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2/21 : 彼女の幸せ

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 テーブルを挟んで、向かい側に薫が座っている。そして、俺の隣にはついさっきここにやって来た沙織がいる。
「……なあ、今さらそんなに改まってどうしたんだよ?」
 薫の顔には、「大切な話がある」と濃く書いてあった。
「ホント、どうしたの?」
 沙織も、薫の様子の違いを感じ取って尋ねた。
「二人相手に、長く説明しても仕方ないと思うから……結論だけ」
 ――予感はあった。
 細かな違和感の積み重ね。一つ一つは些細でも、数があれば十分気がつけたはずだった。
 初めて会った時、俺は薫のことを女だと思い込んでいた。
 正直、今になっても、こいつの外見から男らしさを感じたことは一度もない。
 その薫が、俺と沙織二人に向けて、こう宣言した。
「俺……男でいるのをやめようと思う」
 ――あえてこう呼ぶが、「この男」の芯、最も深いコアとなる場所は、長い付き合いの中で、ずっと男だと思っていた。
 だから、親友の宣言は、俺にとって大きな衝撃だった。
「別に、体を変えてしまおうとか、そんなことを言ってるわけじゃない。俺の気の持ちようの問題ってだけなんだ。……ただ――」
 真剣な眼差しが俺を見、そして沙織を見た。
「ただ、もう、自分が二人居るみたいなのは嫌なんだ」
「……どうして、いきなりそんなこと……。いいじゃないか、今のままでも」
 俺と沙織は、薫が男で居られる最後の拠り所のはずだ。
 薫は何も言わなかった。きまりが悪そうに、下を向いているだけだ。
「本気か?」
「うん、本気」
 認めてやりたいが、認めたくない。俺の中で、理性と本能が同時に背反する意思を生む。
「別に俺たちは、今のお前に不自由さを感じることはないぞ。急に変えなくたって……」
「弥生に相談したんだ」
 思いもしなかった名前が出て、俺はさらに戸惑った。
「相談できるのは弥生しかいなかったんだ。俺を……いや――私を」
 薫は力強く、自分をそう呼んだ。
「男とも女とも見てない人は、弥生だけだったから」
「親父さんには、話したのか?」
 俺はもう、薫の目を見ていなかった。
「まだだけど……きっと、大丈夫」
「……そうか」
 自信に満ちた薫の言葉に、俺は何も言えなくなってしまった。
 沈黙が広い部屋に充満する。思いついたように俺は言った。
「薫にとっては、そうした方がいいのか?」
「……え?」
 突拍子もない質問だったかもしれない。そうした方がいいかどうかなんて、本人にもわからないのだ。
「女でいた方が、お前と親父さんは幸せでいられると思ってるか?」
 逡巡あって、薫は頷いた。
 それは俺を黙らせるのに十分だった。これ以上、俺は口出しできない。
 脳裏に弥生の顔がよぎる。
「……また、あいつか」
 隣にいる沙織にすら聞き取れないような声で、俺は呟いた。
「え?」
「……いや、なんでもないんだ――……そうか、そうか……」
 取り繕い、勝手に二度頷いて、俺は立ち上がった。
「沙織、帰ろう」
「助……」
 不安そうな薫の目が、こちらを向いている。
「心配すんな」
 別に何も変わったりしない。そんな思いを込めて、俺は薫に笑いかけた。
 ――受け入れてやれないはずがない。
 でも、俺の心のどこかに、寂しさと悔しさが、確かに根を下ろした。
 こんなことを思うのは俺のエゴだろうか――。
 俺は何のために、あの日の薫を救ったのだろうか、と。

「……沙織、お前はどう思う?」
 雪の残る灰色の家路。
「……びっくりしたけど、薫の自由なんだと私は思う」
 二人で肩を並べて、互いの顔を見ないまま、二人してうつむいて薫のことを話す。
 俺と同じように、沙織にも薫に対して思うところがあるはずだ。
「結局、あいつはあのまま女で居て良かったんだな……」
 「俺の前でだけでも、『男』になれよ」。青臭い俺の言葉は、単なる押し付けでしかなかった。そんな押し付けも、まだ知りあって一月も経たない弥生のおかげで、重みを失ってしまった。
 男としての側面があいつの本来の姿だと思っていた。だから、こんなにも空しいのかもしれない。今まで俺が見ていたのは、薫の真の姿ではなかった。そう宣言されたような気がした。
 認めてしまいたくはなかったが、その感情は嫉妬に他ならなかった。
「親友っていうのは難しいな」
 二月にしては異常なほどの暖かさのおかげで、俺の小さな声が白く変わることもない。
「……ホントに、難しい」
 無色透明なはずの呟きに、青く色がついているような気がした。
 俺の言葉を、沙織は黙って聞いてくれている。
「弥生は凄いな。俺の気がつかなかったことを、いとも簡単に言わせてみせる」
 今際の際の母親の姿が一瞬だけ浮かんだ。
 母のことにせよ、薫のことにせよ、一度目の二月では起こらなかった。つまり、俺の最も身近にいた二人の本音を引き出したのは、つい最近まで赤の他人だった弥生以外にありえないのだ。
 感謝と尊敬と、そして嫉妬。これらの要素が、俺の心をきっちり三等分していた。
 ――突然、ショックに押し黙る俺の肩に、沙織の手が触れた。沙織は慰めるようにして、俺の肩を二度叩く。

 どうして、こんなにも俺は悩んでいるんだろう。厄介事の量が、俺のキャパシティを超えているような気がしていた。
 でも、沙織はまったくそのことには触れずに、「今日の晩御飯、何にしようか」とだけ言った。
「……昼飯、食ったばかりだろ」
「だって、買い物行かなくちゃいけないし。ついでにこのまま行こうよ。付き合ってくれるでしょ?」
 優しさに裏打ちされた笑顔がそこにあった。それだけで、救われた気がする。
「今日は暖かいけど、それでも暖かいものが食いたい」
「冷えた食事なんて、出してないでしょ」
 沙織は眉を吊り上げる。
「そういうことを言ってるんじゃない」
「じゃあ、何が食べたい?」
 また笑顔に戻って、沙織が聞いてきた。ころころ変わる沙織の表情は、俺を普段の調子に戻してくれるような気がした。
「一文字で表すなら、麺……かな」
「漠然としすぎ」
 「ありがとう」と言いたかったが、照れ臭すぎるのでその言葉はしまっておいた。

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