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2/19 : さようなら

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 父親の葬儀のときもそうだった。
 ――いつだって、大切な人は遺影の中で笑っている。
 死にたくなくても、心の整理がついていなくても、まさか自分が死ぬとは思ってもみなかったとしても、写真の中の彼らはただ微笑み続ける。
 彼らが笑って見ているその前で、俺たちは涙を流す。あるいは、神妙な顔で焼香をあげる。
 沙織の悲しみようと言ったらなかった。参列者の目をはばかる余裕など雀の涙ほども残っていない彼女が、雀にすれば何羽分かわからないほどの涙を止めどなく溢れさせる。
 ちょうど一ヶ月と一週間前のものとほとんど違わぬ光景だ。違うのは俺の心境と、参列者に交じる弥生の姿ぐらいなものだ――と、思っていた。
 俺は自分の目を疑った。目を細めて、斎場の隅を凝視する。視界が涙で滲んだせいで余計な像が映ったのかとさえ思った。
 慌てた俺は、目立たないように口だけを動かしてそいつに伝えようとする。
『弥生に見つかるぞ』
 もちろんハルカは、俺が言うまでもなくそんなことはわかっていただろう。
 ハルカはゆっくり頷いた。
 哀しそうな瞳が母の遺影を見、そして俺を見、こう言っていた。
『……ごめんね』
 俺は首を振った後、俯いた。
 弥生に見つかったらタダでは済まない状況にあるハルカが、わざわざ弥生も参列している葬式にまで出向いてきた。それが何を意味するのか、悲しみでいっぱいの頭で考えたってわからないわけがない。
 昨日、あの狭い部屋で怒鳴り散らした俺は何だったのだろうか。
 また自分に嫌気が差した。
 ――俺がこんなんでどうする。
 沙織の悲しみを和らげてやれるのは、俺しかいない。その俺が心を乱れさせていてはどうにもならない。
 膝の上で固く握っていた右の拳をふっと緩めて、隣に座っている沙織の左手を探った。やがて、俺の右手が、沙織の震えに触れた。
「……た、た……すく……?」
 普段の気丈な様子からは想像に難い、泣き腫らした目をこちらに向ける沙織の方を向かないまま、俺は沙織の手を握ってやった。
 二月。会場には暖房が効いているが、彼女の手のひらは舞い落ちる雪のように冷たく、儚げで、強く握りしめてしまえば感情ごと融けていってしまいそうだった。
 壊さないようにそっと、そっと親指以外の四本の指を温めるようにして包み込む。
 こんなことで沙織の心を癒せるなどとは思っていない。今できることが、これしかないだけだ。効果のほどはわからない。
 ただ、沙織の手が一度だけいっそう大きく波打ったかと思うと、震えがぴたりと止んだ。それだけを、俺の手のひらは確かに感じ取っていた。

 母の死を悼んでくれる人々の列が短くなり、経もあげ終えて、そしてついに、出棺のときがやってきた。
 俺たちはお母さんを囲むようにして立っている。俺たち三人の他には、葬儀の係員と、ごく近しい親族しかいない。
 死に化粧が施された、棺桶の中の真っ白な顔を見つめた。
「お母さん……」
 生き返って――。
 沙織の呼びかけからはそんな思いが伝わってくるようだ。
 俺はずっと沙織と手を繋いだままでいる。一度目のときよりも、沙織は幾分か落ち着いているように見えた。
 沙織を挟んだ隣を見ると、お父さんが唇を噛みながら棺桶に花を捧げていた。その後、目の前で死に顔を晒している女性の夫は、数秒間だけ静かに目を閉じた。
 彼の瞼と眼球の間――、ミリにも満たない広さの真っ暗な世界で、一体、何が再生されているのだろうか。
 やがて目を開けた彼は、俺の視線を感じたのか、箱の中を見つめ続ける沙織を挟み、こちらを見ながら弱々しく笑った。
 突然の訃報を聞かされて、出張から飛んで帰って来るや否や喪主を務めなければならなかったその顔には、明らかな疲労と憔悴の色が見て取れた。
「最期になりますが、何かございますか」
 係員が親族である俺たちに言った。
 俺も沙織も、お父さんも一様に首を横に振る。
「では、釘打ちをお願い致します」
 お父さんに手渡されたのは手のひらになんとか収まる程度の大きさの石だ。彼は棺の蓋を止めるための釘をその石で軽く打つと、石を沙織に手渡した。
 沙織もゆっくりと父親に倣い、力なく釘を打つ。
 そして、無言で俺に石を手渡すのだった。俺はその感触を確かめるように、しっかり石を握った。
 棺桶の中、永い眠りに就いた顔を見ながら、俺は釘を二回打つ。

 さようなら――。

 一回。

 お母さん――。

 二回、と。

 それからのことはよく覚えていない。気がつくと俺たちは火葬場に到着していて、分厚い扉の向こうでお母さんの体は棺桶ごと炎に包まれていた。
 天に昇っていく煙を目で追おうと試みるが、煙はすぐに灰色の雲で覆われた空と同化してしまう。
 まるで、お母さんが空とひとつになってしまったかのように――。



 葬儀の後に設けられた身内だけの会食の席。
 沙織やお父さんはもちろん気にしないだろうが、金沢家の親戚の中では俺の存在を知らない人たちの方が圧倒的に多い。沙織の様子も、前回よりはかなり落ち着いているようだったので、俺は無理を言って会食の前に抜け出させてもらってきた。
「突然のことだったし、先に一度アパートに帰って、着替えとか必要なものを準備しておきたいんだ」
 俺の言葉に、沙織とお父さんは快く頷いてくれた。
「大丈夫だよな……? しばらくは、そっちに厄介になるつもりだから……な」
 沙織にしか聞こえないように、そっと囁く。
「うん……ありがと」
 手を握ってやったのが多少は効いていればいいな、と思った。



 葬儀から真っ直ぐ帰ってきた1Kの部屋は、長い時間空けていたわけでもないのにひどく懐かしく感じた。俺はボストンバッグにタンスの中身をいい加減に詰め込み、洗面所からは歯ブラシを用意した。必要なものはそれだけで、あっけなく準備は済んでしまう。若い男の独り暮らしは寂しいほどに身軽だった。
 そして今、俺は弥生をここに呼びつけようとしている。
『今、すぐ?』
「――ああ、すぐに沙織の家に戻るから、あまり時間がないんだ……葬式にも出てくれたってのに、悪いな。来られるか?」
『ええ、大丈夫よ』
「……じゃあ、待ってる」
 そう言って通話を終えた後、俺は大きく息を吐いた。
 弥生がメールで触れていた「話」というのは、十中八九、お母さんに関係のあることだろう。あのタイミングで、向こうからわざわざ話があると言ってきたくらいだ。直接的な話でなかったとしても、何らかの形でお母さんが関わっていることに疑いはない。

「よう、上がれよ」
 冷たい扉を開けて、弥生を中に迎え入れてやった。
「……来てくれてありがとな。お母さんもきっと喜んでる」
 コートを掛けるようにとハンガーを渡してから、温かいものでも淹れてやろうと、俺は流しの前へ立った。
「いいえ、私の方こそ……いろいろお話してもらって、楽しかったから」
「そうか、よかった」
 背中に弥生の視線を感じながら、俺は熱湯の入ったカップの中で、ティーバッグを上下させていた。
「……助くんも疲れてるでしょう。あれからほとんど休めてないみたい」
 さすがに、俺の疲弊も身体から滲み出ているようだ。
「ああ、少しな。どうってことない」
「こんな時に話があるなんて言って、ごめんなさい」
 普段はキツい印象を与える目尻が、心なしか下がっているように見える。
「……いいんだ。俺たちにはあんまり時間がないしな……気が付いたら、もうすぐ三週間だ」
「そうね……」
 ――こいつのこともどうにかしてやりたいが、ハルカも動けない状態にある今、あと十日やそこらで解決できる可能性は皆無に等しい。
「で、話ってなんだ?」
「ええ……」
 弥生は俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。今までにない感情が、弥生の中を巡っている――そんな感じがする。
 聞いてやろう。せめてそうしてやることが、俺のできる精一杯のことだから。
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