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2/2 : 真夜中の女神

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 バイクに乗った二人組がひったくりを働くことを彼に知らせたのは、ほとんど反射みたいなものだった。気が付いたから口に出しただけで、別にひったくりを止めようとか、お婆ちゃんを助けようだなんて考えは露ほどもなかった。
「誰かと一緒にいる時に揺れを感じたら、誰だって『あ、地震だ』って言っちゃうわ。それと同じよ」
 私の話を聞いてくれるような人は、女神様しかいない。そもそも女神様は人ではない。
「そうねえ」
 ――人間を超越した存在である彼女でさえも、今まで私を助け出してはくれなかった。
 ビルの屋上から飛び降りる時も、言葉はいろいろ掛けてくれたものの、直接引き止めはしなかった。まだここに来て日が浅かった頃に、私がずっと、部屋に篭って泣き続けていたとしても、「出して」と懇願し続けていても、謝りはしたものの、結局出してはくれなかった。
 しかし、彼女は親身だった。私の苦痛を少しでも軽減しようと気を遣う。いつも明るく振舞う。他の仕事があったり、上司とやらに呼び出されて、どうしても私のそばから離れなければならないとき、彼女はいつも申し訳なさそうな顔をする。
 そして、戻ってきてこう言うのだ。
「私がもう少し、あと少しでいいから出世できればなあ……」
 どうにかできるかもしれないのに、と。
 そうして、私が狭くて寒い一ヶ月間の中で輪廻を繰り返しているうちに、彼女の地位はどんどん上がっていった。
 それでも、私は解放されない。
 神にもできないことはある。「全知全能」なんて有り得ないのだ。ましてや、彼女の上にはもっともっと偉い神々がふんぞり返っているのだ。

 ――私には救いの神はいない。
 私が考える神とは、祈る対象ではない。信じても、救われないことだってある。
 私にとっての「神」は、いつしか親友になっていた。

「正義感が強いんだね、助って」
「まあ、頼れそうではあるわね」
 ――まさか、捕まえようとするなんて。私の予想の上を行った彼の行動力に、私は一連の騒動の傍観者となってしまった。
「今までに、何度かこういう場面に一緒に出くわした人はいるけど、これから起こることが分かっていても、皆何もしようとしなかった」
「そうね」
 それが当たり前だと思っていた。だから、私だって、自分をどうこうしようと思ったことは多々あっても、他人に何か直接影響を及ぼそうだなんて考えたこともなかった。
 被害者のお婆さんを病院へ連れて行き、そのあと警察へ直行して、事件の概要を説明して、携帯で撮った写真を提供していた彼。あそこまで落ち着いて事後処理をやってのけられると、こちらも驚く。

「あー、ちょっと悪いけど、やらなくちゃいけない仕事があるんだ」
 しばらくして、頭を掻きながら、思いだしたようにハルカは言った。
「こんな夜中に?」
「蘇生中なの、悪いね」
 手を合わせて頭を下げてくる。
「いいのよ。私はもう眠いし、今日は寝るわ」
「ん、わかった。おやすみなさい」
「おやすみ」
 ――そして彼女は、文字通り瞬く間に消えた。
 「蘇生中」、彼女はそう言った。私と彼女の付き合いももう長いから、彼女の仕事の内容もある程度は把握している。
 どうやら彼女は今、「非業の死」を遂げた人を生き返らせる仕事についているらしい。昔に気になって尋ねたことがある。
 「非業の死」に、明確な定義なんてあるのか、と。
 彼女は教えてくれた。
――私たちが言う非業の死ってのは、弥生が考えているようなのとは違うんだよ。
 女神の説く「非業の死」に、私は興味を持った。

「いくらなんでもね、ただ単に報われない人を生き返らせるようなことはできないの。人口の問題もあるからね」
 言い方は悪いけど、と続ける。
「そういう人たちは亡くなるべくして亡くなった――運命とでもいうのかな。可哀そうではあるけど、死ぬことはあらかじめ決まってるの」
 ただの人間である私にとっては、幾分かショックな話ではあった。
「だけど、たまにどうしてか、死ぬはずのない人が死ぬことがある。それは機械が起こすエラーみたいなものだと例える神もいるけど、医者が医療ミスを犯すのと同じように神も間違いを起こす」
「それは……」
「そう、そういう人たちを私たちが生き返らせるの。面倒な手続きを踏まなくちゃならないし、私みたいなのが監視しなくちゃいけない。死の原因を修正するために、当事者の時間を巻き戻さなきゃいけない。まあ、それも一ヶ月で、元通りに生活できるようになるけどね」

 ――なんてお役所的なのか。その話を聞いた時、私はそう思っていた。
 ハルカの話は非業の死について説くものだったが、私にはひっかかる箇所があった。
「死ぬことはあらかじめ決まってる」――。
 そして、決められた通りに死んだ人は、そのまま黄泉路を逝くのだろう。
 それならば――それならば、私がこうやって、変化なく永遠を過ごし続けているのも運命なんだろうか。それとも――。

 昔に聞いた話を思い出しながら、ベッドに横たわって、今度は今日のことを考える。また、いつもと変わらない一ヶ月を再生するのだと思っていた。
 勇気をもらった気がした。彼は確かに、一人の女性を助けた。単にひったくりを撃退した程度のことかもしれない。他人は、彼を単に「素晴らしい青年だ」と言って評するだけかもしれない。
 でも私にとって、彼の行動は大きな衝撃だった。
 ――分かりきった未来は、決まりきった未来じゃない。
 そう、思えた。



「悪かったな、ホント」
 日本のサラリーマンは、電話相手にでもつい頭を下げてしまうと言われているが、生憎俺はサラリーマンではないから、よく分からない。それでも、薫にはたびたび迷惑をかけているような気がするから、深夜だったが詫びの電話を入れた。
 普段だったら今度会った時にでも謝るのだが、今日はいろいろありすぎて、なかなか寝付けなかった。だから、謝罪ついでに話相手にでもなって貰おうと、反省したのかしていないのかよくわからない理由で電話している俺だった。
『今度奢れよ、必ずだからな』
「わかってるって」
 しつこい男だ。でも、外見は女だ。いや、今はそれはいいか。
「まあ、なんだ。いつもいろいろ悪いな」
『いつものことだからもう慣れたよ。ま、助は金貸してもちゃんと返してくれるし、バイトのシフト代わると何か奢ってくれるし』
 こいつの優しさには本当に恐れ入る。普段は口に出さないが、薫には本当に感謝していると同時に、敬意さえ抱いている。
「だからって、ケーキバイキングはねえだろ、ますます女としか思えなくなる」
『べ、別にいいだろ、甘いもん好きなんだよ』
 可愛い奴め。
『つーか、なんでいきなりシフト代わらされたんだよ、俺』
 難しい質問をしてきやがる。弥生の件は簡単には説明できそうにない。とりあえず、ひったくりのことだけ話しておこう。
「いやー、バイト先に向かう途中に、知らない婆さんがバイクにバッグをひったくられてさ、それを助けてたら、病院やら警察やら行かなくちゃならなくなって」
『……へえ、お前、超好青年だな』
「まあ、それで、帰ってきたのバイトの時間が終わってからだった」
『つか、病院って、お前怪我したのかよ』
「いやいや、俺じゃねえよ。その婆さんが……」
 ――と、俺が説明しようとした時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あれ、誰か来た」
『おいおい、夜中だぞ』
 確かに、こんな夜中に俺を訪ねてくるような奴はいない。立ち上がってワンルームの自宅を横断し、玄関扉から外を窺う。夜中の訪問者なんて、ちょっと不気味にも思えたが、確認できたのは見覚えのある顔だった。
「悪い、知り合いが来たみたいだ。切るわ」
『こんな夜中にか?』
「ああ、悪いな」
『じゃあな』
 薫には悪いが通話を終わらせて、ドアを開けた。
 そして言った。
「ハルカか……」
「夜遅くに失礼しまーす」
 全く失礼を自覚してない口振りで、彼女は勝手に上がりこもうとした。
「おい」
「何、なんかマズいものでもあるの? いかがわしい本とか」
「それ以前に、いきなり上がり込もうとするのがおかしいだろ」
「やっぱり、いかがわしい本とか?」
 ……人の話を聞かない奴だ。

 結局俺はハルカを上がらせて、電気ポットに残っていたお湯でインスタントコーヒーを淹れて出してやった。
「ふーっ、あったかーい」
 コーヒーを覚ましながら飲む姿はまるで普通の女の子だ。
「つーか、夜遅くに何しに来たんだよ、というよりまず俺の家を何故知ってる」
「神だし」
 このナビコン要らずが。
「他にやることとかねえのかよ」
「済ませてきたよん。それよりさ、なんかコーヒーに合う甘いもの欲しくない?」
「そんなものねえよ、つうか遠慮しろよ、帰れ」
「もー、冷たいなあ……私にいろいろ聞きたいことがあるだろうから、聞かれに来てあげたのに」
 俺の眉がピクリと上がる。
 ――なるほど、それはありがたい。飄々としているようでも、やはりきちんと物事を考えている。
「そうか、じゃあ……」
 質問を許されたことを意識した途端、聞きたいことが溢れて来て、何から聞けばいいのか分からなくなってしまった。
「まあ、慌てなさんな。夜は長い」
 ハルカのペースに引き込まれ、俺はゆっくりと、いくつもの疑問をぶつけていった。
 時間ならある。夜は、長い。
 聞きたいことはたくさんあった。
「ハルカって、何歳?」
 まずはどうでもいい質問から。
「あら、弥生のことじゃないんだ。いくつに見える?」
「んー、二十やそこらかな、もうちょい上かも」
 まあ、人間としてみるならここらへんが妥当だと思う。
「残念。私もっとお婆ちゃんだから」
 そんなの、予想の範疇だ。
「……じゃあいくつよ?」
「いや、やっぱお婆ちゃんじゃないから! 全然若いから! むしろお姉さんだから!」
 そこがツッコむところだったとは気付かなかった。
「神に寿命があるかどうかは知らないが、お前たちの基準ではどれくらいの歳から婆さんなのか俺は知らん」
「教えてあげないよ。それに女に歳を聞くなんて失礼だぞー」
 ……まあいいや、次の質問だ。
「……弥生が俺に話しかけて来たのは何でだ?」
「偶然だよ、そんなの」
「偶然?」
「そりゃ何回何回もランダムに話しかけてるんだから、助が当たっても不思議じゃないじゃない」
 まあ、そうか。
 ということは――偶然。偶然、なんだな。
 
 こんな調子で、俺は弥生についていくつかの質問をしていった。

 彼女は本当に死にたがっているのか。――心の奥底では、ここから出て生きたいと思っているはずだよ。

 彼女がここから出ることが出来たらどうなるのか。――三月一日の午前零時に行けるようになってるよ。

 出られる方法はあるのか。――許可さえ下りればね。

 許可は下りないのか。――申請する人がいないの。私が部署の責任者になれればやってみようとは思うけどね。

 と、いくつかやりとりをした後、一番聞きたかったことを聞く。
「――そもそも、弥生はなんでこんな状態になってるんだ?」
 これが何より気になっていた問題。ハルカが一瞬固まる。
「……それは神のみぞ知る、ってとこかしら」
 やけに長い沈黙が気になった。それに、その質問の答えが得られないのは期待外れだぞ、おい。
「とぼけんな。お前は女神なんだろ、知ってるはずだ」
「……神の悪戯、いや、大犯罪なんだけどね」
「なんだって?」
 ハルカの明るい雰囲気が、一瞬で沈んだ。俺がこの質問をすることは簡単に予想できたはずだ。予想できなくても、神なら心を読めても不思議じゃないがな。
 とにかく、その様子から、ハルカは「来るべくものが来た」ことに対して話す覚悟を決めたようだ。
 ――カタカタと、寒風で部屋の窓が揺れる音がした。
 それにしても、神の悪戯とは……、まるで、神がわざと弥生をあんな状態にしたみたいじゃないか。
「私たちの世界の政府にも、この国の首相のような、最高権力者がいるの」
 ――俺はすでに、人間臭い神々の話に慣れ始めて来ていた。
「彼には、長い間可愛がってきた、自分の力を分けた息子がいて、決して出来のいい神ではありませんでしたが、彼は親バカで、息子には超大甘でした。その息子は、親の地位のおかげで、とある官庁の、とある部署の責任者というポストについていました」
「――その最高権力者はある日、自分の息子が働く部署の視察に来て真実を知ってしまいました」
「真実?」
 俺の心臓の鼓動が速度を上げた。
「自分の息子と、その部下たちが、人間たちにちょーっと悪戯をして、それを観察して楽しんでいた、ってことを……」
 ハルカは努めて普段通りの調子で話をしようとしているようではあったが、声に滲み出る嫌悪感を隠し切れてはいなかった。
「――悪戯って、なんなんだ?」
「……人の命をなんだと思っていたのか」
 俺の質問には直接答えないで、小さく呟く。彼女がこんなシリアスな話をするとは思っていなかった。
「ランダムに人間を選んで、その人の運命をちょいっと捻じ曲げる。それによって慌てふためく本人や、その周囲の人間の様子を見て楽しむ」
「それ、ホントか?」
 にわかには信じがたい話だ。人々を救うはずの神が、そんなことを?
「ホント。この事実を知っている人は限られているけどね」
「それで?」
「最高権力者は、このことを隠蔽したの。自信の失脚を恐れて」
 ――人間界の政府もビックリの腐敗っぷりだ。恐れ入る。
「でも、その時に、悪戯の対象になってた人間たちは解放されたの」
「じゃあ、なんで弥生は、弥生は――」
「彼は言った。『息子たちがやっていたことは確かに罪――罪だが、こういったことを実験する機会がないのも勿体ない。ちょうどいい、あの二月の中で起こったことは一ヶ月もすれば元通りになるのだから、それを使って実験しよう。中にいる娘には申し訳ないが、このことを言いふらされたりしても困るから、このままにしておこう。なあに、彼女には死ぬ危険性はないばかりか、永遠を生きることさえできるのだから、充分だろう』」
 ……腐ってやがる。他人事とは言え、怒りに手が震えてきた。
「そして――その部署にいたけど、悪戯には加担していなかった私に、弥生を監視するように言い渡した。私は無条件で昇進させて貰えて、昇給もした」
「……」
 ハルカは弥生がこの状態にあることによって恩恵を受けていたんだ。でも――。
「正直、今でも胸が痛むの。というよりも、ずっと、ずっと……」
 申し訳なくて、と、聞きとれるかどうか危ういくらい小さく、かすれた声で言った。
 ――ごめんなさい、私、神様なのに。
「私なんか何の力にもなれない。結局、偉くなきゃ何もできない」
 明るいハルカはもう居なかった。そこにはただ、暗い影のような女の姿があった。
「ハルカ……」
 ――励ましのセリフを口にしようとして、思いとどまる。
 俺に彼女の何が分かるというのだろうか。彼女の抱えた罪の意識を、理解してやることなんて到底出来やしないんじゃないか。
「せめて、せめて弥生のために友達役をやって、明るく振舞って……そんなことしか、できないの」
 自責の念に囚われた哀れな女神。俺は何を言ってやればいいのだろう。
「私の……せいで……」

 ハルカは、弥生がこの状態にあることに深く責任を感じている。自分自身を責めている。
 人間にとって絶対的存在である彼女が、人間である俺の目の前で目蓋を腫らし、鼻をすすっている。
 ――弥生が、ハルカが、彼女たちが、一体何をしたって言うんだ。
 神とは、一体何なのか。それは分からないが、俺は決意した。
「……俺も出来る限りは協力するから――だから、助けてやろう、弥生を」
 もしかしたらハルカは、人間ごときに何ができるのか、と思ったかもしれない。具体的な案は何も持たないまま、軽々しくも「助ける」なんて言った俺に内心では呆れていたかもしれない。
「……うん、ありがとう」
 ――それでもいい。俺はこいつと、弥生のために一生懸命やってやろう。
「ああもう、湿っぽいのは終わりだ、うじうじしてんな」
 わざとキツめの言葉を選んだが、同時にハルカの頭をポン、と叩く。
「コーヒー、もう一杯飲むか?」
「……うん」
 机の上にあったインスタントの粉を、スプーンで彼女のマグカップに入れてやる。そのまま電気ポットからお湯を注ごうとしたが、ゴボゴボと音がした。
「空っぽになっちまってたか」
 俺は立ち上がってハルカに背を向け、流し台へ向かい水差しを取る。
 そして蛇口から水を出し、それが水差しを満たすまで待っていた。
 その時、背中越しに、明るい声が聞こえた。
「ありがとね!」
 もう、大丈夫だな。彼女は普段の明るさを取り戻した。
 その後は言葉を交わさないまま、また朝を迎える。

 ――頑張れ。弥生の救いの女神様よ。
4, 3

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