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2/16 : ダメなんだ

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 普段はそうでもない人間がたまに親切な振る舞いをしようとすると、周りの人間は何故だかその振る舞いを敬遠したり、もっと悪いとその裏に何かあるのかと勘繰り始める。
 電話の向こうの薫の態度は、はっきりと俺が「普段はそうでもない人間」だと語っていた。
「――看病の礼をするのが、そんなに変なことか?」
『助にしては珍しいんだよ』
 薫は何を知ったことを、とでも言いたげな口調だった。
『というか、俺なんかより沙織の方がよっぽど――』
「沙織も誘うからよ。たまにはいいだろ? 俺の奢りで飯食いに行くのも」
 風邪で寝込んでいるときに来てくれた礼に俺が夕飯を奢る――たったそれだけのことを提案しただけで、薫はおかしいと言った。
 薫の言うことももっともで、本当なら薬を買ってきてくれた沙織一人だけでも誘って行けばいいだけの話だった。
「最近は俺たち三人でいることも少なくなったしな、いい機会だろ?」
 決して、弥生が邪魔だと言っているわけではない。しかし、沙織に構ってやりたいのも俺の本音だった。
『ま、好意を受け取らないのもおかしいか。裏に何があるのかについてはあえて何も言わないでやるよ』
「おう、ありがとな」
 薫はきっと、俺の意図を察している。
『看病の分と合わせて、貸し二つだからな』
「沙織の方が役立ってたとか自分で言ってたのにか?」
『うるせえ、もらえるものはもらっとくんだよ』
 俺一人で、近頃消耗気味の沙織を元気づけてやるのは少し大変だから、仲のいい三人でいつものように食事をする。その間だけでも、お母さんのことを忘れさせてやれればいいんだ。
 言うなれば、薬の礼に対して薬を送るような真似をしようとしているということだ。
『まあいいや、詳しいことが決まったらもう一度私に連絡すること』
「はいよ」
 軽く返事をしてやると、受話器からあっと息を呑む音が聞こえた。
「ん、どした?」
『いや、なんでもない』
 薫の声は妙に落ち着きはらっていて、さっきまでの俺と軽口を叩きあっていたような雰囲気は霧消していた。
 そう言って電話を切った俺は、深く溜め息をついた。
 弥生のこと、ハルカのこと、沙織とお母さんのこと――気がかりなことはいくつもあった。そして、そのどれもを何とかしたいと思うのが俺の性で、二面作戦だろうが三面作戦だろうが取ってやろうとも思っていた。
 ただ、その中に薫のことが加わるのは俺にとってもっとも予想外で衝撃的だった。
 ――薫が俺と二人きりの会話をしているとき、一人称を間違えることなど、出会ったばかりの不慣れな頃からカウントしたとしても一度もなかったはずだった。
 ただの言い間違いならそれでいい。それに、そうでないなら何なのか皆目見当がつかない。薫のようなややこしい生活を送っていたら、「俺」と「私」の混同くらいしても何も不自然なことはないじゃないか。
 そう、何も「不自然なことはなかった」。



「なんなの? いきなり電話してきたと思ったら、『薫と一緒に飯食うからお前も出て来いよ』って言って、すぐ切っちゃって」
 その日の夜、俺でもなんとか二人に奢れるくらいのイタリアンレストランの前へとやってきた沙織は、怪訝そうな顔で俺に尋ねてきた。
「看病の礼だよ。奢るから」
 強引な誘い方をしたのは、断られるのが嫌だったからだ。最近の沙織の様子からして、「気分じゃない」と言われる可能性は大いにあった。
「そんなことくらいで、どういう風の吹きまわし?」
 誰も彼も、俺をよく知る奴らは俺の好意をこんな風に怪しむ。自分がそんなに徳のない人間だったものかと不安になる。
「ウイルスが頭まで回っちゃったんだってさ」
 俺の後ろにいた薫が、腕を伸ばして俺の後頭部を小突いた。
「なるほどね」
「そんなこと言うなら自腹切れよ」
「よし、入ろう」
 俺の言葉も聞こえないふりをして、薫は沙織の手を取って店の扉をくぐった。

 店に入って食事を始めてからは、なんてことはなかった。普段の俺たちが、普段のように他愛のない会話を交わすだけだ。冗談を言って、聞いて、笑う。それは心地のいい時間だったし、この場ではそれで十分だった。

 それぞれに注文した料理を平らげて、食後にデザートでも頼もうかと思っていた頃だった。
「あ、ヤバ……」
 突然思い出したように薫が口を開いた。
「レポート明日までだ、帰ってやらないと」
「いきなりどうしたんだよ? ここまで来たらデザートまできっちり出してやるから食ってけよ」
 普段から俺の前ではあまり大学のことを口にしない薫にしては珍しい。本当は大学に進学したかった俺の気持ちを汲んでのことかどうかは別にしてもだ。
「おごってもらった上に付き合い悪くてごめん」
 そう言って、俺に二の句を継がせないまま薫は店内から姿を消した。
「……なんだ? あいつ」
 思い起こせば、食事中も普段より口数が多くて落ち着きがなかったような感じだった。
「もうすぐ進級だから忙しいんじゃない? きっと」
 さして気にも止めない様子で沙織が言った。その眼はメニューのデザートのページを眺めている。
「そんなもんか……」
 薫の大学生活がどんなものか、俺は知らない。サークルなんかに入っている様子もないから、もしかしたら高校の時より孤独で、ただ講義だけを受けているのかもしれない。
「これ、頼んでいい?」
「ああ」
 俺たちはもう一度店員を呼んで、デザートを注文した。
 沙織と二人きりだった。
 もちろん、客席を見渡せば数十人の客がいる。フロアには数人の店員がいる。きっと、厨房には調理担当のスタッフがいるだろう。
 それでも今、俺たちは二人きりだった。
「……下手くそ」
 沙織が笑っていた。
「助も薫もそっくりで、揃いも揃って下手くそだよ」
「何がだよ?」
 俺が尋ねたところで、店員が注文したデザートを運んできた。彼は愛想よく笑顔を浮かべて、テーブルの上に伝票を置いて去っていった。
 沙織はミルフィーユの皿に乗ったフォークを手に取り、そして答えた。
「気の遣い方」
 沙織がそう言われて初めて気付いた。薫は気を利かせて俺たちを二人きりにしたのだと。
 俺は何も言えなかった。そもそも、何か言った方がいいのかどうかも分からない。
「わざわざ看病を口実にしてまで、こんなことしてくれなくてもいいんだよ?」
「俺の勝手だろ」
 俺は沙織からわざと目を逸らして、自然さを繕うために伝票に手を伸ばした。小計の欄には大して痛くもない数字が記されていた。
「お母さんのことを看てあげられるのは私しかいないし……心配してくれなくても、私なら大丈夫だから」
 気丈にもそう言ってのけた沙織の顔は蒼白い。その言葉に説得力はなかった。
「この、下手くそが」
 沙織の言葉をそのまま借りて言ってやった。
 テーブルの向かいの沙織はミルフィーユを咀嚼しながら俺を見た。その眼は「どういう意味?」と俺に尋ねている。
「お前は自分が思ってるより、ずっと正直ものだってことだ」
 口の中に物が入ったまま喋るような真似は絶対にしない沙織は一瞬面食らったようだったが、しばらく考え込んでから何も言わずに微笑んだ。
 そして、ナプキンで口の周りを拭ってからこう言った。
「……最近、優しいね」
「そうか?」
「うん、優しい」
 そう言った沙織は、自分の言葉にもう一度頷いた。
「優しい、よ……」
 震えた声、そして鼻を啜る音――蒼白い顔の上、ただ一ヶ所だけが赤くなっていた。彼女はナプキンをもう一度手に取って、目尻を拭った。
「そんなとこに、クリームはついてなかったけどな」
「――バカにしないで」
 沙織の声はもう震えてはいなかった。

「……実のところは気が気じゃない」
「ああ、分かるよ」
 本当に沙織の気持ちが分かるような気がしていた。
「それでも、お母さんにはそんな素振り見せられないでしょ?」
 口で笑って、目は泣いて――忙しい奴だ、と思った。
「きっと気付いてるよ、お母さんは」
「かもね」
「あんまり気張りすぎるなよ、頼むぜ」
 沙織はまたしても微笑んだが、返事は聞けなかった。
「あ、あのさ――」
 沙織が俺を見る。
「今日のお礼に――お礼にお礼っていうのも変だけど、明日の夜、うちにご飯食べに来なよ」
 その言葉に、俺の心は沈んだ。
「悪い、さお、明日はダメなんだ」
「どうして? 夜は用事もないでしょ?」
 理由を沙織に言うことはできない、それでも沙織の好意を無碍にしなければならないのは辛かった。
「――ダメなんだ」
「……」
「明日、俺も病院に顔出すからさ」
「……うん」
「ごめんな」
 沙織はとても残念そうな顔をしていて、その映像は俺の心をチクリとさせた。
 そうか、夜がダメなら――。
「……昼ならいいぞ」
 俺の言葉に、沙織は顔を上げた。
「ホントに?」
「そのあと、一緒にお母さんに会いに行こう」
「うん、わかった」
 さっきとは対照的に、沙織は笑顔だった。

 沙織の家まで、歩いて十五分。一度は断られたが、男としてはきっちり送ってやらないわけにはいかなかった。
 排気ガスの臭いがする通りから離れて、住宅街に入る。叫んでやりたくなるほど静かな夜だった。
 突然、犬の吠え声が静けさを切り裂いた。その声に俺が驚く様子を見て、沙織は笑った。
「ここの家、いつの間に犬なんか飼い始めたんだ?」
 吠え声は、通りの右側の塀の中からしているようだった。
 沙織の家から学校に通っていたときには、毎朝毎夕、ここを通っていた。
「結構前。ここのおばさんが毎朝散歩に連れてるの、よく見るかな」
「へー……」
 この通りを歩くこともなくなってから久しい。小さな変化だったが、この辺りで俺の知らないことが起こっているのが何だか悔しかった。
「助がうちを出てって、大体四年か」
「……そうなるな」
 冷えて感覚がなくなりかけている指先に、白い呼気を当てた。
「私たちが知り合って――」
「十五、六年ってとこか」
 口を手で覆っているため、俺の声はくぐもっている。
「ってことは、うちのお母さんはその間、ずっと助の第二の母親かあ」
「そうだな」
「ねえ、助」
 改まった感じの話し方に、俺は隣を歩いている沙織の方を向いたが、当の本人は前だけを見て歩を進めている。
「なんだよ?」
「もしも――もしもだけど」
「やめろよ、縁起でもない」
 俺の勝手な推測だが、俺が止めていなかったら沙織はきっと「縁起でもないこと」を口にしていただろう。
 少し間を置いてから、沙織は言った。
「……そうだね……じゃあ、もしも『そう』なったら」
「……そうなったら?」
「うちに戻ってこない?」
 沙織がこちらを見つめているのを左頬で感じながら、俺はかじかんだ指先を温めるのに必死になっているフリをした。
「馬鹿言え、俺はもうこれ以上お前の両親には迷惑をかけたくないんだ」
 中学に通っていた三年間、俺を本当の息子のように扱ってくれた沙織の両親と、俺を本当の兄弟のように扱い続けてくれている沙織に対する、俺ができる精一杯の義理立てだった。
「うちの親が助のことを迷惑だなんて思ったこと、一度もないと思うけど」
 ――そうだろう。あんなにお人よしな夫婦は、どこを探し回ったって居やしない。
「ガキだった頃とは訳が違うだろ? 俺だってもうすぐ社会人になろうってのに」
 俺は沙織から必死に目を逸らし続けた。
「この間さ、弥生ちゃんと一緒に夕食を作りに来てくれたでしょ」
「ああ、お前が疲れてるのを見かねてな」
「その日はひとつ」
 一体、沙織が何を言わんとしているのか分からず、俺は目を逸らしていることも忘れて沙織の方を見た。
「助がうちを出てからはひとつ」
「さお、お前一体何を――」
「お母さんが入院してふたつ、お父さんが仕事で遅くなるときはみっつ」
 俺の質問も遮って、沙織は続けた。
「お母さんが戻ってきてくれたら多くてもふたつ、お父さんが居て、助がうちに来てくれればゼロ――ゼロなら皆きっと幸せ――わかる?」
「……いや、悪い」
 分かってやりたいが、分からない。沙織が幸せだと言うのなら「ゼロ」にしてやりたいが、きっとできない。
「もしも『そう』なったときは、必ずひとつ」
 俺は頭を捻って考え込んだ。誰かが欠けると、数字は増える。誰かが欠けると――。



 食卓には、その日の夕食が並んでいた。
「なんか、変な感じね」
 お母さんが言った。
「そうだな……」
 お父さんも言った。
 まだ高校二年生になる直前だった私は、口にするのが恥ずかしくて黙っていたけれど、きっと両親と同じ気持ちだった。
「……わざわざうちを出て行かなくたってよかったのに」
 バカなんだから、と私は強がっていた。
「でも、中学を卒業したての子どもがなかなかできることじゃないだろう。立派だと思うぞ」
「『もう充分世話してもらったから、自立する』なんてね」
 私は隣の椅子を見た。誰も座っていない。昨日までは自分の弟分が座っていたはずのその椅子は、まるでその役目を全うしてしまったかのようだった。
「しかし、椅子が一つ空いてるだけで、こうも寂しくなるのかあ……沙織が嫁に行ったら、俺は寂しくて死ぬかもしれんな」
「変なこと言わないでよ」
 悪い悪い、と笑う父親の声を聞きながら、私は空の椅子を見つめていた。



「ひとりで食事するのが、あんなに寂しいことだなんて知らなかったんだよ……」
 沙織が言っていたのは、食卓に生じる穴――空席の数だ。
「助は独り暮らしで慣れたかもしれないけど、私はダメだな……」
 俺の家にも一応食卓はあるが、それを使うのは誰かがうちを訪ねてきたときだけだ。一人のときは、テレビの前に置いた小さな丸テーブルの上で食事をとる。
「弥生ちゃんと一緒に来てくれた日の翌日、凄く寂しかった。昨日は椅子がひとつしか空いてなかったのにって。今日だって三人でご飯食べて、楽しかったよ」
 俺は黙って沙織の話を聞いていた。
「もしも、『そう』なったら……もしも――」
 俺にはもう、止められない。
「お母さんがいなくなったら……ずっとひとりなんて、やだよ……」
 ナプキンで拭って、隠し通したはずの涙。
 四角いテーブルは、どこを選んで座っても角。ひとりきりでテーブルの角に座って食事をとる沙織の姿を思い描いて、胸が痛んだ。
「戻って、きてよ……」
「……わかった。考えておく」
「寂しいんだよ……」
「今日は泊まる」
 ――そばに居てやる。
「助……」
 沙織の手をひいて、沙織の家の門をくぐった。
 周りの家には人がいる。この街には人がいる。
 それでもこの家の中で、俺たちはふたりきりだった。
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