばされて足下に転がった。
目の前の男の手に見える握られた杖は十本。ユウトはそれを扇子だと思ったが、ルルーナにとっては10の杖に見えた。
「Axeka- ma-a-…」
木霊する10のスペルはもはや合唱と言って差し支えない。瞬間的に発動されたのは大魔法に他ならなかった。それぞれのスペルが互いに補完し合い、意味の違うスペルに組みかわり再び1つの体系をなすその様はビッグメイジが10人控えているかのようにすら感じる。
今までに感じたことの無い悪寒は正真正銘の死を思わせた。
回避不能と感じるのは魔法が目に見えないだけが理由ではない。自分が躱せば使い魔もろとも消えるであろう事が容易に分かるからだった。
白蓋は一瞬、それを離れた場所から見たシーナたちはその光の柱に足を竦ませる。
「神秘魔法を逃れたな」
男の声、見た目からは想像のできない老人の声は目の前の人物によって紡がれていた。
「はやく逃げろ……俺の正気が無くなる前に」
ユウトの体が周囲の魔力を弾き返している。目に見えるほどの密度でマナが白く覆い尽くすそこにはユウトによって守られるルルーナがいた。
「餌が餌を連れてくるというのは面白い。私は現人神にしか興味がないというのに」
ルルーナは駆けた。ユウトを背にして全力で。自らの使い魔さえ置いて逃げることに余念はなかった。
「Tau-at-…」
残響するスペルがルルーナの耳元に届くと足が石のように硬直する。
「敵わないと知れば逃げるのは適切だが、それはモゥトに言わせると死と同義だ」
跪くユウトの脇を通ってルルーナの元へ歩く男は死神よりも死神らしい。
「君には私の魔力庫となってもらいたい。殺すとしても今ではない、才能があれば天寿を全うするまで生きていてもいい」
そう告げるとルルーナの首筋に冷たい手が置かれた。
「や、やめろぉおおお!」
ユウトは力の限り叫んだ。ずしりと空気が重くなった途端にルルーナの肢体が痙攣して地に倒れる。
アリスの影がルルーナに重なり、ユウトの脚が弾ける。
青の剣で斬り込んだ先は肉ではなく石のようだった。男は風のように剣の勢いに乗って後方へと飛ぶと無機質な表情でユウトと対峙する。
「アガリペラは何処へ行ったのか。モゥトに言わせれば遊びすぎたか……ああ、君はまだ完全体になりきれていないのだったな。どうも年を食うと結果ばかりが頭に浮かんで仕方が無い」
男が杖を振ると目の前にアリスが現れる。
「もう、やめてくれ……」
ユウトの声は誰にも届かなかった。目の前のアリスはただユウトを責めるように懇願する。
「言葉に支配されることを君は選んだ。愛する者を疑わない強さ。私は彼女の言葉を君に贈りたいだけなんだ」
アリスの言葉にならない声は常にユウトへ向かって放たれていた。
『――して』
アリスの魔力が全て目の前の男の中にあることはユウトも分かっている。しかし、目の前の男を倒そうとする度に知らない誰かが死んでいる。――はそれが次はアリスの望みであることを祈って剣を振る。
「殺さ、ないと……」
目の前の何かを斬らずにはいられない。深い憎しみは内と外から沸いてきていた。アリスの魂が何かを取り戻せと叫ぶのだった。
「う、ウ……コロ、ス」
「こっち」
カタルナが走る先に抉られた地面が連なっていた。向こう側は倒木の数々に埋もれている。
「もう、誰かと戦闘になったのでしょうか」
「ユウトの気配がする……」
ルーシェは杖を取り出した。
ぞくりと背筋を通る悪寒に全員が振り返る。
木の葉の幾重も無言のままにその影を讃える。一陣の風にはっきりとする姿はかつての面影を目元に残した使い魔だった。
「ユ、ウト……?」
シーナは驚愕に後ずさりした。黒い肢体から金の瞳が覗く。黒は全てが羅列したスペルだった。その異形に覚えがあるルーシェは下がった眉をわずかにつり上げる。
「黒いのは何? 聞いてない」
カタルナが焦りに口を開くもその答えは誰も持っていなかった。カタルナの傍らにいるユウトは短剣を抜きながら焦る声を上げる。
「復活が近いのかも知れない。みんな、戦う準備を――」
「でもあれを具体的にどうする? 斬ってどうにかできるのか? あの赤い剣、あれは元々お前の剣だろう?」
リリアは黒剣を構えながらシーナの前に出た。
「蒼剣セイラムがなんで赤くなってるのかは俺にもわからない。とりあえず全力で戦ってみないと」
「私がまずは視界を奪います。皆さんはひとまず攻撃体勢を」
シーナが杖を構えて詠唱すると周囲に霧が立ちこめてくる。黒きユウトの挙動に変化はなく全員が散開するかたちで取り囲んだ。
「この霧じゃ何も見えない」
カタルナはユウトの隣で静かに息を吐く。
「いいんだ、これで」
「ラグナという名前は嘘だったの」
「ごめん、これからはユウトって呼んでほしい」
「よろしくね、小さい子」
白い霧の奥に光が弾けた。
「Knia sald zix(風の怒り)」
轟く光は雷。耳を劈くような破裂音と共に空気が割れる。
「なに? これが魔法?」
「ルーシェの魔法だ。あの子はドラゴンなんだ」
「ドラゴン……」
カタルナはそれで合点がいった。皮膚が鱗のように光沢していたことにも浮世離れした雰囲気にも理解が及ぶ。ただ1つの疑問を残しては――。
「ドラゴンが人間に擬態するなんて」
雷撃は雨あられのように浴びせられ続けて周囲に焦げた臭いが立ち籠めてくる。
これほどの攻撃で生きていられる生物など存在するのだろうかとカタルナは思った。
「ウガアアアァァ――」
怒号が飛ぶと同時、地面の揺れと共に土が舞い上がる。
カタルナとユウトは後方へ飛ぶと見えない霧の奥で落ち葉が降り注ぐ土砂によって細かく打ち鳴らされた。風の隙間からわずかに見えたリリアの姿が走る。
「いけない」
リリアはこの霧の中にあってもルーシェの位置が正確に分かるのか次の瞬間に聞こえたのは剣と剣がぶつかる鉄の火花だった。
「ユウト! 目を覚ませ!」
打ち合いは数合。リリアの伸縮する剣がユウトの肉を割く度にリリアの表情が苦しく歪む。もともとユウト本人の技術があればこそ対等の剣も今はリリアの敵では無かった。
力任せの一撃をリリアは風を受ける蜻蛉のように受けて舞う。
「こんなかたちでお前と決着したくない……」
油断と呼ぶにはあまりにも大きな失着は覚悟の内にあった。このままいけば相手を、ユウトを殺すかもしれないという一瞬の気おくれ、それが次の一撃を受けることになる。
足下に飛来した剣の勢いを自らの剣に乗せてリリアは空中に踊り出た。
天地が逆さに見えて腕から伸びた刃が黒きユウトの首元に迫る。
残り半回転でその首を落とせるというところで黒きユウトの動きが急激な加速を見せた。
それは生物が持つ速度の限界を何かで超えた瞬動だった。
「ばっ――」
馬鹿なという言葉にならない声の続きをリリアは大木の根に打ち付けられながら脳内で発する。
「リリア!」
血を吐きながら横たえた体に何が起こったのか冷静に思い出していく。しかしそれは叶わず、シーナの走る姿を瞳に映しながらリリアは暗闇に意識を手放した。
打ち倒れたリリアを黒きユウトは足下に見てシーナは両手に杖を持ち息を呑む。
「迷いを、捨てる……」
対峙した黒きユウトにシーナは強く自分に言い聞かせた。
「CFFEETS――(効果)」
霧の質量が変わり空気の流れが滞る。
シーナの体が変則的な速度で駆ける。ユウトの横を駆けていくと白の中へと姿を消した。
「ウゥ……」
黒きユウトの獲物を探る様子はまるで飢えた獣のようでもある。
音と視界が断たれた黒きユウトは心音に耳を澄ませながら荒い息を吐いた。
金の瞳が黒い目蓋に隠れて棒立ちになる。
「…………」
かさりと地面の葉が揺れる音にも黒きユウトは動じない。足音ではなかった。殺気も息遣いもない。
生き物の気配はないというのに黒きユウトの指先は何かを掴まえるようにぴくりと動く。
刹那の開幕。霧の中から現れた氷の刃は黒きユウトの背に迫る。
手遅れの一撃は互いが同じ時間の流れに存在する場合にのみ起こるが、今回は違っていた。
その様子を見ていたナインは自分がいつもしていることと同じことが目の前で起きているのを知ることになる。
「なんだと――」
今まで背を向けていた黒きユウトが突如、氷の刃を腕に受けていた。
その刃は腕を突き抜けたところで止まっている。
咄嗟にシーナは刃を離して霧の中へと戻る。半歩遅れて赤い剣が地面に振り降ろされた。
意表をついた攻撃によってシーナは無傷だったが、次は無いという殺気が黒きユウトから溢れていた。
ナインだけは今の戦いを見てアリシアの手を取った。
「逃げるぞ」
「何言ってるの? みんなが戦ってるのに」
「おまえ、今の見たか? 俺の能力と同じか、それ以上だ。シーナって女の子には悪いがこれは勝てる戦いじゃねえよ」
「そうだ、これは戦いなんてもじゃない」
不意に現れた気配は見たことのない男の姿のものだった。
「何だお前ら……」
シーナの霧からの攻撃は幾度となく黒きユウトには無効だった。
話に聞いていた魔法を無力化するという力の代わりに黒きユウトには時間を超越するような動きが見られていた。
絶対不可避の攻撃を避けたり、防御することが可能になっていた。
それを退化とみるのか進化とみるのかは決めかねるもシーナはこの状況を打開する術を思いつかない。
「リースの恨み、ここで晴らす」
聞き覚えのある声がシーナに届く。声の主は金髪のカインだった。カインの赤土の瞳がユウトを見据えて地面に何かを落とす。
同時にシーナの支配していた周囲の環境マナが奪われて新たなスペルによって形を変える。
「ユウト、お前にはリースとアリスの死を償ってもらう」
地面から現れる鎧の兵。兵。血に染めたその手には小瓶が握られ周囲に現れる鎧の数は留まるところを知らない。優に3000を超えたところで黒きユウトも叫びを上げた。
それが戦慄だったのかはわからない。その叫びは進軍の地籟(ちらい)によってかき消えた。
「私も使い魔を殺された恨みを晴らす」
カインの後ろにはまだ他の生徒が十数人連なって居る。しかし、シーナは悟る。
数では勝てないと。
黒きユウトの周囲に出現した3000のワルキューレは土塊ではなく鉄面を持つ金属の塊だった。ここまでの練成は偏にカインが土属性に秀でてあることと協力する生徒の数が十数人いたことによる。
スーシィの技術を盗んだ彼らはただユウトを打倒したい一心であった。愛する使い魔を奪われ一矢報いるため。
その願いは同時に多大な犠牲をもたらした。
「ぐっ――」
握られた手から出る出血は止まることのないまま流れ続ける。
黒きユウトに差し迫ったワルキューレが斬り掛かった。全身が鉄で練成されているためその重量は一太刀で馬をも両断しようかという勢いがある。地面をえぐる攻撃を躱して黒きユウトの剣が胴に叩き付けられる。
「ドゥアァ――」
その渾身の剣を受けても鉄の戦士はよろめきすらしなかった。
「いける、いけるぞ!」
カインの後ろにいる生徒はわずかな期待に眉を上げる。ところが、ワルキューレはそれ以上の攻撃を仕掛けなかった。カインの攻撃合図への反応を鈍らせている。
「何か、おかしい」
黒きユウトは口元を歪ませていたようだった。
それはワルキューレが一斉に斬り掛かる直前に見えたもので誰もその光景に確信は持てない。
土埃の影より閃が光る。
乱闘が収まり、視界が晴れていくと立っていたのは黄金に発色する髪を生やした誰かだった。
『伝えなければならぬことがある』
黒き肢体は白く染まり、背中には白い羽が生えている。声はよく通った男のものになり誰とも覚え知れない。
「なんだよ、あれ……」
唯一変わっていないのは剣の形状だけだった。青い剣は誰が見てもかつてのユウトの剣である。
『皆、死んではくれないか』
天を仰いでいたそれは刹那に周囲のワルキューレ十数体を一度に斬り伏せた。
『これが人の器か。忌々しき小僧の肉もこれまで』
肉が弾ける音はその男自身から発せられていた。
かつてのユウトの肉体が限界を超える酷使によって弾け飛び、内から何か別のものが現れる。
それはユウトだったものの肉体より一回り大きく、強靱な男の躰であった。
人間の脱皮という形容がよく当てはまる光景に人のものではないと誰もが思う。
『この自分という存在を持たぬ業こそ神である証。これこそ、神の業である。すなわち神とは、自我なき我なり』
ばきりと骨格が打ち響く音が妙に耳に残り、場の全員が凍り付いた。
「逃げろ……早く逃げろぉおお!」
ユウトの叫びが背筋に冷たいものを押し当てる。まるでそれが合図となったかのように光の筋が周囲に張り巡らされた。
その筋の中に居た者、触れた物は例外なく光の形に切断された。
光に触れたワルキューレ、その後ろにいた生徒。鮮血が神を称えるかのように吹き出した。足下に立ち籠める霧が雲の上での出来事のように感じる。カタルナは震えながらその様子を魅入った。
剣などもはや飾りでしか無い。今目の前にしているのは「神」なのだと知る。
『お前も分かっているはずだ。今ここに命運は結ばれた。あの時、死ぬ定めにあった私という存在がお前にとって代わった』
「なぜだ、お前は消えたはずだ……」
『神を本当に殺せると思っているのか? 神はいつでも対峙した人間の中にある。だからこその現人神だ。そしてお前の肉が死んだ時、神である我は生まれたのだ』
それは全く以て言葉の戯れでしかなかった。
ユウトはその巨躯にワルキューレが襲いかかるのを見る。
「う、うわぁぁあああ」
生徒の叫喚は焦りと恐怖、絶望の悲鳴だった。逃げる者、魔法を放つ者、悉くが瞬きのうちにその肉を断たれていく。
『ふむ、もう躰は慣れた』
風が吹いたようにそう口にすると必死に魔法を撃ち続ける最後の生徒を全く意に介さず最後の断頭を行った。
「うっ……」
アリシアは嘔吐きながら地に手を着く。
「命あっての物種ってな。アリシア、逃げてもいいだろ?」
首を振るアリシアにナインは苛立つ。女の子を置いて逃げることもナインには出来なかった。その姿を尻目に神と名乗る男は遠巻きにユウトを見た。
「あの日、最後の一撃を食らったのはこの剣であった。忌々しき頂に突き立ったこの剣には我の半身が封印され動けなかった。だが、お前がこの剣を握り振るって来たとき、我はこの未来を見たのだ」
ユウトは言葉を待った。シーナもルーシェもカタルナも戦う意欲など沸かない。
アリシアは青ざめた表情でナインはただ目の前の大男を見据えている。
「我は剣の中で1つに戻りながら時を待った。もうすぐ死に行く人間の小娘を見た時、未来は過程を見せた」
ユウトの目がゆっくりと見開かれていく。
「この人間に慈悲を与えれば、我は地上に再び君臨するという未来が、な」
霧が裂けるのと同時、大男の目の前に小柄なユウトの姿があった。
「っち」
ナインは指を打ち鳴らすと大男へ向かって走り出す。光の筋からユウトを抱きかかえるようにして逸らすと時間が元に戻った。
「なに……」
「神だか何だか知らねえけど、それすっごい痛いぜ」
もう一度指を打ち鳴らすと同時に男から光の剣が向かってくる。全員が灰色に固まる時間の中でも光の攻撃だけはゆっくりと動いていた。
「半端ねえ」
二度目の回避で大男もさすがにナインを敵と認識する。
「異能の持ち主よ、我をあまり怒らせぬ方が良いぞ」
三度目に遅延する時間の中でナインは敵の位置を見失った。土がまくれ上がり壁になっていたのだ。
「神とか言って、戦い方はしっかりと考えるわけか」
姿を眩ませたのを好機と捉えてナインはユウトに背中越しに叫ぶ。
「何とかしろよ、先輩」
次の瞬間にナインの姿が消えた。ユウトは距離を取ると手段を考える。アガリペラを前に勝機を探るも有効な手段は思いつかない。あるとすれば、まだ試していないことが1つあるだけだった。
「くそ」
剣もない状況のユウトの傍らにカタルナが立つ。
「契約を。手段がないならルーンの力に賭けるべき」
ユウトが頷くと足下に円形の陣が現れた。
「みんな、魔力をこの円に注いで」
拡張した声がシーナやルーシェに届くと、その意図に気づいて魔力が筋になって届く。
「カタルナさん? 契約魔法に他人の魔力は――」
「分かってる。でもただの契約に可能性はない。光の攻撃に対抗する力を手に入れるなら全員の契約を1つに重ねないと」
「アリシアもそこのチビに魔力とやらを回せ」
ナインは土まみれになりながらも戦いの中でひたすら拮抗状態を保つ。
「でもっ――」
「いいから! 俺のルーンの力は気にするな」
アリシアの魔力も受けてユウトの右腕にルーンの文字が刻まれていく。ユウトの後ろで詠唱するカタルナの杖がマナの総量に耐えきれず燃え尽きた。
水色の光に包まれたユウトにカタルナは最後の契約を与える。
「っ――」
光の中で唇に触れた感触でユウトは忘れていた息を取り戻す。
背後に光の壁を見てナインは1人諦観したような微笑を浮かべていた。
「上手く行ってなかったら元の世界に逃げ帰りたいね」
大男の顔が自分へ向けられたと同時にナインは指を鳴らす。起こらない変化にアリシアの魔力が尽きたのだと悟った。
「奥の手……」
ナインは身を低くしてポケットから銀の装飾品を突きだした。
「うわっ」
投げ捨てたアリシアの手鏡は半分が溶解してナインの耳元の髪が無くなっている。
「少しは驚かされたな……」
わずかに反射した光が森の木々を焼き切っているのを見てナインは少しだけ自分の寿命が伸びていたことを知った。
「だが、これで終わりだ」
一瞬にして距離が詰まると大男の手の平にナインの頭が収まっていた。
断頭の一閃はナインの首に掛かかろうとしている。その前にユウトの影がなければ大男はナインの首をものにしていた。
「ション便ちびるわ……」
ユウトの手に握られた黒い剣が大男の胸元を掠めていく。
全てを躱しきると巨体が後ろへ跳び退いた。
「どうやって我の邪魔をしたかは知らんが、ようやく運命を受け入れたか」
ユウトはその声に答えること無くリリアの剣を両手に剣舞する。大男の背後にある翼が一振りされる度に無数の光がユウトを掠めて地面の奥深くへと消えていく。
その光の中にあってユウトは小柄な体躯を生かして躍進していった。
「何故だ、人間如きが躱せる力では無いのだぞ」
肉迫したユウトに焦りを浮かべ大木のような腕で剣を受け止める。
その肉には骨があり、血があった。
それを見て男の怒声が空に轟いた。
「我が名はアガリペラ! 時の力を司る慈愛の神に剣を立てるとは万死に値するッ!」
ユウトの右腕が男の咆哮に呼応するように輝く。
「ルーンを解放する」
「何故だ、何故、その名のルーンが存在するッ」
肘の先に翻った手の平に浮かぶ『アリス』を意味するルーンは瞬きのうちにユウトの体に8年の歳月を与えた。
「ウォオオオ――」
アガリペラの咆哮が大地の草葉を吹き飛ばし、大嵐を呼び込む。
ユウトの体がぶれるとアガリペラの背後に剣が通った。鮮血と共によろめくアガリペラが翼の光でもって背後を焼き尽くす。
「二度も、この我を二度も斬るとは神への冒涜。人の姿で死ねると思うな」
「……喚くな」
ユウトの剣撃は光速だった。どこかにいるということしかわからない動きにアガリペラは身動きできないまま膝を折る。
「もはや――」
アガリペラの肉が弾けて内包する光が形を伴う。
右腕に蒼剣。背中に翼を携えたその神々しい姿は神そのものだった。上空に留まるアガリペラは地に這う人間を見下ろす。
「我は再び愚かな人間を待つ。時は輪廻するのだからな」
「ルーンを解放する……」
ユウトだけはアガリペラを見上げて闘志を失っていない。アリスのルーンは光を増して黄色く輝き始める。ユウトの姿がアガリペラの目の前に現れた。
「ばかな……」
空中でありながら剣撃の絶え間ない交差にアガリペラは光断を放つ暇もない。神に比肩するか、ユウトの動きはアガリペラを本気にさせるに充分だった。
「この世界で我と同等などッ恥を知れ!」
蒼剣が打ち震える。かつてのユウトの剣がアガリペラを離れて動き出すと、ユウトは逃げ果せるアガリペラにそれ以上近づけなくなる。
「貴様の従える魂など我にも従える。灰燼に帰せ、異界の者」
光が差し迫る一瞬の間にユウトの右腕が赤く光を放った。
「最後だ!」
その声を聞いたのはユウトか、アガリペラか。
一筋の光が地平線に沿って軌跡を残すと2つの影がゆっくりと地に墜ちていく。
「れ、レビテーション!」
ユウトの右腕からは虹色の光が空に溶けてゆき、アガリペラは光を失って躰を折っていた。
「良かった、無事に倒したの」
カタルナのそばで仰向けに倒れるユウトは小さく頷いた。
「ユウト!」
シーナは泣きはらしたような瞳でユウトの手を握る。起き上がったアガリペラにユウトも向き合った。
「なぜ我を討つ。なぜ……」
アガリペラその声に不気味な男の声が答える。
「造作に預かるためだ」
地に広がった魔法陣。アガリペラは全てを悟ったように醜悪な顔に歪み首だけで後ろを振り帰った。
「神への冒涜、なんたる悪――」
アガリペラの首は魔法陣によって断ち切られると声はそれ以上発せられることはなくなった。
「よくぞ、と言った方が良いのか。ようやく、と言った方が良いのか。何にしても予想外であったこれの利用価値もなくなった。褒美に1つ特大の遊戯を最後にプレゼントしよう」
白髪白目の男がゆっくりと空景色の間から割って出る。
「な、なんなの……」
アリシアの声にナインがすかさずユウトたちの前に出る。
睨み合いは唐突にその名を持って終わった。
「私の名はソムニア。ある目的を計画し、君たちを見させて貰った」
ユウト以外は動揺し、突進するユウトにソムニアは不動をもって応える。
「どこを狙っている? 幽霊屋敷で出会ったときの君はまだ若さがあったな」
言下にユウトの腰が宙に浮く。ソムニアの拳がユウトの腹を打ち上げていた。
「がはっ――」
ソムニアは気味の悪い満面の笑みでユウトの顎を持ち上げて掲げる。
「若さとは何か、それは不可能を知らぬ無知だ」
白い瞳がシーナとカタルナを見下ろすと彼女たちの全身に魔法陣が出現した。
「それは、アリスのと同じ――」ユウトの顎が軋み、それ以上の言葉を遮られる。
「ある人物は言った。この世に想像を実現できない力はないと。では、不可能とは何か」
「そりゃ不可能ってのは出来ないと思ったこと全部っしょ」
ナインの言葉にソムニアは満足げに頷く。
「そうとも、どれだけ滑稽に思えるものも出来ると信じた人間は出来る。それが自分の頭の中だけで完結したとして、出来ていないことに何故なるのか」
ソムニアはユウトを地面に落とすと蒼剣を両手で取り2つに折った。
「知る者がいないからだ。他の人間は当人が何をしたか、何もわからない。わかるようにするには五感に働きかけなければならない」
ソムニアの手の平が広げられて革手袋がぱりぱりと音を上げる。
「人間は五感に支配されている。味覚、聴覚、視覚、触覚、嗅覚。この五感が共通だからこそ、人は他者を認め、現実を認め、事実と妄想を区別する。だが、どうだろう。その垣根を越えられるとしたら、五感の強さでもって相手を圧倒し共感させ、従わせられるとしたら。ああ、そうだ……アリスのルーンがまさにそれだった」
ユウトの腕にもうルーンはない。ユウトは口から血を流しながらソムニアを睨んだ。
「魔法はいい。強い力のある者が弱い者を従わせる絶対の力。シンプルだ。だが、脳で感じることも魔法のようにいくとしたら、この世はずっとシンプルに安寧に満ち足りることとなるだろう。それこそ、黄金の暁。新たな時代の幕開けだ。その犠牲の1人に彼女も選ばれ、また君たちも選ばれる悦びに預かれるのだよ」
ソムニアはこの場に残ったアリシアやルーシェにも目を向ける。
「ナイン!」
ユウトの叫びにナインが指を鳴らす。ソムニアを捉えた拳が当たると同時にその姿はかき消えた。
「光を操る神と云うのも悪くは無い。実体が何処にあろうとただ光の届く場所であれば存在できる。あえてこれを使わなかったとしたらとんだ頭の悪い神だ」
全員を目にしてソムニアは一言「遊びすぎたな」と呟いた。
「プレゼントが到着したようだ。君たちに暁あれ」
ソムニアが風のように消える。
同時に聞こえてくる無数の足音。春の草の根を踏みつぶす甲冑の音。蹄が土を蹴る音。
その合唱の主は無数の軍勢だった。
「1番隊左翼へ、2番隊右翼へ回れ!」
「どうしてこんな数の軍が?」
森の中、林の奥からこちらを窺い展開された布陣にもう抜け道はなくなりかけていた。
「逃げろ、シーナ。みんなも」
ユウトは黒剣を杖に立ち上がると覚束ない脚で立ち上がる。
「いやいや、どう見てもお前かっこつけすぎだって。ここは大人しく投降しようぜ」
「投降はしないで!」
木の上を跳び回ってユウトたちの前に降り立った1人の少女。桃色の髪に赤目はレヴィニアの姿だった。
「奴らの目的は使い魔のユウトだけ。投降したら殺される!」
魔法隊の巨大な使い魔が木の上から頭を覗かせていた。
「あれ、トールだよ! 3の使い魔で一番強いって言われてる、初めて見た」
ナインがアリシアの手を引いて駆け出す。ルーシェがユウトを呼ぶとユウトは首を振った。
「考えてる時間は無いぜ。逃げられるヤツは逃げるってことでいいよな」
「カタルナも早く行ってくれ」
「私の使い魔を置いていける?」少しだけ怒気を孕んだ声にユウトは安心した。
「このルーンの力、見ただろ」
全く光を失ったルーンにカタルナは訝しみながらもルーシェたちの後をゆっくりと追い出す。
「あんた、ばっかじゃないの?」
レヴィニアが増え続ける兵の気配を察して木の間へ跳び込んでいく。
ユウトは最後に残ったシーナを背に剣を構えた。
「リリアのこと、悪かった」
「あれはユウトじゃありませんでした。それに例えここで死ぬことになっても着いていきます」
伏せったリリアを尻目にシーナは杖を構える。
「シーナ、最後に聞いて欲しいことがある」
ユウトの前から兵が1人、また1人とその銀を現した。
「アリスは自らの死を受け入れられなくて世界を憎んだ。でも一番憎かったのは弱い自分だったんだ。理不尽な運命を前に死ぬほど努力してもだめで、何をしてもだめだと分かったとき、ただ生きていけるヤツを羨むことしか出来なかった。そうしてアリスは俺だけに『生きてほしい』と願ったんだ……それをあいつは利用した」
シーナが事を構えるより早くユウトはシーナの首に当て身して眠りに着かせた。
「俺はあいつを殺して報いを受けさせる。その手を穢すのは俺だけでいい」
馬に乗った鉄仮面の騎士がユウトに槍を向けた。
「かかれ!」
夕日は鉄の斬り合う音に追い立てられるように闇へ呑まれていった。矢を受け、槍を受けてもユウトのその身は地に立っていた。
薄れる意識と迫り来る無数の剣の刃にユウトもこれまでと幾度となく諦めかける。
しかしその度にユウトの中に声が木霊した。
生きて。
「俺は生きて、あいつにアリスを殺した罪を償わせる」
やがて剣の轟きは森の奥に消えてゆき騒がしかった兵たちも皆大人しくなる。
ユウトの右腕からは虹色の光が空に溶けてゆき、アガリペラは光を失って躰を折っていた。
「良かった、無事に倒したの」
カタルナのそばで仰向けに倒れるユウトは小さく頷いた。
「ユウト!」
シーナは泣きはらしたような瞳でユウトの手を握る。起き上がったアガリペラにユウトも向き合った。
「なぜ我を討つ。なぜ……」
アガリペラその声に不気味な男の声が答える。
「造作に預かるためだ」
地に広がった魔法陣。アガリペラは全てを悟ったように醜悪な顔に歪み首だけで後ろを振り帰った。
「神への冒涜、なんたる悪――」
アガリペラの首は魔法陣によって断ち切られると声はそれ以上発せられることはなくなった。
「よくぞ、と言った方が良いのか。ようやく、と言った方が良いのか。何にしても予想外であったこれの利用価値もなくなった。褒美に1つ特大の遊戯を最後にプレゼントしよう」
白髪白目の男がゆっくりと空景色の間から割って出る。
「な、なんなの……」
アリシアの声にナインがすかさずユウトたちの前に出る。
睨み合いは唐突にその名を持って終わった。
「私の名はソムニア。ある目的を計画し、君たちを見させて貰った」
ユウト以外は動揺し、突進するユウトにソムニアは不動をもって応える。
「どこを狙っている? 幽霊屋敷で出会ったときの君はまだ若さがあったな」
言下にユウトの腰が宙に浮く。ソムニアの拳がユウトの腹を打ち上げていた。
「がはっ――」
ソムニアは気味の悪い満面の笑みでユウトの顎を持ち上げて掲げる。
「若さとは何か、それは不可能を知らぬ無知だ」
白い瞳がシーナとカタルナを見下ろすと彼女たちの全身に魔法陣が出現した。
「それは、アリスのと同じ――」ユウトの顎が軋み、それ以上の言葉を遮られる。
「ある人物は言った。この世に想像を実現できない力はないと。では、不可能とは何か」
「そりゃ不可能ってのは出来ないと思ったこと全部っしょ」
ナインの言葉にソムニアは満足げに頷く。
「そうとも、どれだけ滑稽に思えるものも出来ると信じた人間は出来る。それが自分の頭の中だけで完結したとして、出来ていないことに何故なるのか」
ソムニアはユウトを地面に落とすと蒼剣を両手で取り2つに折った。
「知る者がいないからだ。他の人間は当人が何をしたか、何もわからない。わかるようにするには五感に働きかけなければならない」
ソムニアの手の平が広げられて革手袋がぱりぱりと音を上げる。
「人間は五感に支配されている。味覚、聴覚、視覚、触覚、嗅覚。この五感が共通だからこそ、人は他者を認め、現実を認め、事実と妄想を区別する。だが、どうだろう。その垣根を越えられるとしたら、五感の強さでもって相手を圧倒し共感させ、従わせられるとしたら。ああ、そうだ……アリスのルーンがまさにそれだった」
ユウトの腕にもうルーンはない。ユウトは口から血を流しながらソムニアを睨んだ。
「魔法はいい。強い力のある者が弱い者を従わせる絶対の力。シンプルだ。だが、脳で感じることも魔法のようにいくとしたら、この世はずっとシンプルに安寧に満ち足りることとなるだろう。それこそ、黄金の暁。新たな時代の幕開けだ。その犠牲の1人に彼女も選ばれ、また君たちも選ばれる悦びに預かれるのだよ」
ソムニアはこの場に残ったアリシアやルーシェにも目を向ける。
「ナイン!」
ユウトの叫びにナインが指を鳴らす。ソムニアを捉えた拳が当たると同時にその姿はかき消えた。
「光を操る神と云うのも悪くは無い。実体が何処にあろうとただ光の届く場所であれば存在できる。あえてこれを使わなかったとしたらとんだ頭の悪い神だ」
全員を目にしてソムニアは一言「遊びすぎたな」と呟いた。
「プレゼントが到着したようだ。君たちに暁あれ」
ソムニアが風のように消える。
同時に聞こえてくる無数の足音。春の草の根を踏みつぶす甲冑の音。蹄が土を蹴る音。
その合唱の主は無数の軍勢だった。
「1番隊左翼へ、2番隊右翼へ回れ!」
「どうしてこんな数の軍が?」
森の中、林の奥からこちらを窺い展開された布陣にもう抜け道はなくなりかけていた。
「逃げろ、シーナ。みんなも」
ユウトは黒剣を杖に立ち上がると覚束ない脚で立ち上がる。
「いやいや、どう見てもお前かっこつけすぎだって。ここは大人しく投降しようぜ」
「投降はしないで!」
木の上を跳び回ってユウトたちの前に降り立った1人の少女。桃色の髪に赤目はレヴィニアの姿だった。
「奴らの目的は使い魔のユウトだけ。投降したら殺される!」
魔法隊の巨大な使い魔が木の上から頭を覗かせていた。
「あれ、トールだよ! 3の使い魔で一番強いって言われてる、初めて見た」
ナインがアリシアの手を引いて駆け出す。ルーシェがユウトを呼ぶとユウトは首を振った。
「考えてる時間は無いぜ。逃げられるヤツは逃げるってことでいいよな」
「カタルナも早く行ってくれ」
「私の使い魔を置いていける?」少しだけ怒気を孕んだ声にユウトは安心した。
「このルーンの力、見ただろ」
全く光を失ったルーンにカタルナは訝しみながらもルーシェたちの後をゆっくりと追い出す。
「あんた、ばっかじゃないの?」
レヴィニアが増え続ける兵の気配を察して木の間へ跳び込んでいく。
ユウトは最後に残ったシーナを背に剣を構えた。
「リリアのこと、悪かった」
「あれはユウトじゃありませんでした。それに例えここで死ぬことになっても着いていきます」
伏せったリリアを尻目にシーナは杖を構える。
「シーナ、最後に聞いて欲しいことがある」
ユウトの前から兵が1人、また1人とその銀を現した。
「アリスは自らの死を受け入れられなくて世界を憎んだ。でも一番憎かったのは弱い自分だったんだ。理不尽な運命を前に死ぬほど努力してもだめで、何をしてもだめだと分かったとき、ただ生きていけるヤツを羨むことしか出来なかった。そうしてアリスは俺だけに『生きてほしい』と願ったんだ……それをあいつは利用した」
シーナが事を構えるより早くユウトはシーナの首に当て身して眠りに着かせた。
「俺はあいつを殺して報いを受けさせる。その手を穢すのは俺だけでいい」
馬に乗った鉄仮面の騎士がユウトに槍を向けた。
「かかれ!」
夕日は鉄の斬り合う音に追い立てられるように闇へ呑まれていった。矢を受け、槍を受けてもユウトのその身は地に立っていた。
薄れる意識と迫り来る無数の剣の刃にユウトもこれまでと幾度となく諦めかける。
しかしその度にユウトの中に声が木霊した。
生きて。
「俺は生きて、あいつにアリスを殺した罪を償わせる」
やがて剣の轟きは森の奥に消えてゆき騒がしかった兵たちも皆大人しくなる。