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2/14 : Cold Valentine

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 窓越しに見える外の景色には、雪がちらついている。
 今朝起きてみて気が付いたことが二つある。
 一つ目は、すでにアパートの前の通りには雪が積もっていたことだ。今年のバレンタインはこの冬一番の冷え込みとなったようで、部屋の中までも冷気が侵入してきそうだ。外を見るだけで体が震える。
 二つ目は、その体の震えが寒さのせいではないということだった。
 つまるところ、俺は風邪をひいた。
 昨日、眠る直前まで俺の頭蓋骨の中で暴れ回っていた頭痛は、今朝になってもまだ尾を引いていた。さらに、熱を帯びた体は、それ自体熱いはずなのに震えていた。布団の中に居ても悪寒が俺を襲う。
 デジタルの体温計によれば俺の体温は三十八度二分ということで、めでたく俺は今日一日、布団の中で過ごすことになったというわけだ。
「う゛ー……」
 かすれた声で唸ってみても、体中の鉛のような重さは抜けない。俺は枕元のティッシュを数枚、乱暴に取り出して鼻をかんだ。体の外に出たのは鼻水だけで、支配的な気だるさは残ったままだ。
 昨日から十分に睡眠を取ってしまった体では、眠りの中へと風邪の辛さから逃げることもできず、俺はひたすらに霞のかかったような意識の中で天井を見つめる羽目になった。
 頭がボーっとしていて物事を深く考えられないのは、ある意味では都合がよい。母親のことで不安になろうにもなれないのだから。
(せめて薬でもあれば……)
 もっと寝心地のいい姿勢を探して、無理やりにだるい体を寝返らせた。
 自宅に市販の薬品がほとんど常備されていないのは俺の怠慢だ。手遅れになってからでないと物事の大切さが分からないのが自分の欠点であることは重々分かっていた。
 もう一度寝返りを打とうかというとき、頭の上で携帯の着信音が響いた。
 布団から離れたがらない腕をどうにかして伸ばすと、ディスプレイを確認した。
「沙織……」
 そうか。今日は……。
「……おす」
 何事もなく振舞おうとして無理に出した声はかすれてしまった。
『今日、うち来てくれない?』
 沙織の声は無味乾燥で、何の含みもないように聞こえる。
「……あ、ああ……行」
 行く、と言おうとすると咳が邪魔をした。
『助、まさか風邪でも――』
「いや、大丈夫だから」
 ――今日は、行ってやらなきゃならない。
『昨日、お母さんのところに帰ってみたら、助だけ具合が悪くなって帰ったって言ってたけど……』
「行くから」
 そう言って支度を始めるために電話を手にしたまま立ち上がろうとした。だが、力がうまく入らない足は俺の体を支えてくれず、俺は再び布団に倒れ込んだ。その時のドサッという音を電話越しに聞いて、沙織が言った。
『ちょっと、無理しないでいいって。大した用じゃないんだから』
「……そうか? 俺はてっきり、本命チョコでもくれるんじゃないかと思ったよ」
『――バカ。アンタにあげるのは、今までもこれからも、ずっと義理チョコだけでしょ。期待しても無駄だって分かったら大人しく寝てなさい――今から行くから』
 ……今から、という言葉を怪訝に思っていると、沙織が質問してきた。
『薬、飲んだの? 熱は?』
「薬は家に置いてなくて。熱は三十八度とちょっと」
 声を出す度に喉が痛んだ。
『ちょっと、それでよくうちに来ようなんて――それに、風邪薬くらい買っときなさいよ!』
 呆れたのか怒ったのか、沙織の声は大きくなってきた。
「面倒で」
『看病させられる方がよっぽど面倒なの!』
 沙織の大きな声が頭に響いて痛む。
「……頼んだ覚えはないんだけど」
『他に欲しいものは?』
 俺の言葉を無視して、沙織が要望を尋ねる。
「……ポカリ」
『分かった。大人しく寝てるのよ』
 そうして一方的に通話は終わった。
 ――世話焼きめ。
「……俺が行くはずが、向こうが来るのかよ」
 呟きながら待ち受け画面の時刻表示を見ると、すでに午後二時を回っていた。朝から何も食べていなかったが、俺の胃は食物を欲していないようだ。あるのは喉の渇きだが、冷蔵庫まで歩いていくのさえも面倒だ。俺は気だるさに身を任せ、布団の中で再び天井と睨めっこすることにした。

 十分ほどして、インターホンが鳴った。
「開いてるよ」
 聞こえるかどうかも分からないような声で言ったが、ドアの向こうの人物はそれを理解して入ってきた。
 わざわざ悪いな――そう言おうとして玄関の方を見ると、そこに居るのが沙織でないことに気が付いた。
「寒い、寒すぎるだろこれ。よう、どうせ今年もモテないだろうから、遊びに来てやったぜ助――って、あれ? どうした助?」
「……薫か」
 よく考えてみれば、俺の実家からここまで来るのだけでも十分以上はかかるのに、買い物含めてこんな時間で沙織が訪ねてくるはずがなかった。
「具合悪いのか」
 薫も布団に臥している俺の姿を見て理解したようで、勝手に上がり込んでくると手にした袋をテーブルの上に置いた。
「……昨日、頭痛いなと思って寝たら今朝からこれだぜ」
「ったく」
 薫は袋から市販の板チョコを二枚取り出すと、一方を俺に投げてよこした。チョコレートは横になっている俺の腹の上へと落ちた。
「なんだこれ……思いっきりMeijiとか書いてあるけど」
「皮肉」
 薫は言うと、自分の持っているチョコの銀紙を外しにかかる。
「お前が食いたいだけだろ」
「だって、一応俺も男だぜ? なんでお前にやらなきゃいけないんだっつーの。チョコくれる奴なんかいないし」
 薫はわざとらしく溜め息をついた。そして俺の様子を見て言う。
「……この様子じゃ、チョコより薬を買って来てやった方がよかったみたいだな」
「ああ、今から沙織薬買ってきてくれる」
 俺が言うと、再び溜め息をついて、薫が言う。
「……あのなあ、沙織にあんまり世話掛けんなよ。俺に電話してくれれば良かったのに」
「向こうから連絡があったんだよ。それに最近、お前にも迷惑掛けてるし」
「俺はいいんだよ」
 薫はチョコレートの端っこを小さくかじった。
「高校の時の恩があるしな」
「その話はもういいよ。充分チャラだ」
 薫は椅子に近づくと、背もたれをこちらに向けて座った。
「……俺のことより、今は沙織のことだろ」
「――それもそうだけど」
 俺は黙り込んだ。薫がテレビを点けていいかどうか尋ねて来たので、リモコンを投げてやった。
「辛くないか? 寝ててもいいぞ」
「ああ、大丈夫」
 薫が来てから、精神的にはだいぶ楽になっていた。それよりも、俺は薫に対してある違和感を抱いていた。
 俺は口を開いた。
「……なあ」
「……ん?」
 テレビの近くにいる薫の顔は、ブラウン管からの光で青白く見えた。
「なんで、俺と居るときしか――」
 タイミング悪く、インターホンが鳴った。
「沙織かな」
 薫は立ち上がって玄関の扉を開けに行った。
「……あれ、薫」
「おっす。遊びに来てみたら助が倒れてた」
「そっか」
 沙織は分厚いコートとマフラーに身を包んでいて、そのコートにはところどころ白い雪が付着していた。
「……忙しいところ悪いな」
 俺はとりあえず座った体勢になろうと身を起こしたが、すぐに沙織に押し戻された。
「寝てなさい」
 俺は大人しく従うことにして、沙織が薬とスポーツドリンクを取り出すのを眺めていた。
「ったく、外は死ぬほど寒いのに人遣いが荒いんだから」
「だから、頼んでねえ」
「せっかく来てくれてるんだから、素直に感謝すればいいのに」
 俺が沙織に言い返すと、薫が笑った。
「ほら、飲んで」
 沙織の左手には解熱剤が二錠、右手にはスポーツドリンクのペットボトルが握られていた。
 結局身を起こすことになった俺は、沙織の手からそれらを受け取ると、薬を二錠とも一気に口に含んでスポーツドリンクで流し込んだ。
「……ありがとな」
「わかったから、寝てなさい」
「……おう」
 なんだか居心地が悪かったが、今ならよく眠れそうな気がした。
 俺が熱っぽい眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかったと思う。
「……寝たみたい」
 この部屋の主は風邪の床に臥し、今は眠っている。憎らしいほど安らかな寝顔だ、と沙織は思った。
「沙織、このあとどうするの?」
 薫が沙織に尋ねた。
「どうしようかな」
 助から薫に視線を移して彼女が迷っていると、薫は新しい質問を投げかける。
「そういえば、助にチョコレートとか持ってきてないの? いつもあげてるでしょ」
「……あるよ」
 沙織は自分の鞄から綺麗な包みを取り出すと、薫に見せた。
「置いてってあげれば?」
「……そう、だね」
 沙織は自分の手に持った包みを食い入るように見つめていた。薫の眼には、沙織がその包みを手放したくないようにも見えた。
「あげたくないの?」
「今はね」
 沙織は今までのバレンタインのときよりも、少しだけ豪華な包みを鞄にしまい直した。
 薫はその様子を黙って見ていた。
 これ以上、何も言わない方がいい。そう感じた。
「薫は、誰かにチョコレート貰った?」
「まさか」
 薫は肩をすくめて見せると、机の上に置いてあったかじりかけの板チョコを手に取った。
「自分で買うくらいだもん」
「ふふ」
「……でもなんかもうね、女の子にモテようとか、あんまり思わないんだよな……」
 薫が呟いた。
「もう十九なら、そんな話の一つや二つない方が変だよ。そこらの女の子よりよっぽど可愛いのに」
「自分より可愛い男と付き合いたいと思う? ――沙織だって、二十歳のバレンタインでしょ」
 沙織は何も言い返せないようだった。代わりに、彼女の鞄に目をやった。
「……渡せばいいじゃん、さっきのチョコレート、今までのとは違うでしょ」
 薫は鋭い。過去数回、バレンタインの助と沙織のやり取りを見てきただけで、今回の「違い」を見抜いている。
「……タイミングがね」
「いくらでもあったでしょ。今まで――チョコに頼らなくてもさ」
「いろいろあるの」
 薫は唇を結んだままだったが、沙織には分かった。
 ――言い訳でしょ?
 彼の眼差しはそう言っている。
「……きっと、そういう目では見てないよ……」
 沙織が呟いた。小さく小さく、呟いた。呟いて、寝息を立てている幼馴染の方を見やった。
「仮に失敗したとして、どうにもならないと思うけど」
 今まで通りの関係が続くだけであろうことは、容易に想像できた。
 ここでもし、万が一成功させられたら、母をもっと安心させてやれるかもしれない。それが付加価値だった。二人の関係が今までよりももう一段階深くなったら、きっと――。
 しかし、今までの間ずっと同じ場所に居座り続けているあまり、彼女の心はそこに貼りついて動けなくなってしまったらしい。剥がすには大量の勇気が必要になってしまった。
「無理強いはしないけど、ね」
 薫が優しく言った。
「うん」
「あんまりぐずぐずしてると、私が取っちゃうよ」
 おどけて言ってみせる薫に、沙織が言い返した。
「冗談にもなってない。そんな趣味はないでしょ」
「そりゃ……まあね。助のことはそんな風に見てないや」
 薫の言葉は若干の不透明さを含んでいた。
「さっき、沙織がここに来る直前にさ、助に聞かれかけたの」
 打って変わって深刻な表情になった薫は、先ほどの沙織のように、助の方を見つめた。
「……何を?」
「確証はないけど、多分――」
 そして、薫の口はそこで止まってしまった。どう伝えればいいのか、もしくは本当に言うべきなのかどうか迷っているらしい。
「言いたくないならいいけど」
「俺……いや、私――」
 また薫は口ごもり、何やらぶつぶつと言っていた。その聞き取りにくい声の中に、「俺」やら「私」やらが何度も現れるのを沙織は聞いた。
 煮え切らないまま沈黙が部屋を支配して、しばらく経った。
 助が寝返りを打つと、まるでそれが合図だったかのように沙織が言った。
「起こしちゃ悪いし、帰ろうか」
「……うん」
 二人は立ち上がって、それぞれコート、マフラー、手袋を身に付けた。
 沙織はしばし自分の鞄の中身を見つめていたが、薫の声で我に返った。
「完全武装、オッケー」
「よし、行こうか」
 沙織は鞄を閉めた。これまでよりも最愛の兄妹に贈られるはずだった苦くて甘いチョコレートは、その役目を果たすことなくその鞄の中に甘い香りごと封じられた。
 二人はなるべく音を立てないようにして部屋から出て行った。
「寒っ」
「寒いね」
 身を刺すような寒さ、白い息、そして降り積もる雪――。視覚からも攻め入ってくる寒さは、何枚も重ね着した衣類の中までも入り込んでくるようだ。
 二人は傘を差して、肩を並べ、家路についた。



 俺が目を覚ました時、すでに部屋には二人の姿はなく、窓の外は真っ暗になっていた。薬が効いたのか、体はだいぶ楽だ。のっそりと起き上がると、後ろを振り返った。
「……やっぱりお前か」
 俺が目を覚ましたのは、気配を感じたからだ。
 そしてその気配の主はお決まりの女神様のものだ。
「様子を見に来てみたら、まさか風邪引いてるなんて。大丈夫?」
 心配そうな面持ちで俺の顔を覗きこんでくるが、若干顔が近い。
「……そういや、今日は弥生に会ってないな」
 俺は距離を取るために立ち上がって冷蔵庫に向かった。
「そうなの?」
「……そうなの、って――一緒に居なかったのか?」
 ハルカは俺の質問に答えないままで、俺の隣に腰を下ろした。
「椅子に座ればいいだろう」
「……一緒に居なかったよ」
 どうしてか、少しズレているハルカとの会話は俺を苛立たせることはなかったが、その代わりに大きな胸騒ぎを引き起こした。
「なんだ、他の仕事だったのか?」
「別に、そんなんじゃないけど」
 目の前の彼女は、まるで表情筋がすべて硬直してしまったかのような仏頂面だった。俺の中の嫌な予感はますます膨張していって、胸をいっぱいにした。寒い。だいぶ楽になったはずの体が、再び寒気を感じ始めた。
「助」
 改まって、真剣な表情でハルカが言った。
「まだ、弥生を助ける気はある?」
「あいつがループの外に出たいって言うなら、そのためには努力する」
 自分に言い聞かせるように言った。
「あいつにその気がないならこのままでもいいと思う」
「……そう」
 素っ気なく言って、ハルカは窓の外を見やった。暗くてほとんど何も見えない窓枠に切り取られた暗闇の中に、一体彼女は何を見ているのか俺にはさっぱりだ。
「正直、俺が助けちゃってもいいのかって最近迷ってる」
 本音が零れた。零してしまって後悔したが、覆水が盆に返らないように、口に出してしまったことを再び喉の奥にしまい込むことはできない。
 ハルカは案の定、俺の言葉とは関係ないことを言う。
「……何にしても、弥生のことを見ていてあげて。寂しがるから」
「確かに今日も会ってないけどよ。そんなに重要なことなのか? それに、寂しがるならお前も会いに行ってやれよ」
 沈黙が流れた。流れたというよりは、沈黙で部屋の空気が固まったと言った方が正しいかもしれない。沈黙は流動的なものではない。寒さでカチカチに凍った雪の塊のような空気だった。
 ハルカはうつむいて、震えていた。
「助のせいにはしたくないけどね」
 この女は、真剣な表情をしていても、涙声でも、俺を不安にさせるのか。
「……何だよ」
 ハルカは大きく息を吸いこんで言った。
「――弥生の担当から外されたの」
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 父は仕事に出ているし、母はこの雪の中、冷蔵庫の中身がほとんど尽きているからと買い物に出かけた。私は今日の夕食くらい出前で済ませてしまえばいいのにと言ったのだが、母はもったいないなどと言って聞かなかった。私が代わりに行くことを提案すると、今度は何か知ったような目つきで、弥生は自分のことを気にしていなさいと言われた。
 母が分厚い衣類を身にまとい、ウールの手袋をはめて出かけるのを見送った私は、食卓の上に置きっ放しになった包装済みのチョコレートを冷蔵庫にしまった。
 この雪だ。これを助くんに渡すのは明日になってもいいだろう。
 父親を助けてくれたお礼も兼ねて、義理でバレンタインの贈り物をしてみようと思い立った私が昨日、自宅でチョコレートを手作りしているのを見た母は曲解してしまったらしい。
「ホワイト・バレンタイン、か」
 呟いてみて気が付いたが、そう特別なことじゃない。
 そうだ、私のバレンタインは、ここのところずっとホワイト・バレンタインじゃないか。
 しかし、二月に閉じ込められてからというもの、恋愛なんてものからは縁遠く、毎回訪れるバレンタインデーは私には全く関係ないものとなっていた。ホワイトだろうがブラックだろうが私にとっては意味を成さないイベントを意識しなくなってから久しい。叶うことならば父親くらいにはチョコレートを渡していたかもしれないが、拘置所の中まで届けようとは思えずにそれもしなかった。
 私は物静かな家の階段を上がり、自室へ向かった。私の足の裏が木の階段と触れる軽い音が、今この家の中で聞こえる唯一の音らしい音だろう。
 家の中は静寂そのもので、誰もいない。誰もいないのだ。
 父もいない、母もいない。
 ――親友もいない。
 今までも何か憂鬱なことがあったときにそうしてきたようにベッドに寝転がると、ハルカの顔を思い描いた。
 最近、今までと比べて明らかに一緒にいる時間が減っている。最低でも一日に一回は顔を見せていたはずの彼女は、昨日からまったく姿を見せていなかった。
 ――助くんに連絡して、何か知らないか聞いてみようか。
 そう考えてみたが、すぐにそれは意味のないことだと思い直した。最もハルカの身近な人間は私だから、私が知らないことを助くんが知っているはずがない。
 連絡するつもりがないはずなのに、私は携帯電話を手に取った。
 気がつかないうちにメールが一件来ていたらしい。静かな部屋に、キーを操作する無機質なカチャカチャという音がやけに大きく響いて聞こえた。
「……薫ちゃん」
 送り主の薫ちゃんによれば、助くんは風邪をひいてしまったらしい。
 彼は彼でやることがたくさんあるのに、私のことで負担をかけてしまっていたのだろうか。そのせいで体調を崩したのでなければいいが……。
 私は、短く「様子はどうだったの?」とだけ返信した。
 薫ちゃんからの返信はいつも早い。「携帯電話は携帯していなければ意味がない」と、これもメールで豪語していた彼のポケットには常に携帯が入っているようだ。
「だいぶ調子悪そうだったけど、沙織が薬飲ませて寝かせてくれたよ」と彼が言うなら、どうせ行っても無駄足に終わっていたに違いない。看病しに行ってあげるのもいいが、今行っても眠りを妨げるだけだろう。
 やっぱり、明日様子を見に行ってあげよう。
 もし、その時までにハルカの姿が見えなかったら尋ねてみるのもいい。



「……俺が弥生の親父さんを助けたからか?」
 冷え切って固まった部屋の空気に、俺の声は異常に響いた。ハルカの口から衝撃的な事実を聞かされ、俺はそのハルカにいくつか質問をぶつけていた。
「助のせいにはしたくないって言ったよね」
「したくない、ってことは俺のせいじゃねえか」
 俺は頭を抱えた。意外にも、ハルカの失意の矛先は俺に向いていた。
「私は忠告したはずなのに!」
 悲しみと怒りが互い違いに自己主張しあって、彼女の心はその処理に忙しくなっているようだった。俺に怒鳴り散らしたかと思えば、次の瞬間には腕に顔をうずめて震えていた。
「……俺のどこが悪いんだよ」
 ハルカは顔を上げ、俺を睨みつけた。
「助が何もしなければ、少なくとも私は担当のままで! 時間はかかるかもしれなかったけど、私が直接ここの管理に携わることができれば助けることはできるはずだったのに!」
「俺は人間だ。お前みたいに俯瞰で物事を見られはしない」
 ハルカと違って俺は表面上至って冷静だった。しかし、腹の内では理不尽さに腸が煮え繰り返る思いだったし、一度は楽になったはずの体もまた重くなってきていた。つまるところ、俺には激昂するだけの気力がなかった。
「目の前に助けられるチャンスがあったら、後先考えず行っちまうんだよ。それの何が悪い」
 まだ何か不満の残っているような顔のハルカだったが、そんな彼女は全く怖くなかった。むしろ、静かに俺のことを見つめるあの表情の方が俺を気圧すには向いている。
「……人間って、バカだよ」
 彼女が生物種としての人間を軽蔑するような発言をするのを耳にしたのは初めてだ。
「同じことを弥生にも言えるなら言ってやれ」
 ここで弥生を引き合いに出す俺は卑怯だった。
「……言いたくても、もう会えないよ。弥生には絶対に会っちゃいけないんだから」
 ――これが彼女の本音だ。
 弥生の名前は、ハルカの本音を引き出すのに抜群の効果を上げた。
「私たち、友達だったのにさ……何にもしてあげられないまま、さよならも言えないままでお別れだよ」
 どうして、困っている人を助けると他の誰かが悲しむんだろうか。間違ってる。絶対におかしいだろ。神様ってやつは、本当に理不尽だ――目の前の、頬を涙で濡らした一公務員を除いては。
「……弥生には伝えるのか?」
「……少しの間、休暇を取ったとでも言っておいて」
「お前、そんなんで誤魔化せるはずが――」
「時間稼ぎになればいい。知らぬが花ってこともあるでしょう」
 俺にはそうは思えなかった。きっと弥生は、ハルカが姿を見せないだけでも不安に駆られるだろう。十数年もの間、たった一人の親友として過ごしてきた彼女が居なくなったら、それこそ脱出する気力を失って、このループの中で精神が朽ち果ててしまうかもしれない。
 それでも、これがハルカの精一杯の優しさらしかった。
「……そろそろ戻るよ」
 ハルカは立ち上がった。
「早いな」
「弥生のことがなければ、長居をする必要はないから。他の仕事もあるけどさ」
 そう言ってハルカは俺の方をチラリと見た。
「……そうか」
「うん」
 ハルカが頷いたかと思うと、次の瞬間、俺が瞬きをしている間に彼女は消えてしまった。
 俺は再び布団に倒れ込んだ。体が熱い。どうやら、また熱が上がってきたらしい。
 今は眠ろう。明日考えればいい。
 眠りの世界にいれば悩みもないし、不安もない。今日の凍えるような寒ささえも感じない。
 そうして俺は、まどろみの中に逃げ込んだ。
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