不思議な気分だった。あっという間に、弥生と一ヶ月間ともに行動することが決まっていた。これで向こうの用件は終わったようだが、俺はまだ納得いかない。聞きたいことはたくさんある。
少し時間が経って舌に優しい温かさになった紅茶を一口、それから質問を投げかけた。
「まあ、その、一ヶ月一緒にって、具体的には何をすればいいんだ?」
「普段通りに過ごしていてもいいし、あなたが思ったように行動を起こしてもいい。私はそれに従えば、今までとは違った過ごし方ができる」
「随分簡単に言うけどな、俺だってバイトがあるし……」
「え、フリーター?」
弥生の隣に座りっ放しだったハルカが口を挟んだ。
「今はそんなことどうでもいいだろ、俺が質問しているんだ」
このエセ女神にはどうもイライラさせられる。
「どうでもいいことじゃないよー、お互いを知るのは大事だと思うな」
「まあ、そうね」
弥生もハルカに合わせやがる。正直、二対一では俺の思うように会話は運ばない。
「弥生ちゃんはね、この二月をすでに二百回以上経験しているの」
「二百……って」
年に換算すると十六年、と八ヶ月か。長すぎるな。本当に彼女の精神状態は大丈夫なんだろうか。いやいや、大丈夫じゃないから死にたがっているんだよな。
しかし、十六年と八ヶ月経ってもこの外見なのか? 彼女を見るにどうにも二十歳くらいにしか見えない。
「もしかして、ここでは弥生は歳をとれないのか?」
「正解」
ハルカが答える。
「死ねないし、歳も取れないのか……」
「一応、一日と二十八日では月齢は変わるけどねえ」
「それは……」
俺の口からはきっと、同情の言葉がこぼれそうになっていたんだと思う。だが、彼女は敏感だった。
「そういうの、いいから」
思わず口をつぐんだ。
「可哀そうとか思ってくれなくていい。もう諦めているんだから」
まるで自分の運命を悟っているかのような口振りだった。
「そんな風に、諦めているとか言われちゃうとなあ……」
「諦めたくもなるわ」
「それじゃ、俺が手伝う意味がないだろ」
彼女のネガティブな態度にも少し苛立ちを募らせる俺。確かにそうだろうが、それならループの回数を重ねるごとに他人に声なんか掛けなきゃいい。
だがそこは飲み込んで、彼女について探りを入れた。
「仕事は?」
「……大学生」
突然の質問だからか、少し間は空いたものの、答えてくれた。
「私は公務員。中間管理職なんだけど、こうやって監視もやるの。もうちょっとで昇進できそうなんだけどねえ」
ハルカがうるさく口を挟む。お前の出世に興味はない……と言えば嘘になるな。神の世界の構造にも興味はあったが、そんなのは後でいい。
「家族構成と住居」
「父と母、それに私。一緒に暮らしている」
「あー、そういや私って、どうやって生まれたのかなあ?」
うるさい女神はいるものの、弥生が素直に答えてくれるのは助かった。
――家族と一緒、か。
彼女の置かれている状況下で、それは幸運なことなのか、不幸なことなのか、俺には推し量れなかった。
それに、彼女のセリフはまだ終わっていなかった。
「でも、父は一週間後に痴漢容疑で捕まる」
ここにもまた、憂鬱になるような事実が現れた。
「は? そんなことが?」
「家で『旦那さんが痴漢を働きました』って電話を受ける母の姿を何回も見てきたわ、嫌というほどね。もう見てられなくて。だから、最近は、無理やりにでも電話には私が出るの」
――そうか。きっと、一週間後から月末まで、彼女の母親は憔悴していく姿を、弥生に見せるんだろう……。そんな母の、最初のショックを少しでも和らげようという彼女の配慮は、彼女の中の温かさを感じさせた。
「でも、痴漢って冤罪も多いんだろ?」
「もちろん、本人は絶対にやってないって言っている。私たちもそれを信じてる。それで、二月二十八日の時点では、父は拘置所で裁判を待つ身……」
弥生の声は無機質で、感情は感じられなかった。肉親が犯罪の容疑をかけられていることを、どう思っているのだろうか。その感情を抑えつけて、毎日を、いや、毎月を生きるのだろうか。
月単位で何度もリピートされるのだ。実の父があらぬ疑いをかけられ、社会的地位を失っていく姿が。
重たい沈黙を破ろうとして、ここで俺の口があらぬ言葉を発した。それがマズかった。
「で、判決は?」
――彼女は固まった。それを見て、知恵の足りない俺は、ようやく気がつく。
後悔した。すぐに取り消した。そして謝った。
「あ、いやいや! ごめん、つい……!」
額がテーブルにつくんじゃないかというくらい、椅子に座った状態からでは不自然な感じで頭を下げた俺。
「……ちょっと、気をつけなよ」
ハルカが初めて真面目な顔をして、俺をたしなめた。反論はできない。
自分の父親がどうなってしまうのかを一番知りたくて、それでも知ることができないのは、弥生本人なのに。
「気にしてないからいいよ、出よう」
弥生にフォローさせてしまった。
「本当に悪い」
「いいから」
彼女は静かに席を立った。俺も倣った。
口の中がカラカラだった。俺のティーカップには、まだ紅茶が半分ほど残っていた。立ち上がり様にそれをぐいっと飲み干したが、会計を済ませて店を出るころには、口の中はまた乾ききってしまっていた。
弥生は先に歩き出していた。ハルカの姿はいつの間にか消えている。
弥生がどこへ向かうのかは見当がつかなかったが、とりあえず、連絡先の交換をしておきたかった。何をするにもすぐ連絡が取れなければ不便なのは分かり切ったことだ。
だが、なんだかそれを切り出すタイミングが見つからないまま、俺は彼女を尾行しているような状態になってしまった。
このままじゃ、ただ用もないのにくっついていってるだけじゃないか。
そんな状態のまま、交通量の少ない通りまで来てしまった。
ここで幸運にも、止まれ、を示す赤い光が彼女を立ち止まらせてくれた。俺にチャンスを与えてくれるようだ。
「……あのさ、連絡先を教えてほしいんだけど」
携帯を取り出しながら言ってみた。
「ああ、そうね」
彼女は俺がついて来ていたのに気付いていたのだろうか、突然の、後ろからの申し出にも自然に応答する。
俺たちは手慣れた手つきで携帯電話を操作し、赤外線で互いに情報を送り合う。
その最中だった。
「あ」
弥生が思い出したように声を上げた。
「どうした?」
「そこで今止まってるバイク」
そう言って、俺たちの右側の車道で、停止線に一番近い位置で止まっている二輪車を指差す。割と普通の光景ではあった。中型バイクに、ヘルメットを被った二人組が跨っている。ちょっと変わっているのは、服装から察するに、前が女で、後ろが男だというところだ。
それに、側面に「Hot Rod」と筆記体でプリントされたステッカーが貼りつけてある。もう少し大きな車体になら映えるのかもしれないが、飾り気のない中型バイクに一枚だけ貼られたそれは滑稽に見えた。
って、よく見ると男のヘルメットにも同じステッカーが貼ってあるな。どうやら気に入っているらしい。
「ああ、あれか? 普通は男が前だよなあ」
「あのバイク、この信号が変わったらひったくりするわよ」
そう言って、俺たちの隣にいる年配の女性を指差した。手にはハンドバッグを提げている。
一瞬、なんでそんなことが分かるのか、と尋ねそうになってしまったが、それは愚問だ。
――彼女は「知っている」のだ。この後起こることを。
だが、それに気がついた時には既に信号が青に変わってしまっていた。
俺が制止する間もなく、老婆は横断歩道を渡り始め、バイクは左折し、接近する。後ろに座っている男が腕を、老婆のハンドバッグへと伸ばしている。どうにか止めたい。
――だが、間に合わない。
「おい!!」
俺はバイクの二人組に向かって叫んだが、カバンはすでに男の腕の中。そして横断歩道上で、「あっ」と声を上げて老婆は無様な格好ですっ転んだ。
それならば、とすでにアドレス交換の終わった携帯をカメラモードに切り替える。ズームをかけるが遅い。バイクはみるみるうちに遠ざかっていく。
何とか写ってくれ、と連射モードでシャッターを押す。
「――よし、撮れた」
確信があった。恐らく間に合っただろう。後ろ姿だったが、何とか特徴がつかめ、ナンバープレートが判読できる写真が撮れているはずだ。
そして俺は、路面に倒れたままの老婆に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「……あいたた……」
彼女はゆっくりと、腰をさすりながら起き上がった。
「病院にお連れしましょう」
ずっと腰をさすっている老婆の様子を見て、俺は言った。
「弥生」
「え?」
この一連の騒動をずっと、微動だにせずに観察していた彼女を呼んだ。
「手伝ってくれ」
「あ、ああ、ええ」
――こいつに言いたいことも出来たが、それはあとでいい。
そうして俺たちは哀れなお婆ちゃんを病院へと送り届けたのだった。