二度目の母親の死は、俺に多くの驚きをもたらした。一度目のときは驚くような余裕もなかったから気が付かなかったが、人が死ぬことが呆れるほどにあっけなくて、理不尽なものだと改めて思い知らされた。
通夜はその日のうちに滞りなく済んだ。あまりに何もなかったので、自分が誰の通夜に出席しているのかを忘れてしまいそうになった。弥生も薫も姿を見せてくれたが、二人とも親族側に座っている俺と沙織に少し視線を向けただけだった。俺は二人に視線を投げ返したが、沙織にそんな余裕はないようで、ただ下を向いて唇を噛んでいた。血で赤く滲んだ唇は痛々しかった。
――誰にも知られずに、葬儀なんかしてもらわずに死んでいきてえなあ……。
母の死を悼んで参列してくれた人たちを横目に、俺はそんなことを考えながら目を瞑った。親族が目を瞑って下を向いていたって誰も咎めない。泣いているようにしか見えないからだ。俺はただ、参列者の行列が短くなっていく度に母親が天国に近づいていくような気がして、見ていたくなかっただけだ。
一回目に出来なかったことが、二回目には出来るようになるだなんて思うな――そんなセリフを、誰もが聞いたことがあると思う。
二回目も俺は結局、母親と向き合えないままだ。
今日は沙織についていてやることにして、通夜の後、俺は父娘二人とともに金沢家へと戻った。時計の短針はすでに真上に近い点を指している。
沙織は今、浴室で看病疲れや顔に残った涙の跡を流していることだろう。
俺は昔ここに世話になっていたときに与えられていた一室で、何をするでもなく空を見つめていた。今は半分物置になってしまった懐かしいこの部屋は、使わなくなったもので溢れている。あまり観察するとお母さんとの思い出の品でも出てきてしまいそうなのが怖くて、俺は何もない壁に視線を送るように気をつけていた。
ふと、通夜の前から電源を切ったままにしておいた携帯が気になった。
薄暗い部屋でディスプレイが完全に灯るのを待つと、案の定、新着のメールが二通あった。
一通目、受信時刻は通夜が終わった直後。メールの中身はこうだ。
『大変だろうけど無理するなよ。頼りたかったら頼ってくれよ』
親友の優しい表情と、女みたいな声が脳裏で再生される。
「……やべ」
涙腺が緩みかけて、慌てて次のメールを開いた。
『忙しいのは分かっているけど、お話したいことがあります。落ち着いたら直接会って欲しいです』
もう一通は弥生からだ。
思い当たる節はいくつかある。まずは母親のことだ。二人の間にあった何かを俺に話してくれるのかもしれない。
二つ目はハルカのことだ。ここのところずっと姿を見せないあいつのことを、弥生が気にしないわけがない。
また、あるいは――……。
そのとき、部屋のドアをノックする音がした。
「……お風呂空いたよ」
沙織の声に元気はない。
「あいよ」
数年前は毎日のようにしていたやりとりだった。
――この家は何もかもが懐かしすぎて、居心地が悪い。
俺は着替えを手に取って、脱衣所に向かった。
風呂を済ませた俺は、沙織の部屋を訪ねてみた。
「……助」
沙織は今、真っ白だ。
しかし、下手をすれば、沙織の心は墨汁でもぶちまけられたように黒く染まってしまうだろう。
――そうならないようにやり直すんだ。
「泣いてるかと思ったぜ」
言ってから、俺はこんな軽口を叩くべきだったのかどうかを悩み出す。
「……泣いてた」
「安心しろ、俺も泣いた」
俺の口は余計な事を勝手にしゃべる。
沈黙がこの部屋に訪れた瞬間、沙織の心が永遠に閉ざされてしまうんじゃないかという不安に駆られる。
沙織が鼻を啜った。
そういえば、この部屋はやけに寒いような気がした。
「エアコンつけるか?」
リモコンを手に取る。プラスチックで出来たそれ自体も冷え切っている。
「いい」
「でも寒いだろ」
「いい」
部屋の空気よりももっと冷えた声で沙織が言う。俺は仕方なくリモコンを元の位置へ戻した。
「……何か飲むか? あったかいもの、淹れてくるぞ」
「いいって……」
疎ましそうに首を振る。
「沙織……」
どうしようもない。
本人にすら制御できない感情の揺らぎを、俺がなんとかしてやれるわけもなかった。
沙織は神経質な様子で前髪に手櫛をかけ続けていたかと思えば、突然こんなことを呟いた。
「死にたくなかった、だって……」
「ああ、お母さんはそう言ったな」
いみじくも、な。
「お母さん、ずっと誤魔化して、隠して……私、気がつかなかった」
自分を責めるかのような口ぶりだ。
「本人以外、誰も心の中身を覗けやしない。……気にするな。お前のせいじゃない。それに、誰だって死にたくないのは同じなんだ」
自分でも何が言いたいのかよくわからなくなって、いまいち説得力のない、薄っぺらな慰めをするハメになる。
「お母さん……」
沙織は、その小さな体を震わせている。
「仕方ないことなんだ。誰のせいでもない」
もっと気の利いたセリフが欲しい。
「明日も早い。寝た方がいい」
もちろん沙織が簡単に眠れるとは思っていないが、俺はとにかく逃げたかった。
「……うん」
結局、沙織は一度も俺の目を見ないままだった。
沙織の部屋を出た俺は、大人しく自分の部屋へと戻る。
――二回目のチャンスをもらったって、何も上手くいかない。
それは俺の能力不足なのだろうか。
「それとも、時間は本当にやり直しがきかないものだって……神様が教えてくれてるんだろうかねえ……」
俺は部屋の隅に視線を投げかけつつ、完全に脱力して、壁に寄りかかりながら床に座った。
「教えてほしいもんだ――なあ、ハルカ」
……真面目な顔をしたあの女神様が、物置の隅っこに佇んでいた。
「お悔やみ申し上げるわ」
場違いではあったが、ふざけている様子はない。
「ああ……」
俺は視線でハルカを刺した。
「どうしてここにいる?」
「忘れたの? 私は助の担当。経過観察に来たの」
「そんなことはどうでもいい――どうして弥生に会いに行ってやらないんだ?」
「禁止されてるから。言ったでしょ?」
俺は苛立っていた。
「関係ねえだろ、そんなの。現にお前は、こうやって俺に会いにここまで来てるじゃねえか。下界まで降りて来られるってことだ」
「弥生には会っちゃいけないって言われてるんだから、仕方ないでしょ」
苛立ちを隠せないのは向こうとて同じようだった。アーモンドの形をしたキレイな目が俺を見ている。
「……お母さんと会ったんだな?」
あの窓口で。
このタイミングでハルカが現れるなんて、そうだとしか思えない。
ハルカは縦に首を振った。
「……そうか」
俺はふっと表情を緩める。
「ええ、私からはあなたのことは話してないけど、あの人――」
大体読めたよ、ハルカ。
――悪いけどその先は聞きたくないんだ。
「……今すぐ俺が死ねば、また会えるのか、ふふ……」
ハルカの言うことなど耳に入っていないかのような演技をしてやった。
「助……?」
ハルカが「冗談だよね?」という視線を俺に送っている。同時に、もしかしたらという可能性を考えてか、俺の方に一歩近づいてきた。
「ハルカ……悪いが、今は帰ってくれ」
「どうして――」
「帰れ!!」
ハルカが息を呑む音が聞こえてくるようだった。
「やっぱりお前は人間とは違う」
なんにもわかっちゃいない。
「母親が死んだ後、何を言ってたかなんて聞かせるんじゃねえ」
「……私は、助が聞きたいと思って――」
彼女の顔には、明らかに狼狽の色が浮かんでいる。
「ああ聞きたいさ、それで?」
「それで、って……」
「それを聞かされた俺はどうすりゃいいんだっつってんだ!!」
沙織に聞こえないように、最低限の配慮をした最大限の叫びを叩きつけてやる。
――すげえだろ、俺の剣幕には神様だってたじろぐみたいだぜ。
「お母さんが死んだ後こう言ってた? 大いに結構だけどな、それを知って何になるんだ? 俺がお母さんに伝えられることは何もありゃしない! 何にも出来ない……! あまつさえ、俺は死んだ後の世界を覗き見てんだぞ? 余計に手が届きそうで悔しくなるだけじゃねえか!」
俺の苛立ちは今やピークに達していた。
呼吸が乱れる。腕が震える。胸がざわつく。頭が沸騰する。
体中を掻き毟りたくなるような衝動に襲われる。
「ご、ごめん……」
「もういいから、今日は帰ってくれ……一人にしてくれ」
「でも……」
ハルカは心配そうに俺の様子を見つめていた。
「いいから失せろ!」
どうやら雨が降り出したらしい。雨粒に叩かれた窓がびりびりと鳴いた。
お母さんにあんなことを言われて動揺して、沙織には大したことを言ってやれなくて、ハルカにはあんな罵声を浴びせた。
最低な気分だった。