七年前――
七年前。
ユウトが召喚されてから数日経ったある日のこと。
――――。
小気味良い音が室内に響いた。ベッドから半身を起こしていたユウトに会いたいという人物が尋ねてきたのは霧が廊下にまで入り込む冷え込んだ朝だった。
「ほう」
ゆらりと現れた影はベッドの上で肩を抱くユウトを見つめるなり、溜息を吐くように声を漏らす。
「だれ?」
ユウトは先月、大怪我をしてようやく起き上がれるようになった。もうなにもかもが恐怖であるユウトは叫ばなかっただけ奇跡に近い。
「人型の使い魔がいると聞いてな、お前であっているのか?」
「…………」
ユウトはこの人をあまり好きではないと感じた。短く結わいたオレンジの髪は見たこともないほどに眩しいし、白装束は幽霊の着物だと思った。さらにその小柄な体躯には不釣り合いなほど大きな剣、そこには無言の威圧感がある。
どうせまた怖いことが始まるんだ、そう思いユウトは目に見えて脅える表情を見せた。
「そう怖がるな。聞いたぞ、キメラを一撃で倒したって?」
「……あれは僕じゃない」
「そうか? ま、何でもいい。主に愛想尽かされたんだろ? どうだ、私と一緒に冒険しないか」
あれ、この人は女の人なんだとユウトはその時初めて知った。母のような優しい声に純粋な瞳。優しく頭を撫でられてユウトは人の温もりがとても有り難く感じたのだった。
「返事がないなら勝手に連れて行くぞ」
「……うん」
「なら決まりだな」
これが後に死ぬように辛い試練の始まりだとはユウトにはわからなかった。
大剣を背負った謎の女はユウトの手を引いて施設を後にする。その数時間後、ユウトが移譲されたという件はアリスにも伝わることになった。訓練場に訪れたメイジが使い魔を連れていったと思っていたアリスは後にその思い込みを後悔することとなる。
彼女は魔法使いでさえなかったのだから――。
ただ、唯一の手掛かりはユウトのベッドの上にあった羊皮紙に『タ・ニェムシャヴチ・ライン』という名が書かれていたことだけだった。
「ねえ、何処に行くの?」
ユウトの声に女は問う。
「お前が自分を好きになれる場所だな」
ユウトには意味がわからなかった。辺りはもう暗くなり始めているのに自分の手を引くこの人は何も動じていないようだった。
「もうすぐ暗くなるよ、どこかに入らないと寒いよ……」
「暗い方が都合がいいんだ。疲れたなら負ぶってやるぞ」
ユウトは茂みに視線を這わせながらその夜の森に戦慄した。人を食べる猛獣が出てきたらこの人はこの大きな剣で戦うのだろうかと心配になる。
「しかしそうはいっても霧まで出てきたな。この辺で休もう」
女は男のようなしぐさで大剣を地面に突き立てた後、そのまま地べたに座った。
「え、その……」
「来い、寒いんだろう」
木に背中を預ける女はあぐらを掻いて座っている。ユウトはどこに行けば良いのかと近づいて行くと女の手がユウトの腰を取った。
胸の中に収まったユウトは背中から僅かな緊張と母に抱かれたときのような安堵を覚える。
やがて女は寝息を立て始め、ユウトは天井の葉からわずかに漏れる空の明かりを女の胸の中で追っていた。
そうだ、自分よりこの人の方が良い匂いもするし、おいしそうだからきっと大丈夫だ。
ユウトはそう思うことにして膝を抱えながら意識を闇へと沈め始める。女の腕の中で座ったまま眠るのはこれが初めての経験だった。
――――。
「起きろ」
脚の痺れる感覚にゆっくり目を覚ましたユウトは女の際立った凛とした表情を見た。
「いいか、ここから先は自分の身は自分で守ってもらわなきゃならん」
そういって女は歩き出す。ユウトはその木々に呑まれていく姿を必死で追った。
霧がユウトの視界を遮るが、ユウトはそのうちこの女がとても強い気配を発していることに気が付いてくる。女の姿を目で探さなくとも何となくわかるのだった。
次第に霧が晴れてくると、女は立ち止まって木の上を伺っていた。
「どうしたの」
女が指さす先には垂直な一本の木しかない。ユウトが不思議に思っていると女は言った。
「鳥の巣がある。食事にありつけるぞ」
それまで出されたものしか食べてこなかったユウトはその言葉の意味するところが全く理解できなかった。そもそも、鳥の巣なんて見えはしない。
「鳥の赤ちゃんを食べるってこと?」
呆然と立ち尽くすユウトに片笑みを見せると、女は両足と両手にロープを渡して木を抱きかかえた毛虫のような動きで巧みに登り始める。
小さな鳥が勢いよく女の頭上を掠めていった。親鳥が巣に近づく敵を排除しようと戦うその姿が健気に映る。
女は高い位置まで登ると、木にしがみついて小さなナイフを振りかざし始めた。
なるほど巣は木の中にあったのかと思うと同時に中から黒い塊が二、三個落ちてくる。
女はその後ねじれたロープのよりを戻すようにするすると木を滑り降りた。
「アカマナドリ、食用にはちょっと小さいが栄養は高い」
鳴いている雛はまるで親を探して泣き喚いているようだった。
「よし、これを食ったら下山する」
ユウトはそれを開いた口で聞いた。
「それ、食べるの?」
「なんだ、おかしいか? お前も空腹だろう? これが食べ物じゃなかったらお前は何を食べる?」
「木の実……とか」
女は笑った。肺が痙攣するように笑ってから、ユウトに雛を一匹渡した。
「木の実をお前が食べれば、森で木の実を食べる昆虫や動物は何を食べる? 昆虫がいなくなれば、昆虫を食べる動物は何を食べる? 木の実を食えない動物は何を食べるんだ?」
「動物だって木の実を食べるよ」
「食べるやつもいるだろうな。だがそいつらは肉を食べられないから木の実を食べている。違うか?」
ユウトのしっている動物は確かに肉食ではなかった。
「木の実も肉も取って食べるなんていうのはな、人間だけだ。食事が生きているかそうでないかで迷うのなら、お前は生きているのとは違う」
ユウトは手元の雛を見る。母親が恋しいのか、身の危険を感じてか必死に泣き喚いている。それを見ると同時にユウトは感情を揺さぶられた。
「巣に戻そうなんて考えるなよ、お前が戻したところで親はもうそいつを子供とは見ない。他の動物の臭いがついたらあいつらは子育てを放棄するのさ」
女は腰に下げた革袋にその雛を仕舞い、木の枝を拾いながら歩き始めた。
ユウトは何も言い返せなかった。もう何日もまともなものを食べていないユウトにとってこれを食べることができなければ、自分は死ぬという実感を強く感じてきている。手に小さな命を握ったまま、ユウトは女の後を追った。
「そろそろいいか」
女の手に抱えられたのはいくつもの木の枝。ユウトは途中、川の水を飲むこともあったが、意識が朦朧としかけていて女の後を着いていくのもやっとになる。
「喋る気力もなさそうだな、まあほとんど飲まず食わずで歩き続けたんだ。当然か」
ユウトが自分のことで何より驚いたのはこんな状態になっても自分はまだこの雛を食べる決心がついていないということだった。
「寄越せ」
ユウトは気が付くと雛を取られていた。どうやって枝の山に火をつけたのか、そんなことを考えながらユウトは香ばしい臭いがしてくるのに意識を寄せている。
「いいか、良く噛んで食べろ。小骨が刺さってもここじゃどうにもならんからな」
口元にある何かをユウトは夢中で食べ始める。まだ二日なのにユウトの体力は極限になっていたのだ。
「う、うぅ……」
「どうした? 小骨が刺さったのか?」
ユウトは泣いていた。自分が雛を食べた事実にようやく気が付いたのだった。
「お前は優しすぎるな、私は涙は流すなと教わった。体内の水分を消費するとな」
女の言うことなどユウトには聞こえていない。ただ、ユウトはそれから少しだけ気丈になった。
ユウトが召喚されてから数日経ったある日のこと。
――――。
小気味良い音が室内に響いた。ベッドから半身を起こしていたユウトに会いたいという人物が尋ねてきたのは霧が廊下にまで入り込む冷え込んだ朝だった。
「ほう」
ゆらりと現れた影はベッドの上で肩を抱くユウトを見つめるなり、溜息を吐くように声を漏らす。
「だれ?」
ユウトは先月、大怪我をしてようやく起き上がれるようになった。もうなにもかもが恐怖であるユウトは叫ばなかっただけ奇跡に近い。
「人型の使い魔がいると聞いてな、お前であっているのか?」
「…………」
ユウトはこの人をあまり好きではないと感じた。短く結わいたオレンジの髪は見たこともないほどに眩しいし、白装束は幽霊の着物だと思った。さらにその小柄な体躯には不釣り合いなほど大きな剣、そこには無言の威圧感がある。
どうせまた怖いことが始まるんだ、そう思いユウトは目に見えて脅える表情を見せた。
「そう怖がるな。聞いたぞ、キメラを一撃で倒したって?」
「……あれは僕じゃない」
「そうか? ま、何でもいい。主に愛想尽かされたんだろ? どうだ、私と一緒に冒険しないか」
あれ、この人は女の人なんだとユウトはその時初めて知った。母のような優しい声に純粋な瞳。優しく頭を撫でられてユウトは人の温もりがとても有り難く感じたのだった。
「返事がないなら勝手に連れて行くぞ」
「……うん」
「なら決まりだな」
これが後に死ぬように辛い試練の始まりだとはユウトにはわからなかった。
大剣を背負った謎の女はユウトの手を引いて施設を後にする。その数時間後、ユウトが移譲されたという件はアリスにも伝わることになった。訓練場に訪れたメイジが使い魔を連れていったと思っていたアリスは後にその思い込みを後悔することとなる。
彼女は魔法使いでさえなかったのだから――。
ただ、唯一の手掛かりはユウトのベッドの上にあった羊皮紙に『タ・ニェムシャヴチ・ライン』という名が書かれていたことだけだった。
「ねえ、何処に行くの?」
ユウトの声に女は問う。
「お前が自分を好きになれる場所だな」
ユウトには意味がわからなかった。辺りはもう暗くなり始めているのに自分の手を引くこの人は何も動じていないようだった。
「もうすぐ暗くなるよ、どこかに入らないと寒いよ……」
「暗い方が都合がいいんだ。疲れたなら負ぶってやるぞ」
ユウトは茂みに視線を這わせながらその夜の森に戦慄した。人を食べる猛獣が出てきたらこの人はこの大きな剣で戦うのだろうかと心配になる。
「しかしそうはいっても霧まで出てきたな。この辺で休もう」
女は男のようなしぐさで大剣を地面に突き立てた後、そのまま地べたに座った。
「え、その……」
「来い、寒いんだろう」
木に背中を預ける女はあぐらを掻いて座っている。ユウトはどこに行けば良いのかと近づいて行くと女の手がユウトの腰を取った。
胸の中に収まったユウトは背中から僅かな緊張と母に抱かれたときのような安堵を覚える。
やがて女は寝息を立て始め、ユウトは天井の葉からわずかに漏れる空の明かりを女の胸の中で追っていた。
そうだ、自分よりこの人の方が良い匂いもするし、おいしそうだからきっと大丈夫だ。
ユウトはそう思うことにして膝を抱えながら意識を闇へと沈め始める。女の腕の中で座ったまま眠るのはこれが初めての経験だった。
――――。
「起きろ」
脚の痺れる感覚にゆっくり目を覚ましたユウトは女の際立った凛とした表情を見た。
「いいか、ここから先は自分の身は自分で守ってもらわなきゃならん」
そういって女は歩き出す。ユウトはその木々に呑まれていく姿を必死で追った。
霧がユウトの視界を遮るが、ユウトはそのうちこの女がとても強い気配を発していることに気が付いてくる。女の姿を目で探さなくとも何となくわかるのだった。
次第に霧が晴れてくると、女は立ち止まって木の上を伺っていた。
「どうしたの」
女が指さす先には垂直な一本の木しかない。ユウトが不思議に思っていると女は言った。
「鳥の巣がある。食事にありつけるぞ」
それまで出されたものしか食べてこなかったユウトはその言葉の意味するところが全く理解できなかった。そもそも、鳥の巣なんて見えはしない。
「鳥の赤ちゃんを食べるってこと?」
呆然と立ち尽くすユウトに片笑みを見せると、女は両足と両手にロープを渡して木を抱きかかえた毛虫のような動きで巧みに登り始める。
小さな鳥が勢いよく女の頭上を掠めていった。親鳥が巣に近づく敵を排除しようと戦うその姿が健気に映る。
女は高い位置まで登ると、木にしがみついて小さなナイフを振りかざし始めた。
なるほど巣は木の中にあったのかと思うと同時に中から黒い塊が二、三個落ちてくる。
女はその後ねじれたロープのよりを戻すようにするすると木を滑り降りた。
「アカマナドリ、食用にはちょっと小さいが栄養は高い」
鳴いている雛はまるで親を探して泣き喚いているようだった。
「よし、これを食ったら下山する」
ユウトはそれを開いた口で聞いた。
「それ、食べるの?」
「なんだ、おかしいか? お前も空腹だろう? これが食べ物じゃなかったらお前は何を食べる?」
「木の実……とか」
女は笑った。肺が痙攣するように笑ってから、ユウトに雛を一匹渡した。
「木の実をお前が食べれば、森で木の実を食べる昆虫や動物は何を食べる? 昆虫がいなくなれば、昆虫を食べる動物は何を食べる? 木の実を食えない動物は何を食べるんだ?」
「動物だって木の実を食べるよ」
「食べるやつもいるだろうな。だがそいつらは肉を食べられないから木の実を食べている。違うか?」
ユウトのしっている動物は確かに肉食ではなかった。
「木の実も肉も取って食べるなんていうのはな、人間だけだ。食事が生きているかそうでないかで迷うのなら、お前は生きているのとは違う」
ユウトは手元の雛を見る。母親が恋しいのか、身の危険を感じてか必死に泣き喚いている。それを見ると同時にユウトは感情を揺さぶられた。
「巣に戻そうなんて考えるなよ、お前が戻したところで親はもうそいつを子供とは見ない。他の動物の臭いがついたらあいつらは子育てを放棄するのさ」
女は腰に下げた革袋にその雛を仕舞い、木の枝を拾いながら歩き始めた。
ユウトは何も言い返せなかった。もう何日もまともなものを食べていないユウトにとってこれを食べることができなければ、自分は死ぬという実感を強く感じてきている。手に小さな命を握ったまま、ユウトは女の後を追った。
「そろそろいいか」
女の手に抱えられたのはいくつもの木の枝。ユウトは途中、川の水を飲むこともあったが、意識が朦朧としかけていて女の後を着いていくのもやっとになる。
「喋る気力もなさそうだな、まあほとんど飲まず食わずで歩き続けたんだ。当然か」
ユウトが自分のことで何より驚いたのはこんな状態になっても自分はまだこの雛を食べる決心がついていないということだった。
「寄越せ」
ユウトは気が付くと雛を取られていた。どうやって枝の山に火をつけたのか、そんなことを考えながらユウトは香ばしい臭いがしてくるのに意識を寄せている。
「いいか、良く噛んで食べろ。小骨が刺さってもここじゃどうにもならんからな」
口元にある何かをユウトは夢中で食べ始める。まだ二日なのにユウトの体力は極限になっていたのだ。
「う、うぅ……」
「どうした? 小骨が刺さったのか?」
ユウトは泣いていた。自分が雛を食べた事実にようやく気が付いたのだった。
「お前は優しすぎるな、私は涙は流すなと教わった。体内の水分を消費するとな」
女の言うことなどユウトには聞こえていない。ただ、ユウトはそれから少しだけ気丈になった。
「よく倒れずに着いてきたな」
ひと月ほどの月日が流れて森を抜けたところで、ユウトは何故かそんな言葉を掛けられた。ユウトは子供っぽかった顔つきが少し凛々しくなり、活力に満ちている。
「ずっと助けてくれたのはシャラ姉さんだよ」
女の名前はシャラといった。姉さんをつけることを強要されて、ユウトはしばらく戸惑ったがそれ以外に辛かったことは雛を食べた最初だけ。最後はユウトのほうがシャラより森での生活に意欲的だった。
「野生の本能が凄いんだなお前は。ガサツな私とは違うようで何よりだ」
森での生活。それは決して楽ではなかったが、シャラはユウトによく気を配った。ユウトもそんなシャラの気遣いに気づいて努力を惜しむことはしなかった。
「見ろ、そこに見えるのが私のいた国だ」
城壁が壁に覆われたその国は外から中を伺い知ることはできなかった。薄い雲の覆う空と同じように砂が吹き荒れ灰色の国。ユウトの知っている綺麗な学園とはかけ離れている。
「あんまり食べられる物がなさそうだね……」
「はは、そっちの心配か。しかしその通りだな、私たちは剣の技で食べている国なんだ。だから、弱い奴は飯を食えない。女も男も関係なく剣士を目指し、戦えなくなったものは他国へ仕事をもらいにいったり商人として物を買ってきたりする。楽ではない、皆が剣に命を賭ける、そんな場所だ」
「…………」
ユウトはその国がなんとなく寂しそうだなと思った。
「行くぞユウト。いいか、今からお前は私の生き別れた弟ということで通せ」
「はい」
それがユウトの見た最初のラジエルという国だった。魔法使いのいない剣士だけの最強国家。他国はその気高い剣士たちに敬意と畏怖を込めて聖剣士(パラド)と呼んでいる。
「ここが新しくお前の才能を磨く学舎だ」
「……」
けたたましく鳴り響くのは鉄の打ち合う音だった。壁の内側に入ったユウトはシャラに案内されるままにここへ来た。だから、どういう道順だったとか、そういう細かいことは覚える間もなかった。
ただ、その剣の学舎はとてつもなく大きく堅牢で堅固な石造りでユウトは圧倒されていた。
「ここが、学校?」
「学校とはいわない、学舎だ。ここにいる生徒は全員ここに住んでいる」
「シャラ様、お帰りでしたか!」
突然声を張り上げて近づいてきたのはシャラよりずっと年上の大人。鋼鉄を胸に纏った男だった。
砂場を革靴で蹴り上げて走る格好は映画か戦隊ものの一人のようだとユウトは思う。
「ああ、今帰った」
「よくぞご無事で。親戚に会うと仰っていましたが、この子が?」
「そうだ、私の弟にあたる。正しくは亡き先代ライン様のだがな」
「そうでしたか、では早速お仕事のほうをお願いします。それと、総帥からお話しがあるそうです」
立ち去ろうとする男。その様子はあまり深く関わりたくないといったよそよそしいものだった。
「まて、こいつも今日からここの一員だ。ここで剣術を学ぶ、部屋をあてがってくれ」
「今なんとっ? 試験も受けずに入学、ということですか……? しかし東棟は満室状態ですよ……」
「なら西棟でいい。この顔なら女でも通じるだろう」
「そこまでですか……わかりました、しかしどうなるか知れませんよ」
シャラが建物の中へと消えると、男の気配が一転する。嫌な気配が男から漂ってきた。
「おい小僧、いや小娘か、こっちだ。さっさと来い」
ユウトは動揺に一瞬声を詰まらせる。男の声は苛立っていて、低く凄味を帯びていた。自分は男だと言い返したかったが、それは許さない空気だと感じる。
「全く、シャラ様の傍若無人な振る舞いにも困ったものだ、男を女と扱えなどと……」
男は悪態をつきながらユウトにお構いなしに歩いて行く。着いてこられなければ関与しないといった雰囲気が滲み出していた。
学舎の中は外と違って木造になっている。そこには外の埃っぽさはなく独特の涼んだ空気が流れていた。昔いた訓練所ほどの臭いもなく、ユウトは久々にくつろげる空間から嬉しさを感じた。使い魔の訓練所はとにかく獣臭かったので同じものを想像していたユウトはこの上なく安堵する。
「きゃああ!」
突然の悲鳴がユウトの頭を突き抜けた。男の視界に遮られたその先を見ると女の人がほとんど裸で立っているので、ユウトは慌てて男の背中に隠れる。
視線を流しているとすぐ隣には入浴場がありそこから湯気が廊下に流れていた。
「シャラ様の使いだ。そこを退け!」
一体どうして廊下を裸同然で歩くのかと不思議に思うユウトだったが、その疑問は部屋に入ったときに忘却するのだった。
木で出来た頼りない扉は風で微妙に揺れているようにさえ見える。
「今日からここがお前の部屋だ。じゃあな」
「え、はい……」
何もかもがおざなりなまま男が立ち去り、また廊下の影から黄色い悲鳴が聞こえた。ユウトはここで本当に合っているのか不安だったが、とりあえず部屋に入ることにした。
ノブが壊れていて、回さなくてもその扉はそのまま開いた。
部屋の中に入ると何となく感じる気配。ユウトはそれが他人の気配であることをすぐに理解した。
「はあ? ちょっと、どういうつもり?」
だれか出てきたとユウトは焦る。元からいたのは一人の女の子。歳はユウトと同じくらいで髪を梳かしていたのか、片手に木で出来た櫛を持ってストレートに流れる髪がルビーのように眩しく流れる。
眉をつり上げているが、あどけない少女の瞳は威圧という言葉には今ひとつ凄味が足りなかった。
「どういうつもりって、さっきここに寝る部屋を案内されたんだけど……」
「はあ? ここには私がいるのよ! 他人の部屋に勝手に入るなんて恥を知りなさいよ」
「え、でも僕はここが僕の部屋だって案内されたんだよ」
「はあ……? ちょっとあなた女の子なのにボクって言うの?」
少女は心底わけがわからないといった風でユウトもわけがわからなかった。やっぱりこんな場所は間違いだったのだろうとユウトが口を開きかけたとき。
「ちょっと確かめてくるから、貴女はここから動いたらダメよ。いい?」
少女の決断力のほうが早かった。櫛を部屋の奥のベッドに投げて、いきなり着替え始めたのだ。
「うわっ!」
「はっ? 何!」
慌ててユウトが後ろを向くと、今度はいきなり後ろに引っ張られるユウトだった。
「ちょっと、じゃっま! しかも貴女ひどいにおい。クサイ! 泥水の中でも抜けてきたみたいに汚れまくりだし……本当にそれでも女の子なの? とにかく部屋の中に一滴でもその泥を落とさないで」
ユウトはその赤髪の少女が通り過ぎるのを目で追う。白い地肌に輝くルビーの髪も目立つが、グリーンの瞳は今まで見たどんな人よりも衝撃的だった。後ろ姿に見たマントがひらりとして凄く格好いいなとユウトはその背中を見送る。
ここ数日森の中で気を張り詰め続けていたユウトは座るだけで疲れが癒されていくような心地になっていく。
それから少女が帰ってきたのはユウトがたっぷりと日が暮れるまで惰眠を貪ってからだった。
「シャラ様! 本当ですかっ!」
そんな声がユウトの意識を覚醒させた。少女の嬉しそうな声を聞いてユウトも事態が丸く収まったのだと安心して立ち上がる。扉の近くまで気配が来るとその二つの影は立ち止まった。
「じゃあ、毎朝伺いますね!」
「いや、それはちょっとな……」
声が近づいてきて、ユウトは扉の前で構えた。
「短い間だったが変わりないか、ユウト」
扉が開くとシャラが立っている横にさっきいた少女の姿があった。少女はユウトに物言いたげな顔で眉を潜めたが、すぐに視線をシャラに戻す。
「では、後のことは私にお任せください。約束、忘れないでください!」
「ああ」
シャラは身を屈めてユウトの耳元に囁いた。
「しばらくは女のふりをして過ごせ」
少女はシャラに会釈して別れてしまう。女のふりと言われてもユウトには何が何だか分からなかった。
ユウトが不思議に思っていると、少女はユウトに向き直ってにやりと口元をつり上げた。
「あんた、本当は男なのね」
「えッ?」
「普通に聞こえていたわよ、シャラ様の声。運が良かったわね、私の部屋、で……も、もし私じゃなかったら今頃は斬り殺されていたかもしれないわ」
そうして、少女は何やらその口元がぴくぴくし始めた。狭い部屋のベッドの上に立ってユウトを見下ろす。
「それで、僕の部屋はどうなることになったの?」
「ええ、その話……? 余りの部屋がないみたいだから取引してもらったわ……」
「え? どういう意味?」
「私はね、取引内容を聞いたとき後のことは別にどうでも良くなったの。あなたのこととか」
振るわせる拳を胸の横で固く握りしめ、少女はユウトを指さした。
「あんたをこの部屋に置いて面倒を見る代わりにこの私に個人訓練をつけてもらうって聞いたら良いですよって言っちゃった! んだもん……」
ユウトは唖然と少女を見る。少女の指先は定まることなく揺れていた。動揺か、後悔か、とにかく少女は震えていた。
「「はああぁぁ――?」」
叫ぶように頭を抱える二人。
「貴女ほんとうは男なの? 本当に? ――男なんて聞いてない!」
「ちょっと待って、じゃあ僕もこの部屋で君もこの部屋っていうこと?」
「私はシャラ様が好きだから、絶対イヤなんて。だから頼まれると何も断れなくて……それ以前にあんたが男ってどういう冗談なのッ!」
「じゃあ、とりあえず僕出て行くから……」
「待って! それはダメよ! もし男を部屋に入れたことがここでバレたら私がここから破門される。これは掟なの、とにかくあんたはこの部屋にいて。私が出て行くから……」
涙目で出て行きたくない雰囲気を出しながら支度を始める少女にユウトも呆れかえる。
「何で取引したの……」
「私、どうしてもシャラ様の剣術が学びたいの。それがずっと夢だったから……。だからあんたに良くしたらシャラ様が剣術を見てくれるって――」
「それで自分の部屋に僕を?」
頷く少女にユウトは眩暈がした。こんな人とうまくやっていけるのかと。
「でもね、あんただって男っていうことを隠してたでしょ。それにこの部屋を全て譲る気なんてないからそこは勘違いしないで。いい?」
「いいって聞かれても……僕は何もわからないよ」
ユウトにはどうすることもできない。部屋の広さを考えても到底二人がベッドを並べることなどできない。どちらかが床で寝る、もしくは2人で一緒にベッドに入るしかなかった。
「とりあえず、あんたの名前は?」
「生浦悠人」
「イクラ……ユるト?」
「ユウトって呼んでくれればいいよ、みんなそうだったから……」
「そう、私の名前はズ・レミュオール・クリス・ベル。レミルよ」
「はあ、レミルちゃん……?」
「は? ちゃんって何? 異国の人の名前?」
ユウトのいた国では親しみを表す言葉としてちゃんを付けると言うと、気持ち悪いからやめてほしいとなった。
「お互い自己紹介も済んだことだし――あぁっ!」
突然レミルがユウトを見て頭を抱える。病気かとも思い、レミルを心配するユウトだったが事態はそうではなかった。
「ユルト! その薄汚れた体を何処で洗えば良いと思う?」
「それは……」
部屋を見渡しても出入り口以外の扉はない。
「レミルはどうしてるの?」
「私は大浴場で済ませてる。けれど、当たり前だけど女の子しかいないの。男は反対側の寮にある大浴場だし……」
「じゃあそこまでいくよ」
レミルは片手をこめかみに当てて首を振った。
「そこが大問題なの。ここの生徒はきびしく男と女で別れているのっ」
レミルが語るにはこの国では修練者が異性と顔を合わせることも言葉を交わすことも禁じられているという。剣を学ぶ者は異性を知ってはならないという厳しい掟が存在すると聞いてユウトは不安になった。
「僕はいいの?」
「ユルトは特別なんでしょ。あのシャラ様がわざわざ女の子に振る舞えっていうくらいだもん」
そういう問題なのかと思うユウトであった。
「そういうことだから、今から向こうへ行けば終わったも同じ……」
それでもいいのではと提案するとレミルは断固拒否した。
「ユルトは良いかもしれないけど、私は困るの! シャラ様に剣術を教えて頂くなんてここの寮生がどれだけお願いしても叶わないことなんだから」
それほどに強いというシャラがユウトと共にいる間にその剣を振ったことは一度もなかった。ユウトは興味が沸いてくる。
「とりあえず、ユルトは人がいない間に浴場へ入るしかないわ。見つかっても女の子っていうことにすれば大丈夫かもよ」
何が大丈夫なのか一片もわからないユウトを置いてレミルは嬉しそうに部屋を後にした。解決気分で浴場を調べてくるらしい。
レミルがいなくなってベッドの横に細い剣が置かれていることに気が付く。立派ではないものの、使い込まれた暖かみのある剣だった。
「なんか、かっこいいな」
剣術の学校。ここにいる全員は剣のみを極めているのだろうかと想像するユウトはなんだかわくわくしてくるのだった。これだけ大きい学校にいる沢山の自分と同じくらいの生徒がどんな剣の修練しているのか、ユウトの世界では考えられないことだった。
「ユルト、何してるの? ユルトは今くさいんだからあんまり動きまわっちゃだめよ」
「ユウトだよ」
名前を覚えないことに軽く傷つくユウトにレミルは浴場の状況を話してくれた。
「浴場はニチボツ? と同時に閉じられるの。正確には日ボツしてその日の浴場係が来てからね。問題は見つからないようにできるかどうかだけど……あんた魔法は使えるの?」
「使えないよ」
ユウトのその声にぱっと花が咲くように微笑む顔は花を見るようだった。
「そうだよね、当然だよね。ま、剣術学校で魔法を使えたらそれはそれでバカだよね」
そう言ってくすくす笑うレミル。ユウトはそれを真顔で見ていると今度はレミルがむすっと頬を膨らませる。
「ま、行くからね」
レミルはそれから身を屈めていかにも怪しい素振りで廊下を渡っていった。
逆にユウトは見つかることを問題とは思っていなかった。むしろ、はやく見つかって男の寮生として生活したほうが、波風が立たなくていいとさえ思うユウトである。
「着いてきて」
それでもユウトはどこか悪いことをしている気分を楽しむ余裕も出て来ていた。
レミルの必死な様子がユウトには面白い。廊下には蝋燭の火が灯り、日没に備えた仄かな明かりが少し翳った道を照らし続けていた。
「結構近いんだね、浴場」
レミルとユウトは廊下を渡って勝手口から校舎を出てから反対側の廊下に渡り、それからすぐに浴場の入り口にきた。
「そんなことより、はやく入る格好して」
扉を開けて湯気が独特の空間を作る廊下に入るや否や、レミルはユウトに凄い剣幕で迫った。
「え、ここで脱ぐの?」
「ここが脱衣所よ。はやくっ」
「え、うわっ」
レミルは脱ぎ始めていた。ユウトは慌てて背中を向けるが、それがレミルには面白くなかった。生まれてこの方異性の裸など見たことのないレミルである。
「脱ぎ方も知らないの?」
レミルがユウトのシャツを持ち上げて脱がせようとする。
「やるやる! 自分でできる!」
半分脱がされる格好でユウトは生まれたままの姿になると顔を赤く染めて女の子のように股間を隠す。
「ほら、こっちよ」
対してレミルのなんと男らしいこと、ユウトは人間ではないとでも言いたいかのように浴場の入り口で堂々と手招きをしていた。
「遅い! 広いからはぐれちゃダメよ」
手を取られるともうレミルの素肌からユウトは必死に目を逸らすことしかできない。
何故レミルは裸を見られても大丈夫なのかと聞くユウトに何を言ってるのかわからないと真顔で返されるユウトだった。
「正直、あんたなんか他の女の子より貧弱な躰してるわよ」
ユウトのショックはいかほどのものだったか。しばらくは白い湯気のように呆けていた。
大きな湯泉の横を歩くレミルはそれでもユウトとは違って細々した躰で、それを見るとユウトはなんだか不思議な気分だった。
「げ、大変だわ……」
突然レミルは掴んでいた手を逆手に持ち直して今来た道を帰ろうとする。レミルの体が反転してユウトはレミルの艶やかな体を正面から直に視るが、レミルは気にせずユウトを引っ張った。
「ど、どうしたの」
「誰もいないと思ったけど、一番最悪なエルナがいたの」
「…………」
振り返ると確かに湯気の奥に気配がした。しかもそれはどんどん近づいてきている。
「近づいてくるよ」
「く、仕方ないわね」
全力か、否、控えめに走り出す二人は一気に脱衣所まで来た。が、突然二人の躰が宙に浮いて来た道を矢のような勢いで吹き飛ばされる。
「危ない!」
ユウトは偶然にもレミルを引き寄せることができ、落下の衝撃に自分の体を挟んだ。
天然の岩を切り出して作られた上に投げ出されたユウトは勢いよく頭を打ち付ける。
幸いにもユウトが庇ったおかげでレミルはむくりと起き上がった。
近づいてくる影がレミルを見下ろしながら美しい声を発する。
「不思議ね」
「なにが?」
高飛車で目つきの悪い女だった。レミルは立ち上がりながら拳をわずかに震わせて不機嫌を露わにした。先ほどユウトとレミルを吹き飛ばした魔法剣は裸の腰に収まっている。
「何か怪しい気配がすると思って魔法を放ってみたら、あなたまで飛んできたことですわ。これは何? 何やら凄く面白そうなことが起こっているようですけれど」
レミルはエルナの顔を見る度に思い出すのであった。入学試験で負けたこと、その後の練習試合も悉く負け、学年一位という称号の上にいる言わばボス面した女であることを。そんな女と遭遇することに気分を良くするはずはなかった。
「シャラ様から使い魔の世話を頼まれて来ただけ。人間に見えるかもしれないけど、髪も目も黒い人間なんて魔物の証でしょ。私はこれの世話をしなくちゃならないからエルナには関係ない。というか、浴場に剣を差して入るとか頭おかしいよ」
レミルは自分の言い訳を後悔していた。こんな剣の修練しかない学舎でエルナがこの少年に興味を抱かないはずがないのである。ユウトの男としての証明もしっかり丸出しであった。
「やだ、本当に使い魔なのかしら? あれがツいてるわよ」
「え!」
促されるまま倒れたユウトを凝視してレミルは思わず叫び出しそうになった。何かが股間から生えているのだ。レミルは初めて見たそれに立ちくらみする。
「……あんた、見たことあるの? これってもしかして――」
エルナは頬を染めながらもレミルに弱いところを見せまいと必死に取り繕っていた。
「し、知らないですわ! 私だって本物は初めて見るもの。でも、これは間違いなくそれよ」
「本物は? それって本で見たの?」
「え、ええ何か問題があるのかしら? 後学のために知識をつけるのは当たり前のことだと思いますけれど」
高学年レベルでもやらない勉強なのにそんな本を見ていることに呆れながらも今は頼りになる存在だとレミルは思った。これが本当なら自分はこんな人間と一緒に同じ部屋で寝起きするという毎日が待っているのだ。
「でも、そう考えるとなかなか良いかもしれないわね」
エルナが突然おかしなことを言い始める。
「どういういみ?」
「だって使い魔ということは修練を積んだ魔法使いにも匹敵する可能性がありますもの。結婚して子供を産めば私たちのような魔法使いではない者より簡単に魔法使いの強さに近づけますでしょ。国の本懐がこんな近くにあるなんて感動せずにはいられないわ」
「子供を産む? ……エルナほんとうに頭ヘンじゃない? 私たちはまだ子供だよ?」
「なんですの、人を馬鹿にしてますの?」
レミルは咄嗟についた嘘を取り消せなくなっていた。本当はシャラ様の身内なのだから無礼があってはいけないのに使い魔なんだと言わなければエルナは何をしだすかわからない。
「あなたこそ、こんな人間と変わらない魔物のお、おち……をお世話するなんて正気の沙汰とは思えませんわ」
「あーもう、とにかく世話するの。気絶させたんだからエルナも手伝ってよ」
両脇を抱えて引き摺り始めるレミルを見て、エルナは腰から剣を引いた。
「お待ちなさい。その使い魔のお世話、私がさせていただきますわ」
エルナは頬をりんごのように染めてレミルを威圧しているつもりらしい。剣先に目線がなく、きょろきょろとユウトの体に目を泳がせては逸らすだけの繰り返しで全く覇気がない。
「はあ、時間がないんだからそういうのは後にしよ。もうすぐおばさんが来て暗くなる、そしたら何も見えなくなっちゃう」
「そ、それもそうね……じゃ、じゃあ触りますわ」
エルナがユウトの体に触ると目を瞬かせて俯きがちになる。レミルはそのエルナの表情を見て、初めて女の子らしい一面を見た思いだった。
「こ、これが使い魔? 本当に? 人間にしか思えませんけど?」
笑い出しそうになるのを必死に堪えて気丈なエルナがおっかなびっくりしている様を堪能するレミル。何故か少しだけ勝った気分になる思いだった。
そして最大の不幸は誰もユウトが頭を打ったことを気遣わなかったことに違いなかった。
ユウトが酷い鈍痛に目が覚めるまでユウトの体は弄ばれながら綺麗にされたのだった。
二、罷免。
次の日、部屋で気が付いたユウトは寝間着を着替えるレミルの背中を眺めているうちにいくつかの疑問が思い浮かんだ。丁度椅子に座って髪を梳き始めたとき、ユウトは声をかける。
「部屋は本当にいいの?」
髪を梳いている途中だったレミルがユウトの声に一瞬たじろいだものの、すぐにいつもの調子でぶっきらぼうに鏡に向かった。
「突然話し掛けないで、驚くから。……だいたいそんなの、この学舎はいっつも缶詰みたいにぎゅうぎゅうなの。どうにもならないの!」
レミルは億劫そうに立つと腰に剣を差す。
「僕の服は……?」
妙に風通しがいいユウトの体は体験したことのない生地で包まれていた。立ち上がると股下に何か風を感じる。
「ないよ。前のやつは汚いし臭いから捨てたし。感謝してよね、重くて大変だったんだから」
「……すてた?」
ユウトは耳を疑った。自分でも少し汚いとは思っていたものの、それほど安いものでもなかったように感じる。何しろ訓練所では見合ったサイズがなくユウトのために誰かが作ったと聞いていたからだ。
「こんな格好で外へなんて行けないよ」
ひらひらとした薄着に文句を付けるとレミルは再び髪を梳かしながら不機嫌そうに頬を膨らませる。
「私の服しかないんだから我慢してよ。私だって貸したくないけどここで男の服なんて揃えられないんだから」
ユウトも言葉に詰まる。お互い溜息をつくと不意に扉が開いた。入り口にブロンズの髪をした少女が立っている。カールした長髪と端正な鼻筋、少女は可愛らしい小口を開いた。
「あら、まだここの扉は壊れたままなのです? ノックで扉が開いてしまいましたわ」
ユウトにとっては見知らぬ女の子。レミルにとっては目の上のコブだった。
「あんたねえ……朝から何しにきたのよ」
「どうせ男性の衣類はないと思いまして、持って来て差し上げましたの」
ユウトの目が輝いた。その手にはレミルたちと同じ制服がある。白と茶色の生地がうまく織り合って模様を描く上下の服はまさしくユウトが気に入ったデザインだった。
「スカートもない男用の制服ですわ。どう、これがほしいでしょう?」
「うん」
ユウトはその瞬間背中から強い衝撃を受けて吹き飛んだ。
「ちょっと、いくら魔物だからって少し乱暴にすぎませんこと?」
「それをどうやって手に入れたか知らないけれど、あんたがただで人に物を渡すなんてありえないわ。何が望み?」
「あらまあ、話がはやくて助かりますわ。――あなた、これからシャラ様に稽古をつけて頂くのではなくて?」
「な、なんでしってるの……」
「学舎中で噂になっておりますわ。知らぬは本人ばかりのようね」
「私にどうしろっていうのよ」
「簡単よ、私も参加させなさい」
「はあ?」
レミルには到底受け入れられないことだった。何のために我慢して同居していると思っているのかと頭に血が上る。
「ユルトの世話をしていないエルナには無理よ」
「だからこうして衣服を持って来たんじゃない。それとも何かしら? 自分の服も満足に持たないあなたがこの子の服を新調できるって言う?」
レミルは歯を噛みしめて言葉をのみ込むように耐えた。
「わかった……でも部屋を提供してるのは私なんだから訓練量は私が八割よ」
「五割」
「……あんたね、服くらいで調子にのらないでくれる?」
「五割ったら五割よ。私がその気になればこの使い魔に一室用意することくらい他愛ないことだと分からないかしら?」
レミルは考えた。
学年一位の実力を持つエルナは当然教師陣からも絶大な期待を持たれている。そのエルナが部屋を一つだけ開けて欲しいと誰かに言えば成績最下者は問答無用で自主退学するだろう。それほどまでにこの国では剣の力が権力に直結していることもよく知っている。
「わかった、でも五割までだわ。それ以上はぜったい譲れないから」
「交渉成立~でよろしいわね。この子にかかるお金は全て私が持たせて頂くわ。あなたはせいぜい襲われないようにしてなさいな」
「……おそ……え?」
レミルは話の横で着替えに勤しんでいたユウトを睨んだ。当然ユウトは何のことかわからず首を振るしかない。小さな鼻息を鳴らすとレミルはそのままユウトの横を通り過ぎて廊下に出て行く。
「何処に行くのさ」
「ご飯よ。言っておくけどユルトは連れて行けないから」
「え、僕もお腹は空いたよ」
「ふふ、一人前に口だけは喋るんだから」
口元だけで一笑するレミルにエルナは厳しい視線を送った。
「なによエルナ、エサの面倒まで見る必要ある? エルナ本気?」
「当然ですわ。見たところ人間と大差はないように思えます。昨日確認したじゃありませんこと?」
レミルとエルナの頬がわずかに染まった。ユウトは話についていけない。
「でも無理よ。まずこの姿でいること自体が見つかったとき誰かの逢い引きに思われる。ここの男女同舎せずって掟はエルナもよく分かってるでしょ?」
「ではまずシャラ様に会いましょう。これについては袋でも被せておけばいいのではないかしら」
「エルナあんた、ほんと頭の中おかしい……それを誰かに見られたら私たちは女の子に男の子の格好をさせて袋を頭に被せて、それを連れ歩いているおバカかいじめにしか見えなくない?」
「ではお聞きしますけれど、あなた今年の学年順位は何位でしたの?」
「三位よ……あんたが準決勝で私の新しい剣をへし折った」
「まあ、そんなひどいことしたかしら。でもそれなら問題はないわね、私たちが誰かをいじめているように見えていたとしてもそれは強者によるいじめ。私たちに楯突こうと考える人間は返り討ちが怖くて手出しはしてこないでしょう」
レミルはこめかみに手を当てた。とりあえず、他に代案も浮かばないので怯えるユウトに袋を被せて廊下へと連れ出す。
窓の外にはうっすらと日が昇り始め、砂色の建物たちが朱い光のインクを伸ばしていた。
「あ、あの……おはようございます」
階段を降りると下級生が挨拶してくる。2人は袋を被ったユウトを背後ににこやかに挨拶を返した。
「ひいっ」
「どうして逃げるのかしら」
背中を向けて掛けていく少女。それを見送る2人の後ろには紙袋を頭から被ったユウトがいる。廊下を歩くエルナとレミルの2人は他の女子たちが怯えるのを見て口を開いた。
「エルナ……二年前の剣魔術大会の決勝で火系の剣魔法で顔面を焼かれた生徒がいたのを覚えてる?」
「相手は水系の魔法剣で戦っていた試合のことですわね」
「あれ、負けた方は顔面が焼けただれて酷いからって一日だけ紙袋を被せて生活してたのよ。その噂は面白おかしく丸一年流された」
「それでその生徒はどうしたのかしら」
「死んだ、女の子だったし自殺じゃないかな。1人で不可能な任務に行ったって……」
「修行不足ね、そんな理由で剣を取るなんて」
「あなたは自分の顔が魔法や傷でずたずたになったらどうするの?」
「低いレベルの問題ね、どうもしませんわ。私たちの命は国の剣でしかない、私一人の顔がどうなろうと命があって剣を握れる限りは戦うのがこの国の民のはずですわよ」
レミルはエルナを無言で見つめた。エルナはその視線に気が付かないまま歩き続けていく。レミルとエルナはまだユウトと歳が変わらない。ユウトよりはいくらか身長はあっても心はまだ幼かった。
「…………」
廊下を歩く足音の繰り返しの中でレミルは兄のことを思い出していた。小さい頃、まだレミルが中層階級だったとき兄は任務に就いて殉職した。聞けばその友人達も大勢死んだらしく部隊の隊長を務めていた兄の家系であるレミルの一家は責任の追及から貴族の証を奪われた。この国の剣は隣国に畏怖や敬意を持たせるがその犠牲は大きなものなのだと父はいつも言っていた。
家族を失っても剣を取れるか? 父は口癖のようにそれを言うようになり、いつしか父の剣は息子を失ったことで曇ってしまったと周りは囁いていた。
やがて父が息子の後を追うように殉職するとレミルの家族と呼べる人は今は娼館で身を粉にする母一人となった。残酷だとは思わないし、レミルはそういう周りの同年代を多く知っているつもりだった。
「そうね……ここは剣の国だものね」
「ええ」
二人は教職官の棟へ行くと受付のような小窓からシャラを尋ねた。
「教官たちは今朝方リクルド様のところに召集を掛けられていて全員出払っている」
用があるなら学舎でと追い返されたレミルは眉を曲げて不満を隠さなかった。
「リクルド様って確か学園理事だったわよね?」
「ええ、でも理事は確か肩書きだけのはず。滅多にお姿をお見せになられないから王宮の剣客総帥という話もありますし……」
学舎まで戻ってきた三人が今度は多数の生徒に奇異の目を向けられる。
「あ……」
「この紙袋。取らない方がいいですわね」
エルナは独り言のようにその紙袋を直して正面を向いた。ユウトはなすがままにされている。
「私は取った方がいいと思う。これがバレれば私たちはユルトを隠そうとしていたことになる。それって私たちが男子禁制と知ってて『男』を連れ込んでいたという意味合いになるわ。そうじゃない、私たちは女の子に男装させているのよ。だから最初が肝心」
「確かに一理ありますわね。けれど、最初はいじめの現場で押し通そうという話でまとまったじゃありませんこと?」
「そうだけど、シャラ様がいないんじゃこれ以上は私たちにメリットはないのよ」
「なるほどですわ」
紙袋が取られるとユウトはその光の加減に目を細める。一面の景色は人だかりだった。
「きゃああ――――」
「いやぁっ、男よ!」
「風紀委員を呼んで!」
大パニックである。まるでユウトがそこにいるだけで爆弾かモンスターでも見るような目つきだった。
「みんな、聞いてよ」
レミルが必死にそれを説得して回ろうとするが、まるで聞き入れられない。
「レミル、あなた……大馬鹿なのかしら」
事が集束したのはその騒ぎに教師たちが駆けつけてからだった。緊急の職員会議が開かれ、シャラは半ば尋問に掛けられるようなかたちで詰問にあっていた。
「ではシャラ教官、あなたは教え子に自分の親族の面倒を見させようとしたのですか?」
「そうです、西棟へ連れて行ったのには驚かれたでしょうが」
「シャラ教官、問題はそこではありません。試験も通っていない者をあなたの推薦で入学させた。この意味がお分かりですか!」
年に一万人を超える入学志願者がいる本校においては年功序列によってクラスが別れている。同い年でも体格の違いから試験をパスできない者も多い。彼らは国の民として毎年試験を受けている。そういうものをシャラは全て無視して入学させようとした。もちろん、本人はそれを秘密にしたかったのだが、シャラは細かいところまで気が回らなかった。
「学舎の全員を黙らせることができなければ、弟は生活できないか」
「そうです、当然でしょう。死にものぐるいで入学した彼らが誰も異議を唱えないなどありえません。恐らくは数日中に決闘の申し込みがはいるでしょうな」
「あー、そういうことならこうしよう。今度の私の任務にあいつを連れて行く。生きて帰ってきたら入学ということで」
シャラは面倒になってきていた。この国の息苦しい態勢、旧態依然とした縦社会にも反感を感じてしまうのだった。シャラがユウトを見た時、一つだけ感じたことは自分と同じ人間を生み出してはいけないということだった。
「そんな無茶を申されましてもな」
シャラは腰の剣に手を置く。男たちの顔が突然頼りなくなった。
「いいか、お前たちの仕事はこの学舎を管理することだ。私が弟をここに推薦したのにはそれなりの理由がある。それを困るだの出来ないなどと言うのであれば私はこの国を抜けることになるぞ」
「そ、それはお考え直しを――」
補佐官程度に過ぎない彼らがシャラを浪人に追い込んだとなれば自らの首がなくなる。沈黙が続くのでシャラは一方的に職員室を後にした。職員室では男達が息を吹き返したように思い思いを口にする。
「大剣士アレスト・ロジャー様の一番弟子だからと生意気な……」
シャラの背中に揺れるポニーテールがその声を聞いたように揺れ去っていった。
「シャラ様……」
レミルの部屋で待機していた3人はシャラの姿に恐縮する思いだった。自分たちの独断で学舎に連れ込んだユウトがこれほど大きな問題になるとは思いもしていなかったのだ。
「すまないな、お前達」
シャラはそんなこととは裏腹に2人に優しい瞳を向けた。
「……シャラ様が謝られる理由などはありません」
「いや、これは私のけじめの問題だ。私の問題に巻き込んでしまってすまない。お前達はもうユウトの世話をしなくていい」
「ど、どういうことですか?」
「もちろん、お前との約束を反故にするつもりはない。私はじきに教官を罷免させられるだろう、教職ではなくなった私でも良ければ剣を見てやることくらいはできる。ただ、ここでは無理だろうがな」
「そんな、罷免だなんて」
反応したのはエルナただ1人だった。
「ひめんって何ですか?」
エルナはレミルの頭をこづいた。
「失礼なことは慎みなさい。シャラ様はここの学舎をやめられると仰ってるのよ」
「え、ウソですよね」
シャラは小さく首を振った。
「上官の態度は始終変わらなかったよ。ユウトをここに置くことはできないの一点張りだ。私の権力なんて所詮は剣だけの駒としてしか見られていないことがよくわかったんだ。私は直にここを出る」
「シャラ様……」
「ユウト、支度するんだ。君に剣の面白さを教えるにはやはりこういう辛気くさい場所は不向きだからな」
唐突に矛先が自分に向いたような気分になってユウトはレミルとエルナを見た。
「そんな情けない顔をして、あんた本当に男なの? 服を脱いでいけとは言われないわよ。私はシャラ様に剣を見て貰えれば何でもいいし」
「本当に君は私に剣ばかり求めるな。すぐに根を吐くことをになるかもしれないぞ」
「あの、良ければ私も見て頂けませんか?」
エルナはレミルとの話が破綻したことを理解し頭を下げる。シャラはそれを快く受け入れた。来たければ来ればいい。そう言ってシャラはユウトを連れて二人の前を後にした。
次の日、部屋で気が付いたユウトは寝間着を着替えるレミルの背中を眺めているうちにいくつかの疑問が思い浮かんだ。丁度椅子に座って髪を梳き始めたとき、ユウトは声をかける。
「部屋は本当にいいの?」
髪を梳いている途中だったレミルがユウトの声に一瞬たじろいだものの、すぐにいつもの調子でぶっきらぼうに鏡に向かった。
「突然話し掛けないで、驚くから。……だいたいそんなの、この学舎はいっつも缶詰みたいにぎゅうぎゅうなの。どうにもならないの!」
レミルは億劫そうに立つと腰に剣を差す。
「僕の服は……?」
妙に風通しがいいユウトの体は体験したことのない生地で包まれていた。立ち上がると股下に何か風を感じる。
「ないよ。前のやつは汚いし臭いから捨てたし。感謝してよね、重くて大変だったんだから」
「……すてた?」
ユウトは耳を疑った。自分でも少し汚いとは思っていたものの、それほど安いものでもなかったように感じる。何しろ訓練所では見合ったサイズがなくユウトのために誰かが作ったと聞いていたからだ。
「こんな格好で外へなんて行けないよ」
ひらひらとした薄着に文句を付けるとレミルは再び髪を梳かしながら不機嫌そうに頬を膨らませる。
「私の服しかないんだから我慢してよ。私だって貸したくないけどここで男の服なんて揃えられないんだから」
ユウトも言葉に詰まる。お互い溜息をつくと不意に扉が開いた。入り口にブロンズの髪をした少女が立っている。カールした長髪と端正な鼻筋、少女は可愛らしい小口を開いた。
「あら、まだここの扉は壊れたままなのです? ノックで扉が開いてしまいましたわ」
ユウトにとっては見知らぬ女の子。レミルにとっては目の上のコブだった。
「あんたねえ……朝から何しにきたのよ」
「どうせ男性の衣類はないと思いまして、持って来て差し上げましたの」
ユウトの目が輝いた。その手にはレミルたちと同じ制服がある。白と茶色の生地がうまく織り合って模様を描く上下の服はまさしくユウトが気に入ったデザインだった。
「スカートもない男用の制服ですわ。どう、これがほしいでしょう?」
「うん」
ユウトはその瞬間背中から強い衝撃を受けて吹き飛んだ。
「ちょっと、いくら魔物だからって少し乱暴にすぎませんこと?」
「それをどうやって手に入れたか知らないけれど、あんたがただで人に物を渡すなんてありえないわ。何が望み?」
「あらまあ、話がはやくて助かりますわ。――あなた、これからシャラ様に稽古をつけて頂くのではなくて?」
「な、なんでしってるの……」
「学舎中で噂になっておりますわ。知らぬは本人ばかりのようね」
「私にどうしろっていうのよ」
「簡単よ、私も参加させなさい」
「はあ?」
レミルには到底受け入れられないことだった。何のために我慢して同居していると思っているのかと頭に血が上る。
「ユルトの世話をしていないエルナには無理よ」
「だからこうして衣服を持って来たんじゃない。それとも何かしら? 自分の服も満足に持たないあなたがこの子の服を新調できるって言う?」
レミルは歯を噛みしめて言葉をのみ込むように耐えた。
「わかった……でも部屋を提供してるのは私なんだから訓練量は私が八割よ」
「五割」
「……あんたね、服くらいで調子にのらないでくれる?」
「五割ったら五割よ。私がその気になればこの使い魔に一室用意することくらい他愛ないことだと分からないかしら?」
レミルは考えた。
学年一位の実力を持つエルナは当然教師陣からも絶大な期待を持たれている。そのエルナが部屋を一つだけ開けて欲しいと誰かに言えば成績最下者は問答無用で自主退学するだろう。それほどまでにこの国では剣の力が権力に直結していることもよく知っている。
「わかった、でも五割までだわ。それ以上はぜったい譲れないから」
「交渉成立~でよろしいわね。この子にかかるお金は全て私が持たせて頂くわ。あなたはせいぜい襲われないようにしてなさいな」
「……おそ……え?」
レミルは話の横で着替えに勤しんでいたユウトを睨んだ。当然ユウトは何のことかわからず首を振るしかない。小さな鼻息を鳴らすとレミルはそのままユウトの横を通り過ぎて廊下に出て行く。
「何処に行くのさ」
「ご飯よ。言っておくけどユルトは連れて行けないから」
「え、僕もお腹は空いたよ」
「ふふ、一人前に口だけは喋るんだから」
口元だけで一笑するレミルにエルナは厳しい視線を送った。
「なによエルナ、エサの面倒まで見る必要ある? エルナ本気?」
「当然ですわ。見たところ人間と大差はないように思えます。昨日確認したじゃありませんこと?」
レミルとエルナの頬がわずかに染まった。ユウトは話についていけない。
「でも無理よ。まずこの姿でいること自体が見つかったとき誰かの逢い引きに思われる。ここの男女同舎せずって掟はエルナもよく分かってるでしょ?」
「ではまずシャラ様に会いましょう。これについては袋でも被せておけばいいのではないかしら」
「エルナあんた、ほんと頭の中おかしい……それを誰かに見られたら私たちは女の子に男の子の格好をさせて袋を頭に被せて、それを連れ歩いているおバカかいじめにしか見えなくない?」
「ではお聞きしますけれど、あなた今年の学年順位は何位でしたの?」
「三位よ……あんたが準決勝で私の新しい剣をへし折った」
「まあ、そんなひどいことしたかしら。でもそれなら問題はないわね、私たちが誰かをいじめているように見えていたとしてもそれは強者によるいじめ。私たちに楯突こうと考える人間は返り討ちが怖くて手出しはしてこないでしょう」
レミルはこめかみに手を当てた。とりあえず、他に代案も浮かばないので怯えるユウトに袋を被せて廊下へと連れ出す。
窓の外にはうっすらと日が昇り始め、砂色の建物たちが朱い光のインクを伸ばしていた。
「あ、あの……おはようございます」
階段を降りると下級生が挨拶してくる。2人は袋を被ったユウトを背後ににこやかに挨拶を返した。
「ひいっ」
「どうして逃げるのかしら」
背中を向けて掛けていく少女。それを見送る2人の後ろには紙袋を頭から被ったユウトがいる。廊下を歩くエルナとレミルの2人は他の女子たちが怯えるのを見て口を開いた。
「エルナ……二年前の剣魔術大会の決勝で火系の剣魔法で顔面を焼かれた生徒がいたのを覚えてる?」
「相手は水系の魔法剣で戦っていた試合のことですわね」
「あれ、負けた方は顔面が焼けただれて酷いからって一日だけ紙袋を被せて生活してたのよ。その噂は面白おかしく丸一年流された」
「それでその生徒はどうしたのかしら」
「死んだ、女の子だったし自殺じゃないかな。1人で不可能な任務に行ったって……」
「修行不足ね、そんな理由で剣を取るなんて」
「あなたは自分の顔が魔法や傷でずたずたになったらどうするの?」
「低いレベルの問題ね、どうもしませんわ。私たちの命は国の剣でしかない、私一人の顔がどうなろうと命があって剣を握れる限りは戦うのがこの国の民のはずですわよ」
レミルはエルナを無言で見つめた。エルナはその視線に気が付かないまま歩き続けていく。レミルとエルナはまだユウトと歳が変わらない。ユウトよりはいくらか身長はあっても心はまだ幼かった。
「…………」
廊下を歩く足音の繰り返しの中でレミルは兄のことを思い出していた。小さい頃、まだレミルが中層階級だったとき兄は任務に就いて殉職した。聞けばその友人達も大勢死んだらしく部隊の隊長を務めていた兄の家系であるレミルの一家は責任の追及から貴族の証を奪われた。この国の剣は隣国に畏怖や敬意を持たせるがその犠牲は大きなものなのだと父はいつも言っていた。
家族を失っても剣を取れるか? 父は口癖のようにそれを言うようになり、いつしか父の剣は息子を失ったことで曇ってしまったと周りは囁いていた。
やがて父が息子の後を追うように殉職するとレミルの家族と呼べる人は今は娼館で身を粉にする母一人となった。残酷だとは思わないし、レミルはそういう周りの同年代を多く知っているつもりだった。
「そうね……ここは剣の国だものね」
「ええ」
二人は教職官の棟へ行くと受付のような小窓からシャラを尋ねた。
「教官たちは今朝方リクルド様のところに召集を掛けられていて全員出払っている」
用があるなら学舎でと追い返されたレミルは眉を曲げて不満を隠さなかった。
「リクルド様って確か学園理事だったわよね?」
「ええ、でも理事は確か肩書きだけのはず。滅多にお姿をお見せになられないから王宮の剣客総帥という話もありますし……」
学舎まで戻ってきた三人が今度は多数の生徒に奇異の目を向けられる。
「あ……」
「この紙袋。取らない方がいいですわね」
エルナは独り言のようにその紙袋を直して正面を向いた。ユウトはなすがままにされている。
「私は取った方がいいと思う。これがバレれば私たちはユルトを隠そうとしていたことになる。それって私たちが男子禁制と知ってて『男』を連れ込んでいたという意味合いになるわ。そうじゃない、私たちは女の子に男装させているのよ。だから最初が肝心」
「確かに一理ありますわね。けれど、最初はいじめの現場で押し通そうという話でまとまったじゃありませんこと?」
「そうだけど、シャラ様がいないんじゃこれ以上は私たちにメリットはないのよ」
「なるほどですわ」
紙袋が取られるとユウトはその光の加減に目を細める。一面の景色は人だかりだった。
「きゃああ――――」
「いやぁっ、男よ!」
「風紀委員を呼んで!」
大パニックである。まるでユウトがそこにいるだけで爆弾かモンスターでも見るような目つきだった。
「みんな、聞いてよ」
レミルが必死にそれを説得して回ろうとするが、まるで聞き入れられない。
「レミル、あなた……大馬鹿なのかしら」
事が集束したのはその騒ぎに教師たちが駆けつけてからだった。緊急の職員会議が開かれ、シャラは半ば尋問に掛けられるようなかたちで詰問にあっていた。
「ではシャラ教官、あなたは教え子に自分の親族の面倒を見させようとしたのですか?」
「そうです、西棟へ連れて行ったのには驚かれたでしょうが」
「シャラ教官、問題はそこではありません。試験も通っていない者をあなたの推薦で入学させた。この意味がお分かりですか!」
年に一万人を超える入学志願者がいる本校においては年功序列によってクラスが別れている。同い年でも体格の違いから試験をパスできない者も多い。彼らは国の民として毎年試験を受けている。そういうものをシャラは全て無視して入学させようとした。もちろん、本人はそれを秘密にしたかったのだが、シャラは細かいところまで気が回らなかった。
「学舎の全員を黙らせることができなければ、弟は生活できないか」
「そうです、当然でしょう。死にものぐるいで入学した彼らが誰も異議を唱えないなどありえません。恐らくは数日中に決闘の申し込みがはいるでしょうな」
「あー、そういうことならこうしよう。今度の私の任務にあいつを連れて行く。生きて帰ってきたら入学ということで」
シャラは面倒になってきていた。この国の息苦しい態勢、旧態依然とした縦社会にも反感を感じてしまうのだった。シャラがユウトを見た時、一つだけ感じたことは自分と同じ人間を生み出してはいけないということだった。
「そんな無茶を申されましてもな」
シャラは腰の剣に手を置く。男たちの顔が突然頼りなくなった。
「いいか、お前たちの仕事はこの学舎を管理することだ。私が弟をここに推薦したのにはそれなりの理由がある。それを困るだの出来ないなどと言うのであれば私はこの国を抜けることになるぞ」
「そ、それはお考え直しを――」
補佐官程度に過ぎない彼らがシャラを浪人に追い込んだとなれば自らの首がなくなる。沈黙が続くのでシャラは一方的に職員室を後にした。職員室では男達が息を吹き返したように思い思いを口にする。
「大剣士アレスト・ロジャー様の一番弟子だからと生意気な……」
シャラの背中に揺れるポニーテールがその声を聞いたように揺れ去っていった。
「シャラ様……」
レミルの部屋で待機していた3人はシャラの姿に恐縮する思いだった。自分たちの独断で学舎に連れ込んだユウトがこれほど大きな問題になるとは思いもしていなかったのだ。
「すまないな、お前達」
シャラはそんなこととは裏腹に2人に優しい瞳を向けた。
「……シャラ様が謝られる理由などはありません」
「いや、これは私のけじめの問題だ。私の問題に巻き込んでしまってすまない。お前達はもうユウトの世話をしなくていい」
「ど、どういうことですか?」
「もちろん、お前との約束を反故にするつもりはない。私はじきに教官を罷免させられるだろう、教職ではなくなった私でも良ければ剣を見てやることくらいはできる。ただ、ここでは無理だろうがな」
「そんな、罷免だなんて」
反応したのはエルナただ1人だった。
「ひめんって何ですか?」
エルナはレミルの頭をこづいた。
「失礼なことは慎みなさい。シャラ様はここの学舎をやめられると仰ってるのよ」
「え、ウソですよね」
シャラは小さく首を振った。
「上官の態度は始終変わらなかったよ。ユウトをここに置くことはできないの一点張りだ。私の権力なんて所詮は剣だけの駒としてしか見られていないことがよくわかったんだ。私は直にここを出る」
「シャラ様……」
「ユウト、支度するんだ。君に剣の面白さを教えるにはやはりこういう辛気くさい場所は不向きだからな」
唐突に矛先が自分に向いたような気分になってユウトはレミルとエルナを見た。
「そんな情けない顔をして、あんた本当に男なの? 服を脱いでいけとは言われないわよ。私はシャラ様に剣を見て貰えれば何でもいいし」
「本当に君は私に剣ばかり求めるな。すぐに根を吐くことをになるかもしれないぞ」
「あの、良ければ私も見て頂けませんか?」
エルナはレミルとの話が破綻したことを理解し頭を下げる。シャラはそれを快く受け入れた。来たければ来ればいい。そう言ってシャラはユウトを連れて二人の前を後にした。
三、3人
シャラは何の通達も待たずに自分の修練場である山小屋へとユウトを連れて行った。
その日のうちに薪や食料を買い込み、荷台を2人で引きながら険しい山を進んだのだ。
ユウトはそれだけでひっくりかえるほどばててしまい、そんな様子を見てシャラは苦笑いしながらバケツを手に取る。
「ユウト、麓まで行って水を汲んでこい」
「ええ!?」
もう一歩も動きたくないユウトだった。いくら山の生活がユウトを強くしたとはいえ、ここまで大変な労力を使ったのに麓に行ってまで水を汲むのは無理だと思う。
「行かないのか? もし私が行けばお前はここで食材の番をしなければならないぞ。モンスターから命がけで食料を守るのと、ただの水汲み。どっちがお前にとっての最善かな」
ユウトは軋む体に鞭を打って起き上がる。
「なんだ、まだまだ動けそうだな。よしよし」
優しく抱擁されるとユウトは泣きそうになった。軽い極限状態で心が折れそうになったからだ。
「安心しろ、お前は剣で食っていけるようになる。私がそうしてやる」
背中を押し出され、とぼとぼと歩いて行くユウト。麓の川は来るときに見た。
「あら、ユルト泣いてるの?」
「………………」
レミルが明るい陽気を纏って坂道を登ってきていた。ユウトは足元ばかりみていたのでその存在に気が付かなかった。レミルはこの険しい山を汗一つかかずに登ってきたらしい。
「泣いてない」
ユウトの精一杯の虚勢はレミルに見透かされたようで、じろじろと顔を覗き込むレミルはわっと笑った。
「そんなに目を腫らして言っても信じられないよ。訓練が厳しかったの? それともどこか痛いの?」
ユウトは若干の男の矜持というものが燻っていた。レミルはこの山を事も無げに登っている。頭がユウトより一つ分くらいしか変わらないのに泣くほどへばってしまったとは知られたくなかった。
「なんでもない。シャラ姉さんならこの先の小屋にいるよ」
「そ、ありがとう。そんな足取りで怪我しないようにねユルト」
「ユルトじゃないよ」
何故レミルはああも自分の名前を間違えるのか。ユウトは不思議で仕方がなかった。
さらに降りていくと今度はエルナが山を登ってきていた。
「あら、ご機嫌よう」
挨拶を済ませるとエルナはユウトに近づいて口を尖らせる。
「せっかく私が用意した服が汚れすぎですわね。せめて私の前では綺麗にできません?」
「無理だよ……」
エルナは自分の用意した制服が雑巾のごとく汚れているのがよほど気に入らないのか、ユウトの体を叩いて泥を落とし始めた。
「いいこと? 一流の剣士というのは自身の身だしなみも一流でなくてはならないのですわ。私の用意した服が雑巾のようになっているのは筆舌に尽くしがたいほど悔しいですが、あなたは一流の剣士の弟子として認められているのですから心は常に一流でいてほしいものですわ」
そういって泥を払い終えたエルナはユウトの顔と近いことを気に止める様子もない。宝石のようなブルーの瞳がブロンドの前髪の奥から揺らめいていた。ユウトは気恥ずかしくなってそっと横目に流す。
「もう行きますわ。せいぜい愛想を尽かされないよう頑張りなさい」
ユウトは2人に会ってなんだか心が軽くなった気分だった。何故かはわからないが、友達が出来たような気がしたのだ。それがユウトには無性に嬉しかった。
水を汲み終えてユウトは息も切れ切れに今度こそ泣き面で戻ってくると小屋の前は壮絶な嵐が吹き荒れていた。
「はっ」
張り詰めた糸が目の前にあるような緊張感と共にその糸の正体が剣捌きだと知る。
鳴り響く鉄と鉄の打ち付け合う音はユウトを否応なしに不安にさせた。
「やあっ」
レミルとエルナが二人がかりでシャラを責めるが、シャラはたった一本の剣でその全てを躱していた。レミルとエルナは相当な数を打ち込んでいるのにそれを最低限の動きだけで躱すシャラは余裕さえ感じられる。
「はぁはぁ……」
「ユウトが帰ってきたから終わりだ。お前たちもユウトと同じ、水汲みをしてこい」
「はい!」「わかりました」
とぼとぼと二人は桶を片手にユウトとすれ違う。
「もう少しの時間があれば掠ったかもしれないのに……」
「私の到着を待たずして始めたあなたは愚か者ですわ。あれで体力が――」
何やら言い合いながらその姿は消えていった。ユウトはシャラに水を汲んできたことを伝えるとシャラは荷台の中から一本の剣を取りだした。
「刃のついていないブロンズソードだ。お前の剣だぞ」
「シャラ姉さん、僕はまだ剣を握りたいとは思っていないよ」
ふむとシャラは一言唸ると自らの剣を引き抜いて流麗に構え始めた。
「無理にとは言わない。そうだな、私の剣を見ていろ。今はそれだけでいい」
シャラの剣技の動きは一言で言ってしまえば舞だった。ユウトは剣なんて痛いだけだったし、好きで握っていたわけでもない。しかし、シャラの剣舞は剣への愛を感じられるほどに厳かで美しかった。ユウトの剣に対する考えが一瞬で変わりつつあった。
「シャラ様! 汲んで参りましたっ!」
「しっ、シャラ様は剣舞を舞ってられるわ」
剣先が一枚の木の葉のように舞う。それは水が流れるように自然で淀みがない。
見るものを惹きつける剣舞は半刻ほども続いた。その場にいた誰もがその剣舞を止めようとはしない。
終わったと感じたのはシャラが動きを止めて剣を鞘に収めきったところだった。
「素晴らしい剣舞でした、シャラ様」
ユウトは終わったことに気が付かなかった。脳裏でシャラの剣舞がまだ続いているような気がする。
「お前たちは今の剣舞を見て何を感じた?」
「はい、流れる山水と四季を織りなす自然の摂理のようなものを感じました」
「剣の頂点にのみ許された強さの象徴でしょうか」
シャラは振り返りユウトにも尋ねた。
「僕?」
「そうだ、お前は何を感じた?」
ユウトはシャラの剣舞を思い出した。それは哀しいほどにユウトには一つだけを訴えていた。
「剣は傷つけるために使わないという意志を感じた」
シャラは真摯な面持ちで頷いた。
「感じ方は人それぞれだ。剣舞は何も語らない、しかしこの剣舞というのはかつて危機に瀕した一国が敵国の王に見せた無言の進言でもある。力、技、そして心。全てが統括されて剣舞が完成する。場合によっては剣舞でその者の強さがわかってしまうくらいにな」
シャラが剣を優しく取り持つとレミルとエルナはがっかりしたように肩を落とした。
「お前たちはもう少し剣から身を引いて自分の内面を見つめたほうがいい」
苦笑混じりに言うシャラに抗議の声が飛ぶ。ユウトはそんな三人が家族のようにすら映る。一人だけ仲間はずれになったような気分だった。
「さあ、食事にしよう。腹一杯は食べられないが、そこをカバーするお前たちの女子力も見てやろう」
レミルとエルナは張り切っていたものの、ほとんどが野菜を煮込んだり焼いたりするだけの簡単なものだった。簡易テーブルをなるべく平らなところに置くとそれっぽく見える。
不格好な椅子が並べられて四人の食事は始まった。
「そういえば、この場所はシャラ様の別荘か何かですか?」
「ああ、正確には私の師匠アレスト・ロジャーと共に建てた家……というより小屋だな」
「そうなんですか! じゃあ、シャラ様もここで剣術を?」
「そうだ。あの人は無骨な人だったからこういうところを好んでな。細かい椅子やらテーブルは私が作らされた」
「え、じゃあ今私たちが座っているのも?」
「そうだ、ほとんど失敗だがな。その度に木を切り倒していたら怒られたよ。森がなくなるってな」
小さな花が咲く会話もユウトにはどこか遠くに感じられた。
「でも、ユルトが弟っていう話は……」
「こいつはな、もともとは私の弟じゃないんだ。隣国で人間を召喚したメイジがいるっていう話を聞きつけて見にいった。驚いたよ、アロの生まれ変わりみたいにそっくりなんだ」
「いくら嘘でもそれはちょっと信じられない話ですわ。第一レミルが最初に私に説明したのは……」
「あっちが嘘。私も頭がこんがらがってきた。私がついた嘘が本当に近かったってことなんだもん」
「そういえば、レミルはともかくエルナはどうしてこいつを知ったんだ?」
ユウトは食事を終わらせて席を立った。小屋の裏に回り込んで息をつく。昼下がりで森の中には心地良い風が流れている。訓練所よりはマシだと思うユウトに楽しく会話して食事をしていた家族のことが脳裏を過ぎる。
「お父さん……お母さん……」
召喚されてしばらくの間は泣きはらしていたユウトはもう泣かないと決めたはずだった。しかし、唐突にその哀しみが襲ってきても抗えなかった。あんな温かな食事をした後ではユウトの心はもろかった。
「こんな剣で僕が強くなったらどうなるっていうんだ」
ブロンズソードは思いの外少し重い。試しに振ってみるとぶんと勢いのある音がした。
アリスというあの少女を見返す? アリスを脅して元の世界に帰る方法を聞き出す?
どれも違う気がした。アリスはユウトを役に立たないと言った。その上でそのままにしている。つまり、アリスはもうユウトを帰すことができないのだ。そのつもりもない。
本当に強くして自分のために化け物と戦わせるつもりかもしれなかった。
ユウトはままならない気持ちを剣に込めて思い切り投げ飛ばした。
剣は放物線を描いて何処かへ消えていく。これでいい、シャラがこのことに気が付いたらユウトは一人どこかに行こうと決めた。
「午後からはお前たちの模擬戦を見せて貰う」
シャラはレミルとエルナに指導をしていたらしい。ユウトはそっとシャラの後ろのほうに座った。振り返ったシャラはユウトのほうに歩いて来る。
「ユウト、お前もやってみろ」
「え、僕はいいよ」
剣を投げ飛ばした罪悪感がなんとなくシャラの顔を見づらくさせた。
「大丈夫だ、お前はもっと自信を持って良い。私の剣舞を思い出せ、お前の心にある剣は名だたる名剣士たちと同じものだ」
ユウトは俯いた。剣なんてどうでもいいとさえ思う。
「レミルとエルナはもういい、実力差があまりないのにやっても無意味だ。そんな拮抗状態じゃ強くなるのに五年はかかる」
口を固く結んでエルナもレミルも剣を降ろす。お互いに意識し合っているだけ二人とも納得がいかない様子だった。シャラは二人に近づいて行くと小声で二人に顔を近づける。
「あそこで座ってるユウトを少し脅かしていじめてやってくれないか」
木刀を手にした二人はぴくりとその耳打ちに肩を震わせた。前々からなよなよと吹けば飛びそうなユウトの態度には二人も見飽きていたのだ。
「私1人で充分よ」
「まあ、怖い子ね。でも顔を殴ったらだめよ」
もともと剣客としての加虐心にでも火がついたのか、ユウトという初めての異性に対しての不満がそうさせたのかレミルはずかずかとユウトの前まで歩いて行った。
「ユルト、私を見なさい」
木刀の切っ先をユウトに向ける姿勢はいじめっ子そのもの。
「ユルトのことシャラ様から聞いたわ、シャラ様の師であらせられるアレスト・ロジャー様に似ているということもね。でも、私はあんたが剣を握ってくれなくて好都合。私たちの剣の練習の邪魔だしね」
振り下ろした剣はもちろん全力ではない。少し泣かしてやろうという程度の勢いで振ったのだから当然だった。しかし、レミルが驚いたのはユウトのその表情だった。
「僕が邪魔? 邪魔だからこんなことするの?」
ユウトの顔はぐしゃぐしゃでレミルは自分の放った木刀ではなく言葉が剣になったのだと感じた。
「別に、やる気がないならそこで座っていていいの。私はユルトと剣で戦って見たかっただけ。ごめんなさい。邪魔なんて酷いことを言ったから泣いてるの?」
ユウトはその同情が頭に来た。きっと目の前の女の子はわけもわからずごめんと口にしている。自分は好きでもない場所に召喚されて帰りたいのにこんなところで惨めに自分と変わりない歳の少女に同情されている。自分の弱さにもうんざりだった。レミルは邪魔だと言ったが、ユウトだってレミルにそんな事を思われながらここにいるのは我慢できない。
「剣で戦ってどうするのさ」
「そうね、ユルトを泣かすの」
「どうして」
「ユルトは剣が嫌いなんでしょ? 私は剣が好き。そんな剣が嫌いな奴と一緒に剣の稽古なんて私は嫌だから」
「剣で……」
背を向けるレミルにユウトは声を荒げようとしていた。それはユウトの怒りだった。
レミルは簡単にユウトを泣かせると思っている。それが伝わるからこそ、ユウトはそれが間違いだということを証明したくなった。
「僕を泣かせることができるならやってみろ!」
後ろを向いていたレミルがそのまま振り返った。そこには完全に馬鹿にしている目があった。
「いいの?」
「僕はお前の剣で泣いたりするもんか」
ユウトは飛んできた木刀をすかさず拾い上げて構えた。足が震えるのもおかまいなしだ。
「ついでに、僕のことをユルトって呼ぶことも二度と許さない」
「ふふっ、ユルトはユルトでしょ。シャラ様のようにユルト様とでも呼んでほしいの?」
「僕の名前は生浦悠人だ!」
恐らくは舌の長さか発音の問題なのだろうが、ユウトはもう何が何でもレミルという女の子に一泡吹かせてやりたかった。女の子に馬鹿にされて同情されることに我慢できなかったのだ。
「あああぁぁぁ――」
怒りに任せて振り下ろした木刀はレミルの肩を掠めるようにして地面に突き立った。
鈍い音がしてそのまま地面がえぐれる。ユウトは柔らかい地面なのだと思うもレミルの膝蹴りの反撃が即座にユウトの脇腹に直撃した。
「うぐっ」
「あなた……力はデタラメね」
距離を取ったレミルはユウトに追い打ちを掛けることをしない。気が付けば木刀は折れて短くなっていた。
「ほれ、新しいのだ」
シャラから投げられた木刀を拾い上げるとそれを正眼にユウトは構える。二人が戦っていたときの見よう見まねでしかない。ユウトはレミルがあまりにも馬鹿にした態度なので矛を収めることはしないと決意した。
「僕は許さない。僕に半端な同情をしたことを後悔させてやる」
「気迫はいいけど、その構えは何? そんなんじゃ私に剣が届くことなんかないんだから」
ユウトは相手が怪我をするかもしれないとは思わなかった。最初の一撃でレミルの実力が自分より遙かに高いと理解できたからだ。
それと同時に自分の実力が遠く及ばないこともわかった。それでもしきりに剣を放つのはユウトがレミルに参ったと言わせたいからだ。せめて邪魔だと言ったことを本当の意味で謝らせるまでユウトは剣を振り続けたいと思った。
勝手に召喚されてその存在を否定され続けていたユウトにとってこれが初めてこの世界で認められたいと思うほんのわずかな気持ちだった。
「はぁっ」
幾何回と繰り返す攻撃は悉くがレミルに見切られていた。圧倒的なまでの力量差は埋まることはない。それでもユウトは剣を振り続ける。何回目かの一撃、レミルの体が反転しユウトの死角に入る。通常人間は死角に入ったものに瞬時対応することはできない、その絶対の隙を突いて反撃に打ってでるレミルの動きはシャラほどではないにしろ完璧だった。
しかしユウトは何度目かのこの瞬間を狙っていた、想像でレミルの動きをなぞっていく。それは投影機か影にでもなったかのようにレミルの動きを完全に再現するというものだった。
そのことに一番の驚愕を見せたのはレミルだった。レミルにとってはあしらうだけの戦いが一瞬にして景色を変えた。
「あ、あんた今……」
初めて交わる2つの剣。躱すだけだったレミルの剣はここに来てユウトの剣と交差していた。それにユウトの表情が変わることはない。意識が剣にこの世界に向いたユウトの集中力はレミルにのみ向けられていた。
「いいわ、そういうことならすぐに終わらせてあげる」
ぐっと沈み込んだ身体が弾ける。ユウトに肉迫するレミルの剣はやはり先刻と同じように完全なる模倣の技にて相殺される。これはユウトがレミルの肉体的能力を遙かに上回っていなければできない。そのことは傍から見ているエルナもシャラも気づいていたし、レミルが一番わかっていた。
「偶然じゃないってこと? でも、それだと――」
今度はレミルが正眼に構える。ユウトは先ほどと同じように大振りでキレのない攻撃を仕掛けてくる。レミルはそれをひらひらと躱すが、攻撃はしない。むしろ身を寄せるように足捌きを軽快にしていく。
「ここよ!」
放った一撃は蹴り。またしてもユウトの脇腹に吸い込まれるように放たれ、ユウトは数メイル先に転がった。
「ぐっ……」
「剣だけに集中していれば、当然他は疎かになる。私の身体の使い方まで完全に真似できるのは驚きだけど、剣だけみたいね」
ユウトはぼやけた頭でそれを聞いていた。全身の動きを真似ることはユウトにも流石にできない。訓練を積んでいないが故に壁は存在するのだ。なので、ユウトは新しい壁を乗り越える。
「剣を振りたくない……心の剣……」
疲れ果てた限界の躰でシャラの剣舞を思い出し、自らのイメージに重ねていく。今のレミルとの剣撃はユウトの体にわずかだが馴染んだ。そこからユウトがイメージする完成系をただの空想で作り上げていく。
それは一概には決定付けできない。経験が全くもって足りないユウトはただレミルにのみ適合した剣術をつくり出すしかない。ユウトに許される剣はシャラの剣舞のように傷つけようとする者にのみ刃を向く反射の剣でなくてはならない。
極限まで高まるユウトの精神力がレミルの動きをコマ送りにする。同時にシャラの剣舞のイメージがユウトの肢体に重なる。レミルの剣は水のようにユウトの体の外を流れ、ユウトの剣は針のようにレミルの体を突いた。
「うっ――」
どっと尻餅を突きながらもすぐに飛び上がり、後方へ距離を取るレミルは信じられないものを見たという風にユウトを見た。しかし、ユウトは地面に横たわったまま動かない。
結局躱すことができなかったレミルの剣を受けて失神してしまったのだった。
「信じられんな、ユウトは本気になると相手の動きに自分の動きを合わせていけるようだ」
ユウトはレミルに底の見えない恐怖を与えた。シャラが駆けつけてユウトの容体を見る。
隣りに立つエルナはユウトを見下ろして思わず口を開く。
「ユウトは初めて剣を握ったようでしたけれど、もしかしたらアレスト・ロジャー様すら超えるのでは……?」
シャラに介抱されながらユウトはそのまま深い眠りについていった。
目が覚めるとユウトは見慣れない天井に昨日のことを思い出した。
「っ、勝てるわけないか……」
不思議と体は痛くなかったが、心はささくれ立っていた。レミルに認められなかったという苦い思いと自分の不甲斐なさが綯い交ぜになって渦巻いている。
起き上がるとどこからか剣を打ち合う音がしてきていた。それはシャラの剣とレミルの剣が交わる音だった。木造りの玄関を出たとき、2人の稽古する姿が飛び込んできた。
「目が覚めたかユウト。よし、レミル。今日もユウトと一試合やるか?」
「べ、別に。今日はいい、です」
レミルの様子は昨日とは違う。ユウトは不思議とシャラに答えを求めるよう視線を流した。
「はは、そういえばお前は何も食べてなかったな。部屋の食料棚にある食い物を食べていいぞ」
小屋に戻されたユウトは言われた通り食料棚からパンとチーズのようなものを一切れ取ってシャラたちのところへ戻った。
「レミル。お前に言えることは一つだ。強くなろうと思うなら自分の剣に執着心を持て。勝つことだけを考えてスタイルを自在に変えていくのはいいが、決定打がないのでは本末転倒だ」
「はい……」
2人の話を聞きながら食事を取るユウトをレミルが流し見た。目線がかち合うとふいっとレミルは顔を背ける。
「ユウト、お前。自分の剣をどこへやった?」
「……。僕に剣の才能なんかないし、やるだけ無駄だ」
それを聞いて声を上げたのは意外にもレミルだった。大股でユウトに近づくといきなり両手で胸ぐらを掴み上げてユウトを睨みつける。見ればレミルは涙を目尻に溜めていた。
「才能がないってッ? あんたの見せたあの剣はギャグか何かだったの? 私が必死の思いで築き上げてきた剣をあっさり破っておいて、やるだけ無駄? 何もやってないくせに全てを諦めたような台詞を吐くなんてあんたは本物のバカよっ!」
突き飛ばされたユウトは草の上へ尻餅をついた。レミルは涙を流しながら剣を握って息巻いていたものの、それはシャラが制止させた。
「ユウト、お前は捨てた剣でも拾いに行って来い。あれは結構高いんだ、いいな?」
ユウトは頷いて山を下っていく。不思議とそのまま何処かへ行く気はまったく起こらなかった。レミルが見せた初めての怒りはユウトに対してのものだった。てっきり鼻で笑われると思っていたユウトにその反応は予想外でしばらくは呆然としたまま歩いていた。
「あら、私を無視するなんて結構じゃありませんか?」
エルナは唐突にユウトの背中から声を掛けてきていた。それはつまり下り道にいたエルナをユウトが追い抜いたのだ。
「何してるの」
「先に聞いたのは私なんですけれども、まあ答えて差し上げますわ。私はここで誰かが降りてくるのを待っていたのですわ」
「どうして」
「昨日、あなたが倒れられてからレミルの落ち込みようは酷いものでしたわ。まあ、あなたはあの子を知らないから無理もないでしょうけれど。それで、私はどうも稽古に身が入らない気分でしたのでお暇を頂戴致しましたの。今日はここで誰かが来るのを待ってからその人と一緒に稽古したい気分なのですわ」
ユウトはこのエルナという子もよくわからなかったが、誰を待っているのかは容易に想像できた。エルナはレミルを元気づけようとしているだけなのだとユウトは思った。
「レミルとエルナは友達なの?」
「いいえ、レミルは私より格下の存在です。私は自らが国に認められる実力となればいいだけの人間ですし、そもそもあの子と仲良くすること自体が意味を成しませんわね」
その説明はよくわからなかったユウトだが、剣を探すことを告げるとエルナは何故かユウトに同行すると言いだした。
「私は気まぐれなので今はあなたに少し興味がありますわ。もしかしたら昨日の秘密が何かわかるかもしれませんもの」
好奇心が見え透いているので、ユウトも強くは拒否できなかった。
剣を投げ飛ばした方向へ歩いて行くと道は唐突に終わっている。
「崖ですわね。麓の森は魔物も出ると聞きますわ。私はいいとしてあなたはどうするのです?」
「行くよ、何か高いものらしいし」
ユウトはこの世界での物の価値など知らないから下手に高価なものを弁償できない。
そもそも一時の気分で自らが犯したことを笑われるのも癪だった。剣を突き返してさっさと逃げればいいのだ。どうやって生きていくかは想像が付かないが、このままえらい人に迷惑をかけるよりはマシだとユウトはそんなことを考えていた。
木々のざわめきは2人の侵入を快く思っていないようだった。鬱々とした森の中を歩み続けていくと、不意にエルナが先へ出る。
「魔物か動物ですわね。下がっていなさい」
かさかさと揺れる草の間から現れたのは全身を灰色の毛で覆ったイノシシのような生き物だった。
「リクノウですか……」
エルナは剣先をその生き物に向けると呪文を唱えた。
『イベ・セル!』
ぼうっと大気が歪むほどに圧縮され、その塊が灰色の動物を吹き飛ばす。細かい木々の枝がパキパキと音を立てて謎の生き物は姿を消した。その奥の茂みで低く鳴きながら先ほどの生物が逃げていくのがわかった。
「今のは?」
「剣魔法の一つですわ。予め剣に施されたスペルと大気のマナによって魔法を生み出すものですの」
刀身の細い剣はそのままエルナの腰に戻っていった。
「エルナは魔法使いなの?」
「もしかして、剣魔法のことをご存じないですの?」
「ご存じ? 知らないのかってこと? ――知らないよ」
小さな口を開いて驚くエルナは印象的だった。ユウトはその剣を持つだけで誰でも魔法が使えると聞いてさらに驚いた。魔法はずっと魔法使いだけが使うものだと思っていたのだ。
「じゃあ、僕でもその剣を持てば魔法が使えるようになるの?」
「ええ、もちろん使える魔法は決まっていますが発動のキースペルさえ知っていればこの剣の持つ魔法は全て使えますわ」
「へえ」
ユウトはエルナの細い腰に下がっている剣をまじまじと見つめてみたが、エルナはその視線をやんわりと躱した。
「貸しませんわよ。大抵は魔法が撃てる剣というのは家宝として先祖代々受け継がれるものですから」
「高いんだ」
「そうですわね、私くらいの家系になればこの魔剣は軽くお屋敷がぽんぽんと建つくらいの値打ちはしますわ」
ユウトは自分でも魔法が撃てると知って興味をそそられたが、その値打ちを聞いて諦めた。
「綺麗な剣だもんね」
「……それにしてもまだあなたが投げ捨てたという剣は見つかりませんの? 本来剣を捨てるなどという行為は自害か死ぬ前にしか行わないものですわ」
シャラ様は甘すぎるとユウトを責めるエルナにユウトは反省を示す。ユウトとてここまで探すのに苦労するとは思っていなかったのだ。
森は獣道から足場の悪い草木の道になっていく。もう見つからないと諦めかけた時、エルナは振り返るユウトの口を塞いだ。
「っ、何か聞こえませんこと?」
耳を澄ますと遠くから何かの呻り声が聞こえてきた。しかしそれは動物というより人間か猿のような甲高い声にも聞こえる。
「これって、動物の声かな」
声を潜めていうユウトにエルナは首を振った。抜刀する剣の腹が緑色に光る。
「私には人の声に聞こえますわ」
2人は声のする方に歩を進めた。慎重にゆっくりと近づく2人はその木々の影に陰惨な光景を目の当たりにする。思わずエルナは剣を落とした。
「ウグギ……ギァ……ァアア」
「ウブ……えげ」
一糸纏わぬ人々が手と首に鎖を繋がれて何処かへ歩いて行く。この人気のない森を裸の人間たちが連なっている様子は異様だった。
「なんだ、これ……」
ユウトもその光景に目を疑う。その人々は全員が苦しそうに白目を剥きながら口をだらしなく開き涎を流し続けている。
「オウグ、ミガアギロガゴ」
胴間声のような低く鳴り響く声がユウトたちの耳に届く。その巨体に何故気が付かなかったのか、人間達を引き連れているのは緑色をした巨人たちだった。
「オークが人間を引き連れている……」
エルナも知らないのか、その巨人を食い入るように見つめている。
「エルナ、ここを離れよう。見つかっちゃまずいよ」
同意したエルナはそのままユウトと逃げるように森を抜けた。ユウトは途中で何度か転びそうになりながら、あの巨人たちが追いかけてこないかと何度も後ろを振り返った。
「それは本当か?」
途中でエルナと別れ、小屋に戻るとユウトはシャラにその話をした。ユウトは初め森に深入りしたことを怒られるかと思ったが、シャラの反応は違っていた。
「そいつは手柄だ、恐らく人間に飼い慣らされたオーク共が小さな集落を襲ったんだろう。魔物が人間を奴隷化するなんて国家級の大罪をこの時代にやっているやつだ、親玉の地位もかなり高いな。そいつを捕まえることができればこの国の名誉となる」
「助けに行かないの?」
「行くさ、けどその前に国として動く許可を貰う。オークを尋問するには特殊な奴らが必要だしな」
シャラは着の身着のままで腰に剣を装着すると小屋を飛び出した。
「ユウト、番は任せた。明日の朝お前に道案内を頼む。これを討伐できればお前の手柄だ。学舎に入れるぞ」
ユウトは特別に嬉しくはなかった。
四、シーナ。
その日は寂しい夜を過ごしたユウトだった。朝になって人の気配が外に現れたので表へ出るとそこには見知った影がある。
「ようやくお目覚め? 1人であのオークを見つけたことにするなんて許せませんわ。ここで成敗して差し上げます」
エルナは剣に手を掛けてユウトに近づいた。慌ててユウトは身を屈める。
そうしているとにこやかに笑ってエルナはユウトの頭を撫でた。
「冗談ですわよ、ほんとうに」
エルナの後ろからシャラが歩いてくるとエルナたちに声を荒げる。
「道を覚えていないと言ったな、どっちでもいいまず道を思い出せ」
「……しかし、私の記憶ですと彼の後ろを歩いていたのでどうにも曖昧ですの」
シャラの言葉に頭から手を離したエルナ。ほっとするユウトはもう一つの影にも気が付いた。
「いくら優等生でも方向音痴の優等生なんてね。本当にこいつに道案内させる気?」
赤毛のレミルは不満そうな目を隠そうともせずユウトに向けている。端正な目元が利かす睨みはユウトを強ばらせた。
「頼むぞユウト」
そこに遅れて甲冑を身に纏った兵士の十数人がけたたましくやってくる。
「彼らは我が国の民兵たちだ。どうにもこの件に国は金を使いたくないらしくてな。有志を募ったら民兵からこれほど集まったというわけだ」
よく見るとその民兵たちは皆甲冑を着こなしているというよりは、甲冑に着られているといった風で中には明らかに体格との釣り合いが取れていない少女のような人も伺えた。
「見事討伐できれば我らが取り分6。君たちは4だ。国家級の犯罪者を捉えれば報奨金も多い、心して挑もう」
おうと威勢の良い声が上がる。まだオークたちを見つけても居ないのにとユウトは不安になった。
「いいか、隊列はレミルが一番後ろで前をエルナと私とユウトで進む。戦闘の合図は私が指揮する」
頷いた兵士の中で1人兜を落とし掛ける者がいた。
「す、すみません……」
「防具はしっかり身につけておけ」
シャラがその兵士を注意するのと同時にエルナがユウトに呟く。
「危なくなったら私の後ろに隠れておきなさい」
ユウトは注意された不満げな顔をしている兵士と巨人のオークが対峙する様子を想像して眉をしかめた。勝てるようには思えない。それだけがユウトの不安をいたずらに煽り続けた。
森は天気の良さとは裏腹に影に潜み、憂鬱な様子を醸し出していた。
「ここを真っ直ぐ行けば昨日の場所です」
ユウトの声にシャラが先頭へ出る。大きな獣道へ出るとそこには無数の足跡が付いていた。
「なるほど、これは間違いなくオークだ。全員陣形をしっかり組め。これより追跡を開始する。目標に気づかれるまでは音をなるべく立てるな」
ユウトは一つ気になることがあった。それは敵の数だ。エルナと見た時は一匹しかいなかったが、果たしてそれが正しい数なのか。ユウトは隣を歩くエルナにそれを尋ねた。
「一匹か二匹だとシャラ様はお考えよ、もともとオークを調教するなんて人間には荷が重すぎるのですわ。例えそれ以上だったとしても奇襲を掛ければオークは統率が取れない生き物、散り散りになったところをシャラ様と戦っていれば負けることはないのですわ」
心配無用という言葉にユウトは少しだけ安心した。
「止まれ」
シャラの合図が後部のレミルまで伝達される。
「敵の数は……ここからだとよく見えないが、三匹はいる。私とエルナ、レミルの三人に各歩兵四人で付いてグループを組め、一斉にオークを取り囲み瞬殺する」
「了解」
各々に事前に組まれたグループになる。ユウトはシャラの後ろだった。
「私の後ろで隠れていることにはならなさそうですわね」
エルナが苦笑混じりに言葉を発したとき、一本の風を切る音が静寂に響き渡った。
「なんだと! 偵察かッ」
「わぁぁああ」
一息遅れての悲痛の叫び。兵士の甲冑をもろともしない石矢はざっくりとその頭を肉へ埋め込んで肩に突き立っていた。巨人のオークが放ったものに違いないと判断すると同時にシャラは散開を告げる。ユウトはすかさずシャラの後ろを追うが、負傷した兵士の方を振り返ると一人残っていた。
「何してるんだ、早く!」
ユウトは遅れていた小柄な兵士を引っ張って走る。シャラに遅れてしまい、もはや陣形などない。次の瞬間には矢が何本も背中で甲高く鳴った。そこには逃げ遅れた先ほどの兵士がいる。
「いや、もう帰りたい……」
脱げ落ちた兜の下にはユウトとあまり年の変わらない女の子の顔があった。黒い瞳に紫がかった髪は少年のように短く切り揃っている。その表情はどこか全てを諦め切ったものでユウトは走ることを一瞬ためらいそうにさえなる。
「――――ッ」
どこからか怒声が鳴り響いた。恐らくはシャラが敵の注意を集めるために攻撃を仕掛けたのだろうと思うユウトだったが、こうも散り散りになっては各個撃破される道しか想像できなかった。
「来た道を逃げるんだ、僕はやらなきゃいけないことがある」
女の子は首を振った。ユウトが歩くと後ろを着いてくるつもりのようだった。
ユウトはその女の子がエルナやレミルのようにある程度はできると信じて構わずシャラたちを探しに歩く。恐らくシャラは引き返さないという確信がユウトにはあった。その確信が悪い考えを呼ぶ。相手は巨人、もっと沢山の戦力でなければ太刀打ちできない。弓がオークの放ったものだとすればそのオークの数は矢の数だけ存在することになり途方もなくなる。シャラに引き返す説得をしなければならないとユウトは心に決めて走り始めた。
「あれ……」
シャラたちの気配を追っていたのにいつの間にかユウトは開けた村落のような場所へ出て来てしまう。明らかにサイズ違いの丸太の組された小屋々々は彼らのアジトに違いなかった。
「引き返さないと……」
ユウトがそう言って後ろを振り返ると少女は指を差してその光景を食い入っていた。
「なんだ……」
そこには石の台座の前に並ぶ人々の姿があった。オークは台座の前で巨大な斧を構えている。
「やめて……」
少女がそう言うまでそこで何が起きているかユウトには理解できなかった。
重く鈍い骨と瑞々しい肉を断つ音が辺りに響いたかと思うと人間の首と胴が切り離されていた。
その頭は大きな鍋のようなところに入れられ、首を失った胴はそのままオークが細切れに解体し貪り始めた。
「いっ――」
ユウトは顔面が蒼白になった少女の口元を抑えて茂みに入る。ユウト自身もショックだったが、頭は冷静に何が起きているのかを考えていた。
何故ならあの人間たちは奴隷でオークたちにとっては取引の材料のはずだったからだ。
「シャラ姉さん……」
もしかすると前提が間違っているのではないかとユウトは思う。あの人間たちは実際は奴隷ではなくてただの捕虜だとすると、ユウトたちの襲撃は彼らの命を脅かす行為ではないのか。彼らは何故処刑され喰われているのか。
『――ッ』
少女の目が見開かれた。自ら口を押さえて嘔吐いている。
「何故殺すんだ……」
出て行っても殺されるだけだと分かるだけにユウトは苦虫を噛みつぶした思いだった。シャラはオークが調教されていて人間たちは奴隷になっていると言った。
奴隷ならば殺す理由は金にならないからとしか考えられない。しかし、彼らは拘束されているしオークの言いなりとなって処刑され続けている。
捕虜というのなら一人目が処刑された時点で騒ぎにならないのは不自然すぎないだろうか。考えが堂々巡りとなっている最中、ユウトたちの耳をつんざくような悲鳴があがった。
「姫、ひめぇええッ!」
その叫んだ女の視線の先に現れたのはオークに連れられたやせ細った少女。着物はぼろぼろに薄汚れているが、そのドレスは生地がとてもよいものだと伺える。
ユウトはそこで全てに合点がいってしまった。昔見た映画に囚われた姫に忠節を尽くした兵たちは自らの命を対価に敵国へ交渉に行くというシーンを思い出したのだ。
「集落が襲われたんじゃない……どこかの国が襲われたんだ……」
オークに負けるほどの何があったのかはわからないが、その少女はとても姫と呼べるような体躯ではなく、げっそりとやせ細った体は生きているのが不思議に映るほどで髪さえまともに生えていないように見えた。
「ひ、姫を放せ」
細い叫びを上げながら男は台座に組み敷かれて首を撥ねられる。まだ幼いユウトにはとても直視できないものだったが、細った姫と呼ばれた少女はその光景をただじっと色のない瞳で見つめていた。
「や、やめろ! 姫にこんなものを見せるな。俺たちが何をしたというんだ!」
痩せた男がオークに顎を砕かれて声も発せなくなった後、首を撥ねられる。オークは低い声を上げながら列をなす男と女たちに声を放った。
「ギュウエン、ギデル」
「俺たちは呼んでいない! 本当だ、俺たちはなにも――」
抵抗を示した男は鎖に繋がれたまま斧で両断された。肩から股下まで割けた男の鮮血がオークの体に飛び散る。そうしてその体をそのまま巨大な手で掴み鶏肉でも食べるかのごとく頬張りはじめる。
「ふふっ、ふふふ」
姫と呼ばれた少女だけがその様子をあどけない子供のように笑って見ていた。
「私たちが来たから、オークがみんなを殺し始めているの?」
後ろで嘔吐いていた少女は険しい表情でユウトの前に出て行く。ユウトはそれを目で追うもすぐに後ろに続いた。
「だめだ、戻ろう! シャラ姉さんたちを待てば、すぐに……!」
「ダメ、私たちのせいであの人たちが死ぬことになったら救ったことにならない」
「救う? 僕たちだけであんな怪物の数を相手に戦えるわけないだろ! 戻るんだ」
「いいよ、君は戻って。私は行くから」
少女は走り始める。ユウトは制止の言葉を投げかけるもまるで意味はなかった。
ユウトは腰の剣を抜くほかない。いつか投げ捨てたブロンズソードはあの時よりずっと重い。樹海を背に村落の中へと歩み出したユウトに決意は微塵もなかった。
「オグ、アレドビギガ!」
すぐにオークたちに気づかれた二人はよってきた一匹のオークを相手にすぐに苦戦する。
体格が三倍近くも違う相手にはガードも攻撃もまるで通用しないようだった。
その場だけにまるで暴風が吹き荒れているような攻撃が襲い来る。ユウトたちの体ほどある大きさの鉄棒が冗談のような速度で振るわれるのだ。
「早く逃げよう! こんなの、ぜったい死ぬ!」
オークもそれはわかっているのか、この一匹以外に襲ってくる気配はない。完全に舐められていた。それはユウトたちにとって屈辱ではあるが幸運でもあった。
「ぜったい戦う! あの人たちを助ければ、私だってみんなに認めて貰えるから」
「死んだら、意味ないよ!」
暴風が一度吹き荒れる度にユウトたちは何歩も後ろへ後退しなくてはならず、近づくどころか遠ざかっていく。
「いみ? 意味ならあるよ! あの人たちが死ぬのを少しでも遅らせることが出来れば、意味はあるの!」
シャラたちをただ待つのではなく、戦って時間を稼いで待つ。そう考えれば少女はただ闇雲に命を投げ出しているわけではなかった。
「わかった、シャラ姉さんたちが来るまで戦おう。きっとすぐに駆けつけてくれるはずだ」
ユウトはそう叫んでいた。本当は今頃撤退を始めているかもしれない。けれど、少女を見捨てていくことも勝つ気で戦うことも選べなかったユウトはただ一つ時間を稼ぐという行為を選択した。女の子が戦うと言っているのにユウトはそれを見捨てられるほど非情にはなれなかった。
「ぐっ……」
巨人の鉄塊が振られるごとに歯を食いしばる。もともと世界の違いからその素質を異なるものとするユウトはその実力を開花し始めていた。命の瀬戸際で戦うユウトは驚くような身のこなしを急激に体得していく。そんな若干の拮抗状態が仲間のオークたちの目に留まった。
「オグ、アメアラデ……」
少女の方はユウトの腕が上がっていくのを間近に感じるほど負担はほどんどなくなってきていた。しかし、そんな少女の目にオークが杖を構える姿が映る。
それに気が付いたとき少女はユウトを突き飛ばす。それから遅れてユウトは磁石を全身に纏って対極の磁力に突っ込んだかのように吹き飛んだ。
位置が災いした少女は何もない方へ、ユウトは茂みの方へと吹き飛んでいく。
何が起こったのかわからないまま、全身から骨が消えたように力が抜けていき二人は意識を失う。
「………………」
悲痛な叫び声も叫声に似た胴間声もユウトは意識の表層で捉えることが適わなかった。
どれくらいの時間意識を失っていたのか、ユウトは唐突に肺の空気を炎に変えたような痛みが意識に走り、咳き込みながらその目に景色を取り戻す。
必死に目蓋を開けると瞳に飛び込んで来た姿はやせ細った少女のものだった。月明かりに照らされた骨の形がわかる白い体躯。彼女は何かの魔法を行使していたようで、手からうっすらと光が点っている。それが自分を助ける力なのだと思い、ユウトは少女に口を開いた。
「あ、りがと…う…」
やっとの思いで告げるユウトだったが、少女の焦点はユウトを捉えていなかった。そのまま後ろ手に倒れる少女はもはや屍と思われるほどに命を感じさせない。
「……だいじょ、うぶ?」
眼窩が窪み、唇は乾ききって棒きれのような体躯。かろうじて生きているこの少女はどうやってオークたちの拘束を逃れたのかは定かではない。ユウトが戦っていた時間よりは日がとうに沈み、村落のほうからは何かが焼け焦げる悪臭が立ち籠めていた。
意識のない少女を背中に背負い、恐る恐るその臭いのするほうへ近づいて行くと火は中央のほうで燃えていた。
「――シャラ姉さん?」
忘れることのない大きな剣を片手に佇む姿は炎の光に揺られてかき消えそうにさえ見える。天に昇る火の根元には何故か人のかたちをして燃えているものがあった。
「……私が愚かだった」
震えた声はユウトの耳朶を通り過ぎていった。「私はお前を連れ出すべきではなかった」「これからは使い魔として生きていけ」「私以外は誰も生きていない」。
断片的に言葉がユウトに認識される。ユウトはシャラの言葉が信じられなかった。さらにユウトを狼狽させる赤い塊が甲冑に包まれている。
自分を家族に思えと言ってくれた言葉を信じていたユウトはシャラの言葉が受け入れられなかった。そして、この結末もユウトは受け入れられそうにもない。
「みんな死んだ。私はこれから国の罪に問われる。お前もただでは済まなくなるだろう……だからその前に」
シャラは異臭の立ちこめる炎を背にゆらゆらとこちらへ歩み寄ってきた。
「泣いているの?」
「私を恨めユウト。私が全て独断で行った任務にこれだけの犠牲、おそらくはお前に罪が着せられる。そうなれば、お前は殺されてしまう」
ユウトがその顔を見たとき、シャラの姿はユウトの背中にあった。出来事は一瞬。わけもわからずユウトは首筋に深い一撃を受け、その場に伏せる。ユウトの耳朶に触れる燃えさかるその音は幾人もの死した者達が燃え続ける魂の叫びだった。
五、希望
ユウトが目覚めた時に見た天井、それはあのシャラの山小屋でも学舎でもなく、かつての訓練所でもなかった。
石壁の部屋、わずかに日の入り込む空間。冷たい壁に囲まれた薄暗いいところにユウトは寝ていた。
ただ一つ感じる清涼感は森の川辺に似た涼しげな匂い。
「?」
水色の髪がうっすらと頭に生えている少年のような子はユウトを見てにこりと笑う。
細い手脚に見覚えがあったユウトは必死に記憶を探った。
「あの時の」
その時ユウトを襲ったのは頭に響く激痛だった。何か大事なことを思い出そうとすると酷く頭痛がする。ユウトはその少年のような子が姫と呼ばれた少女であることを思い出すだけで精一杯だった。
「――っ」
動けるのが不思議なほど痩せた体で少女は部屋を出て行く。しばらくして戻ってくると全身をマントに包んだ怪しげな老人がユウトを見下ろした。
「ふむ、水の巫女が回復を早めたようだ。何か覚えていることはあるかね」
「…………思い出せない」
「君だけが頼りだったのだが、まあ良い。この小娘があればぐに快復に近づくだろう」
それから幾日か経つとユウトは立って動き回れるほどに快復した。逆に少女は日に日にやつれてしまった。少女の献身的な介護がユウトを救ったが同時に少女は起き上がれなくなる。
そうなってから数日たったある日、ユウトがベッドから起き上がると老人は入り口で不思議な声を発した。
「傷は治癒したようじゃな。ならば、これを握ってみなさい」
老人が部屋に持って来たのは一本の剣。ユウトはそれを手に重さはあまり感じないと思いながら一振りする。
「良いか、君にはこれからあらゆる訓練を課す。生き地獄だ、見事耐え抜いてゲフォンの予言を体現する使い魔となれ」
「それはなに?」
ユウトが言葉を発したのはその理解不能な言葉ではなく、後ろ手に引かれた荷台だった。
「君を介護して死にかけた小娘だよ。今日からお主の手駒とでも思えば良い。君が死ねば、この娘も死ぬし、君が戦って勝たねば食事すら与えられぬ存在になってしまったのだ」
ユウトが感じたのは戦慄だった。老人は遊びや酔狂で言っているのではないとすぐに理解できたからだ。その荷台に寝ている少女は自力で起き上がれないのだろう。瞳は乾きはてて瘧に魘されるように身を抱いていた。
それはユウトが目覚めてからは一切食事を取っていないことを意味しているに違いなかった。
「目つきが変わったか? 残酷だろう。君を献身的に世話していたのはこの小娘だが、これは何も無償で君を世話していたわけではない。君を世話することで食事を得ていたのだ」
だから今度は君の番だと老人はゆっくりと言った。
「ここから出せ」
「良いのか? ここは森の中に位置する要塞のような場所だ。お前の実力では到底勝てない魔物も多くいるし、その小娘は私が飼っている魔物の餌として置いていってもらうことになるぞ?」
戦いを選択するのなら後ろの通路を行けと老人は部屋から去っていく。
荷台に寝た少女は動かない。肩を揺すってみても全く反応がない。死んでいるのかと思えば心臓は動いていた。わずかに強く、まだ生き得る心を持つように。
「こんなことになるなんて……」
思い出せるのは訓練所というところに送り込まれて、誰かと共にそこを抜け出したところまでだった。ユウトはその誰かを思い出そうとすると酷く哀しい気持ちになるのだった。
「…………」
荷台に眠る少女を見る。荒く細い息づかいは剣で解決できるものではなさそうだった。
剣を片手に、ユウトは後ろの通路を進み始めるほかはない。
『ワアァァァ……』
暗い通路から出た途端、目を細めるほどの光の中に歓声が沸き起こる。何事かとユウトはあたりを伺うと円のかたちをした塀に囲まれた上に人の影が無数に見えた。
「なんだ……」
ユウトの悪い想像はそのまま現実となっていく。目の前に現れたもう一つの影は異形の魔物。砂の足場から照り返す灼熱はユウトの戦意を削いでいく。
「ワッ、ギュワッ」
人の言葉などおおよそ介せそうにない犬のような頭部。ユウトの二倍はある胴体は熊のように巨大で体毛に覆われており、足は鶏のように鋭い爪がついていた。
「はぁ……はぁ……」
訓練所での恐怖が蘇る。出遭ったその瞬間から命を握られているという錯覚。
檻を介さない魔獣との対峙はいつでも水面化での命のやりとりが拮抗する。巨獣がユウトを見つけるのは時間の問題だった。
「……グググ」
敵はユウトを獲物だと認識したようだった。しかし、ユウトの構える剣はあまりに弱小で頼りない。その状況を客席の人間たちは歓声をもって歓迎する。
「ふざけるな……僕はエサじゃない」
剣を強く握るが、銀色の鉄は何も言わない。むしろ、冷ややかな感触を返すだけだった。
その時、前にいた獣が砂を蹴った。ユウトの頭を一呑みにできそうな口を開いて襲い来る。
「っ――」
ユウトは完全に腰が引けてしまい、ただ剣を前に構えていると敵は頭の平を使ってユウトを吹き飛ばした。砂煙を上げてユウトが落下するとまたも客席から歓喜の声が上がる。
「くそ……」
一息に殺されないのはユウトが剣をまだ握っているからだった。それが切れるものだと認識している獣は賢さがあるようにユウトは思った。
ユウトは図らずも敵に警戒されていたのだ。
敵の二撃目の構えにユウトは呼応するように剣を構える。自分が死ぬ姿をイメージすると何もかも楽になるのと同時にまだ名前も何も知らない少女の死ぬ姿も見えた。脳裏に少女の笑顔が一瞬過ぎさり、それと重なる誰かの笑顔、打ち合う自分。
そのときの自分は確かに少しだけ強かったような気がした。
「…………」
意識を集中していくと大気が歪むようにユウトは感じられる。勝たねば死ぬという未来。そこに意識を集め、目の前の巨獣が走り出した瞬間にユウトも砂を蹴る。
刹那、巨獣は全てを理解した。捕食から闘争に変化した気配を察知することにおいて、野生の本能がそれを告げる。刹那にユウトは限界まで引き延ばされた体感時間に身を委ねて巨獣の筋肉の動きと視線、その全てから相手の動きを読み自身の行動を選択する。
二つの牙が交差する刹那は誰も予想の付かない音が生まれた。巨獣にはほんの一瞬、ユウトが加速したように映った。ユウトは巨獣がほんの一瞬止まったように見えていた。
その二つが意味するところは歓声の静まりから伺える。
「はぁっはぁっ――」
ユウトは勝利の余韻に浸る間もなく片膝を付く。腹の脇からの大量の出血はユウトの肉体が受けた獣の一撃。そして巨獣はその胸に剣を突き立てられたままゆらりとこちらへ向かってきていた。
「………はっ、はっ」
呼吸すら難しいユウトに獣は流血しながらも近づいてくる。
食われるとユウトが思った刹那。巨獣の瞳には闘争の色がなかった。
「グウ」
何をされるのかわからないままユウトは意識を失った。
その後、老人の話によるとユウトの腹は致命傷とも言うべき攻撃を受けており、本来ならば生きてはいられなかったと話した。ユウトが意識を失い床に伏せっていると寝たきりだったはずの少女が稀に起きあがってユウトの世話をするらしく、老人はそのおかげでユウトが助かったのは奇跡だと言った。
そうしてユウトは辛い訓練と少女を助ける日々が始まった。シーナの存在は過酷なユウトの日常においてこの世界に来てからの唯一初めての安らぎになる。少女は次第によく喋るようになり、お互いに助け合っていた二人は打ち解けていった。
「今日は指を怪我したの?」
「ああ、でも大丈夫。すぐに治るよ」
「早く治るようにおまじないしてあげる」
少女は自分をシーナだと思い出す以外に記憶を取り戻すことはなかった。月日が経つごとにシーナの髪は少しずつ伸びて少女らしくなる。逆にユウトはシーナに身だしなみを注意されることもあった。そうして一年が過ぎようとした頃、その話は唐突に訪れる。
ある日、黒服の老人は公文書をユウトに見せた。そこには「魔鉱山へ神の証明を試みる者を募る」と書いてあるという。報奨金は北の大国が出すというもので、その金額は参加するだけで300ゴールド。目的の聖剣の情報を手に入れた者については1000万ゴールドを支払うと確約が押してあった。
「聖剣?」
ユウトはその響きについてよく知っていた。よくゲームで使われる伝説とか秘伝とか言われるものだ。
「聖剣というと、魔剣(マジックブレード)よりもさらに能力が高い剣ですか?」
シーナは勉強に励んでいたのでユウトの当てつけの知識よりは確かだった。
「そうだ、かのラジエル国はこの剣を自分たちの物にしようと躍起になっているらしい。古の神族が錬成したと噂されているが、北の大国以外はその正体を正確には掴めていないようだ」
「これに行けっていうなら僕はイヤだよ」
ユウトはこの手の内容に不安を感じて嫌だった。最後にやりかけだったゲームは伝説とか秘宝という内容に飛びつけば必ず試練が待つのが常識だった。どうしてもその不安がユウトには拭えない。
「出るだけで300ゴールドだ」
「…………」
「今回は戦わなくていい、参加して300ゴールドだけ手に入れて帰ってこい。最近はコロシアムも敵の数が減ったから丁度資金が足りない」
「行きたくない」
ユウトは剣を引き抜いて拒否してみるが勝てないことはわかっていた。ユウトは自分が強くなると同時に相手の強さもだいたい分かるようになってきている。その本能がこの人間には逆らうなというが、ユウトもみすみす怪しい話に頷くことはしたくなかった。
「お前を鍛えてやったのは私だというのに、簡単に剣を向けるな。シーナ、君はどう思う?」
「ユウトが嫌なら行かなくていいと思う……」
「ほう、ならば君はまた飢えることになってしまうぞ」
シーナは唇を震わせて明らかに怯えた。シーナは記憶はないとはいっても自分が飢え死に仕掛けていたことは覚えている。ユウトはそんな風に他人を操ろうとしている老人よりもシーナの方が気に掛かった。
「大丈夫だよ、僕がちゃんと戦えばお金は入るから」
「それが入らないのだ。私は言ったはずだぞ最近は戦う敵が少ないと。お前の実力ではもうコロシアムの中ではオッズが成立しなくなってきている」
「そんな……じゃあどうすれば……」
まだ幼いユウトには勝つことがここでの生きることに等しい。老人は巧みにユウトを誘導していった。
「参加すればいい、私は参加するだけでいいと言ったのだ。危険などない、今のお前の強さなら大抵の敵からは逃げられる。もちろん行くのなら武器も防具もきちんと整えてやる、とびきり上等なやつだ。まさにオークに金棒だ」
最後の一言は明らかにシーナを怯えさせた。ユウトの背中にしがみつくようにして震え始めるとユウトはもうこれ以上老人と話すことができなかった。
「明日の明朝、ここに馬車を呼ぶ。ゆっくり体を休めておきなさい」
捉え所のない老人はそのまま部屋を出て行った。
「……ユウトは行かなくてもいいと思う」
静かに呟くように言ったシーナの言葉にユウトは微笑を向ける。
「大丈夫、すぐ帰ってくるよ」
ユウトは左手でシーナの肩を触ると、その手にルーンが見えた。何度も見てきたそのルーンが今は恨めしい。魔法使いがいれば心強いとユウトは思わずにいられなかった。
その夜、二人は同じ布団の中でこれから始まる生死の賭けを前に震えて朝を迎える。
老人の話は常に自分たちの命を左右することを知っていたからだった。一度は慣れたはずの死への恐怖もそれはユウトが強くなったということで薄れたに過ぎない。強大な見えない敵を前にしては想像は悪くなる一方で、ユウトの恐怖はそのままシーナの恐怖であった――。
六、旅立
朝霧の中に黒い四足の動物が繋がれていた。地面に生えるわずかな藻のような草はこの動物の胃を満たすには到底たり得ていない。それでもついばむのはそれ以外にすることがないからだった。
「じゃあ、行ってくるから……」
荷台に乗り込んだユウトを合図に御者台の気配が動く。それを察知してその動物は草をついばむのをやめた。
「ごめんなさいユウト、ごめんなさい」
誰かの哀しげな声がその動物の耳には入っても意味は理解できない。その動物はようやく走れると脚を動かすだけだった。
「お願いします」
主の気配が変わる。手綱が振るわれて四足の脚がよどみなく動き出した。
「…………」
蹄が地面を蹴る度に軽快な音がして、それに繋がれた荷台は木の車輪をごろごろと回し続ける。
「一度ジャポルへ寄る。そこから天空梁船(ドラシフ)へ乗り継ぎ、目的地まで行くことになる」
「詳しいんですね」
「酔狂な国が大規模に動いているからな。お前みたいなやつでもある程度の実力の証明があるやつは優遇される。他にも無条件に集められるだけ集めたといったお粗末なもんだがな」
それきり会話は途切れ、日が昇ってくると幌が熱を持ち始めユウトは喉の渇きに苛まれ始めた。
「出るのが少し遅かったな。ダジープが熱でぶっ倒れちまう」
「ダジープってその馬みたいな動物ですか」
ユウトが初めて見るそれは馬と形容するには少々厳つい生き物だった。
「そうだ、長距離用はダジープしかない。こいつらは体が硬い分熱を持ちやすい。日が照る日はあまり動かない方がいいんだ」
中継できる場所があるからと男は進路を変える。ユウトもそれに異論はなかった。
外の景色はひたすらに草木のない荒野でユウトは稀に過ぎて行く村を眺めながら思いに耽っていた。何もかもが地球とは違っている。第一空を巨大な生物が飛んでいればそれだけでニュースになるはずだった。何度か目にしてはいたものの、この世界の空には生き物が飛び交いすぎていた。
こんな世界が地球だとしたら人間は飛行機の使用を諦めなければならないだろうとユウトは思った。
「見えた。ダジープを降りるぞ」
「歩きですか」
御者台から降りた男に続くとそこは灼熱の大地だった。ダジープという岩のような動物の先にはテント張りの集落が見える。
「お前も鍛えているだろうからそこまで心配はしていないが、この暑さでは辛いだろう。ひとまずはあそこに見える村で一夜を明かす。明日にジャポルへ向かうぞ」
「村なら他の場所でも見えていましたが、そこじゃだめなんですか」
ユウトの言葉に男は怖い表情を浮かべた。
「お前はガキだから教えてやるが、死にたくなければ他の村に行こうなんて考えるなよ。ここらは村がいくつもあるが、やつらの本業は盗賊や荒くれ者。女や子供を売り物にしている村さえある。そんな村には不用意に近づかねえことだ」
何のためにとユウトは思ったが、それを言うのはやめた。この世界で生きていくのは誰もが命がけなのかもしれないとユウトは思い至ったからだ。
「おい、止まれ。そこの親子」
「おいおい、俺たちのことを言っているのか?」
村の入り口で構えていた男がユウトたちに向かって睨みを利かす。
「お前たち以外に人影はないな。俺は後ろのダジープに向かって話すような気違いでもない」
「ジャポルに用があってここに一晩泊めてもらいに来た」
「証明書はあるか」
「これだな」
その紙切れを見た男は如実に顔色を変えた。それは曇りというより嫌気が強くでている。
「またか……いくらでも好きに飲み食いしていいぞ。他の客とのトラブルだけ避けろ、いいな?」
そういうとダジープの手綱を村の男が引いて小屋へ持っていき、残されたのは男とユウトだけになった。
「好きに飲み食いしていいらしいから、明日の朝一番でここに集合だ。いいか、あの男も言ったが絡んだり絡まれたりは絶対するな。いいな」
それだけいうと男も去っていく。まだ日は高い、ユウトは暑さに辟易して寝床を見に行くことにした。
むわっとした空気は入り口をくぐると同時に襲いかかってきた。汗ばんだ男の臭気は白いもやとなって薄暗い空間を満たしている。最悪の場所だった。
「なんだあ、子供かあ?」
「はっはっは、こりゃいい。ガキを送って300ゴールドもらおうってか、親はよほど金が好きらしい。それとも義理の親にそそのかされたか?」
「ふははは、どっちにしろ身売りじゃねえか。子供は帰ってママのお乳でももらってこい」
一同に大きな笑いが起こる。皆、甲冑を外し酒を呷ってつまみを口にしている。ユウトは静かに外へと出た。
「日影を探すかな」
じっとしていると干上がってしまいそうだったので日影を求めてテントをうろついた。
しかしどこも男たちの宴のありさまでユウトの気の休まるところはどこにもない。
とうとう最後に辿り着いたのはダジープのいる小屋だった。
「ボウズ、ここはダジープの小屋だ。人間が入っていいところじゃねえ」
「どうしてですか?」
「ダジープは神聖な生き物だ、俺たちの足、生命線。その寝床へ入るなんてしちゃならねえ」
「眠りの邪魔をすることはないよ、ただ日影にいたいんだ。じっとしてるから」
「そうか、まあ、どこのテントもお前みたいな奴がいても楽しいもんじゃねえよな。内緒にできるか?」
「うん、大丈夫」
「よし、水は持って入れよ。明日の朝まで出してやることはできないからそれで我慢できるなら特別に許可してやる。泣いても出せねえからな」
「わかりました」
ユウトは水を一杯汲んで小屋の中へ通った。そこは既に涼しい風が流れていて、ダジープたちは皆柵の中で静かにしている。
「邪魔するよ」
ユウトは隅に腰掛けると少しの水を口の中で転がして飲んだ。
「ふう……」
ダジープを観察していると、彼らは時折体の硬い皮膚を震い鳴らして何かを伝え合っているようだった。よく見ればその合図は休みの交代を促しているようで、ユウトはなんとなくダジープが賢い生き物だということを感じた。
それからは無駄に動いて体力を消耗しないようユウトは目を閉じて眠りに着く。これだけ賢い生き物のそばで眠るのならユウトも安心できた。
「……ッ。――――ィ」
誰かが叫ぶような音でユウトはふと目を覚ました。月の光で外は藍く見えたが座って休んでいたせいで体をよくほぐしながら外へと向かう。
「――っ……」
何かが起きている騒がしさ。ユウトは出口まできてそれを悟った。腰の剣を引き抜くと身を屈めるようにして外の様子をゆっくりと伺う。
人影はない、月の光が元の世界よりも特に明るく見えるくらいで来た時と変わらない状態に見えた。しかし、その砂の様子は違う。何かを引き摺ったような後が縦横無尽に交差していて、黒い染みの跡まで残っている。わずかに漂ってくる血の臭いにユウトは神経を研ぎ澄ました時だった。
「これで全部か?」
「はい、どうか命だけは」
「エサにもならん肉の山を築いてしまってすまないな。これは手間賃だ」
女がいた。後ろ髪を一つに束ねた線の細い女。徐にポケットから麻袋を取り出すとそれを男の膝元に投げ置いた。
「少ないが取っておけ、こいつらがもらうはずのものだったが、死んでしまえばもういらないだろうからな」
「は、はいっ」
その金を手にして、男は目の色を変えた。
「そういえば、まだいました。ダジープの小屋に子供が1人、連れてこられたのか誰かの子供なのかはわかりませんが」
「ふふ、お前は金に正直なのだな」
「はい、そりゃこの辺で金を手に出来るのは旅人が泊まったときくらいです」
「泊まらない間は何を?」
「野草や水を売って生計を立てております。年中動き回らなきゃならないのが大変なんですが」
男は笑った。ユウトは自分の存在がばれたことで余裕はなくなっていた。恐らくは他のテントにいた人たちはあの女に殺されたのだとユウトは直感する。
「ふむ、嘘だろう」
「えっ」
「女や子供はこの連中の中に1人もいなかった。そしてこの武器の数。大方、盗賊か」
「ち、違う! 俺たちは真っ当な商人だ」
「どちらでも構わんよ。しかし、子供がいたとしてさっきから殺意を向けているのがその子供になるがな」
くるりと反転した女はどこかで見たことのある姿をしていた。月夜に晒されたその整った目鼻はユウトの知る誰かのようだった。
「出てこい」
ユウトは出て行こうと思った。隠れる場所はいくらでもあるのに逃げられる気がしないのだ。外に出て行こうものならあたり一面荒野ではどうやっても大人の女のほうが体力で勝る。
「今行く……」
ユウトが徐に外へと出ると女の綺麗な瞳がすっと細くなった。
「お前、名は?」
「イクウラ」
ユウトは自分をユウトと名乗ることはしなかった。黒服の男がそうしろと言いつけていた。
「お前は――」
言い掛けて女が動いた。明確な攻撃の合図をユウトは読み取って片手に握っていた剣を女の剣に合わせる。不思議なことにその剣筋は驚くほどユウトにそっくりだった。
「お前は大丈夫なようだな」
言われてから振り返る。ユウトの脳裏に無数の記憶の波が押し寄せて背後に立つ女は紛れもなくシャラだと告げてくる。
「シャラ……姉さん?」
「ああ」
シャラはあの場に来ていた任務参加者のほとんどを殺していた。酒を飲んでユウトを馬鹿にしていた男たちはその後から来たシャラを女と馬鹿にし争いになった。結局誰1人として一撃を見舞うことはできなかったらしい。
ユウトを連れてきた男などは無事だったようだが、それでもその惨状を目の当たりにしたショックは大きく今ジャポルへ向かっているのはシャラと金を受け取った無言の男だけだった。
「私は北の大国レレヌで今回の選定役に抜擢された。つまり、金の亡者を始末する仕事だ」
「なんで……別に殺さなくてもいいじゃないか。僕のときだって――」
ユウトは言い掛けてやめる。こんな狭い空間でシャラと向き合っているだけなのに今はユウトの震えが収まらなかった。
「ユウト、すまなかった。あの時お前を助けるにはああするより他なかった。私は国のために剣士をやってきたが、あのオークたちは国の差し金だったのだ。それに気づいたとき私は自国の剣客たちに命を狙われれていた。全員が死ぬよう綿密に待ち伏せされていたんだ。私が生き残ったヤツを探してあの場に辿り着いたとき消耗したお前を見て私は逃げることは無理だと悟るしかなかった。お前を死んだように見せかけるために私は……」
ユウトは納得しようとしてもうまくいかない。シャラが嘘を言っているかもしれないと思う。しかし、あの凛としたシャラはそこにはいなく、眉を潜めてただ哀しい顔を向けるシャラにユウトは頷くしかなかった。
「レミルとエルナは?」
「お前をあの老人に任せてからは探し回ったよ。レミルは川沿いで見つけたが、エルナは……」
「見つかってないの?」
「いや……森の中で見つけた。だが、エルナは精神的に酷くショックを受けた状態だった。傭兵たちが殺されるのを止められなかったらしい。違うな、あれは自分の限界を悟ってしまったのだ。剣で人は救えないということに気づいてしまったのかもしれない」
シャラは麻袋から取り出した一丁の剣を取り出した。エルナがユウトに見せた家宝の剣と言ったもの。ユウトはそれを見て驚愕した。
「どうしてそれを持ってるんですか」
「エルナが剣を捨て、国を出たとわかったのはこの剣が私のところに届いてからだ」
シャラは剣を袋に戻すとこの先行く大国のクエストでエルナがいるかもしれないと言う。
「エルナは国を立つ前にレミルにこのクエストのことを話したらしい。剣を置いていった理由はおそらく一族との決別だけでなく、その聖剣を自分のものにするためだろうな」
どうしてそんなこととは言えなかった。エルナは高貴で決して自分に甘えがない女の子。単純に力を求めても不思議ではないとユウトは思う。
「自分の剣にして何をするつもりなんだろう」
「さあな、それよりお前はうまくやっていけているのか」
「うん、大丈夫……」
「そうか」
やはりユウトはシャラに心を許せそうにはなかった。自分の傷がどのような理由でつけられたのであれ、半死半生の目に遭ったのだ。それきり二人の会話が途絶えるのは必然的だった。
「着きましたよ、お二人さん」
ユウトは気怠い疲れを感じながらその陽射しの下に立つ。ざらざらと砂の踏みしめる音が無数に鳴り響き、この世界に来てから今まで見たこともない人の数がそこにあった。
「ここからクエストに行くまでは同じだろう。着いてくるか?」
「うん」
ユウトはこの雑踏の中で迷わずたどり着ける自信がなかった。案内人も消えたのだから頼れるのは他に誰もいない。
水の中に浮かぶように街を囲む水。そこからまるで生き物のように宙へ飛び出て踊る無数の柱は橋に天幕を張っていた。
「うわ、涼しいな」
「この世界で最も栄えている街の一つだからな。魔法を使った街のシステムは随一だ」
ふと目に留まる光。板のように薄く綺麗なそれはユウトの前まで来て止まった。ユウトはそれをはね除けるように手を触れると鈴の音のような軽快な音が鳴り響いた。
「おい、何を買ったんだ?」
「え、何もしてないよ」
その鈴の音は鳴り止まず、ユウトは気恥ずかしさも沸いてきた頃不意に空の上から何か影が降りて来た。
『お買い上げ、ありがとうございます』
手元に降りて来た1枚の紙とその綺麗な箱。どこからともなく聞こえる女性の声にユウトは辺りを見回しながら紙を見た。
「6万ゴールドっ?」
ユウトは請求書というものがどういうものか知らなかったが、その金額の横には自分の詩紋と思われるものがあり、確かに支払いを催促するものと理解できる。
「なにやってるんだ、それは触れるだけで商品を買うことになる売買板だぞ。返品するならその請求書に書いてある場所に行って返してこい。……どうやら案内することは出来なくなりそうだな」
ユウトは後ろからきた大男に背中を押されて危うくその箱を落としそうになる。
「とりあえず、橋の上は人通りが多いから止まるな」
「う、わかった……」
何が入っているのだろうと思うユウトだったが、それも開けてしまえば6万ゴールドを支払うことになるに違いなかった。今回のクエストで手に入る300ゴールドでは遙かに足りない。ユウトはシャラに集合場所の大まかな位置だけ聞いてから両手に抱えた謎の箱を返品すべく街を歩き始めた。
ユウトは人の良さそうな男に請求書の場所を聞くと、その男は街道の先を指さした。
「その場所なら誰でも知ってるさ。まあ、錬金術師なんてもんが入ってきたらこんなでかい街でも噂になるさな。あそこに古くさい通りがあるだろう。そこを真っ直ぐにいけば左手に凄い臭いを放つ店があるはずだ。そこさ」
ユウトはお礼を言ってその通りを目指して歩いて行く。不意に気配を感じ取ったユウトは身を躱して背後から来たそれを蹴り飛ばす。
「いってぇ!」
元の世界にいたころは到底できない技だったが、ユウトはこの世界に来て訓練を重ねてから不思議と周りの状況が見えるようになってきていた。
襲ってきたその影を見ると自分とそう変わらない年端の男の子だった。
「てめえ、何しやがる」
「僕を突き飛ばそうとしただろう」
「そんな証拠がどこにあるってんだ、気をつけろ」
少年はそのまま路地へ逃げるように去っていった。ユウトは何か嫌なものを感じて廃れた街道の先へ行くのを躊躇う。それでも返さなければならないとユウトは日当たりの悪い道を進んでいった。
「うっ、なんだこの臭い」
進むにつれて漂ってくる苦いような甘い臭い。元の世界でいえば歯磨き粉と正露丸に近いようなものだが、それが道に漂っている。道ばたに落ちたゴミはどれも泥まみれでここが誰も清掃しない場所というのは容易に理解出来た。
ユウトが目を見張ってようやく見つけた臭いの元となる店には『コンポルト』と看板が書かれていた。扉は鋼鉄製なのに何故か腐敗が進んでもげそうになっている。ユウトは考えるのをやめて扉を引いた。
『グギャアグギャア』
何かと思うより先に頭にがつんと衝撃が突く臭いに膝を折ったユウト。耳に響く音がなければ気絶していたかもしれないと思うほど、その臭いは苛烈だった。
「なんだ、客が来たのかい」
「……あの」
ユウトはその店の中が白い霧のようなもので覆われているのを目にして軽く眩暈がした。
老人の声は聞こえるのにどこにいるかがわからない。そもそも、臭いが強すぎて満足に声を出せないでいる。
「お前さん、悪いことは言わんから出て行きなさい。今は取り込み中だよ」
そうは言われてもユウトはこんな場所へもう一度入る勇気は持てないと思った。
意を決して立ち上がり、奥へと進むと見知った影がすっと霧の中から現れる。
「ユルト、話したいことがある」
レミルだった。どういうわけか、目の前にレミルの姿があった。
「おい、入ってくるな。取り込み中だと言っただろう」
老人の声がまた何処からか聞こえてくる。レミルはユウトの前に立ったままそれきり口を開かない。
「ユウト、無事でいて……」
「シーナ?」
何故か今度はシーナが霧の中から現れた。ここには絶対にいないはずなのにレミルの後ろのほうでシーナが膝を折って祈っていた。
「ああ、なんということだ……」
老人は震えるような声で霧の中から呻き声をあげた。
「ユウト」
何故か今度は知らない女の子が現れた。白い髪、ピンクの瞳。その子は何も言わずにただじっとユウトを見つめて静かに歩み寄ってくる。少女は時に哀しみの表情を浮かべたかと思うと目蓋をすっと閉じてユウトの唇に顔を寄せていった。
「それに触れてはならん!」
空気が弾ける音がしてユウトは全身に鈍い痺れを感じた。夢から覚めたように顔を上げるとあたりには誰もおらず、ただユウトより少し小さい老人が険しい目つきで見ていた。
「何故入って来たのじゃ。お前さんはあれか、今流行の馬鹿かの? 死にたいのかの?」
「そんなこと言われても……入り口は普通に開いてました」
「そうじゃなかろう。お前さん、ここに来る前に少年に突き飛ばされただろう」
「それなら躱したよ」
「はあ、あのデクめしくじったのか! お前さん、この店の前は酷いニオイがしておっただろう。息を止めてきたのか?」
「いや、普通に来たよ」
「なんと、いや、そんな馬鹿な、信じられん」
老人は機敏な動きで店の奥へ歩いて行く。ユウトはそれについていくように自然に動いた。
「あの、用があって来たんです」
ユウトはそれしか言えず、老人は瓶やら本が散らばった部屋の机に向かい合っていた。
「今それはいい。それよりお前さん、本当になんともないのかね」
「何がですか?」
「あの濃度のマナに当てられて無事なのかと聞いとるんじゃ」
「え、はいっ、元気です!」
「おかしい、おかしいぞい、儂の研究がそんな△×※〒」
老人はぶつぶつと何か言いながら乱暴に容器へ何かを注ぎ、杖を握って黒い液体に呪文を唱え始めた。
「ラディオカルメエクスーネ(業の混沌)」
液が沸騰し、再び鋭い臭いが鼻を突く。
「ワシの最高傑作、ラルーネの幻惑は人の心を破壊する神秘の錬金魔法。かつてこの世界にマナが充ち満ちていた頃にしか存在し得なかった魔法を再現したのじゃ。ま、今では惚れ薬が限界なんじゃが――」
「あの、それよりこの商品を返品したいんです」
「なに? うちの商品を返品したい? 品質は確かなはずじゃ、ン? お前さんが買えるようなもんがうちにあったかのう」
「僕が光の看板を触ったら6万ゴールドもするものを突きつけられたんです」
「なんじゃって? 6万ゴールドもする? 馬鹿を言うんじゃない。そいつはたった6万ゴールドでお試しできる格安のセットじゃよ。中をあけてみんさい」
「いや、開けたらお金を払わないといけないんでしょ?」
白い霧に向かって話すユウトにすっとしわくちゃの手だけが伸びてくる。
「よこしなさい」
箱を渡そうとしたユウトははね除けられて箱の上にあった請求書が取られた。
「ここ半年から誰も触れなかった商品じゃ、特別に六万ゴールドは請求しないでやる。そのかわりワシの研究に少し付き合うんじゃ」
「え、いやだよ、僕はこれから行くところがあるんだから」
「ほう、よもやその腰の剣から察するに北の大国が出したクエストとやらではあるまいな」
「そうだよ」
「ほおっほ、はーははあ、そいつは傑作じゃわい。お前さんのような子供が行って何になる。蒼の剣じゃぞ? 三色神器の一つをお前さんが狙う? ほっほおっほおっぐっ、儂を笑い殺す気か!」
ユウトはただ出るだけとは言えなかった。余計に笑われるような気がしたからだ。
「確か出るだけで300ゴールドじゃったな。どうだ、ワシの研究に付き合えば一万ゴールドやろう。そんな命を捨てる真似はやめてワシの研究を手伝っておくれ」
「……だめなんだ」
「何故じゃ」
「僕が行かないと死んじゃう人がいるから……」
「む、女じゃな」
「え?」
老人は再び滑稽だと笑うと白い霧を払って姿をはっきりと現した。
「ワシには及ばんが、その歳で女を侍らすとは末恐ろしい小童じゃの。一つ聞こう、さっきの霧の中でお前さんは何を見た?」
「それは、知り合いだと思う」
「女じゃろ? ふむ、方向性が変化して作用したか……マナだけの問題じゃなさそうじゃわい」
「何か言っていったけど、最後に出て来た一人は誰だかわからなかったよ」
「なに? 知らぬ女とな」
老人は呻りを上げてユウトの体を触り始めた。
「興味深い……。む、これは……お前さん、体内にマナを持っとらんのか?」
「マナ? なんのこと?」
「おお、なんということじゃ! マナを持たずに産まれて生きていられるじゃと? とすれば、お前さんは使い魔か魔物じゃな?」
「……そうやって呼ぶ人はいたけど僕は人間だよ」
「わかっとる、わかっておるとも、4の使い魔よ。この世界でその歴史は浅い。第四アラス王子が人間で全く得意性能を持たない使い魔を召喚したのが最初の記録となっておる。以後300年間、同じ4の使い魔でもその得意属性を持った存在は確認されておらんかった。しかし、王子はその使い魔と共に300年前の大乱の世を治めたんじゃ。その使い魔の強さはどんな魔獣も魔法使いにも敵わんかったらしい」
「でも、僕は普通の人間だよ」
老人はユウトの左手にルーンがあるのを見て眉を潜ませた。
「見た目はそうじゃな。ふむ、お前さんは主人を持っておらんのか? ルーンが根こそぎ枯れておる」
「僕は役に立たないって言われてすぐに変なところに閉じ込められたよ。……それは今も同じだけど」
「ほう、とすると形式上のコントラクトは行ったが、主人を持っておらんわけだな」
「……」
「よし、待っておれ。今、良いものをくれてやろう。ワシの研究がようやく歴史に名を残す時が来たようじゃ」
老人は奥へ入って戻ってくるとユウトを手招きする。
「はよこい、お前さんの役にきっと立つものじゃ」
「でも僕もうすぐいかないと」
「なに、場所は遙か北の向こうじゃぞ。飛空船なんてやめておけ、あれは空の事故が多い。ドラゴンに撃ち落とされるのがオチじゃろ」
半ば強引に手を引かれるユウトだった。それを振り切ることもできたが、ユウトはこの老人が何か元の世界に帰る方法を知っているかも知れないとユウトは考え始めていた。
老人は床下にある扉を上へ開いて地下へと入っていく。ユウトは腰の剣を握りながらゆっくりと老人の後ろを行く。
「そう警戒しなくても大丈夫じゃ。お前さんはこの世界を動かす人間だとわかったのじゃからこんなところで閉じ込めはせん」
老人があまりに淡泊なのでユウトも必要以上の警戒は解いた。暗い通路に灯る魔法の光は花のように咲いては消える大きなホタルのようだ。
「ここじゃよ」
老人が促した部屋の中にはユウトが見たこともない光に満ちていた。
「すぐ慣れるわい。よく目を懲らすんじゃ」
「でも、目が光で開けてられないよ」
光の量は変わらず、一面が強い白のようだった。しかしユウトはその中に影を見る。
まるで天使のように浮かび上がってくる姿は幼い少女のものだった。それは光の中で壁に背を預け、死んだように眠っている。
「初代エレキアの王女。神の血を飲み、その姿は年を経るごとに若返っていっているのじゃ」
「エレキア?」
「ふむ、一番初めの魔法使いと言ったほうがわかりやすいかの? ワシはこう見えてもこの世界じゃ結構上位の魔法使いじゃからの。何でも知っておる」
老人は杖を構えて魔法をその少女に放った。するとその魔法は光に打ち消されるようになくなる。
「見たか? この者にかつて触れることが出来た人間はいない。ただ一人を除いてな」
「それが、4の使い魔?」
「そうじゃ、その歳にしては見かけによらず賢いのうお前さん。かつてのアラスの使い魔はアジョイスと呼ばれる第二の使い魔を持っておった。それがこのエレキアじゃ」
そう言うと老人はユウトへ先へ行くように促し、ユウトはその光の中へと足を進めていった。
『それ以上近寄るな』
それは老人の声ではなかった。だが少女の声でもない、どこか重みのある声でユウトの頭の中に響くようだ。ユウトは怖くなって後ろを振り返ると老人は手で前へ行けと相図していた。
「…………」
ユウトはゆっくりとにじり寄るようにして近づいて行くといよいよ少女の姿が露わになってきた。しかしそれはおよそ、生きている人とは思えないような酷い有様だった。
肌はしわくちゃで髪はまばらにしか残っておらず、腕や足もやせ細っていてミイラのようだとユウトは感じた。そして、この少女が本当に生きているのかという疑問にユウトは首を傾げるほかない。そのまま踵を返して老人の元へと戻る。
「何故戻ってきた? エレキアにあんなに近づけたのはお前さんだけだと言うのに」
「あの子、もう死んでるよ」
「なんじゃと?」
その周囲の光の強さで少女はまだ初々しい姿を保っているように見えた。実際は女の子のミイラであの周囲の光だけが生き生きと輝いている。
「ほほう、なるほど。そういうことじゃったか」
老人は何かを一人で納得し、その部屋を後にする。ユウトはそれに着いていくとしばらく目が眩んだようになってしまい、もう二度とあそこへは行きたくないと思った。
「お手柄じゃ、この国の秘密がようやく見えてきたわい」
「じゃあもう行ってもいい?」
ユウトは今度こそ帰れると思った。老人はそんなユウトを無視するように話し始めた。
「あの光はな、この国の導じゃったんじゃ。初代エレキアが死んだここに国を興す。人々が皆そのエレキアの伝説に焦がれて生きる気力を取り戻した。そういう場所じゃ」
「僕はもう帰るよ」
「良いかお前さん、人の話は最後まで聞くもんじゃ。そのエレキアが何故こんなところで眠っておるかわかるか?」
「知らないよ、動かないから?」
「馬鹿もん、エレキアは神にも等しき信仰の対象じゃ。そんなものは理由ではない」
老人は窓の外を指差した。そこには何もない。ただ向かいの建物があるだけだった。
「あれじゃよ」
「なに、何もないよ」
しかし、その異変は徐々に大きくなってきた。けたたましい空気の振動。飛行機かそれに近いような轟音は窓を震わせる。ゆっくりと確実にそれは近づいてきていた。
「なにか来てる……」
街全体に巨大な影が現れた。ジャポルの頭上には黒く大きな塊が一面に広がり、光を遮断する。
「なんだ?」
あっという間に夜にでもなったかのような異変にユウトは空を見上げるとそこには無数の船が粉をまぶしたようにおんおんと飛んでいた。
ユウトは圧倒されて口を開いたまましばらく呆けていた。そこに老人がやってきてその隣りから声を上げる。
「人間たちは神への信仰をやめ、魔法という力を手にし、魔力を信仰とした。見よ、この数を。彼らはエレキアの無数からなる伝説よりも目先の力に目が眩んだのだ」
船からは次々と魔法使いたちが降りて来ていた。まるで雨の雫のように無数に降りてくる。そうして、街にはさらなる活気が出始めた。
「エレキアが封印されたことで、人々は富も力も欲望のままに支配し始めたのだ。戦争が起こらないのは未だに一つ神の伝説が残っておるからなんじゃ」
「その伝説は?」
「ほっほ、お主がこれから行こうとしておるじゃろ」
上空からけたたましい音が響き始めた。
『この飛行船艦は北の国レレヌのものである。我々は数週間かけて、第四都市を巡り参加者を募ってきた。神の不在を証明するため既に10万近い参加者を得られたことに我々は感謝と我らの信念が本物であることを確かに感じている。ここで新たに参加者がいればこの街の中央に集まって頂きたい。我々のメイジが丁重に船まで案内させて頂く。尚、参加者には300ゴールドを支払う契約だ。さあ、勇気ある強者はここへ集まってほしい!』
ユウトは腰の剣を片手で握りしめた。
「行くのか? 小僧」
「うん」
「死ぬと分かっていてもか」
「僕をこの世界で助けてくれた人がいるから。その人を僕のせいで死なせちゃだめなんだ」
「ふむ、ならばお前さんは小僧などではない、立派な小僧だのう」
ほっほと笑う老人はユウトに何かを投げて渡した。
「また来なさい、いや、必ず来ることになるぞ。――若き英雄に幸あれ」
老人はユウトの言葉を待たずして店の中へと戻っていった。手に持たされた小さな小瓶のそれは中でエレキアと同じ光を放っていた。
ユウトが街の中心に進むに従って人の壁は増えていく。
「小僧どけ!」
背中を押されるのを満足に躱すこともできないほどひしめき合う中でユウトはよろめきながらさらに人へとぶつかる。
「ちょっと!」
ユウトは辺りを見回すと誰もが不機嫌そうにしていた。
「いつになったら乗せるんだよ!」
「そうだ、はやく乗せろ!」
空にある梁船が日陰をつくっているとはいえ、密集したところに好きでいる人間がいるわけがない。ユウトは今し方やってきたばかりだったが、既に額には汗が滲んできていた。
『皆様、只今よりライズの魔法により皆様を飛空船へお運び致します。しかし、現在こちらではメイジにサーヴァントが不足している状態を解決するため、先に乗船できるのはサーヴァントとしての参加を受諾できる方とさせて頂きます。尚、その次にはメイジの方々。そして戦士の方となります』
徐々に大きくなる抗議の嵐にユウトは後半の方がほとんど聞こえなかった。
『受諾される方は剣を上空へ掲げてください』
皆が剣を上へ放り投げる。誰の頭上に落ちようとお構いなしに剣を上へと投げ捨てた。
「俺たちは人間だ馬鹿野郎!」
「メイジだからって舐めたこと抜かしてんじゃねえぞ!」
「報酬いつ支払われるのよ!」
様々な罵詈雑言の中、ユウトは剣を上に向けて掲げた。そうすればいいだけなのに皆はそうしない。サーヴァントには何かあるらしいが、ユウトはこの時それがどういうものかまるで考えていなかった。そんなことより参加できないまま帰ることが許されないとユウトは考えていた。
「お、おい。お前正気か? サーヴァントだぞ? 魔法使いの盾にされて死にたいのか?」
若い青年の一人がユウトを見て腰を引いた。それを見ていた一人の無精髭の男が徐に剣を上へ掲げる。
「死ぬと決まったわけではない。フリーメイジなぞ所詮はメイジの肩書きしかもっておらん連中だろう。背中を魔法で撃たれる前に斬り殺してやる」
中にはしぶしぶと剣を掲げる者もいたが、それでも多くが剣を手にしていなかった。弓や槍が大半だったのだ。
「うわ」
不意に体から重力が消えたようだった。誰かがユウトに魔法を掛けたのだ。
「ほう、凄いな。相手の顔も見えない位置から魔法を掛けてくるとは」
誰かがそう言ったがユウトの体はみるみるうちに彼らの頭上を離れていく。建物を超えたところからユウトは落ちたときのことを想像してしまう。魔法使いと戦ったらこういう技で殺されるかも知れないと思った。街が大きく見渡せるようになっても端が見えないほどにジャポルという国はとてつもなく大きい。
周りにも何人かの人がユウトと同じように運ばれていくのを眺めていると大きな船に少しずつ近づいているのがわかった。
「え、ユルト?」
記憶に残る声がユウトの背後から聞こえる。ユウトが振り返ると赤毛を下げたレミルの姿が隣りに浮いてきていた。
「レミル! どうしてここに」
「それはこっちが聞きたい話」
レミルのライズ魔法はユウトを追い抜いていく勢いだった。ユウトは何だか自分の体が少しずつ重くなってくる感覚に冷や汗を掻き始めていた。
「ちょっと、ユルトを追い抜いちゃいそうだよ? そっち落ちそうじゃない?」
「僕も今それを考えていたところ」
そろそろと進むのはレミルも同じになって船の外側に取り付けられた窓のようなところまで近づいて行く。
「うそ、なんかこれこわい。今すぐにでも落ちそう」
「待って、今なんか落ちてる!」
ユウトはレミルのそれを見ていてすぐに納得した。レミルが喋った途端にレミルの速度が急に下がったのだ。いくつもある窓の一番下でレミルはまるで赤ん坊が這うような格好で近づいて行く。
「うっ!」
思わず笑い出しそうになるユウトだったが他人事ではない。
ユウトは船の側面に隣接したかと思った瞬間、自分の体に突然重力を感じた。
「おちッ落ちる!」
慌てて掴めそうなものを探すが、ユウトは手を伸ばしても窓へはぎりぎり手が届かない。
わっとレミルの横を滑るように落ちるユウトだったが、途端に何かがユウトの落下を食い止めた。それはレミルの手だった。
「あんた……けっこう重いのね……」
レミルは片手を窓に掛けた状態でユウトの手を掴んで支えていた。
「ありがとう……死ぬところだった」
「お礼は早いと思うけどね。この状況、いきなり絶体絶命じゃない?」
「大丈夫、すぐに何とかする」
ユウトは腰の剣を抜いて船の横に突き立てた。金属にあたったような甲高い音を立てて剣は下へと落ちていった。
「なに馬鹿なことしてるの? この船は魔法で防御壁が張られてるから船に何かしようとしても無駄よ」
レミルは上を向いたまま必死に手とにらみ合っている。
「ユルト、軽くなった? なんか後1分は大丈夫そう! 何とかして!」
「でも僕今のが策だったんだけど」
「バカぁ! 男の子なら何かあるでしょお!」
「何かっていったって何も思いつかないよ」
ユウトは涙の出る思いだった。剣が弾かれるのなら他に手段は思いつかない。再会して死ぬのはユウトも御免だった。徐々に汗ばんでくるレミルの手がユウトを少しずつ地上へ近づけていく。
「だめ、落ちそう……」
ユウトの視界にはレミルの剣が揺れていた。そしてその先には窓が見える。
「思いついた!」
咄嗟にレミルの剣を腰から外す。
「ちょっと! 剣は無駄だって言ったでしょ!」
レミルの言葉にはお構いなしに外した剣をそのまま窓の中へ投げ入れた。長いベルトが窓からひらりと垂れ下がる。
「あ!」
レミルが手を滑らせた。落下していく二人はレミルの叫び声の途中でぴたりと止まる。
「間に合った……」
ユウトの腕の先にはベルトが伸びていた。その先に窓が繋がっている。
「あぁ……私の剣になんてこと……」
窓枠に丁度支えとして引っかかった剣は二人の落下をベルトを越しに止めていた。
「ごめん、結局落ちそうだ」
もともと剣だけを差しておくベルトが二人の体重を支え続けるのは無理があった。
「とにかく登っていくから、ユルトはそのままでいて」
「そんなことしてる間に落ちそうだよ」
ところがユウトの想像していたレミルの身体能力はユウトのそれを遙かに凌駕していた。
両手でユウトの左手首を握るとレミルはユウトに力むように言う。言われたようにユウトが全身を棒のように硬く力むとレミルはその手首を握り直した。
「下手に力を抜いたら落ちるからね!」
レミルはその状態で一気に自分の上体を持ち上げた。そこからユウトの肩に抱きつく。
一瞬ユウトはあまりの顔の近さに気が抜けそうになるが、レミルの鬼気迫る表情に気を引き締めて目を瞑る。レミルはそこから腕を伸ばしてゆっくりと逆立ちする。とはいってもユウトの肩は斜めになっているので、実質レミルは片腕で逆立ちしている状態だった。
「やった、膝が届いたっ」
すっと軽くなるユウトの肩と同時に握っていたベルトも軽くなった。
「え」
ユウトが目を開けて上を見るとレミルが丁度切れたベルトを掴んだところだった。
「はあ、さっきので結構限界近いんだけど……」
ゆっくりと引き上げられたユウトは船の中に入りようやく足が地面に着く。
「「はあ」」
窓の近くに近づく気にもなれず、二人はその見慣れない部屋の奥に座り込む。
「私のベルト、弁償できる?」
「僕のベルトをあげるよ……」
剣をまるごと捨てたユウトにとってはもはやただの飾りでしかなかった。赤い絨毯の上にそれを置くと、レミルはしぶしぶといった様子でそれに剣を通した。
「私、てっきりユルトは死んだんだと思ってた」
シャラに斬られたことを言おうか迷ったユウトは結局言わないことにした。
レミルはシャラを尊敬していたのをユウトは思い出したからだ。
「シャラはあの後どうしたの?」
話題を変えるとレミルの表情は暗く光のない顔色になる。うかがい知れない何かがユウトの胸を突いた。
「あの後、シャラ先生は国際指名手配された……。王族殺しの罪を着せられたの」
「王族殺し……?」
ユウトはその言葉にピンとこなかった。ユウトも斬られはしたが、王族ではない。
「私は絶対違うってそれを確かめるために来たの。シャラ先生がこの任務に雇われたって国で噂があったから」
「そうか……」
ユウトは会ったが言えなかった。シャラの話題が怖かったのだ。レミルの失望を買いそうだった、何よりシャラ自身の思惑が全くわからないまま説明のしようがなかった。
殺され掛けた人間に気を許すこともその人間を好いている人に真実を伝えることもできないままユウトはただ口を噤んだ。
「何か知ってるんでしょ」
「え?」
しかしレミルは鋭かった。ユウトの子供ポーカーフェイスなどレミルの前では何の役にも立っていないようだった。
「その顔、エルナと一緒にいたときと同じだもん」
その理屈はユウトには理解不能だったが、何かがどたどたと近づいてくる気配が二人の話を断ち切った。
「ここか!」
頭の低い扉から弾かれるようにして現れたのは鼻立ちの整った優雅を纏った男だった。
「あー、良かった。俺の呼んだ女の子が突然下に落ちていくから慌てて探しに来たんだ」
「あの、えっと、どちら様?」
男は扉をくぐると部屋に誰もいないことを確認してすらりとした体躯をユウトたちのまえに現した。
「俺はヴェズット。ル・アルヴェルト・エズット・ベルだ、君を呼んだのは俺だ。よろしくな可愛い剣士さん」
「レミルです……よろしくおねがいします」
急にしおらしいレミルにユウトは笑い出しそうになりながらその入りにくい雰囲気に部屋を出て行こうと思ったが、ヴェズットが邪魔だった。後ろを通り過ぎようとしたところで声を掛けられてユウトは不満そうに立ち止まる。
「そこの君は誰だい? 君も落ちていったのを見たんだがよく無事だったな」
ユウトは視線を合わせないまま、どこか虚勢を張って堂々と応える。
「僕はユウト」
「ぷ」
レミルが吹き出した。男は特に気にしない様子でにこやかに挨拶する。
「そうだ、君も呼んだ奴が見つかるまで俺らと行動を共にすればいい。その方が見つかりやすいと思うぞ」
ユウトはしぶしぶ了承したが、なにか腑に落ちないと思いながら始終不機嫌な様子で部屋を後にした。
その後はヴェズットが1人で会話を独占しながらユウトたちは昼食の席に着いた。ヴェズットは宮廷魔法使いで使い魔を持つことを許されないと語った。
「王を守る者が守られることがあってはならない。これが俺の国の教えなのさ」
「なんだか、かっこいいです」
「そうかい? 君の国ほどシビアじゃないと思うけどね」
ユウトは自分の取り皿の前をヴェズットの腕が何度も横切るのが面白くなかった。話は完全に蚊帳の外だったし、何より自分を呼んだはずの人間が現れないということは単に武器なしで乗り込んだ馬鹿な乗客だと時折指を指されるが腹立たしかった。列になって取る食事の中にはこの世界にきてからあまり食べられなかった豪華な食事があるのに、ほとんどその食事の味が分かることはなかった。
「君はどう思う? えっと、ユルト君だったか?」
「ユウトです。僕はもともとこの世界の人間じゃないからわからないです」
「君はもともと使い魔だったのか?」
「今は違うよ」
男はそうかとそれきりだった。もともとユウトには興味がないようですらある。
昼食が終わると、男の元に何人かの女性が声を掛けてきた。
私たちと遊ばない? とか、今夜部屋にきてだとか、ユウトたちにとっては見るのも嫌になる露骨な誘い方もあった。
「人気があるんですね」
「形だけだよ。この船は元々俺らの国の人間が多いからね。俺が宮廷魔法使いだからその肩書きに誘われてやってくる女性は多いんだ」
ヴェズットがそんな話をしている折、偶然にもユウトは商人を船の中に見た。ユウトは軽くなった腰を思い出してヴェズットの先を急ぐ。
「あの、僕は少し用事ができたので行きます」
「用事って? 何の用事だい? トイレならここで待ってるけど?」
「違う、大事な用だからまた今度」
ユウトはヴェズットと一緒にいるのが嫌になってきていたのもあってすぐに駆け出した。
去り際にレミルを見ると、なんだか不思議な顔をしていてユウトには判別がつかない。それはレミルの不満を現したものだったが、すぐにレミルはにこやかな顔をつくってヴェズットと会話を始めていた。
ユウトはヴェズットの何がいいのかとレミルに思った。女の人が寄ってくる度に強い香水の匂いで鼻が折れそうになるユウトにとっては何もいいところなどない。それよりも自分をこの船に招いた人間を探して、話をつけなければならないと思った。
自分は参加はするが、戦わないということを。
「あんだぁ? 剣がほしい?」
ユウトはその商人が人相悪く睨め付けるのを冷や汗を掻きながら受け止める。また声にはどすもあった。後ろから声を掛けた折りに引っ込みがつかなくなり、とりあえず自分の状況を説明してしまっている。
「剣、剣なあ。杖なら何本もあるが、この船は人間が乗るためだとか抜かしやがって商品の半分も持って来られなかったんだ。ああ、胸糞悪いぜ! それにお前、絶対金ないだろ。常識的に考えてみろよ、こんな空中でガキに剣売る商人がどこにいる? 魔法使い用の品もんなら割とあるがな」
がははと何が面白いのか全くわからないところで笑い始めた商人にユウトは呆れながら別れを告げた。
「坊や、坊や」
船の中はかくも人ばかりだった。唐突に呼び止められたユウトは若い女性に何を勘違いされたのかお金を握らされる。
「あのヴェズットって男はあんたの仲間?」
「いや、違うよ」
ユウトはそのお金が何なのかわからないが、とりあえず教えても問題なさそうだったので受け答えは普通にした。
「彼の部屋、何処にあるか知ってる?」
「いや、知らない」
「あの隣りにいる小娘は?」
「あれはレミル」
「何者?」
「剣士かな、僕より強いよ」
「へえ、剣士ね。ひょっとして代理のサーヴァントってやつかしら」
「たぶんそうだよ?」
「坊やは代理のサーヴァントとして船に乗ってるの?」
「そのはずだったんだけど」
ユウトは呼んだ本人がわからないことを告げると女は何とも雑な手つきでユウトの頭をわしわしと撫でた。それが何故か懐かしく感じるもユウトはその正体がわからない。
「ちょっと協力してくれないかしら」
「なんで?」
ユウトは自分に何のメリットもない提案に頷くほどお人好しではないつもりだった。
しかし、その女の口から出た一言はユウトも予想だにしていなかったものだった。
「だってあんた、あの女の子のこと好きなんでしょう?」
レミルは確かに良い子だった。気立ても良くて活力に満ちている。けれど、その言葉の意味をユウトはまだ正確に理解もできていなかった。だから女の言葉にユウトは首を捻るしかない。
「違うの? そんなことないはずよ。レミルって女の子の気を引くあの男が気に入らない、そうでしょう?」
女のいう言葉が的を射たものだったせいでユウトはだんだん気恥ずかしくなってその場から逃げ出したくなっていた。
「知らないよ、これ以上僕に付きまとわないでよ」
ユウトがそう言って逃げると女も追ってくることはなかった。その後、ユウトは空の眺めを時々見ながら自分を呼んだメイジを探していった。部屋を当たる度に老若男女の様々な人が出て来たがユウトより年下はおらず、またユウトを呼んだ人もいなかった。
船の中では食べ物が自由だったので、ユウトは折を見ては興味のあるお菓子を取っている時だった。
「ハーイ」
異国風の女が現れてユウトの隣りに素早く座る。あまりの素早さに身構える余裕もなかったユウトはその女が食器の銀色をちらつかせて肉迫するのがわからなかった。
「な、なに」
「なにってちょっと、私がわかんない?」
柄の高い靴に長く綺麗なスカート、派手なオレンジのショールに花が着いた三角帽子。片手にフォークを摘んだ格好はどこから見てもただの変な人だった。
「ほら、前に会ったでしょ」
ユウトはヴェズットのことで話し掛けてきた地味なマントの女を思い出した。しかし、その風体はその時とは正反対のものだ。
「わかったようね? なら話は早いわ。一緒にご飯しましょう」
その強引さは何なのか、ユウトの返事も待たずに女は隣で食事を始めた。ユウトも並んで食事を取ることを嫌がる理由はないと思った。
「まだ帰れないの?」
「うん」
何か話が食い違っているような気がしたものの、空腹にそれどころではなく昼と同じスープを口に一杯分運んだときだった。
「ふうん、ま、頑張んなさい」
また協力しろと言われると思っていたユウトは肩すかしを食らったような気分で食事を終える。その後に続いた会話などほとんどなく、席を立つ頃にはどちらからともなく背を向けて去っていった。
「なんだったんだろ」
そこでユウトは自分の帰る部屋がないことに気が付いた。廊下で寝るには徐々に冷えてきているし、毛布の1枚もないのは辛いものがある。明日か明後日には任務が始まることを考えればそのまま帰るとはいえ、体力の温存が必要だった。
「最初の部屋に行ってみるかな……」
入り始めのときに部屋には誰もいなかった。ユウトはそこが空き部屋であることを祈って足を運び始めた。
ユウトが部屋に着くと廊下からの窓の外は星空が一面に広がっている。その景色は地球にいた頃と何も変わらず、ここが本当に異世界であることを忘れるほどのものだった。
ユウトはその懐かしさにいつまでも見ていたい気分に襲われる。そうしているうちに小さな足音がユウトの後ろから近づいてきた。
「あ、やっぱり」
廊下の蝋燭にあてられた赤毛は目映く朱を散らすように輝いてレミルの姿はそこにあった。
「やっぱりって何が?」
「どうせ見つからなかったんでしょう? そこの部屋は別の人が入ってるわ」
そう言うレミルは腰の剣の他に片手にもう一つ長物を持っていた。ユウトがそれに視線を送るとレミルがそれをさっとユウトの突き出す。
「ユルトの剣。譲ってもらうのに苦労したんだから」
「どうして、いくらかかったの? あるだけ払うよ」
「いい、いらない。ヴェズットさんの力の方が大きかったし、私1人じゃ調達できなかったものだから」
受け取った剣は前よりも少し肉厚の剣だった。片手で使うのは少し重たいかもしれない。
「前より重たいでしょうね。それ大人用の剣だし。扱いにくかったら後で他の剣を探すといいから」
レミルはぶっきらぼうに言い放ったが、ユウトがお礼をいうとその言葉は素直に聞いた。
「ありがとう」
「うん……」
居心地の悪い静寂の後、ユウトは話題を探して切り出す。
「そういえば、ヴェズットは?」
「部屋にいるといいんだけど……同室は嫌だろうって聞くから頷いたらどこかに行っちゃった。女慣れしてそうなのに、なんか変な感じなの」
「そっか」「……うん」
やや間があってからレミルは廊下の窓へ徐に肘をかけた。
「そういえば、私たちは船の後ろのほうから入ったのよね? この窓から見える景色は星空と雲が奥に流れていって、なんだか不思議な感覚がするわ」
「うん、この世界の星空は僕が前いたところと一緒なんだ」
「ふうん、ユルトの前にいた世界ってどんな世界なの?」
ユウトは自分のいた世界に興味を持ってくれることが何だか嬉しく感じた。でこぼこのない道路があることとか、飛行機があることとか、その話はレミルにとってユウトがこの世界の人間ではないことを理解させるのに十分過ぎた。
「やっぱり、ユルトは使い魔なんだ」
「僕はユウトだ」
「じゃあ、ユルトが自分のことを僕って言わなくなったらちゃんと呼んであげる」
「わざとだったの?」
「だって全然頼りないんだもん。船から落ちて死にかけるし、剣は弱いし、だからユウトなんてかっこいい名前では呼んであげないって最初から決めてたの。ユルト、ぴったりよ」
明るく笑うレミルにユウトは少しだけ悲しくなった。
「剣が弱いのは昔の話だよ」
レミルは剣を引く真似をしてユウトの首筋に宛がった。その速さはまさに光が走るようである。ユウトは当然それが見えていたが、思った以上に近くにいたレミルに気圧されてそれに反応することはできなかった。そんなユウトを見てレミルは苦笑いする。
「やっぱり昔のままでしょ。この任務は大人たちでさえこんな大群でかからないといけないのに。……ねえ、もしかして、死にたいの?」
「死にたくなんかないよ。それに僕は着いたらすぐ帰るから」
「あ、もしかして参加しただけで300ゴールドってやつ?」
「それ」
レミルの鈴を転がしたような笑い声は廊下中に響き渡った。しかし、レミルはすぐに元の表情に戻ったかと思うと今度は少し物悲しい横顔を漂わせて声低く話し始めた。
「そうだよね、ユルトが来るはずないもんね。そうだよ、私――」
最後は聞き取れなかったユウトにはレミルがひどく落胆しているのがよくわかる。どう声を掛けたらいいのか迷っているとレミルはすっと赤毛を翻して笑顔を向けた。
「じゃあね、ユルト。私はもう寝るから。また明日」
レミルの表情が星明かりに白く浮き出ていた。緑の目は黒く見えて、ユウトはその目の色が最近になってよく見た何かに重なった。
ユウトは二日後の眠りに着く前その正体を思い出した。それは今わの際にいる敵の目だった。
七、撃沈
結局ユウトはその後、夜が開けるまで廊下に剣を抱えて眠っていた。かじかんだ体はところどころが痛み、苦痛に身をよじると目先に誰かの脚が見える。
「おー、死んでいるのかと思った」
「……だれ?」
「昨日のお姉さんだよ。顔くらい忘れないでほしいけどね、ほらこれ飲んで」
手渡されたのは温かい飲み物だった。ユウトは疑うこともしないでそのままそれを飲んだ。ミルクのような味がした。
「少しは暖まったかい? そうしたら少し部屋で休んで。これから大変なことになるからね」
ユウトは徐々に鈍くなる体を支えられて部屋へと連れ込まれた。ベッドの上に横になるとすぐに睡魔は襲ってくる。何か言おうと口を開いたがそれも結局言葉にならずに深い闇に呑まれるようだった。
「おやすみ、可愛い子」
影は優しく遠ざかる。それからユウトは意識があるものの目を開けられないような、けれど不快ではない心地よさに包まれたような状態がしばらく続いた。魔法かなと思いながらユウトはもしかしたら自分が死んだのかもしれないと考え始めた時。
『おい、どうなっている? 航路は間違っていないはずだ』
『上からの指示は? 連絡が急に途絶えるなんてあり得ない』
『この先も飛空船でいけって一体誰の指示なんだ、何故誰も知らない?』
どこからともなく声は聞こえてきた。ユウトはそれを他人事のように聞いていたが、ふと自分の部屋からその声の場所までは壁や部屋をいくつも隔てていることに気が付く。
ユウトは自分の視点が耳となり、聞こえる音は全て視覚となる感覚があった。体はベッドの上にあるというのにユウトは船の中のあらゆる音が見るように聞こえる。その目はやがて船の外側へと向いていき、ごうごうとなる船の外壁はこまかな水滴をいくつもつけているのを知る。厚い雲の中だとユウトは思った。その遙か下からは動物や生き物の音が一つもしない。森や草原ではない、砂が擦れる音もしない。
荒野だとユウトは感じた。水一滴ない荒野。そしてその荒野は冷たく語りかける。
「それ以上近寄るな」
エレキアのときと一緒だった。だが、ユウトにはどうすることもできない。船の舵をユウトが握っているわけではないのだから。徐々にユウトの体は空へと舞い上がっていき、突然体に力を取り戻して起き上がった。船の中には琴線を震わせたような甲高い音が鳴り響いている。
「敵襲! 敵襲!」
その一瞬部屋の中が大きく光った。窓の外に光は集束してユウトはそのまま光に追いすがるように窓へ近づいた。
「そんな……」
飛び交うのは白いドラゴンの群れだった。無数の魔法の応酬と、炎に包まれ地へと落ちていく船の数々。ここがどういうところか、ユウトは何も知らないできていた。だが、あの白いドラゴンはユウトが今まで見たどんな怪物よりも恐ろしい知性と力を持っていると感じる。そのドラゴンが放った魔法はユウトのはるか頭上にも直撃した。魔法で作った壁など飴細工のように溶かして船は黒い煙を上げ始めた。
「ユルト! こんなところで何やってるの!」
振り返るとレミルがあの女の姿に重なったようにユウトには見えた。
「ここで寝てたんだよ、それよりこれはどうなってるの? 船が落ちそうだよ」
「落ちそうじゃなくて落ちるんだって! いきなり神域の真ん中――とにかく私に着いてきて」
レミルはユウトの手を取ると文字通り床を破壊する脚力で走った。
「レミル、この足……」
ユウトはレミルの足がわずかな緑色に光っているのを見る。その足が廊下の床を蹴破り木片をまき散らしながら進むのだ。それについて行けているユウトは何ら自分を不思議に感じることはなかった。
「口開いたら舌噛むよ」
レミルの走る先は時折廊下がなくなり、青い空と繋がっていたりした。その度にユウトとレミルは廊下を跳び越えたが、ユウトはレミルに引っ張られるように跳んだだけだった。
トンネルを抜けるように甲板の出口へ近づくと人々の怒声や絶叫、爆発の音などが聞こえてくる。
陽の真下に出たそこには数多くのメイジたちが戦っている光景が2人の目に飛び込む。
「ヴェズットさん!」
レミルの声に反応した1人のメイジが黒いマントを携えてやってきた。
「無事だったんだね、もうこの船は時間の問題だ。今すぐ地上に降りるよ」
ヴェズットの杖は銀色でその杖にヴェズットは口付けするように詠唱を始めた。
「Divini Legic vizit(ヴィズットの名の下に加護あれ)」
ユウトとレミルをその光が包んだ。蒸気のようなその光は視界を少し悪くする。
「下に行くまでの辛抱だ。これで敵からは見つけにくくなる。とはいっても、降りられたらまず間違いなく奇跡だよ。伝説のイノセントドラゴンがこんな数でいてはね……」
空中で踊る無数の白い影はこの船を守るはずのドラゴンさえも溶かし尽くしていた。船の横では刻一刻と背中に跨っていた人間を焼き、巨大な四肢と共に切れ切れに墜ちていく。
ヴェズットの背後にいたメイジが笑いながら魔法を放つ。
「ドラゴン使いたちが死んだ後は俺たちメイジの番だぜ、船の上から援護しても時間稼ぎにすらならない。猫もしゃくしも堕ちていく有様とはこのことだ」
ヴェズットはレミルとユウトに真摯な表情で向き合った。
「今から君たちにレビテーションを掛ける。船の上から飛び降りるんだ。地上ぎりぎりで浮力を解くからそれまでは自分を守り抜く。いいね?」
「固まって降りたほうが生存率は――」
「だめだ、固まれば格好の的にしかならない。敵のドラゴンの動きはまさに風そのものなんだ。何もないところへ突然現れると言ってもいい」
レミルは口を噤んで意を固めたようだった。ユウトはもちろん、墜ちる船にいたくはなかった。しかし、気に掛かることがある。
「何をしているんだユウト。君も来い!」
「先に行ってください! 僕はまだやることが――」
ユウトの声は目の前に降った炎の岩にかき消された。危機を察したヴィズットはレミルを抱えて身を翻す。
「先に行って!」
ユウトはあの女性に会うべきだと感じていた。あの女性は何かが起こることを知っていたし、きっとこの先のことも知っていると予感めいた確信があった。ユウトはレミルたちとは正反対の方向へ走り出す。
「いや! ユルト! 戻ってきて! まだあなたに話していないことが――」
「飛ぶんだレミル! 彼は諦めろ」
2人の影は船の下へと消えていく。数多の白に囲まれながら――。
ユウトは傾きつつある船の上であの女性の姿を探していた。しかし、見あたらない。
もう船から降りたとも充分に考えられたが、何か目的を持ってこの船に乗り込んだのだとしたらまだいるはずだとも思った。
甲板に残るメイジの数も徐々に減ってきている。竜と守護竜の戦いも終わりに近づき、魔法使いで残る者はただ意地を張っているだけのように映った。
「君はまだ残っているのか?」
その声に振り返る。年老いたメイジだった。しわがれた声に白髪の頭と顔はもう80をゆうに超えているように見える。
「僕は、人を探しているんです。女の人なんですが……」
そう言うと老人は静かな微笑を浮かべて長い杖に両手を添えて体の支えにした。
「船の中にもう生きている人間はおらん。お前が探す女は恐らくおらんな」
「そう、ですか」
老人は嘘をついているようには見えなかった。ユウトは気が付けば降りるためのレビテーションも魔法防壁もなくなっていた。レミルが叫んでいた理由がようやく理解できる。
「この老いぼれと一緒に死ぬ気か? 冗談じゃない、わしゃ御免だ」
老人は隣の船を指差して言った。
「行け、船が落ちるのを渡って行けばお前は生き残れるじゃろ。何しろ何千という船が落ちるんじゃからの。わしの葬式は世界一ど派手じゃ」
老人が笑うのに吊られてユウトも笑うと老人は眉をつり上げた。
「笑い事じゃないわい! せっかく若いオナゴの旅路をすにーきんぐしてきたというのにこんな葬式を開かれては召されるしかない。お前にわしの苦しみがわかるか」
無精髭が風になびく。不思議と白い龍は船のまわりからいなくなっていた。
恐らく地上に降りた人間たちを襲っているに違いないとユウトは思う。
「まあ良い。誰にも理解されずに死ぬのが粋な死に方というもんじゃ」
老人はユウトの脚に魔法を掛けた。無詠唱で何も言わないままに魔法を行使していく。
「16種類の魔法を掛けてやったぞ。船の中が見える透視、服が透けて見える力眼(パワーアイ)、相手の一番の感じやすいところが見えるウィークアイ、その者の年齢がわかるオールドアイ……」
「いらないのばっかりだよ」
「わしの研究の最高傑作を馬鹿にする気かっ?」
ユウトはこの台詞を前にも聞いたことがあるような気がして年寄りはみんなこうなのかと辟易する。
「ほれ、もう行きなさい。こんな死に際の老いぼれ1人にかまっとると本当に生き遅れるぞ」
「ありがとう、もう行くよ。お爺さんも下に降りたらいいよ」
「ばかもん、下に降りたら龍に食われるわい」
一瞬自分はいいのかと思うユウトだったが、他の船に逃げ遅れた人がいないかどうか見ようとユウトは隣の船に飛び移るための助走を付けた。
船が一気に遠くなる、一瞬ユウトは意識が飛んだのかと思ったがそれはユウトの脚が今までにない力で動いたことに起因していた。
「やばい!」
目標の船を軽く飛び越えてしまったユウトは他の着地できそうな船を目指して空を泳ぐ。
「ほっほう、あやつ儂の魔法なんかいらんかったんじゃ。年が老いると若者を見くびる癖がついていかんのう」
老人はユウトの後ろで静かに笑って霧散した。
ユウトが逆さまになった船の竜骨に着地したのはたっぷり10数えられる間空の上にいた後だった。
「はあはあ……」
生きた心地がしなかったユウトは心臓の音が落ち着くのを待ってから船の中を睨んでみた。
「本当に見えるな」
まるで水槽の中を覗くように中に何があるかがわかった。特にいらないと思ったのは下着が光って見えることだ。ユウトは一番底の階まで見通すと今度は別の船へ狙いをつけて助走をつける。
魔法がいつまで続くのかは老人は何も言っていなかったが、ユウトはこの魔法が地上まで続くことを祈って飛ぶ。
流れる空気はユウトにとっていままでに感じたことのない速さだった。時には煙の中をくぐることもあったが、落ちている船の間を飛び交うのは恐ろしくもあり楽しくもある。
それでも千以上の船を全て見て回ることはできず、ユウトは次を最後の船として見てから落下に備えることにした。
その船は意外にもバランスを崩しておらず、比較的綺麗な状態で落ち続けていた。
透視という魔法を使わずともデッキには影があり、それがはっきりと輪郭を持ったときユウトは驚きの余り着地の仕方を忘れた。
「いってぇ!」
もんどりうって転がるユウトはその視界の先にいるのが見知った剣士であることを知って再び驚いた。
「やっぱりエルナじゃないか!」
エルナはまるで何かに触発されたかのように瞳に力が宿りユウトを見据えた。
「久しぶりですわね、ユウト。えっと――」
何か言葉が見つからないのか、エルナはどこか様子がおかしかった。頭に手をあてる仕草をしたり、腰をなんども触ってみたり自分の衣服を確かめたりする。
「エルナ、どうしたのさ?」
「何がです? 私どこか変かしら」
「変じゃないけど、今がどういう状況かわかってるのってこと」
エルナはそこでようやく辺りを見回して苦笑いを浮かべた。
「私たち落ちてるの?」
「そうだよ、早く手を」
エルナの手はぞっとするほど冷たかった。それでもユウトの手を握り返す力は本物でユウトはそのまま地上に近い船を目指して梯子のように船をまたいでいく。
「ずいぶん強くなったのですね」
「変なお爺さんに魔法を掛けられてね。一時的なものだよ」
「違うのですわ、あなたの心に剣が宿っていると言っているのです」
「そういう難しいのはよくわからないよ」
ユウトが目指す地上の色はやはり茶色だった。エルナはユウトの凄まじい脚力に難なく着いてくる。決してユウトに引っ張られているわけではなく、本当に合わせて来ているといった風なのはユウトの気のせいではなかった。
落ちながらもユウトは他の船に乗客が残っていないか見ていたが、それも徒労に終わりユウトは最後の船を足掛けにすると今度は上に向かって軽く飛んだ。
「破片に巻き込まれたらただじゃ済まない。正しい判断ですわ」
しかし、落下速度から考えて着地もただで済まないのは見え見えだった。
「背中に乗って」
ユウトがエルナを背中に抱えるとそのまま着地に備える。あの年寄りメイジの魔法が残っていれば或いはこの着地は上手く行くとユウトは賭けた。
「――――」
ユウトの脚は真綿に包まれたように何事も起こらなかった。荒野の一角に降り立った二つの影の後方で次々と木片が粉塵と爆発となって飛び散っていく。2人はその光景をじっと見つめていた。
やがて地上の花火が終わり、老人の言った通りそこは巨大な火葬場となる。ユウトは生存者を探していたがどの船も死んでいる者が多くいた。
「……これからどうしますの?」
エルナの声にユウトは振り返る。そこには船の残骸よりもっと悲惨な光景が広がっていた。
「ひどい……」
人の死をあまり見慣れていないユウトはようやく緊張が切れると同時に不快な気分が胃をせり上げてきていた。
「大丈夫? ユウト、辛くても今は頑張らないといけないですわ」
背中を摩るエルナの手は少しずつ温かくなっていく。ユウトはその言葉の意味が上を見たときにわかった。
「ドラゴン……あんなのと戦えない」
「いいえ、龍は空の生き物。地上には干渉しないはずですわ。それより、あそこが見えます?」
死骸の連なる先に龍が築いた屍の山があった。
それほど明確な敵意を持ちながら、未だに龍が上空を飛んでいるのは何故か。
それは自らの力を誇示するためだとユウトは思った。愚かな生き残った人間に自分と相手との差を分からせる。それほどまでに龍は賢い生き物らしかった。
「ユウト、剣を構えて。私も適当に剣を拾って戦いますわ」
死臭に誘われてか、自分の縄張りを侵されてか、そのモンスターたちの大群はわずか2人で相手できるものとは思えない。ユウトは逃れる場所を探すが周囲にそんな場所は見つからなかった。それにレミルはどうなったのかという思いがユウトには残っている。
四足歩行の生き物は牙を剥いて駆け出した。生き残った人間を獲物を横取りする敵と認識したのだ。毛のない皮膚、向き出た目、尖った耳が徐々に露わになって、獣の臭いがむっと押し寄せてくる。
「ユウト、私の背中を守って!」
エルナは剣を二つ構えた。二刀流というやつだとユウトは思ったが、単純に拾った剣に信用がおけないから二つ持ったとも考えられる。ユウトはすかさずエルナの後ろについて扱い慣れない重剣を正眼に構える。
「動きは私に合わせて、腰で私の動きを感じて前だけ見るの。いいこと?」
そんなことはやったことがないし、巧く出来る自信もない。しかし、やるしかないとユウトは思う。でなければエサになるのはユウトだけではない。
「ギィィ……」
四足歩行の怪物とは何度かやりあったユウトだったが、気が許せないのは長い尻尾の先についた鋭利な刃のようなものだった。用途が不明な上にどんな使い方をするのかまるでわからないからだ。
「はっ!」
エルナの腰が動いた。ユウトはすかさずその動きを頭の中でイメージして自分の体を次の動きの終着点に持っていく。2人はお互いに30度左回りしてわずかに前進した。切り伏せられた獣の一匹が地面に伸びる。
「そう、動きはそれでいいのですわ。襲ってくる敵だけを倒していけば1対1に必ずなる。正面はあまり気を配る必要はない。むしろ彼らは隙を見て私たちの動きを止めるために首元や腕、脚を狙ってくる。それが分かっていれば迎撃など容易いはずですわ」
「すごいよエルナ」
「学年一を舐めないでほしいですわね」
ユウトの側に一匹が跳躍する。すかさず身を屈めて首を横から断ち切るとユウトが動いた分だけエルナが動いて状況が維持された。
「息はぴったりですわね。このまましばらくダンスを踊りましょう」
一刻ほど経ってもユウトの目から数えるだけで敵の数は50を超えていた。一匹一匹はさほど大きくはないものの数だけは際限がないように思える。中にはユウトたちをそっちのけで足下の死体を食べ始める獣さえいた。
「くそ……」
「だめですわ、ここは耐える時。自分から斬りかかろうなんて思っては駄目。後ろの尻尾についている刃、ユウトもわかるでしょう? 刃先に返しが付いている」
「うん……絶対あれが本命だよ」
刺されば間違いなく抜けない。例え刺さった後にその獣を殺しても死んだそれは重りとなって獲物の動きを鈍くする。尾の切断を考えればその間に二本目の尾が刺さるに違いなかった。
「あれをもらえば2人が死ぬまで食い下がってくるはずですわ……それくらいの執念がなければ死んでも自分を重りとして役立たせるなんていう進化はしなかったでしょうし」
ユウトはその途方もない獲物への執着心にぞっとした。元の世界にいた虎や熊のほうがまだ可愛げがあるとさえ思える。
「日が暮れたらこいつらいなくなると思う?」
「どうでしょう、私からすれば彼らは死体を食い尽くしたら諦めるとも思えるのですが」
丁度その頃、ユウトの視界の端で光が走った。
「エルナ、まだ生き残ってる人はいるみたいだよ!」
「じゃあそちらへ向かうのですわ。誘導してくださる?」
2人がわずかに脚を動かすと同時に二匹が飛びかかってくる。ユウトは左にエルナは右に上体をずらして同時に切り伏せる。ここに来て2人の剣技はほぼ融合体に近づいていた。
「距離はどれくらいですの?」
「わからない、でも人影が見えるからそんなにはかからないはずだよ」
「急に人影が?」
「そうだよ」
「幻惑の魔法を使えるメイジがいたということですわね。匂いで隠しきれなくなったというところかしら」
ユウトとエルナは互いに回転移動を修正しながら移動を始めた。お互いの姿がはっきりと見える位置までくると、ユウトはその人影がメイジと剣士の円陣を組んだものと見えた。
ユウトとメイジらに挟まれた獣たちは姿を散らす。獣たちはひょうたんを囲むように陣取った。
「そっちへ入れて欲しい!」
「待て、今このタイミングで陣形は崩せない! この円の中心には負傷者が多くいる。君たちはそのまま私たちの前を守ってくれ。穴ができた場合は埋めて欲しい」
そのリーダー格の男は40代くらいだった。体格のがっしりとしたメイジらしからぬ風体でユウトたちに指示を出す。
「このモンスター、リットキレラは小型の中では最上位クラスのしぶとさで有名だ。長期戦を覚悟してくれ」
「返って私たちの敵が増えたようですわね……」
死体を食い尽くしたリットキレラはもはや獣としてではなく、ただの殺戮を楽しむモンスターとしてユウトたちに牙を剥いてた。
陣形を組んでいた1人の男がその異様さに声を荒げて動揺する。
「やつら、まだ食い足りないのかッ?」
「怖じ気づくな! 動物と怪物(モンスター)の違いは殺生に生存的理由が存在しないことだ。奴らにとってこれは生死を賭けた戦いではない。ただの遊びなんだ」
その魔法使いは首筋を噛まれそうになり、動揺からやぶれかぶれの魔法を連発した。
「Flables! Flables!」
「馬鹿野郎! 魔法を連発するな、マナ切れになったらお終いだ!」
八発ほど撃ったところで男の動きが止まる。ユウトは気配でしか捉えていなかったが陣形に明確な穴が出来たことは容易にわかった。
「エルナ!」
「わかっていますわ、皆さん! 私たちの援護をお願いします!」
ユウトとエルナは陣を平行にして駆ける。その行き先は先ほどの動揺した男の元だった。
「ぐわっ」
ユウトが駆けつけたとき、丁度男の首に唾液にまみれた牙が食い込んでいた。
「はなせ! ぐっ」
男の体に次々と蛇のような尾が刺さる。人3人分ほどの間合いがあってもを悠々と尾だけが飛び越えて来たのだった。たまらず男が倒れ込むと荒野を引き摺り回されその先はもう見るに堪えない末路だった。
「穴を埋めてくれ!」
ユウトは奥歯を噛みしめながら陣に収まる。追撃を払いのけたエルナが隣にいた男を陣の中に押しやってユウトの隣りにきた。
「何すんだ、俺はまだやれる」
「あなたは私に簡単に押し倒されるほどの怪我ですわ。少し休みなさいな」
ようやく確認できた陣の中央の状況にユウトは息を呑んでいた。それはエルナも同じようで確認できた負傷者の数は陣を組んでいる人数と同等かそれ以上いる。
「どう思います?」
「別に、やれるだけやるしかないよ。諦めたら守れない」
「やっぱりユウトは変わったみたいですわね」
数刻の間、ユウトたちはゆっくりと死体を増やしていくことになった。その度に先の男が変わらぬ胴間声で一喝し、かろうじてぎりぎりの精神を保ち続ける。
「エルナ、辛くないの?」
「さすがに慣れない剣は扱い辛いですわ。私の剣があれば一度に5は倒せるのに」
ユウトにはその台詞が気に掛かった。確かエルナの剣はシャラが持っていたはずだった。
シャラはエルナが自分にこれを送ったと言っていたはずだとユウトは思い返す。
「エルナ、その剣のことだけど――」
ユウトがそう言い掛けた時、リットキレラたちの様子が変わった。
『――Flables bal Snakkus(炎の大蛇)』
どこからともなく光はユウトたちを包んだ。眩んだ目をゆっくりとあけるとリットキメラたちの間に炎の生き物が蛇のように蠢いていた。
「どうやら助かったようね」
エルナは剣をこれ以上握っていたくないという風に足下へ投げ捨てた。
「それはどういう――」
誰にもその言葉の意味はすぐにわかった。炎はリットキレラたちを包み込むと一体ずつ丁寧に焼き上げて逃すところがない。慌てて逃げていくリットキレラもたちまちその炎に追いつかれて焼き払われる。
「とんでもない火力ね、こんなメイジ見たこともないわ」
陣にいたメイジの1人が口々にそんなことを言いながらその光景を眺める。
かくしてリットキレラは1人の英雄によって殲滅された。
「……ヴェズット?」
燻った異臭の中、ユウトが向けた視線の先にはヴェズットの姿があった。その姿は300メイルは先だったが、すぐ後ろにもう一人の影も見える。
「まさか、レミルじゃなくて?」
エルナがそう言うとその影はこちらへむかって走ってきた。
「ユルト!」
息一つ切らさず走ってきたレミルはそばまでやってきて急にその眉をつり上げた。
「このっ大バカ!」
レミルはユウトより頭一つ分は背が高かったせいか容易に頭を叩いた。
「私たちが船から降りるってときにどっかいって、どうやって降りられたのよ。魔法は対称が見えなきゃ掛けようがないの、わかってる?」
散々首根っこを掴まれた挙げ句に突き飛ばされて、心配したんだからと言われてユウトは何かが胸にすっとおちた。
「で、あなたがどうしてここにいるの?」
「私のことかしら」
エルナはブロンドの横髪を払ってくりっとした青瞳をレミルへ向けて睨んだ。
「学年一の私がこの任務を遂行し名を売る、国が私を派遣したのですわ。わからない?」
「違う……あなたは消息不明扱いよ。だから私がこの任務にきた。学年二位である私が」
エルナの細い眉がぴくりと動く。二重の目蓋がすっと閉じてエルナは何かを思い出そうとしているようだった。
「きっと、シャラ様にあったときだわ」
「え、あなた会ったの?」
「ええ、国から出てすぐのことですわ……ごめんなさい、詳しくは思い出せないわ」
「剣を奪われたのね?」
「奪う、私の剣をですか? それは万死に値する行為ですわよ。きっと何か理由があってお貸ししたのです。あの方は国から謀反の罪などと証拠もあがらない濡れ衣を着せられておりましたし」
二人の会話は後ろからきたメイジたちによって断ち切られた。ヴェズットを囲むようにして頭を低くする。
「よくぞ、よくぞ来て下さった。ぎりぎりのところで救われました。ほんとうに本当に助かりましたよ」
ユウトたちの陣にいた男のリーダー格がヴェズットに頭を垂れて改めて感謝を述べた。
「命が助かりました、何とお礼を申せば良いのか」
「俺のしたことなど微々たるものです。それより、生存者は?」
「こちらでは見ての通りまともに動けるのは50人ほどです。あなた方は……」
ゆっくりとヴェズットの後ろの方から歩いてくるメイジたちがいた。
「50人……ですか、我々はこれだけです」
その数はわずかに8人だった。
日が傾き駆けていたこともあって、その日は船の残骸からできる限り集められる食料を各自でまとめて夜となる。大半は大きく燃え上がっていて近づけなかったが、燃えなかった船には多少の食べ物があった。その夜はモンスターとの遭遇はなかったものの、皆の緊張はかなり高く、中には数人で集団を離れていく者もいた。
ユウトたちは逆に運が良かったといえた。50人近いメイジは中年の男を中心にとりあえずのグループとなって未だ統率が取れているからだ。ヴェズットの率いてきた数千人は途中でばらばらになってしまい、今は確認できないという。連れてきた8人もヴェズットを特別に支持しているわけではなく、仲間や友人の負傷を思い退路を選ぶことを思案していた。
(八)、前進
「……俺は死ぬのか?」
ユウトのそばで不意に声が上がった。ユウトは焚き火の横で負傷者たちの警護にあたっている途中だった。昨日とは違い、雲に覆われた天は黒一色。その下でユウトにだけ聞こえる声で呟かれた一言はまさに男の絶望と思えた。
「なあ、俺はもう助からないのかよ」
男の脚はただ折れているだけだった。普通に栄養を取っていればいずれは治る。
しかし、ここから無事に帰ることができるかどうかは全く別の問題だった。
そうではなくても負傷者は生存者より多く、もしこれらを全員助けるというなら全員がこの任務を諦めることになる。だからこそ、健全な者はいち早くこの集団を離れて消えていったのだとユウトは思い至った。
「死ぬことはないよ、そんな骨折なら僕もしょっちゅうしたんだ」
「そうか……安心したぜ」
ユウトを子供と思ってか、単に本心から安堵してか男は低く笑ってそれきり眠ったようだった。
「ユウト、そろそろ交代して差し上げます。あなたは私たちより年下なんだから早く寝なさいな」
エルナが近づいてきたことに気が付いたのはユウトが目を懲らした時だった。
「凄く暗いね、火元から離れたところは何にも見えない」
「ふふ、それは単に夜目が利いていないからですわ」
ユウトは腰の剣をエルナに渡した。エルナは武器を持っていなかったからだ。
「…………」
受け取らないエルナにユウトは剣を腰に戻した。エルナの表情はどこか思い詰めていてそれがユウトには何なのかわからなかった。
「エルナ、どうしたのさ。武器はいらない?」
「……いえ、そういうわけではありません」
エルナの顔色は闇の中でも土色に見える。どこか悪いのかと聞くと首を振るのでユウトは心配しながらも固い地面の上に布を敷いただけの寝床に横たわった。
「そこで寝るつもりですの?」
「別にいいでしょ、何かあったら一緒に戦えるし」
「一緒に……まあ、構いませんわ、とにかくよく眠ることです」
ユウトはそこで前からの疑問を投げかけたくなった。寝る前に少し、この思い詰めた空気から逃げ出したかったユウトのほんの些細な問いかけのつもりだった。
「ね、エルナはどうしてそんな風に喋るの?」
火の光にゆらゆらと照らされるエルナの顔が少し赤く染まったように見えた。ユウトはエルナの唇が曲がって行くのを見て少し後悔する。
「私だってレミルや他の皆さんと同じ口調で喋ろうとしたこともありましたわ。けれど、ずっと家の格式の中で育ってきましたから……汚い言葉は覚えるなと何度も注意されましたし、ワタクシと言うのも強要されましたわ。それもこれも、剣と人間的な美が我が一族の至高とされていたからですわ」
エルナは自身に誇りを持って語った。
「お望みならこういう喋り方だって出来るわよ」
エルナはレミルのように言った。それがおかしくてユウトは笑う。
「似てないよ」
「まあ、生意気な子ね」
また笑うユウトにエルナもその気持ちを察したように微笑む。ひとしきり笑うとユウトは静かにエルナを見つめていた。
もう寝たらというエルナの優しげな言葉にユウトは素直に目を瞑り眠ることにする。それからユウトは朝まで起きることはなかった。
その日、ユウトはシーナの夢を見た。シーナが魔法を使ってユウトに自慢しているのだ。
二人は自由なところにいて、仲の良い友達同士のように話し合う。そのうちにシーナはユウトを叩き始めた。あまりに痛いのではっと飛び上がると、ユウトは目が覚めて薄明るい景色に疑問を感じながら身を起こす。
「ユルト、寝る時間は終わりよ」
はたと周囲を見回すと動ける者は何かを集めていた。昨日よりも遙かに多い人数の人が周りに居て一安心する。それと同時にレミルに至ってはユウトに目もくれずヴェズットの方へ歩いて行き、何かを話している。
「ユウト君、ちょっといいかい?」
ヴェズットはレミルとの話を終えるとユウトに話し掛けてきた。その表情は昨日と変わらずで疲れを感じてはいないように見えた。苦虫を噛みつぶしたようにヴェズットは視線を倒れている者達に向ける。
「今朝方他の生存者と集合できたんだ。それでみんなは帰ることを決断した。怪我人を運んで帰るという人たちが大半だ。君も船に呼ばれただけになってしまったし、ここら辺で彼らに同行して帰ったほうがいい」
ユウトはヴェズットの悩ましげな顔に疑問を抱く。
「もしかして、ヴェズットさんたちはこのまま進む?」
その声にヴェズットは眼力を強めた。怒られるのかなと思ったユウトだったが、その声は酷く弱々しい。
「そうだ、我々は行かなければならない」
ユウトと視線を合わせないままにヴェズットは背を向け歩き出したときだった。颯爽と走ってきた男の一人がヴェズットの脚を止める。
「たった今、確認が取れました。北レレヌ陸軍がこちらに向かって進行しています。数はおよそ2万。先日のイノセントドラゴンの影響か魔物の影も少なく、進軍は順調とのことです」
「そうか……ならば進める。こちらには負傷者も数多くいる。報酬目当ての人間とはいえ、見捨てるわけにもいくまい。負傷者千人ほどの帰還準備を整えるよう伝えてくれ」
「はっ」
男は魔法で俊足にして走り去る。あんな使い方もあるのだとユウトが思ったとき、レミルも似たような魔法を使ったのを思い出した。
「ユウト、あなたは帰るのですか?」
エルナは昨日は見ていなかった剣を腰に下げていた。それは普通の剣であったが、どこで見つけたのかそこそこ値打ちのしそうな装飾が施されている。
「帰るよ、もともとそのつもりだったんだ」
エルナは何か強い意志を持った目で頷いた。
「なら私が途中まで同行しましょう。その……ユウトは少し心配なので」
「大丈夫だよ、ほとんどの人たちは帰るんでしょ?」
エルナは聞こえていないという風にそのままどこかへ行ってしまう。ユウトには何がエルナの機嫌を損ねたのか分からなかった。
「おい、そこの。手が空いてるなら手伝ってくれ」
それから皆にユウトの働きぶりを買われたおかげでユウトは時間が経つのも忘れて怪我人の荷台などに使う板を集めていた。護衛に徹していたレミルたちが出発するというので、そこでユウトは時間が経っているのを思い出した。
「ユウト、本当に帰るのですか?」
「うん、僕はもともとこの任務に興味はないから」
「そう、でも2万の軍隊で一つの剣を探すんだからすることはきっと何もないわ。私はヴェズットさんと組んでるから余計に暇そう」
レミルがヴェズットに優しげな視線を向ける。ユウトは少し哀しい気分になったが、レミルが笑って振り返るとそのもやもやとした気持ちはなくなった。
「また会いましょう。同じ剣の道にいれば多分すぐだと思う」
「うん、また会おう」
「今度会ったときはちゃんとした剣士でいてね」
ヴェズットの元へ早足に歩いて行くレミルの後ろ姿をユウトはぼうと眺めていた。自分にも魔法が使えたらとそんな風に考えてユウトは元の世界に帰りたかった自分を思い出して笑いそうになる。
「ちゃんと仕事してる?」
「え?」
エルナが唐突にユウトの後ろから声を掛けてきて、ユウトは持っていた板の束を危うく落としそうになった。
「あの子は才能だけじゃなく、運も持ってるから狙うならもっとそばにいないとだめだわね」
「あの子ってレミル?」
「そうよ、それ以外に誰かいて?」
ユウトは顔がなんとなく熱かった。なぜかはわからないが、ユウトはレミルの直向きな心に打たれていた。それはこの世界に来てからユウトが感じたことのない感情だったし、ユウトには持つことの叶わないほど剣へまっすぐな心の持ち主だと感じていた。
「エルナはもっとレミルのこと嫌ってるかと思ってた」
「あら、どうしてそう思うのかしら」
「だって、いつも喧嘩してたし」
「お互いにないものを持っていれば喧嘩もするでしょう。ですけど……」
その後、エルナは声を発しなかった。ユウトはそこでふと、レミルとエルナが会ってから喧嘩どころかあまり会話していないことを思い出した。
「なにか嫌な予感がしますわ」
その言葉にユウトは言い知れない不安を覚える。レミルは自分の目的意外が見えない。それを不安と言い換えるならレミルの目的とエルナの目的はどこまでも違っていた。
九、異変
「それじゃ、我々も出発しよう」
船の残骸でつくり出された大きな荷台に20人ほどが乗る。そこにメイジが五、六人がかりでフライを唱えて宙へと浮かせた。
身を起こせない者は直接一人のメイジが宙へと浮かせて運ぶようになった。
ユウトとエルナは魔法が使えないので最前線で護衛にあたる。比較的遠距離魔法が得意なメイジは後衛で敵を警戒した。
「しかし、たったあれだけの人数で先に進むとは大した奴らだよ彼らは」
「王国神官クラスに加えて名のあるメイジばかりだったじゃないですか」
「所詮彼らは人の命より名誉が好きな連中だよ」
「名を馳せることがそんなに好きなら最初から飛空船になど乗らないでほしいわ」
前を歩くユウトたちの耳には怪我をした彼らの陰口が否応無しに聞こえてくる。
「もう少し前を歩きましょうか、ユウト」
「え、どうして?」
「だって、酷い顔をしていますわ。彼らは力に憧れているだけで決して悪気はないはずですもの」
「うん……悪口を言っていることは別にいいんだ……ただ、レミルも名誉のために行ったのかと思って」
「あら、見当違いでした? そうですわ、もし剣を見つけて持ち帰ることができたらレミルは王国一の剣士となるでしょう。それはシャラ様と同位の名誉かそれ以上ですわ」
「シャラ姉さんってそんなに凄いの?」
「ええ、私たち剣士の国では三年に一度国の最高剣客を決める試合があるのです。それに優勝したのがシャラ様ですの。王宮最高剣士としての名誉は王の言葉に対して口を挟むことができるほどの権威を持つので、私たちにとってはまさに王と同じといっても過言ではありませんわね」
エルナは早足で部隊の前へと出た。隊長の男バインがユウトたちにあまり遠くに行くなと言ったが強く阻止するつもりはないようだった。
「エルナも名を売るために来たって言ってたよね?」
駆け足で追いついたユウトはエルナの横に並ぶ。金の髪が揺れて綺麗な横顔がふと現れた。
「そうだと思っていました。レミルに会うまでは」
「どういうこと?」
それを聞くとエルナは黙った。その先の言葉は知らないとでもいうようにただ髪だけが風に揺れて時間を現している。整った輪郭と表情に変化があったのはユウトが他の話題をしようとしたときだった。
「ユウト、恥ずかしい話ですけれど私はあなたを少し気に入っていました。あの日に森であなたが剣を探していたときにふと言った言葉」
神妙な声色で話し始めるエルナはいつもと違っていた。口調だけではなく何か大切なことを言おうとしているようだった。
「覚えています? 私の剣についてユウトは綺麗だと仰いました。あんな宝石の一つもない剣を綺麗と言える人間は少ないんですのよ」
お世辞だとしてもそう言えるものではないとエルナは言うが、ユウトは単に造形の美しさを言ったのだと言うとエルナの顔は綻んだ。
「やはり一族の剣を褒められるのは中々に良い気分ですわ。私はあの剣をシャラ様に貸したと言いましたけれど、あれは嘘です。どんな場合でも何があってもそんなことにはなりません。だから不思議なのです、私があの船の上でユウトに会ったとき私は何故か救われた思いがしました。その理由も自分がどうなってしまったのかもわからないのですけれど」
最後はエルナの声が震えていた。いつも気丈なエルナが自分の肩を抱いて握りしめていた。
「大丈夫だよ、きっと思い出す。本当だよ」
ユウトは咄嗟に嘘をついた。何故ならこれでシャラがエルナの剣を持っていたことの理由がわかったからだ。何故ユウトの前にエルナが現れたのかはわからなかったが、ユウトはエルナの剣を取り返そうと思った。そうすればきっとエルナは全てを思い出すという確信がユウトに沸いてくる。
「ユウトに励まされるなんて、私も弱くなってしまったのかしら。会ってからまだ数ヶ月しか経っていないというのに……本当に強くなったのね」
「それがお世辞?」
「――そうですわね」
エルナは他にユウトに言いたいことがあった。しかし、それは決して言わないことにした。エルナはユウトが強くなった理由はきっと他にあると確信する。レミルでも自分でもない何か大切なものをユウトは見つけて強くなった。自分には出来ない方法でユウトは心の拠り所を見つけたのだとそう感じ取ってしまった後には後悔が残った。
薄暗い荒野の中をひたすら東へ向かって歩いていた一行は救援隊と思われる影を発見した。
先に発見したのはもちろんエルナとユウトの二人だった。ところが、ユウトの向上したはずの体はひしひしと戦慄に震えている。ユウトの眼球に映った影は皆が想像していた助けではなく、明らかに異様なそれだった。
「何かあの人たちおかしくありませんこと?」
「大変だ……」
数多の軍勢は全てが人ではなかった。正確には人は1人しかいない。見たこともない男。その手には弓のようなものを持っている。その一部が妙な赤い光を放ちながらこちらへ向かってきていた。
「敵だよ、あれ。全部たぶん魔物だ」
「何を言っているのですかユウト。2万の援軍ですわ」
「エルナもさっきはおかしいって言ったじゃないか」
「言いましたわ、それは何となくぼやけて見えるからで――」
後ろのメイジたちがその影に気づいて声を張り上げた。歓喜に打ち叫ぶ声がエルナの声をかき消してユウトたちは立ち止まったまま追い抜かれていく。
「エルナ、僕にはあれが魔物の軍勢にしか見えないんだよ」
「そんな、あり得ないですわ。何か幻を見ているのではありません?」
「でも本当にそう見えるんだ」
エルナはユウトの目をじっと見てから踵を返した。
「逃げましょうユウト、それが本当ならこの先は誰1人助かりませんわ。仮にユウトの見間違いだったのならすぐに戻ればいいのですから」
「でも、みんなを置いていくの?」
その時、徐にエルナは頭を抑えてしゃがみ込んだ。ユウトは心配になって駆け寄るとエルナは目蓋を堅く瞑って呻いている。
「大丈夫……?」
「大丈夫、ちょっと立ちくらみですわ。ユウトに従います、どうにも私は大事なことを思い出しそうになると頭痛が酷くなるようで……」
皆が援軍に喜び向かって行く中、ユウトたちは走りながら荒野のどの方向へ向かうかを見渡す。前方の大群を考えれば後方に走り続けるしかないが、見渡す限り木の一本とない。隠れて逃げるのはほぼ不可能と思えた。
「――――ッ」
その判断のすぐ後に地獄の蓋が開いたような叫声が響き渡った。
「幻惑の魔法だ! あいつら全部魔物だぞ!」
誰かの声に皆が絶望に陥った。助かったと思った後にその圧倒的な恐怖と失意は皆の疲れ切った心を一瞬で手折るだけのものがあった。
「逃げろ! 逃げろお!」
陣列を乱してしまった一行に軍勢に対する抵抗はまるでない。何重にも地面に飛び散る血飛沫、あっという間に多くのメイジたちが喰われ、引き千切られていった。オークや牙を持つ四足歩行の獣たちは数でメイジを引き離し、孤立させて喰らう惨劇が繰り広げられていった。
「とにかく走ろう」
ユウトは全速力で元来た道を戻っていく。しかし、エルナはあっという間にユウトと距離が開いてしまい、ユウトはエルナを背負うことになった。
「エルナは速く走る魔法がないの?」
「魔法は使えないですわ。体内マナの出力変換をするレンゲルという秘技が我が国にはあるにはあります……。私は目と腕にはレンゲル出来ますけれど、脚はからきしですの」
ユウトはそんなマナなどなくともエルナを背負って人間よりは速く走っていた。エルナはそれに驚いて目を丸くする。
「ユウトはレンゲルが可能ですの? ただの人でどうやってこんな力をつけたのです?」
「最初は何もできなかったけど、だんだんと強くなっていったんだ。これだって昨日できるようになったんだよ」
「む、無理ですわ。いくら強くなるとはいっても限度があります。こんな際限なく強くなるなんてことは無理――ユウト、後ろから追って来ていますわ!」
エルナが気が付くより早くユウトは感じ取っていた。この速さに追いつくような魔物は四足歩行のモンスターだと判断する。いち早く追って来ている一匹に狙いを定めてユウトは無我夢中で土煙を上げながら真後ろを向く。
「グオッ」
狙い澄ましたかのように砂埃を裂く魔物の牙がユウトに射られた。エルナを担いだままだったユウトはその牙の顎下へ蹴りを放つべく上体を反らせて踵を突き上げる。ユウト自身が驚くほど巧く入った蹴りは針のように鋭く大砲のようにでかい音を立ててその顎と牙を打ち砕いた。
「…………」
ぱらぱらと頭上に降り注ぐ砂と共に魔物が一緒に落ちてきた。
「ユウト、今のあなたがやったの?」
「そうみたいだ……」
決して小さくはない四足歩行の魔物。リトルキレラよりは遙かに大きいそれをユウトは蹴りの一撃で倒してしまった。
「早く逃げましょう。走れます?」
「うん」
その砂煙が幸をなしユウトたちの追っ手はそれ以上なかった。本隊を離れた二人の位置は誰にもわからず、ただ当てもなくユウトは歩いていた。
「そろそろ降ろして頂けます? もう大丈夫ですわ」
ユウトはそっとエルナを降ろすと辺りの様子を見ることもなく歩き出す。
「ユウト? 泣いてらっしゃるの?」
エルナから顔を逃がすようにしてユウトは目を擦った。
「僕が逃げなければあいつらを倒せたかもしれないのに、僕に勇気がないから……」
エルナの青い瞳の端がきりとつり上がった。
「では死んでも良かったの?」
「僕のこの力があれば救えたかもしれないじゃないかっ――」
ユウトはエルナの平手が自分の頬を打ったことに驚いた。ようやくエルナの顔を見たユウトはその表情に何も言えなくなる。
「あなたが死んでも誰も助かりませんわ。よろしいこと? 戦場で力があるならまずは生き延びることを考えなさい。何があっても、例えどんなことがあろうと死ぬことを顧みずに戦うことはその時点で敗北しか残されていないの!」
エルナは本当にユウトを心配していた。それはユウトにも感じられた。ユウトが謝ろうと口を開こうとしたときエルナがはたと目を見開いた。
「思い出しましたわ……私、シャラ様と会っています」
その後もエルナは頭を片手で押さえて軽い頭痛を我慢し始める。
「……思い出そうとすると頭に釘を刺されるようですわ」
「無理に思い出そうとしちゃだめだよ……。それよりごめん、もう二度と死んでもなんて考え方はしない」
「……そうですわね、そんなことを考えるときは好きな子を守るときくらいにすることですわ」
力無く発するエルナは疲労が垣間見えた。一日中歩き続けて、日が沈み始める。未だ辺りは荒野のままで一体自分たちがどこへ向かっているのか、二人には到底わからなかった。
日も沈み駆けてきた頃エルナが足を止める。
「もう休みましょう。戦える気力も残っていないと魔物に遭遇しただけで終わってしまいそうですわ」
どうやって休むのかというユウトの言葉にエルナは適当な場所に座れと指示した。
「こうやって背中を預け合って座ったまま眠るのですわ。剣士であれば休息時も気を抜けないことがありますから」
エルナの背中は冷えていた。焚き火もなく、とうとう辺りは何も見えなくなってしまう。
「せめて月明かりが出ていればよろしいのに……」
ユウトは暗闇で気配を感じ取る力が研ぎ澄まされていくように感じていた。
そうして、エルナの体から心臓の音がしないことがわかってしまう。
「ユウト、起きてます?」
不意にそれから声が上がってユウトはびくりと体を震わせた。
「ふふ、暗闇が怖いんですの? 私はなんだか懐かしい気がしますわ」
ユウトはエルナに事実を伝えることは躊躇われた。何故だかそれを言ってしまうと全てが終わってしまうような気がする。
「昔の話ですが、暗闇で眠れない夜を過ごすときはどうして人は火を焚き、明かりを求めるのかと幼心に考えを巡らせていました」
「何かわかったの?」
「いいえ、そういうときは決まって蝋燭の火を灯した兄がやってきてくださいました。とても嬉しかったのを覚えていますわ。ただ目の前で蝋燭の火を置いて寝るまでいてくださいました。今思えば、私はきっと怖かったんだと思います。兄や父の強さでさえ敵わない敵が外には沢山いると教えられていましたから」
それからエルナは急に口を噤んだ。どこからともなく遠くの方から何かの鳴き声がするのにユウトは耳を傾けていた。不意にエルナが立てた靴と砂の擦れ合う音がその意識を元の場に戻す。
「その後、私が剣術試験で合格すると同時に私は一族の分家として剣を授かり家を追い出されましたわ。娘というのは格式ある家には邪魔な存在だったようです、当然私にいたはずの優しい兄もいなくなりました。無用に本家に立ち入ることさえ禁じられた私は1人で名を上げるしか生きていく道はなくなった……」
レミルに似ているとユウトは思った。それでも親に捨てられるということがどういうことかユウトには想像するだけで恐ろしい話に思える。
「それでこの任務についたの?」
「そうですわ。この任務は私の国の誰もが参加したかったはずです。私たちにとって名誉とは単なる飾りや稼ぎの手段ではなく人として扱われる温もりを得ることにさえ等しいものですから」
「そんなの哀しいよ。戦わないと人として扱われないってことでしょ?」
「哀しい? あの国ではごく当然のことですわよ。誰もが孤独な剣士です、だからこそ個の力が強いのですわ。集団に属しながら他を凌駕する1人の強さ、魔法と並ぶ強さを得ています。いずれ、ユウトにも見せるときがくるでしょうけれど」
ユウトはそんな国の在り方に疑問を抱いた。強さだけを求めることがエルナの言った生き残る道なのだろうかと考えたからだ。
「ありがとうユウト。少し話したおかげで眠れそうですわ」
エルナはそう言って静かになった。きっとエルナは今もまだ怖い夜の中にいるのだろうとユウトは思う。けれど、エルナにとって兄はもはや他人に近い存在、エルナはそれを耐えた。強くなったわけじゃなく、怖さを回避した。
ユウトは何か答えのようなものを見つけた気がした。けれど、それは明確な言葉にならないままユウトは眠りに落ちていく。
その夜、ユウトは元いた世界で暮らしている夢をみた。しかし、空腹と喉の渇きに目を覚ましてその夢はすぐに終わりを告げた。朝日が山の境界線を照らし始めた時分、エルナはとうに起きていてユウトの後ろで剣を手にしていた。ユウトは背中の寂しさを覚えながらゆっくりと立ち上がる。
「おはようございます、ユウト。その、昨日話したことは忘れてくださいな。はやく帰れるよう頑張りましょう」
いつになくやる気のエルナにユウトは気圧されたが、ユウトも少し元気が出て行き先を相談した。
「日が昇る方向に秘境の地域があるはずですわ。日を頼りに反対側へ歩いていけばどこかに着くはずです」
「魔物の大群と出遭うことは?」
「もうとっくに私たちを追い抜いているはずですわよ」
土地勘も地理もないユウトだったので、エルナの話に合わせて2人は歩き始めた。時折視界に入るのは魔物の類だが、彼らはユウトたちが疲れ切る頃合いを見計らって遠くから着けて来ていた。わずかに持ち歩いていた食べ物や飲み水はどんなに節約しても二日と持たない。
「何も悲観することはありませんわ。この領域が神域と呼ばれているのには未開の地というだけではなく、神が住んでいると云われているからですの。こうして生きているということは私たちが神の許しを得たということです。必ず抜けられますわ」
本当に見渡す限りの荒野のそれをただひたすらに進み続け、2人はとうとう日が暮れるまで進んだのに何も発見できなかった。
ユウトはその間、エルナといろいろな話をした。お互いの生まれた場所や出会った人たち。ここでの誕生日は300日で祝い、その後80日経つとマキナと呼ばれる本人に宿るマナを祝うのが一般的だという話もした。
「私たちは全てマナによって生かされていますわ。ユウトのいう科学というものも気になりますけれど、私たち人類はマナの力で生活を豊かにしてきましたのよ。それがない世界なんて私には想像できませんわ」
火を起こすにもマナの力を使い、小さい魔法なら誰でもエレメンタルと呼ばれる鉱石を使えば起こせるという。
ユウトの話でエルナが一番面白がったのは宇宙に行く話だった。
「この世界では空の星の光に近づこうとする者はおりませんわ。それは昔からの信仰のようなものですが、あの星の光がこの世界にマナを注いでいると伝えられております。ですからあの光一つ一つが神様でそれに近づくという発想はこの世界にはありません」
エルナの話はユウトを楽しませた。こちらの世界では目に見えない力が当然のように認められていて、それを神の力でもあり、マナの力であると言っている。
それを扱えない人間はメイジではないが、普通の人間ともならない。ある日突然マナに目覚める者がいて、そういう人間はライジという特別なメイジになるという。
また、エルナのように体内のマナを肉体の強化に使う人間はフェクというなど、この世界の話にユウトは徐々に心が惹かれていった。そうしてエルナは最後にユウトへ言った。
「でも、ユウトの強さは多分そのどれとも違うものになるんでしょうね。望むだけ強くなれる人間がいるとしたらきっとあなたのような特別な存在なのですわ」
ユウトは自分が使い魔であるということを言っているのだと思った。ユウトは自分が望んでいるだけ強くなっているとは思っていない。ただ、望むしかなかった場所に放り込まれた。そして、生き抜いただけだった。
2人は日が沈みきるまでは歩こうと決める。体力の温存を考えていても今日の夜には背後の魔物に襲われる可能性が高かったからだ。それはほとんど目を瞑って戦うようなもので集中力と体力で勝ち目がないことは2人ともわかっていた。例え暗くなったとしても歩き続ける選択をするしかなかった。
お互いの息づかいは視界が奪われると同時に明瞭となってくる。まず遠くの大地が消えた。そして空が大地が、徐々に電灯を消すようになくなり、2人は完全に闇の中に放り込まれる。
「背中と足元に気をつけて」
エルナの声の場所は確かにユウトの隣だった。緊張や不安を含んだ声。ユウトは空から星の明かりが漏れないかと見上げたが、そこには厚い雲の層が広がっていた。
ざらざらと2人分の足音が淡々と流れる闇にもう一つ、音を殺した魔物の気配が忍び寄るのがユウトにはわかる。まだ、魔物はユウトたちが戦えると見てか仕掛けてはこない。
それはまさに殺意の読み合いだった。敵がゆっくりと距離を詰めてくることにユウトは死の想像をかき立てられていく。それとは打って変わってエルナはただ前だけを見て生き残る想像だけで歩み続けていた。エルナはユウトと違い、音を立てない魔物との正確な距離や殺意を読み取れていない。ただ、一歩でも多く足を踏み出すことがエルナにとっての戦いだった。
ユウトがすぐ背後に迫った魔物の気配に息を呑んで振り返ったときだった。
「ユウト、明かりが見えませんか?」
遙か先に点と光るもの。それは間違いなく人のものだった。
「走れ! エルナ!」
緊張からユウトはそう叫んでいた。同時に魔物の咆哮が轟く。
「「――――」」
ユウトはその咆哮を冷静に聞いた。その瞬間、音の反射の鈍い場所に魔物がいることがわかる。空間にどれだけの魔物がいるかを瞬時に判断できたのはユウトの研ぎ澄まされた感性と才能といえた。
砂を踏み込むわずかな音をユウトは逃さなかった。突きだした剣先に手応えが走る。
びしゃりと土に転がった音は間違いなく、ユウトが斬り伏せた魔物だった。
「ユウト! あなたも早く!」
エルナは走りながらユウトの後ろ遠くで叫んでいる。ユウトが背を見せれば目標は2人になる。ユウトの脚を持ってしても速さの勝負ではエルナが圧倒的に不利だった。だからユウトはここで魔物を討つと決めた。
ユウトの必要とする剣術はシャラの見せた剣舞をさらに超える全方位に対して万全のものでなければならなかった。加えて身長が低く、武器が重たいユウトはここでさらに工夫が必要となる。
魔物はそんなユウトの焦燥を嘲笑うかのように嘯(うそぶ)く。その度に伝わる魔物の位置。ユウトはそれが軽く20になることを識って冷たい汗が流れた。
すっと2匹目の餓狼が跳び出した。ユウトの腕に一筋の朱が走る。すかさず反転させた身体から縦に一振りしたユウトの剣にまたも手応えが伝わる。
ユウトは剣を逆手に持ち替えて体の中心に添えた。足は閉じて目を閉じる。余った腕を胸の前へと突き出して静止する。襲ってくる敵の足音に耳を傾けるだけの静態。
一見愚行に見えるこの態勢がユウトの最善と導き出した姿勢だった。
魔物の気配が同時に動く。ユウトの脹ら脛と前に出された腕を狙って飛び出す。
刹那、ユウトの剣が反転を繰り返し脚を狙った魔物の喉に食い込む。次いで空を切った牙の持ち主にはユウトの手が触れた。瞬間、その魔物は喉元を掴まれ地面に叩き付けられる勢いで一回転し、そのままユウトの手によって宙へと放り出される。
この間、足音が再び鳴った。斬り伏せず宙に放り出したのは正確な位置を識るために地面へ音を響かせないためだった。
4匹目は姿勢の低くなったユウトの脚に顔面を蹴り飛ばされ宙返りする。その衝撃に頸椎を骨折した魔物は死に耐えた。5匹目はユウトの首元を狙って飛びかかっていったが、ユウトの剣に下から串刺されてそのまま6匹目と衝突した。7、8匹目はユウトに怪我を負わせようとでたらめに飛びかかっていったが、ユウトの身がひらりと縦に回り空を切る。そのすれ違い様に剣が二体の胴を引き裂いて地面に下りる頃には内臓を散らして倒れた。
9匹目から13匹目は仲間の死骸を飛び越えて襲いかかったのでタイミングがバラバラだった。ユウトの脚が軽快にタイミングを踏み、その後に続くように宙で滞空する隙間へ剣が走る。その剣捌きは重さを利用した切断機でそのままの状態で半分ずつになっていくそれはまるでバターでも切るかのようだった。
14匹目は本気でユウトを殺すべく自身の限界に相当する速度で左右に音を立てながらジグザグに迫った。かくしてその撹乱法は幸をなし、ユウトの顔面に牙を肉迫させた。しかしその瞬間にまるで見えない空気の壁にユウトの身体が押されるかのように遠ざかるのを魔物はただ自分の武器が牙しかないことを呪う。
ユウトは単純に魔物が飛び出すタイミングで身を仰け反らせて距離を稼いでいたのだった。魔物が重力に従って地面に降り立つと同時に上から降ってきた3匹目と同時に二つになってしまう。
これがユウトの最初で最後に訪れた最大の隙だった。完全無防備になった背中に15匹目からの3匹が一斉に飛びかかる。ユウトはそれを察知して宙返りするように身をそのまま上空へ投げ出すといよいよ3匹がどのような配列で自分を襲ってくるかがわからなかった。
何もない空間に死線を探るユウトに対して3匹の魔物はここぞとばかりに狙いを決めていた。ユウトはあえて闇雲に攻撃せず空中で初期の構えに戻ることを選んだ。
しかし、それは厳密には間違いがあった。剣を持った手を前に出して、ユウト自身の壁としたのだった。3匹より一瞬早く着地したユウトがその状態なので魔物は中心の1匹を残して残りの2匹はユウトの脚の端を狙って飛びかかるしかなかった。
ところが、魔物が見ていたユウトは一瞬のうちに剣とおなじ幅に重なって見える。
見せていた体を横にして視覚の錯覚を利用したユウトに魔物は食いつく目標を追うためにユウトへ過剰に踏み込まなければならなかった。工程を一つ増やされたところで2匹は今更引くわけにもいかず、たかが服へ噛みつくために地面を踏み込むがその間が3匹の連携に致命的な隙を生んだ。
ユウトの正面にそのまま迫っていった牙は剣が正眼に持ち替えられたことで剣先の上を滑るように下りてしまう。そのままユウトの首に迫る頃には半身が切れてしまい、ユウトもその手応えから身を引いていた。踏み込んだ2匹に至ってはユウトが身を躱す際に位置を把握されていたために靴の端を食いちぎっただけとなった。
戦いは歴然としていた。半数以上を殺された魔物は圧倒的な実力差にもはや戦うことをやめて逃走に切り替えていく。
やがてユウトの周りに明かりが灯り始めた。
「ユウト、大丈夫ですか? お怪我は?」
エルナの顔は涙に濡れた後があった。ユウトを置いて逃げることに葛藤があった証である。ユウトは笑顔で大丈夫と告げると男たちから感嘆の声があがった。
「明かりもないのに魔物を殺したのか?」
よく見ればその一団は武装していて、屈強そうな男たちばかりが連なっていた。
「そうだけど……」
男たちは口々に驚きや興奮の言葉を口にする。すると、列の中から一際絢爛で派手な男が現れた。身に纏う甲冑が色鮮やかに装飾されているだけではなく、男の表情にはいくつもの死線をくぐり抜けてきたかのような深い彫りがあり、見るものを威圧するような表情でユウトに語りかける。
「我々はレレヌより派遣された任務助力、及び遂行のための援軍だ。君たちを飛空船撃沈における貴重な証人として保護する」
その後、男の視線はユウトの殺した魔物に向いた。
「隊長、お言葉ですが相手は子供ですよ。私にはそっちの娘のほうがまともな証言を得られると思われます」
「隊長である私に意見する気か? この幼いながらにリゴの錬金術師を思わせるような強さ、これがただの人間の技でないことくらい貴様はわからんのか。我が国にとって利益ある者は極めて丁重に扱う。それが隊長としての私の決定だ」
エルナは保護されるとは言われていない。ユウトは連れて行かれそうになるところを寸でのところで留まった。
「僕を連れて行くならエルナも一緒だよ」
ユウトはそう言ったが、そばにいた兵士の1人は兜の下から不思議そうな声を上げた。
「エルナ? あの小娘のことか? なんだお前らその歳で一丁前に色気づいてるのか」
「そうだよ、悪いか!」
ユウトはこのままではエルナが置いて行かれると思った。出任せに叫んだ言葉は兵士たちに思わぬ波紋を広げた。
「おい、みんな聞いたか?」
「ああ聞いたよ。こんな戦場で惚気を見せられるとはな」
「お前彼女いたよな。彼女相手にここまで叫んだことあったか?」
「いや、ない。こいつは末恐ろしいぞ」
「隊長! さっきの声聞きましたよね? そこの小娘はこいつの連れ添いだそうですよ」
「男に二言はない、伴侶なら丁重に扱ってやれ」
エルナはいつの間にか縄を掛けられていたが、それが解かれてユウトの横に突き出される。
「丁重に扱ってくださるんではなかったですの?」
「こっちは楽しみが一つなくなったんだ。せいぜいそっちの王子様に良くしてもらえ」
2人は隊列の後方へと送られて行くと、そこにはマントで身を包んだメイジが多くいた。
「この子たちは?」
「先のところで保護した。メイガン少佐の言伝だ、飛空船から生還したと思われるが詳しいことは聞いていないため今後の重要証言者として丁重に扱え」
男が去っていくと、メイジの1人がエルナとユウトを交互に見た。
「治療が必要な状態ではないようね」
木の棒にくべられた明かりが再び一列に並び列を成す。その列はいくつか横にあったが、数が多すぎて判断がつかない。2人がわずかな水を分けられてそれを飲み干している間も隊列は進行を止めなかった。
「大隊ですの?」
「そうよ、我が国レレヌは飛空船撃沈の報せを受けてクエストにさらなる兵力を投入した。私はマレージ師団の三個大隊の1つに属しているわ。他の師団の後続部隊もいるから安心していいわよ」
「でも、このままだと任務遂行に付き添うことにならない?」
「何、不安なの? 坊や」
女の声ばかりが聞こえてくるので、エルナはここが軍医の部隊なのだと思った。
「何故夜に進行されているの?」
「目の利かない夜に疲弊していては襲われたときに被害が大きくなるという大隊長の判断よ。見通しの良い昼間に警戒に当たれば、哨戒する負担を減らせるでしょ」
2人はそのまま帰る予定があったことを仄めかした。
「それは無理な相談ね。ただでさえ無理して三個大隊の先行投入をしたのにたった2人のために人員は割けないわ。私たちは任務の遂行を目的としているから個人をテレポートするための道具も持ち歩いていないし、大隊規模のテレポートが認められているのは大隊長が撤退を指示した時か任務を無事に遂行できたときだけ。残念だけれど警護をつけて帰還するのは論外よ」
ユウトはもう何も言えなかった。300ゴールドどころか1ゴールドも得られないまま命の危険に晒されている。しかも、帰る手段は今のところない。1人でこんな闇の中をまた行く気には到底ならなかった。
「(ユウト、今は従いましょう)」
ユウトは頷く他なかった。
「大隊長がテレポートを使う判断ができない場合はどうなりますの?」
「大丈夫よ、不足の事態に備えてマナピースと呼ばれる私たちの国にしかない魔導具があるの。それを潰すとテレポートの魔導具にマナが装填されて一定量を満たすと自動でテレポートするわ。これは私も知らないんだけれど、私たちの一定人数がマグピースを破棄して帰還する意志を示すと隊長の意志とは関係なく総意によって帰還できるって優れものよ」
それを聞いて2人はようやく人心地ついた気分になる。
「安心してくれたみたいね。大丈夫って言ったでしょう?」
ダジープの荷台で休むことも出来ると言われユウトはそれに甘えることにした。
「エルナは休まなくても平気なの?」
ユウトの何気ない言葉にメイジの隊は少し黄色い声に包まれた。
「いくら君がその子を好きでもその歳で女の子を寝床に誘っちゃだめよ。そういうときは君が女の子を休ませてあげないと」
「彼に女性の扱いを教えても良いことがないと思いますわ。むしろ、哀しむ女性が増えるだけですもの」
エルナの言葉にメイジの女は感心した。何かよくないことを納得されているようでユウトは機嫌が悪くなる。
「怒ったの? 顔に出ちゃってますわ」
そう言って近づいてきたエルナをユウトは拒まなかった。魔物との連戦で疲労していたユウトは当然それを避けるような力もない。
「かっこよかったからご褒美ですわ」
「なに? この男の子の虜なの?」
メイジの冷やかしをよそにユウトは額に残る冷たい手の感触に素直に喜ぶことが出来なかった。むしろ、エルナを休ませたらそのまま目覚めないのではないかという不安さえ沸き上がってくる。
「私が虜なんて御免ですわ、女は男を虜にするものです」
女性陣が盛り上がる中、緊張感のないそれに叱咤が飛ぶまでユウトは嫌な予感に締め付けられていた。
十、神偽
朝を告げるかすかな金の蔗境(しゃきょう)に合わせて隊の歩みは泥のように遅くなった。
軽い金属音がするとダジープの引いていた荷台から包みが降ろされ始める。
「休息の合図よ。あなたたちも早く身体を休めなさい」
日が昇るにつれて平野の大地に大気の歪みが沸きあがり始めた。急設のテントの中で休み始める兵たち。騒ぐ者もおらず、ユウトたちも簡易テントの中へと入った。
それからどれくらい時間が経ったのかはわからない。
ユウトがテントの中で寝ていると1人の男の声で目が覚める。
「おい、話を聞けイレン。お前の実力は認めているが、応援部隊を待たなければ被害が大きくなる可能性がある」
「そんなことはわかっている! だから俺1人で進むと言っているんだ」
「何をそんなに急いでいるんだっ」
男たちの気配は遠ざかる。それと同時にユウトは寝袋から身を起こした。ユウトが土の上に足をつけたときには既に日が傾きかけていた。
「よく眠れましたか? ユウト」
「エルナ? 寝てないの?」
静かに笑うエルナは小さく首を振ってユウトを安心させようとしているようだった。
「どうやら私たちのいるこの地点はレミルたちと別れた場所よりさらに奥になるようですわ。向こうに見える山がこの部隊が目指す場所のようですが、魔物がいないことを皆不可解に思っているようです」
エルナの指差す先には確かに山が見えた。夜には気が付かなかった隆起である。
「ユウト、今日は夢を見ていないのですか?」
「え、うん」
エルナはそれきり何も言わなくなる。部隊が進行を再開したのは夜になってからだった。
山の麓まで行き、そこで数日様子を見るという大まかな内容が伝えられると男たちの間ではこぞって安堵の息が漏れた。
歩を進めるにつれて部隊は緊張に包まれていくのがわかる。ユウトもまたその異様な気配に身を固くしていく。
「少し手を握ってくれませんか?」
「うん」
闇の中に煌々と連なるマナを使ったたいまつの火の中、エルナの声はよく澄み渡っていた。
「私が何故、イベセルの剣を持っていないのかということについて思い出したことがありますの」
ユウトはその震える声を聞きながら静かにエルナの手を握った。
「終わったら全部お伝えします。最後はあなたの隣がいいですものね」
冷たい手は恐らく握られていることを識ることはない。エルナがいつもの気品ある笑顔を見せるのと部隊が麓へ到着したのは同時だった。
「これより、本隊は蒼の剣奪取のために応援部隊を待つ。合流したのち全勢力を持ってアガリペラ、偽りの神であるこれを討つ! 神話は今日を持って伝説に、そして伝説はやがて物語にしなければならない。我々の生活にそして未来にも子供たちにも神の脅威は不要なのだ」
しかし、この場にいた誰もがその神の脅威をなくした後は神の名の下に人間が戦いを起こすつもりなのだと悟る。むしろ、そのために神を滅ぼすのだった。誰かが神を味方につけたときはその脅威は絶対的なものとなり、戦争そのものが破綻してしまうからだ。
「いよいよだ……レミルもいるのかな」
ユウトはここに来るまでに結局レミルたちに会わなかったことを不安に思っていた。
「大丈夫ですわ、レミルは私より運が強いですから」
エルナの言葉にユウトは少し安心した。これから挑む敵はこれほどの数のメイジと兵力を持ってしても足りないというのがユウトにはわからなかった。故に見えない恐怖と、ただシーナの元へ帰れればいいという考えが渦巻いていく。
「大丈夫、ユウトは必ず私がお守りしますわ」
レミルはエルナが行方不明だと言った言葉が思い出された。
それからの三日間は長くも短くもあった。三日という期間はメイジたちが大型のテレポートを設置するための期間でそこからは何十倍もの戦士やメイジが送られてきた。
「これなら僕たちの出番はなさそうだね」
その言葉通り、それからの進軍は快調だった。1人2人いなくても変わらないような戦力の大きさで隊はついに頂の近くまで迫った。半刻ほど進軍が止まり、神域最奥に到着したことを皆で囁きあう中、そこでエルナとユウトは軍医の部隊にいながらその声を聞く。
およそ人間が発する限りの最大の叫喚。ただ事ではないという緊張よりも先に恐怖が伝播した。
その動揺と騒動は波紋のように全軍へ拡がってユウトたちを包み込む。エルナと顔を見合わせているとメイジの1人がフードを脱いだ。
「うそ……」
一縷の光。山頂の中からそれは太陽のように眩しく、母のように暖かな光を持って現れたのだった。
「神だ、神がいる」
目の前に現れた光神。アガリペラ(時と慈愛の神)。凹凸の無い顔。翼を広げて赫然とした蒼の剣を守るその形象は神々しく侵しがたかった。
波のように逃げ惑う人々、背を向ける者も立ち向かう者も一筋の光の後に残るのは灰と血と肉だけだった。
「魔法が、全く効いていない……!」
メイジたちは空に逃げるも光線の中に霧へと帰る。剣兵や槍兵は武器を捨てて逃げるも鎧を溶かしてその身を消された。
「な、なんなの……これが神……?」
ユウトはそれに対峙したとき、自分がいかにこの場にふさわしくないかを痛感した。故に、そこから一歩も動けずに全身を硬直させる。
立ち向かう兵達が何百という数で光の前に灰燼に帰する中、ユウトは思う。この蒼の剣がある限り犠牲は起こる。それは誰かが無駄に死ぬという意味であるということだと。
ユウトの隣で誰かの脚が踏み出される。変化は一瞬、踏み出した足先に光が当たったかと思うも束の間、その中にいた者は光の当たらなかった四肢だけを残して消え失せる。
それを見ていたユウトはその奥からやってくる影にまるで気がつかなかった。
「エルナ、あんたも来てたの?」
赤く目を腫らしたレミルが神を背に震えていた。ユウトはその姿に何ら反応を示せず、ただ目の前の無残な光景をぼうと眺めている。
「しっかりしなさいよ! 逃げ遅れたら死ぬの、見て分かるでしょっ」
頬を打ち叩かれてユウトは我に返った。レミルは血の海でも漕いできたかのように血塗れていて大粒の涙を流しながら立っていた。
揺らいだ心に杭が刺さる。ユウトは一瞬でも逃げたいと思った自分を悔いた。
「もう、戦うしかない」
「はぁ! バカ言わないで。一瞬なのよ! 空からマナの光を浴びるのと同じくらい一瞬! 逃げなきゃやられるのっ」
言いながら走り出すレミルの腕をユウトは掴んだ。レミルは驚きにその腕を振り払おうとするが、全くふりほどけない。
「戦うしかないんだよ! よく戦場を見ろッ!」
レミルはユウトの今までにない表情にはっと周りを見渡す。
そこは例えるなら円形の断頭台、アガリペラを中心に円の外に出る者は例外なく血の海の一部と化していた。
「これは……悪い冗談ですわ……」
「あいつは意志を持って俺たちと対峙してるんだ。人間と同じ頭を持って、誰も生かして帰すつもりはない。蒼の剣を狙った人間は全員、死ぬ……」
ユウトの顔は今までにない静かな怒りに満ちていた。対してレミルは薄ら笑いを浮かべて膝を折る。
「ここで死ぬのを待つしかないの……? 私の脚なら逃げられるかも……いや、無理か」
「戦おう、戦わなきゃあいつはここに来る者は全員殺し続ける」
「どうして? 勝てるわけないわ、いっそ殺してほしいくらいよ。あんな怪物に勝てる策なんてあるっていうの?」
エルナはレミルを見下ろして目を細めた。
「見損ないましたわ。あなたがそんな腑抜けだったなんて、学年二位が聞いて呆れますわね。死ぬのがそんなに怖くてどうして剣士なんて目指しましたの? 逃げ帰って一生後ろ指指されて生きていくのがお望みでして?」
ユウトは駆け出していた。まだ生き残っているメイジたちに向かっている。
「彼をご覧なさい。あれこそ、聖剣士(パラド)の姿ですわ」
未だに闘争心の残っているメイジにユウトは的確な指示を出していた。
とにかく岩場を造り、遮蔽物をつくるように言ったのである。1人のメイジがそれを行うと冷静でいるメイジは次々にそれを真似ていく。この混乱の中でもまだ戦う確固たる意志を持つ者は多かった。
「光は岩場の後ろにいる人間には当たらない……」
レミルはその様子を見て呟いた。わずかな光明にレミルは脚に力を入れる。
「みんな、どんどん岩影を作って! 壊されたら壊された以上に大きいのを作って!」
ユウトの声にメイジが1人、また1人と反応する。
光線の弱点でもある直線方向への攻撃は徐々にその勢いを失っていった。
「君、逃げてなかったのか!」
ヴェズットがレミルたちの前に現れて岩を地面から召喚する。
メイジたちの無数の岩によってアガリペラはついに人間たちを見失った。
くぐもった唸りの後、アガリペラが地上に降りてくる。
『……愚かな人間たちに告白する』
その声は空から降り注ぐ声の天蓋となってユウトたちに届く。
『命の放棄は――喜ばしい』
アガリペラの気配は鋭く、空気を乾いたものにさせた。岩影にいたユウトたちに突如襲いかかったのは無数の光線だった。
「うわあああぁぁぁ――」
岩の壁を一瞬で融解させていく光線に巻き込まれる者。メイジは恐れから岩をつくり出すスペルを唱え続けていた。ヴェズットの隣りに一陣の風が舞い込んだ。
「ヴェズットさん、地面に穴を開けられますか」
いつの間にかユウトはヴェズットの元に来ていた。
「ああ、風魔法で掘削の真似事くらいなら出来る」
「ではお願いします。あれに近づくにはもっと注意を拡散させる必要があります」
「なるほど、やってみよう」
十にも満たない年端の子供がこの危機的状況で的確な指示を出す。それがエルナやレミルには信じられなかった。自分たちには何も策が思いつかないでいる。
「あなたは砂を作って下さい。できるだけたくさん」
メイジらはユウトの指示を何も疑うことなく実行していた。この場ではもうユウトの指示を疑う者がない。
「あれをあなたが出来る?」
エルナは唐突にレミルに語りかけた。レミルはただ首を振って応える。
「彼には勝つための軌跡が見えている。シャラがユウトを目に掛けた理由がこれではっきりと分かりましたわ」
その表情は満足げで死地であるのにも関わらずエルナはいつも通りだった。
「エルナは、怖くないの?」
「――だって私、もう死んでますもの」
レミルの声は岩が崩れる音でかき消える。
「レミル、あなたにお願いがあります。生きて、私の剣を取り返してください」
巌の瓦礫に辺りが埋まりつつある中、エルナは深々と頭を下げる。
「そんなの、自分でやりなさいよ。何言ってるのか全然わからない、エルナは生きてるでしょ」
レミルはエルナの手の冷たさにぞっとする。それが自分の手を取られたのだと分かると同時にエルナの胸元にレミルの手が当てられた。
「ね?」
静かに首を振ってレミルは後ずさる。心音がなかったことは容易にわかった。
「意味、わからない」
エルナは腰から剣を引き抜いてレミルに突きつける。その目に宿る闘志は今までレミルが知るどのエルナよりも強いものだった。
「レミル、戦いの時よ。学舎で出来なかった最後の勝負をしましょう、ゴーストの私に負けて永遠に敗北するか。私に勝ってあなたが学年一位になるか、ここで決着しませんこと」
震えは止まっていた。レミルは乾いた喉を呑み込むように動かして剣を徐に引き抜く。
エルナは静かに微笑を浮かべていた。
「あのアガリペラをどちらが先に討つか、よね」
「当然でしょう。ユウトがここまでお膳立てしてくれたんですもの、一撃を見舞うことが出来なくて何がラジエルの聖剣士パラドですか」
合図は光線だった。レミルはその一瞬で首筋に寒気を覚えたが、エルナが駆け出したのを見て反対方向へ自分も飛び退く。
「エルナ、あなたは私の目標でもあったけれど、最後まで勝ったままにはさせないっ」
反対の岩影ではエルナが両手に剣を握り瞳を閉じていた。自分は死んでいると思ってもそれを認めることはできない。痛みを感じないといえば聞こえはいいが、それは自分の体が操りづらいのと同じで大きな有利ではなかった。
「でも」
エルナは顔の綻びを隠せない。かつてここまで心が踊る勝負があっただろうかとさえ思う。シャラと戦ったときですら、ここまでの緊張はなかった。
生涯最後の戦いが神を相手に競うことであると誰が想像できただろう。
自分は結局のところ、根っからの剣士なのだと再認識した。
「私が勝つことに変わりはないですわ。あなたに私から永遠の敗北を差し上げます」
そして、この世から消滅しても自分はラジエル国で永遠に頂点に君臨し続けるのだと決意する。
「はあぁぁぁ!」
アガリペラの左側面から最初に走り込んだのはレミルだった。体内のマナを脚力へ変換した怒濤の踏み込みは大地を割りながらの突進である。
同時に右側面からはエルナが駆け出す。エルナは腕を地面に着いてからその力を最大に使って弾丸のごとく飛び出した。
アガリペラはもはや関係なく、2人はまもなく衝突する線上にいる。
光線が2人を捉えると同時にアガリペラの正面にユウトがいた。
『ッ――?』
その一瞬の影がアガリペラにわずかな躊躇いを与える。その躊躇いは攻撃の遅れに繋がりその一撃はアガリペラの胴に入っていた。
『グ、ぐあぁぁ――』
自分が見たものは一体なんだったのか、自らの傷を気にするよりアガリペラは正面に光線を放とうとする。今度は左右にユウトの影が映った。
『小賢しい人間、大人しく死すれば良いというのだ』
アガリペラはその虚像に目がけて光を放った。
万物は光の速度を超えられない。しかし、光はまた光の速度を超えられない。
映し出される虚像の数々は光によって生み出されるユウトの影。
光量を周囲に拡散させて地下から地上へ向けて幻惑魔法を放ちこれに投射する。
ユウトを襲う光はアガリペラ自身によって認識のズレを起こすことになっていた。
イルミネーションが自分へ迫り来るように攻撃する度にユウトの近づいてくる姿が見える。それは錯覚というストレスとなってアガリペラを苦しめていた。
「――ッ」
神の断罪の剣はまさに有象そのものへの罰。あらゆるものを消し去るツルギ。ユウトはその中をかいくぐりメイジたちの援護の下に翻弄し続ける。岩は崩落し、足場が崩壊してもユウトの脚は止まらなかった。
胴を斬られて体勢がうまく定まらないまま放たれる光は正確性を失いユウトの頭上を通り過ぎて行く。アガリペラの翼がユウトを威嚇するように逆立った。
その目指す足下には蒼の剣。そこに飛びつくように手を掛けてユウトが剣の柄を握ると、水色が発光した。
「取った……!」
剣を獲得すると同時にユウトもまた覚醒する。ルーンがわずかに組み替わり、その色を失うと蒼の剣はユウトを主と認めたようにその身を軽くした。
「ありがとう、みんな」
ユウトの目の前にはアガリペラがただ身を固くして居た。
「お前を倒す。この世界の神はこんなことしちゃいけない」
ユウトがその大剣を担ぐと身体が羽のように軽くなる。アガリペラは意味の分からない咆哮を上げてユウトを断罪にかかった。
しかし、その動きはもはやお互いに人間のそれではなかった。神が光ならユウトはその光すら包括する空。ユウトに光が当たった瞬間、ユウトの体はその隣りに出現する。
『神を断斬する剣、セイラム。魂と神を呑み込む器を……人間如きがッ』
神の剣。まさにそのものだったとユウトは思った。
「はっ――」
太刀筋が動き終わった先に遅れてユウトが現れる。アガリペラに肉迫したユウトはその体を斬るべく剣を振るう。
「…………」
無限に近い一瞬が2人の間に流れ、ユウトはその身体に一刀を放った。
意味のわからない言葉の咆哮がユウトの耳朶を震わせる。
剣に白い光が集束し色をつける。神の姿が剣に呑み込まれたようであった。
『我を殺すのであれば、共に死の契約を』
その契約はユウト自身に死が訪れた時、アガリペラがユウトの時間を食らい神の禁忌を侵したことで自らは定命を以てして消滅するというものだった。
アガリペラはずっとこの時を待ち望んでいたと言う。無限に生きるということは死んでいることと同じであると最期に言った。
それがアガリペラの肉欲であったことはユウトにはわからなかった。
「終わったのですわね……」
静寂に安堵したメイジや他の者が近づいてくる。ヴェズットは地面に空いた大穴から出て来ていた。
「蒼の剣、手に入れたの」
レミルは悔しそうに視線を逸らした。その頬が少しだけ赤く染まっている。
「まあ、惚れない方がおかしいですわね」
メイジたちの間に小さな笑いが起こるとユウトもようやく気をほぐすことが出来た。
「男の俺でも君の戦いぶりには尊敬する。蒼の剣は惜しいが、目的は達せられた。この話は永遠に語り継がれるだろう」
ヴィズットはユウトの肩へ手を伸ばすと握手を求める。
「それもいいけど、きっと語り部はユウトを長身で屈強な姿をした英雄にしそうですけど」
「それがレミルのタイプなのね」
「ばっ、ちがあう!」
エルナは剣を徐に取り外してレミルへ差し出した。
「悔しいですけれど、私の剣を貴女に預けます。もう、あなたと競い合うこともなくなるでしょうから。これからはこれを私だと思って一緒に戦って欲しいですわ」
レミルは悲しげに顔を歪めるとその剣に手を掛ける。
「今ならウソって言っても許すよ」
その小さな呟きに返事はなく、エルナの瞳には怒りとも不安とも哀しみとも分からない涙が溜まっていた。
「私が剣を人に預けるなんてことは決してあり得ないこと。分かるんではなくて?」
「じゃあ、どうして! 体はあるでしょ!」
呼応するようにユウトのポケットが光る。そこから取り出されたのは老人から受け取った小瓶だった。もう幾ばくの光も残っていない小さな宝石の欠片があるように光っている。
「不思議な神の思し召しですわ。最後にあなたの役に立てて良かった――」
エルナはユウトに振り返って頭を同じにすると、少しだけ膝を折って満面の笑みを向ける。
「あなたは剣の道に行くんですの? それとも――」
エルナはユウトの右手のルーンをやさしく頬を撫でるように触れた。そこでユウトはどうしてエルナがあの時見つかったのか、飛行船の中にいた懐かしいあの人が誰だったのか思い至った。
「…………母さん」
「ふふ、まだそんな年じゃないですわ。でももし、来世があるとしたらあなたみたいな子は歓迎よ」
笑いながらエルナはユウトの頭をいつかのように撫でる。その仕草の1つ1つがユウトの忘れかけていた母親にそっくりだった。ここにいるのはエルナに似た自分の母親の偶像だと気がついて、
「俺は、この世界で誰かを守れる剣士になりたい」と言った。
「なれるわ、必ずそうなる」
信じてる。
七年前―― おわり