――夢の世界に、匂いは存在するのだろうか。
遠くから、暖かくて香ばしい匂いがする。
瞼を開くと、俺の瞳は見慣れない天井を映した。
「……ん」
柔らかいベッドの上、厚い毛布が俺を暖かく覆っていて、冬の朝であるにも関わらず手足の先まで熱を持っていた。
そして完全に覚醒した途端、俺は弾かれたように飛び起きた。
「おはよう。やっと起きたか」
沙織が言うのを尻目に、俺はリビングの時計で時間を確認する。
短針がちょうど「10」を指している。
俺はひとまず胸を撫で下ろし、キッチンでトーストを焼いている沙織に声をかけた。
「お前だって、今から朝飯だろうが」
「ブランチってやつ、かな?」
沙織は笑ってそう言うと、袋からもう一枚食パンを取り出した。
「一枚でいいよね? 昔から朝はあんまり食べないし」
「ああ」
目ヤニがついているのか、瞼がかゆくなって俺は目を擦った。
「……寝過ぎたな。お父さんにも挨拶するつもりだったのに」
「いいって」
「『何かあったら』とか普通気にするもんだろ、男親ってのは」
勝手知ったる金沢家の台所の棚を漁り、俺はインスタントコーヒーの瓶を取り出した。
「いくらなんでも、兄弟が相手じゃ心配はしないと思うけど」
「ああ、それもそうか」
コポコポと音を立てて、マグカップから眠気を覚ます香りがたってくる。
――どうも、一ヶ月くらい前から調子が狂いっ放しだ。
「……これ食って、すぐにお母さんの所へ行こう――っと、熱っ」
オーブントースターから取り出したばかりのトーストが俺の人差し指の先端を焼いた。
「午後からゆっくり行っても――」
「いや、すぐだ」
今度は気を付けながら、トーストにマーガリンを塗る。
「……わかった」
沙織が言った。
トーストを一口かじると、今度はその熱さに舌が痺れた。その後飲んだコーヒーは、苦くて、痛かった。
凍えるような風の中を沙織と並んで歩き、病院へ向かう。沙織はまるで昨日のことがなかったかのように振る舞っていた。そんな沙織を、俺は腫れ物を触るようにしか扱えなかった。
お母さんが死んだとき、俺は金沢家に戻れるのだろうか。
母親の居る病室は、やっぱりどこか無機質だった。その生気のない部屋のベッドの上に、朽ちかけの命が横たわっている。そして、その横に座っていたのは――。
「……助くん――沙織さんも」
「弥生」
一昨日会ったばかりのはずの弥生の姿が、ひどく懐かしいものに思えた。
「……寝てるのか」
「ええ、ついさっき寝たわ……起きてるのが辛そうだった」
「弥生ちゃん、わざわざ看に来てくれてありがとね」
沙織が弥生に礼を言うのを聞きながら、病室の隅に重ねてある背もたれのない丸椅子を二脚、ベッドの脇に置いた。その片方に沙織を座らせてから、静かな病室の中をぐるりと見渡して俺も座った。
「キョロキョロして、どうしたの?」
「ん、いや」
病室の中に、口の減らない女神様の姿を期待してしまっていた自分がバカらしかった。
「私、飲み物買ってくる。お茶でいい?」
「ああ」
沙織の気遣いに対して無愛想な返事しかできなかったのは、あまりに変わり果ててしまった第二の母親の姿を目に焼き付けておきたかったからだ。
今や肌の色は蒼白と言い表すにしても彩度が足りなくなっていた。まるで、体内の組織が透けてしまいそうなほど薄くなった血色と肉が、ロウソクが消えてしまわないように守るための囲いが倒れかけている様を連想させた。
「……いろいろ、お話してくれたわ」
「……そうか」
ベッドの上の母を見つめる弥生の眼は、初めて会ったときよりも少しだけ明るくなっていた。
「いいお話をね」
「お母さん」
三十分ほどして目を開けた二人目の母親に呼びかけると、虚ろな眼が焦点を合わせないまま俺を見つめた。
「た……すく……?」
呟くと、だんだんと意識がはっきりしてきたようだ。
「沙織、それに助も……来てくれたの?」
俺と沙織がそれぞれに頷くと、お母さんは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ……弥生ちゃんが居たからあまり退屈じゃなかったんだけどね、それでも嬉しいわ」
「弥生とどんな話をしてたんだ? あんまり想像つかないな」
母はわざとらしく考え込むように目線を上に泳がせた後、こう言った。
「――哲学よ」
「なるほど、俺には分かりそうもないな」
俺は仕方ない、という風に肩をすくめた。何でもないように振舞おうとしていたが、心臓だけはその鼓動を抑えることができない。
――俺はお母さんに言いたいことがあるんだ。
ちらりと病室にかけられた時計を見ると、短針が「12」と「1」の間、長針はきっかり「5」を指している。
午後十二時三十分。キリのいい時間だったから、しっかり覚えている。
「……ねえ、助……言っておきたいことがあるのよ」
そんなところに舞い込んできた母のセリフ。これを活かさない手はなかった。
「そりゃ奇遇だね。俺もお母さんに言っておかなきゃいけないことがあるんだ――」
「沙織が、どうも助がまだうちに世話になったことで負い目――って言うのかしら、そんなものを感じてるみたいだって言うのよ」
先に話してもらうよう促すと、母はそんなことを言った。
「負い目――?」
「お、お母さん、助には言わないでって言ったでしょ?」
「いいじゃない、私が助に伝えておきたいの」
沙織が裏でそんなことを母に相談していたことを知って驚くのと同時に、抗議したくなった。
「負い目なんて持っちゃいない。ただ、感謝しきれないだけなんだ」
「それがなんだか、責任を感じているように見えるんですって」
優しく諭すように語りかけられると、俺も毒気を抜かれてしまう。
「そんな風に感じられたままにしておきたくなかったのよ。だって、息子を養うのは当然のことでしょう」
『息子』と言われて、俺の心は温かい何かに包まれた。
「……ああ、ありがとう」
素直に感謝の言葉を述べる。
「沙織も、あまり無理ばかりしていないで助を頼りなさいね」
「……え? あ――うん……」
突然訪れた今生の別れのような空気に、沙織は戸惑いを隠せないでいるようだった。
「こんな風になっちゃって、お父さんにも沙織にも迷惑かけちゃって――感謝してるわ」
「お母さん……?」
沙織が、母の只ならぬ雰囲気を読み取って、不安そうに呼んだ。
時計の針は、もう「時間」が来ていることを俺に知らせていた。時間がない。これだけは伝えておきたいんだ。
「母さん、任せてくれ。沙織のことは俺がちゃんと見てるから安心して――」
その先は言う必要もないだろう。お母さんは、自分の限界を知っている。今度はちゃんと伝えることができた。
沙織のことは俺がちゃんと見てるから、だから――。
安心して、逝ってくれ。
二月十七日、午前十二時三十分。
お隣のおばさんであり、幼馴染の母親であり、そして俺の二人目の母親であった金沢京子は、病院の真っ白なシーツが敷かれたベッドの上で、大量の血を吐いた。