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2/17 : 最期が迫るその時に

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 ――生命とは、一種の波動である。
 第二の母親の心拍を示すモニターをずっと見つめていた俺は、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「……ねを……さい」
 そんなとき、弥生が何かを呟いた。よく聞きとれはしなかったが、何か心を打つような響きがした。
 何やらいつもの弥生の様子とは違う。重要な場面に立ち会うにあたって感覚が鋭くなっているのだろうか、俺は敏感に沙織と弥生の表情を察知する。
 硬い床に膝をついて、母親の手を握っている沙織に目をやった。俺はその肩に手を置いている。一ヶ月前にはそうしてやれなかったその小さな肩を優しく撫でた。
「……大丈夫だ、信じろ」
 俺の口が勝手に出まかせを言った。
 物語の結末をすでに知っている読者が、他の読者には真実を教えない。それどころか、真っ赤な嘘をつく。
 沙織はただ頷くだけだった。母の手を握り、俺の嘘にすがる。
「――きっと」
 驚いたことに、口を開いたのは弥生だった。
「きっとまだ、二人のお母さんは言いたいことがある」
 何か知ったような口振りに、俺は目を丸くした。
「このまま居なくなるような真似はしないわ」
 お母さんとの間に何があったのかは知らないが、弥生の確信めいたセリフも、俺にとってはバカバカしく聞こえた。
 お母さんはこのあと間もなく死ぬ。そうでなければ、俺は一ヶ月前に彼女の死に目に会うことができたのだから。
 電子音が響く。そのせいで鼓膜が震えるのが感じられるほどに、集中治療室の中は静かだった。
 ふいに、その電子音の間隔が広くなった。
 ――心拍数が低下している。それも急激にだ。
 そばにいた医者が、何やら薬品の名前を口にした。すると、補佐に回っていた看護師がそれを投与するための準備に入る。
 不安そうにその様子を見つめる沙織の肩を、俺は力を込めて掴んだ。
 そして――……。

「京子さん……」

 実の娘である沙織でも、息子同然の俺でもなく、赤の他人の弥生がその名を呼んだ。



 その瞬間、閉じていた彼女の瞼が開いた。
「……沙織……助……」
「お母さん」
 沙織は母親を呼んだが、俺は何も言えなかった。

 これは喜ぶべきことだ。俺の倫理観がそう告げている。当たり前だ。自分の親が死の淵から帰ってきて、再びその眼を開いたのだ。本来ならば、静けさの代名詞のような存在であるこの病院の集中治療室で、周囲の迷惑も顧みずに歓声を上げてしまってもいいくらいの出来事だ。
 それでも、だ。俺は自分自身の意識のどこかで、この状況を否定したいと思っているようだった。
 今の時刻が気になって時計を探したが、この部屋にはない。ポケットから携帯を取り出して開くと、真っ黒なディスプレイが現れた。「ここは病院だ」と俺を諫めているのか、はたまたバカにしているのか、とにもかくにも何も映し出していないそれは俺を無言で見つめていた。
「もう時間がないわ……最期に言いたいことがあるの」
 お母さんが口を開いた。彼女はそれさえも辛そうで、表情筋までもが病気のせいで衰えてしまっているのではないかと思えた。そして、意味ありげに弥生の方に目をやった。二人にしか分からない約束があるのか、弥生は母を促すように頷いた。
「お母さん」
 沙織は顔を歪めた。
「嘘ついたまま、死にたくないから……本当のことを言うわ」
「……本当のこと?」
 沙織が聞き返してから、次にお母さんが声を発するまでは永遠の時間が流れた。もちろんそんなものは比喩にしかすぎないのだろうが、少なくとも俺にとっては正真正銘の永遠だった。
「死にたくない……」
 震える唇が、そんな言葉を紡ぐ。闘病生活の間、そんなことは一度も口にしなかった母が――俺が一度経験した過去においても、文字通り死んでも言わなかったセリフを、絞り出すように言った。
「私、本当は死にたくなかった……! 二人が就職するまでは……結婚するまでは……孫の顔を見るまでは……!」
 もう目の焦点が合っていないのか、彼女はぼんやりと天井を見つめている。
「生きている間しかできないこと、たくさんあるのよ。生きている間は気がつかないけれどね」
 死んだら何も出来なくなる。そんなことは当たり前だと、誰もが分かった気になっている。だとしても、分かった気になっている人の中には誰として死んだことのある人間はいない。そこに生まれる、想像に思い描いた死の世界にリアリティはないのだ。
「死んだらもうあなたたちに会えないと思うと、不安で、押し潰されそうだった――こんなことを言って、今さらあなたたちを悲しませようなんて思ってないけど……最期まで面倒を見てくれた人たちを騙したまま死ぬなんてできないって、そう思ったの……」
 強く握りしめた拳のせいで、掌の感覚がない。脈拍数は急激に上がっているし、耳鳴りもする。そんな中、俺はただ、母の言葉だけに意識を向けていた。
「だから、これだけ覚えていてくれればいいわ。……私は、この世とか家族とか、これからの人生とか、いろんなものに未練をたっぷり残したまま、死んでいった――ってね……」
 そう言って、俺の母親は目を閉じた。
 これから永遠のお別れだというのに、その表情は満足気な笑みに満ちている。

 沙織が自らの手をしっかりと握りしめてくれている様子に涙腺が緩んだのか、それとも、これから自分のセリフから想いがこぼれ出したのか――自分を捕食しようとする、抗いようのない闇に対する最後の抵抗か。
 お母さんの死に顔の頬には、確かに一筋、涙が伝っていた。

 ああ、彼女は本当に居なくなってしまったんだな――。
 漠然とそんなことを考えていた。もう動かない身体からは、その瞬間、決定的な何かが抜け出ていったようにも見えた。

 ハルカと出会ってあっという間に一週間が過ぎ、再び二月の街の地面を踏んだとき、俺は「もしかすると、この一ヶ月を後悔のないようにやり直せるかもしれない」と考えていた。
 確かに、一度目にお母さんが亡くなったとき、俺は死に目に会えなかったことを深く、深く後悔した。
 そして、二度目を経験した今――俺は一度目のときには感じることのなかった言いようのない感情を持て余し、一度目のときとは比較にならないほど重い何かを背負うことになってしまったのだ。
 二度目の母の死が俺に与えた衝撃は大きかった。身内が目の前で息を引き取ることに対する現実感のなさ、とても言葉にはできない感情の動き、決して知ることのなかった母の思い。
 そして――。
 ベッドの傍らで、亡骸にすがるようにして泣いている沙織、の隣で呆けたように立ち尽くす俺、から少し離れたところで、隠しもせずに涙を流す弥生の姿――もしかしたら、それも母の死が俺にもたらした衝撃だったのかもしれない。
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