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2/15 : 解放

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 文化祭からも数カ月が経過したある日の放課後、短い冬の昼が終わりかけ、夕陽が窓から差し込んで、教室の中を柔らかく照らしていた。教室の中の光が届いている窓側半分はオレンジ色に染まり、届いていないもう半分はくすんだ灰色の空間になっている。
 薫が立っていたのは陽の当たらない方の隅だった。ただでさえ暗い教室の端に立つ薫を、さらに光を遮って囲むようにして立っている三人の影があった。その中で固まったままの背の低い薫は、一層身長が縮んだように見えた。
「よし、今回はこれでいい」
 三人の中で真ん中に立っていた坊主頭の男子生徒が言った。封筒を手にし、満足そうな表情をしている。その両脇には男女が一人ずつ立っていて、女子の方は紛れもなく明美だった。
 明美は薫の秘密を守るにあたって条件を提示した。その条件とは案の定口止め料のことで、もはや恐喝とほとんど変わりなかった。最初は拒んだが、明美は他クラスの仲の良い男子に薫の秘密を打ち明け、連れてきて取り立てを手伝わせた。薫には抵抗できるだけの力も勇気もなかった。中学生時代の苦しい体験が、薫に毎月、毎週と増えていく口止め料を払わせるための拘束具として機能していた。
「次はいつ……?」
 薫が聞いた。感情のない、何も感じさせない声だった。
「さあな」
 遊ぶ金に困れば、また「財布」から調達すればいい。自分たちはただ目の前の獲物の秘密を喋らずにいればいいだけだ。この獲物は文句も言わないし、資金源としては上々だった。秘密をバラしてイジメに発展させればそれはそれで楽しいだろうが、目の前に金という大きなメリットがある限りはそんなことをするつもりはなかった。
「さて、回収も済んだしそろそろ――」
 大きく伸びをしかけた坊主頭は中途半端に動作を止めた。
 長い廊下を、ゆっくりと歩んでくる足音が聞こえた。どうやら他の生徒が一人でこちらに向かってきているらしい。
「黙ってろ」
 坊主頭は半ば二人の仲間に言い聞かせるように、半ば薫に脅しかけるように言って、自分も動きを止めた。廊下から響く足音以外は、自分たちの呼吸の音くらいしか聞こえなかった。
 同学年の生徒相手ならば、もしバレても適当にはぐらかして逃げることはできるだろうし、いざとなれば薫の秘密を暴露することを臭わせればいい。そうだとしても、余計な面倒事は避けたかった。できれば廊下の足音がこちらに気がつくことなく通過してくれるのが一番いい。
 足音が反響しながら近づいてきて、いよいよ教室の前まで迫ったとき、もう一人の男がバランスを崩したのか、教室のドアに寄りかかる形で体を傾けてしまった。「やっちまった」と小声で申し訳なさそうに言ったその男子に、明美は舌打ちした。
「……ん?」
 この至近距離では廊下の人影が、ドアに人間一人がぶつかる音を聞き逃すはずがない。
「誰かいるのか?」
 坊主頭の男子は、思い切って自分の方から扉を引いた。
 ――廊下からの声には聞き覚えがあったからだ。
「おわっ!?」
 自分が開けようとしていた引き戸が勝手に開いて、廊下の男子は飛び退いた。
「よう」
 坊主頭は陽気に挨拶してみせた。
「『よう』じゃねえよ。何やってんだ久保田、こんなところで」
 クラスメイトの男子は、怪訝そうに尋ねた。男女が二人ずつ教室の隅に固まって、一体何をしているのかは理解しかねる。
「いや、ちょっとこいつらと駄弁ってただけだよ」
 そう言って、久保田は大げさに他の三人を指差してみせた。
「なんだ、こんなところで。趣味悪いな」
 言いながら、その男子生徒は、蒼白な顔をしたまま無表情で佇んでいる薫に目をやった。
 どう見ても、薫だけがこの場の雰囲気から浮いている。この男子が薫に視線を送っている間、久保田たち三人は気が気でなかった。
 彼は一瞬考えるようにしてからこう言った。
「そりゃダメだろ、久保田」
「……何がだ?」
 とぼけて見せる久保田の右手には、薫からせしめたばかりの封筒が握られている。
「大丈夫だ、チクったりなんかしないからその子は見逃してやれよ」
 両手を合わせ、頼み込むようにして彼は言った。
「……お前に指図される筋合いはない」
 クラスメイトに見破られ、ごまかすのを諦めた久保田は開き直った。
「カツアゲの現場を目撃して放っておけるかよ」
「お前は普段は気のいい奴だけどよ、こと俺たちの些細な悪戯に関してはうるさいよな」
 久保田はうざったそうに目の前のクラスメイトに視線をやった後、目を逸らした。学校で話をする分にはいい相手だった。頭がそこそこ切れて、自分たちのような悪の相手もできる男だ。しかし、彼が時折見せる正義感が久保田にとってはうざったかった。
「余計なお世話だ」
「お前がな」
 これ見よがしに舌打ちをして、目の前の男をどういい含めてやろうかと思案していると、クラスメイトは呆然と事の成り行きを見守っている薫に近寄って、何やら耳打ちした。薫の口が「え」の形に小さく開いたが、それも気に留めない様子で「いいから」と言うと、薫の背中を押した。薫はチラチラと後ろを振り返りながら教室を出て行った。
「おい待て、何か余計なこと――」
「いいじゃねえか。あの子への用事は済んだんだろ?」
 彼は諭すようにして久保田に言うと、説教を始めた。
「あんな子から金を巻き上げるくらいだったら、バイトしろよ」
「……いい加減にしろ、うるせえぞ」
 久保田は凄んだが、彼は全く動じなかった。
 ――殴ってやりたい。
 そう思ったが、目の前の男と初めてケンカしたときに見事に負かされたことを思い出した。
 この男はどうにも掴みどころがない。
 その後もくどくどとしつこく久保田を追及する彼に、周りの二人もどうしようかと顔を見合わせていた。

「――いくらぐらいあるんだ?」
 十五分も経った頃、彼は久保田の手の中の封筒を指差して言った。
「ん……なんだよ、今更――七、八千円てところか」
 久保田は封筒を右手で持ったまま、中身を覗き込んだ――その時だった。
「悪いな」
 言うが早いか、ガードの緩くなっていた久保田の右手からは数枚の札入りの封筒が消えていた。それだけではなく、目の前の男も教室を飛び出して走り去っていく。
「こ、の――高宮ぁ!!」
 校舎全体に響き渡るのではないかと思えるほどの大声で吠え、クラスメイトの名前を叫ぶと、急いで廊下に飛び出してその姿を探した。中庭に面した廊下に西日は差さず、教室の中よりも数段薄暗い。
 どうやら高宮は近くの階段を下って行ったらしい。意表を突かれた時間差が痛かった。一瞬でここまで差を付けられては、追っても無駄であろうことは分かった。
「ちくしょう、あの野郎!」
 久保田は拳で壁を叩きつけた。
「――何だったんだ? あいつ」
 もう一人の男子が聞いた。
「うちのクラスの奴だ――偽善者ぶってる嫌な野郎だ」
 答えながらも、久保田は怒りに任せて歯軋りしていた。
「もういい! ここまでコケにされたんだったら、バラしてやる!」
「ちょ、ちょっと――」
 明美が制止しようとしたが、怒りに燃える彼の眼を見て止まってしまった。
「俺たちは悪くない、高宮の野郎が悪いんだ――」
 陽はさらに傾いて、今や教室のほぼ全部を照らしていた。
 夕暮れの薄暗い学校の階段を駆け足のまま下りきったところで、久保田たちが自分を追って来ていないことに気が付いた。
 諦めてくれたならそれでいい。諦めていなかったとしても、普段から素行の良くない久保田たちが次にどんな行動に出るかは大方予想が付いた。
「――ま、俺が生贄になるくらいだったらいいかな」
 そんなことを呟いて、溜め息を一つ漏らした。駆け足を早足に、早足を通常のテンポへと歩くスピードを落としていく。上履きが埃っぽい廊下の床と擦れる音だけが彼の耳へと伝わってくる。
 そのまま普段と変わらない速度で下駄箱へ向かい、自分のローファーを取り出すと、かかとを完全に履き潰してしまった上履きと履き替えた。
 外へ出ると、西日の強烈な光が目を眩ませた。太陽から目を逸らすのと改めて追われていないか確認する両方の意味で後ろを振り返ると、やはり誰もついて来ていないらしい。安堵しかけたその時、上の方から声がした。
「高宮」
 挑発的で耳障りな声だった。
 久保田がベランダから身を乗り出して彼の方を見下ろしていた。
「――悪かった。そんでも、そっちも人様に言えるようなことじゃないだろ。おあいこだ」
 できれば角を立てないようにするのが理想だった彼は、眩しそうにベランダを見上げながら柔らかい物腰で言った。
「お前は正義の味方気取りであいつを助けたつもりなのかもしれないけどなあ」
 変に余裕のある久保田の話し方は嫌な予感を抱かせた。
「ありゃ、口止め料だったんだ」
「……口止め料?」
 上からの声を鸚鵡返しにして、疑問と眩しさに一層眉をひそめて顔を歪ませる。
「――あいつ、男なんだぜ」
「……男?」
 さっきは余裕がなくてよくよく見ることも出来なかった恐喝の被害者の姿を思い浮かべた。その映像は、まるで灰色の影の中に封じ込められてしまったかのように不鮮明ではっきりしなかった。
 ――いや、騙されるな。
 いくらなんでも、性別を偽って学校生活を送っている生徒がいるとは考えにくい。
 何のメリットがあるのかも分からないし、常識の範囲を大きく逸脱している。これは俺が自主的に封筒を久保田に返すよう仕向けるための嘘だ。
 そう思った彼は、なるべく呆れた表情を作って言った。

「ま、お前なら金がなくても秘密をバラしたりしないだろう?」
「さあ、どうだかな」
 ――彼女を待たせたままだ。
 たった今、「彼」だと聞かされた彼女を待たせていることを思い出して、彼は学校から早く立ち去りたい気持ちでいた。
 薫を先に教室から出させ、近くのファーストフード店に居るように耳打ちしたのは封筒をかすめ取って逃げるのに不利になるからだった。彼は、後で薫と落ち合って封筒さえ渡せばそれでいいだろうと踏んでいた。
「言い訳を捏造するなら、もう少しマシなのにしろよな」
 そう言って、彼は久保田に背を向けて歩き出す。
「捏造かどうかは、明日にでも分かるさ」
 嫌に自信たっぷりな久保田の言い方に若干不安になりはしたが、彼の中の常識がその不安をかき消した。



 平日の夕方、駅の目の前に位置するファーストフード店は学生の姿で混みあっていた。
薫はざわつきの絶えない二階席の奥の方のテーブル席に腰を下ろしたままで彼を――彼の指示通りに――待ち続けていた。
 テーブルの上には、さっき頼んだSサイズのコーラだけが置かれている。
『ここは何とかするから、とりあえず学校から離れて。駅前のファーストフードの店の二階で待ってて』
 ――私の耳が確かならば、名も知らない彼はついさっきこう囁いたはずだ。
 薫は何度も頭の中でその指示を反芻していた。そうでもしなければ、薫は今自分が置かれている事態の深刻さを思い出してしまっただろう。薫が自分の秘密がバラされそうになっているという事実に気がつかなくて済んだのは、自分を助けてくれるという特異な存在の出現に意識が向いていたか、もしくは単に自分にとっては全く意味を成さない周りのざわめきが、耳だけでなく脳にまでノイズとして働きかけているか――そのどちらかのせいだっただろうが、それも曖昧なままだった。
「お、居たな」
 薫が自分にここに居るように言ったのと同じ声が聞こえた方向を見ると、確かにそこには薫と久保田の間に割って入った男の姿があった。周囲は他の客の絶え間ない会話でうるさいはずなのに、彼の声は不思議と楽に聞きとれたように思えた。
「はい、これ」
 彼は近づいてくるなり、テーブルの横に立ったまま、右手に持っていた封筒をテーブルの上に置いた。嫌味のない笑顔を向けられて、薫はどうしていいのか分からなくなり、ろくに礼も言えないままで封筒を鞄にしまった。
「座ってもいいか?」
 そう尋ねる恩人に、薫は無礼にも無言のままで頷いた。
 そしてようやく捻り出せたのが、たった五文字だ。
「……ありがとう」
 ごった返したこのフロアの中でこの呟きが音としてテーブルの向こう側まで伝わるかどうかは怪しかったが、対面の彼は唇を読んでくれたのか「どういたしまして」と言った。
 間が持たなくなって彼から目を逸らし、目の前の紙コップに手を伸ばすと、ストローからコーラを飲んだ。それと同時に彼が薫を見つめながら尋ねた。
「同じ学年だよな? 名前を教えてくれよ」
 口の中に含んだ炭酸に早く喉を通過して欲しくて、急いで飲み込んだ。薫はそのせいで炭酸の刺激にむせそうになりながらも、涙目で答えた。
「んっ……桃井薫です」
「桃井さんね。俺は高宮助ね――助って呼んでくれな」
 このとき薫は、流暢な自己紹介をする彼のことを初めてまともに見つめた。
 どういうわけか、薫の目には彼――助が自分に興味を持っているように見えた。
「いきなりだけど、ひとつだけ失礼な質問してもいいか?」
 そしてその興味が質問に形を変えて薫に向けられる。
「何ですか?」
 薫の胸は大きく脈打っていた。嫌な予感がした。
「――久保田が桃井さんのことを男だって言ってたんだけどさ……まさかホント……じゃないよな?」
 ――そして、その予感は的中したのだ。
 この時点ならいくらでも誤魔化しはきいた。それでも、薫は自分を助けた恩人には嘘がつけなかった。
「……聞いたんですね」
 この人になら言ってしまっても大丈夫だろうという直感もあった。薫は素直に自分が男であることを認めた。
「――って、ホントに?」
 自分で聞いておいて、助は信じられない様子だった。驚きに大きく開いた瞳がまじまじと薫を見つめた。改めて見られることへの羞恥が薫を赤面させる。
「ごめん、とてもそうは――」
「見えないようにしてますから」
 変に自信のある言い方をする薫に、助はより一層目を丸くした。
「いろいろ事情があってこういうことになったんです。それがあの人たちにはバレちゃって、口止め料を払って――」
 そこまで自らの事情を説明して、初めて薫は気が付いた。
「あ、あの、あの人たちは私の秘密を守ってくれそうな様子でしたか?」
 どうかそうであってくれ、そんな表情で尋ねる薫に助もたじろぐ。
「……い、いや」
「や、やっぱり返してこないと!」
 焦ったか薫は、返してもらったばかりの口止め料入りの封筒を引っつかんで出ていこうとした。
「ちょっと待った」
 それを助が引き止める。
「早くしないと、学校の皆にバラされ――」
「大丈夫、明日まではバラされやしない」
「でも……」
 薫は立ち止まったままで固まった。そのうち、そんな自分の姿が客観的には滑稽に見えることに気がついて、また同じ席に座り直した。
「力になれるかもしれないからさ、事情話してくれないか?」
「い、いや、それは……」
 自分がこうなってしまった経緯を他人に話すのには大きな抵抗がある。
「もののついでに、頼むよ」
 やけに自分の力になりたがる助の姿は、薫の目には奇異なものに映った。
「どうして、そんなに私を助けたがるんですか?」
 失礼なのは分かっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。
 助はしばし考えてからこう言った。
「親の教え、かな」
「……教え?」
 しかし、助はそれ以上は語らなかった。語りたくないのか、語る必要がないと思ったのかは定かではないが、必要がないと思っているのだったらとんだ思い違いだと薫は思った。
「安っぽいセリフだけどさ、放っておけない性質なんだ」
 それは、薫を説得するのに十分な文句だった。あるいは、その言葉と共に向けられた助の澄んだ眼差しも薫を後押しするのに役に立ったかもしれない。
 ――信じてみよう。
 薫は自分が高校で女を演じるようになった経緯を――自分のこれまでの人生を語り始めた。
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 目の前のグラスに手を伸ばして、ストローでオレンジジュースを吸い上げた。口に出来たのは数滴のオレンジ風味の雫だけで、あとは氷だけが入ったグラスから飲み物を吸い上げる耳障りな音だけがした。
「うあ、ごめん――やけに喉が渇くから」
 あまり行儀がいいとは言えない振る舞いを詫びようと、薫は言った。
「なんなら、お水貰おうか」
 そう言い終わるよりも早く、弥生はテーブルの端に置いてある呼び出し用のボタンを押した。
「ありがと」
 口にした感謝の言葉は掠れてしまって、自分が思ったよりもいくらか弱々しかった。
 自分の過去を、それも大切な部分を他人に語ることは薫にとって決して易いことではない。喉が渇くのも、それが原因の緊張からなのかもしれない。
「お冷やを二つ貰えますか」
 店員に頼むと、弥生は再び薫の方に視線を向けた。相手の話を真摯に聞き入れようとする眼だ。
 ――あの時もそうだった。



 まるで渇きが喉に貼りついているのではないかと思えるほど、身体が水分を欲する。目の前の紙コップに手を伸ばして可愛らしくストローをくわえる薫を、助は真剣な眼差しで見つめていた。
 紙コップの中から、空気と水分を同時に吸い上げる音がした。
 喉の渇きは取れていなかったが、恥ずかしくなって急いでコップをテーブルに戻した。
 助は未だに沈黙を保ったままだ。薫が全てを話し終えても、ずっとこの調子だった。
 はしたないとか、行儀が悪いとか――いっそ、たしなめてくれる方がずっと良かった。自分を助けてくれた目の前の少年は、自分ではなく、自分の中の何かを見ようとしているようにも見えた。
「……こんな姿をしている男なんて、気持ち悪いですよね」
 沈黙に耐えきれず、口をついて出たのは自虐の言葉だった。自分で自分を貶めてしまえば、他人に傷付けられることもない。もしも目の前に自分と同じような男が現れれば、自分だって嫌悪するに違いない。
「んなことない」
 自然だった。助は言葉通り、何でもないかのように薫の自虐を止めさせようとした。
「隠さなくてもいいんです。分かってますから」
「んなことない」
 繰り返し否定されて意地になったのか、薫はさらに続けた。
「助さんが最初に疑ってかかったように、誰だって私が女であると思い込もうとする。だって、私が男だったら『変』だから」
 自分の唇の端が勝手に歪むのを感じた。ひねた笑いだった。
 怒りを向ける矛先はない。流れるはずの涙は涸れた。女を演じ切ると決めたとき、嘆くための声は捨てた。
 出来るのは、自分自身を笑うことだけだ。
「……んなことない」
 三度同じセリフを口にした助の目は、心なしか潤んでいるようにも見えた。
 ――ああ、この人は私に同情してくれてるんだ。
 自らの過去を他人に語るという行為は、薫を感情的にしていた。
「――同情してくれてありがとう」
 自分の境遇を諦観している冷めた目を見て、助は何も言えなくなった。
 他人の生まれを知ることが、こんなにも辛いことだなんて思いもしなかった。
 なんと言えばいいのかは分からない。
 ――「同情なんかじゃない」?
 そんな安っぽいセリフが薫に与えるものなど、あるはずもない。
 ――「堂々と、男として生きてみろ」?
 それができなくて今の状況にまで追い込まれた薫に対して、そんな非情なセリフが吐けるものか。
「今までの方がね、おかしかったんだ」
 薫が笑った。悲しそうに笑った。
「誰にも自分の性別を知られずに生きていくなんてことは不可能だった」
 助は何も言えなかった。
「まあ、それももう今日でお終いかな――明日になったらあいつらがバラしちゃうだろうし」
 ――ありゃ、口止め料だったんだ……あいつ、男なんだぜ。
 久保田の言葉が本当だと知って、助は自分の行いが間違っていたことを理解した。自分がちっぽけな正義感を振りかざさなければ、薫の学校生活は概ね安泰に進んだだろう。その権利は、たかだか月数千円で買えたものだ。
「……俺のせいだよな」
 肯定して欲しいのか、否定して欲しいのか、自分でも分からない。
「いつかはこうなると思ってたから、気にしないで」
「でも……」
「今さら皆の前で男になんか戻れないんだ、『私』は」
 薫はやけに強調して「私」を発音した。
「……なら」
 助の目には、今やはっきりと雫が確認できた。
「俺が薫、お前の拠り所になるから」
 だから、無理はやめて。
「俺の前でだけでも、『男』になれよ」



「いやー、その翌日から学校での扱いが酷いのなんのって」
 今の薫にとって、それは笑い話なのだろうか。ケタケタ笑いながら、他人事のように薫は言う。
「ま、あのときばかりは助に感謝だね。助と一緒に居る間は誰も何もちょっかいをかけてこなかったし」
「だから、助くんの前でだけでは言葉使いが違ったりするわけね」
 弥生が納得したように言ったが、薫は何も言わなかった。
「ちょっと無理してるようにも見えるけど」
「……そう見える?」
 返事の代わりに弥生が微笑むと、薫は大きく息を吐いた。
 
 しばらく沈黙が続いた。水を一口飲んで、薫が独り言のように呟いた。
「そろそろ、かな」
「そうね、そろそろ出ようか」
 それを拾った弥生が、伝票を手にした。
「え、あ……そうだね」
「払っとくから」
 薫が遠慮も感謝も出来ないうちに弥生はレジの方へと向かっていった。その背中を見ながら、薫は考え込む。
 弥生は自分が無理をしているように見えると言った。
「――やっぱりそうか」

 会計を済ませた二人は、冬の街へと再び出向く。屋内の温かい空気に慣れた肌に、寒風が突き刺さって痛いほどだ。
「……さっきの、無理してるように見えるって話だけどさ」
 助にも打ち明けられない悩みを、弥生になら相談できるかもしれないと思った。
「……うん?」
 弥生は、真剣な面持ちで耳を傾けてくれる。
 信号待ちのために歩みを止めて、薫は言った。
「『私』か『俺』、どっちかを捨てなくちゃいけないとしたら、どっちを捨てるべきかなあ……」
 ポツリとこぼして、横断歩道の対岸にある信号機を見つめた。弥生も薫の方を見ることなく、目の前を過ぎる車と、その向こうの赤い光を見続けた。
「私には何も言えない。薫ちゃんが決めることだと思う」
 弥生はまるで薫の言うことを見透かしていたかのような早さで答えた。
「やっぱり、そうか……」
 溜め息をつく薫の前を、大きなトラックが走り去っていく。そのトラックが立てる音のせいで、弥生にはその声は届かなかった。
「捨てたいの?」
 ――薫は、何も言わなかった。

 
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