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2/21 : 彼の幸せ

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 沙織とのことがあってから一夜が明けて、いつもより暖かい朝がやってきた。睡眠不足だったが、ニュースの天気コーナーでも三月中旬並みと言われた気温のおかげで、沙織のベッドから抜け出すのは案外楽だった。
 それから少しして起きてきた沙織と気まずい朝食を済ませ、二人きりでいることに耐えきれず、やることもなかった俺は、シーツを洗濯しようとしていた沙織に「散歩に行く」とだけ伝え、半ば、沙織と、あるいは彼女との間に流れる空気から逃れるように、半ば暖かな陽気に誘われるようにして街に出た。
 屋内とは違い、まだ溶けかけの雪が残る街は、足元から昇ってくる冷気が感じられる。
 ――どこへ行こうか。
 当てのない、単なる散歩だ。この街のどこにも用はない。厳しい寒さから束の間解放された街並みを、行き交う人を、車を眺めながら彷徨う。それはなんだか気分がよかった。
 今俺とすれ違ったサラリーマンは、これから営業に向かうのかもしれない。信号待ちの俺の前を通り過ぎていく車たちは、それぞれに目的地があって、そこで大切な用事が待っているかもしれない。
 そう考えると、何の目的もなく歩く自分が浮世離れしているような気がしてきて、楽しくなった。考えなくてはならないことはたくさんあったが、今だけは何も考えたくない。俺の思考は俺自身と同じようにランダムに頭の中を漂って、どこに行きつくのかもわからない。
 でも、あんなことがあった日くらいは――、そう、思っていた。
 
 なんとなく本屋に寄って、何冊か立ち読みをした。それだけで幾分かの時間が潰れる。目ぼしい本を一通り読み終えたところで、店を出る前に目に留まった求人情報誌を買い、俺は本屋を後にした。
 それでも昼までは十分に時間が余っている。暇を持て余して仕方ない。そんなとき、俺が行き着く場所はひとつしかないのだ。
 俺は近道となる光の差し込まない路地裏を通り抜け、通い慣れた高級マンションの一室を目指した。
 冬の澄んだ青い空に向けてそびえるその建物は、この街で一番の高さを誇る。
 無駄に広いエントランスで、オートロックを解除してもらうため、インターホンに目当ての部屋番号を入力して呼び出しボタンを押した。
 ややあって、「はい」と少し作った声が聞こえた。
「俺だ」
『助か、今開ける』
 俺は薫の開けた自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り込むと、並べられたボタンの中でも一番上のものを押した。
 ここ一帯で、よほどの金持ちしか住めないと噂されるいい造りのマンションの、そのまた頂点に位置する十七階。
 俺の親友である桃井薫は、二つの意味で、この街で一番高い場所に住んでいる。

「なんだか、お前がうちに来るのは久しぶりだな」
「最近、いろいろあったしな」
 広い玄関から、これまた無駄に幅広な廊下を数メートル行き、そこにあるさらに広い部屋。薫に与えられているのは十二畳の洋室だ。
 廊下をさらに奥へと行けばこの部屋の倍以上はあるリビングダイニングが待ち構えているし、他にも和室が二つ、書斎、父親の寝室など合わせると、マンションにありながらほぼ沙織の家と変わらないか、それ以上の面積があった。
 金持ちの住むこのマンションの最上階はさらにVIP待遇で、専用駐車場や共用スペースの管理費など、ここに住む上でかかる諸経費がすべて免除されるらしい。
 「そうでもないと住めないからな」と、昔、薫から聞いた覚えがあった。
 ここは、薫の母親の実家が半ば押しつけるようにして娘夫妻に与えた住居だった。

「どうよ、沙織の様子は」
 俺はベッドの脇に山積みにされた少年漫画雑誌や、女物の服がかかった観音開きのクローゼット、物はやけに多いが広さがそう見せるのか、落ち着いて見える部屋を眺めていた。いつも入り浸っている部屋だが、改めて「性別のない部屋」だと感じた。
「聞いてるのか?」
 受け応えをしない俺に、薫が返事を催促する。
「……ああ、ちゃんと右耳から入って左耳から抜けてる」
「それ、聞いてねえじゃん」
「あいつなら大丈夫だ」
「聞いてるんじゃねえか!」
 憤慨する薫を尻目に、俺は部屋の奥のタンスの上に飾ってある写真に目を向けた。
「まだ飾ってんのか、あんなもん」
 高校の卒業式の時の写真。もう一年も前のことになる。
 ありがちな「卒業証書授与式」の看板が立てられた校門をバックに、中央は女生徒の制服を着て卒業証書を抱く薫、左に今より髪が短い俺、右には薫の父親が映っている。薫の父親は、白髪の多さを除けば、四十になろうという中年男性とは思えないほどの若々しさだ。これを撮ったのは、俺たちよりひとつ年上で、高校のOGでもある沙織だったはずだ。
「俺の勝手だろうが」
「まあ、いいんだけどな……」
 親子二人の画に、俺が割り込んでしまったみたいで違和感を覚えた。そもそも俺は、この写真を撮るときも直前まで一緒に映ることを遠慮していた記憶がある。
 それでも一緒に並ぶように言ったのは、薫の父親だった。
 初対面の俺が「薫の友達です」と自己紹介すると、彼は顔をくしゃくしゃにして喜び、「ぜひとも一緒に写真を撮ってくれ」と俺に頼み込んできたのだ。
 男の俺から見てもかっこよくて、優しそうな父親だった。
「親父さん、今どうしてんだ?」
 ふと気になって、尋ねた。
「ほとんど顔も見ないな……ほぼ二十四時間勤務みたいな感じだ」
「あれ? 仕事、何してんだっけ」
「友達の紹介で、若い頃から興味のあった出版社に転職したんだ。半年くらい前に。ずっとやりたかった仕事らしいんだ。……母さんの実家から紹介された仕事を失ってから、ずっと給料の安いところでしか働けてなかったけど、今の会社はそんなに悪くないみたい」
 今じゃ、仕事が楽しくて仕方ないらしいよ、と薫は笑った。
「うちは母さんの実家から何もかも押しつけられてたから……夢が叶って嬉しいんだと思うよ」
「引っ越さないのか? この家から」
 ここを売り払ってその金で手頃な家を買えば、余裕でお釣りが帰ってくるはずだ。
「俺はそうしようって言ったんだけど、何だかんだ言っても、母さんとの思い出の家らしいんだ。俺はここに思い入れはないけど、父さんは出ていきたくないみたい。家賃も管理費もかからないから、お金の心配はないけどさ」
「そうか、でもまあ、やりたいこともやれて、お前も大学行けてるくらいだし、生活にも困ってないんだな」
 そう言って俺は、もう一度写真を見た。

 今の桃井親子の状況を一言で表すなら「幸せ」なんじゃないかと俺は思う。一家の呪縛のせいで薫に歪んだ教育を施してしまった母親はいなくなった。その夫は妻である彼女を、この家を出ていきたくないと思うほどに愛していたが失ってしまった。それと同時に後ろ盾を失った彼は会社から追われ、苦しい生活を余儀なくされた。
 でも今は、それと引き換えに父子二人で平和な生活を、誰もが羨むような住まいで送り、父親は押しつけられた職からやっと解放されて、夢だった仕事に就くことができた。
 薫がイジメを受けていたのも、友達がいなかったのも、父親が白髪が増えるほどストレスを溜め込んでいたのも過去の話になった。

「薫の家に来てくれよ、せっかくだからここで三人で飯でも食おう」
 わかった、と沙織の声がした。
 昼時も近づいて、俺は沙織を薫の部屋に呼んだ。短い電話でのやり取りだったが、気まずさのせいで違和感がありまくりだ。
「すぐ来るってさ」
「……そうか、ありがと」
 俺が沙織をここに呼んだのは、薫が呼ぶように言ったからだ。
「どうしても来てほしかったんだ。二人に話したいことがあるからさ」
「……話したいこと?」
 心当たりのなかった俺は首をかしげた。
「……俺のことなんだ。俺の性別のこと」
 今さら何を。それが俺の率直な気持ちだった。俺は今のままの薫で十分だと、出会ったときから変わらずずっと思っている。
 これが父子二人の幸せを壊してしまう爆弾になるようなことはないだろう。
 でも、幸せを完成させる最後のピースになるのかと尋ねられれば、それもわからなかった。
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