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『盗んだ仮免で走り出す』

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 ヒロインのなんとかさんは僕の手に鈍く銀色に光る手錠をかけて、それから僕の耳に唇を寄せてこうささやいた。
「さあ、ほら、これであなたは逃げられない」
 逃げられない。逃げられません。その通り。
 彼女はふっと息を吐いて、少し笑って言葉を続ける。
「あなたはわたしに認められたのよ。“あるいはこの世界に”」
 違う。
 彼女はいまや、僕の記憶にある彼女ではない。
 喋り方、たたずまい、雰囲気、すべてが違う。変わってしまっている。
 耳元にかかる熱い吐息を必要以上に意識しながら、僕は彼女の豹変ぶりに身動き一つとれないでいる。
 一体、なんだっていうんだ?
 僕がなにをしたっていうんだ?
 ただ彼女の持っていた本を、白紙ばかりの妙な本を、ちらと覗き見しただけじゃないか。
 そうだ、あの本だ。あの本が始まりなのだ。
「“たとえばこの世界がすべてある本に書かれた文字なのだとしたら?”」
 すっと彼女の声が遠くなる。耳元にあった気配が失せる。
「“あなたもわたしもすべての人も、あらゆるものが文字という一次元構造の中にいて、しかも誰もそのことに気づかない”」
 こつこつとやけに高く足音が響く。
「“そんな全てが言葉によって語りつくされてしまう世界で、なおも語れないものがあるとしたら、どうかしら?”」
 気づくと彼女は僕の正面に回りこんでいて、その手にはあの本がある。人差し指と中指でちょこんとつまんで、僕の目の前でゆらゆらと動かしてみせる。
「さて、あなたならわかるはずよ。これの正体がなんなのか」
 わかりません、何もわかりません。だけどそんなこと言うわけにもいかず、(言ってしまったら今度は一体なにをされるかわからず)だから僕は黙って白紙の本に目を向ける。
 彼女は本から指を離す。ばさっと広がりながら本は床に落ちる。表紙を下にして、白紙のページがぱらぱらとめくれる。
 彼女はメガネをゆっくりと外す。
 裸の瞳に見つめられて、そのあまりの美しさに僕は息を呑む。
 絶対的な闇色がこちらを見つめている。
 ヨーロッパには邪眼という言い伝えがある。見つめられたものに不幸を与えるとされる、魔なる眼のことだ。
 不幸を与える。
 それは眼の持つ光を受け取る受容体としての機能を超えている。
 邪眼はもはやただ受け取るのではなく、何かを相手に与える。
 入ってきた光をブラックホールみたいに吸い込んできた彼女の瞳はいまや、黒い光を放つ宝玉のように輝いている。
 ひきつけられるようにその瞳から目を離すことができない。
 心臓を直接わしづかみにされているような閉塞感、脊髄を撫で回されているような不快感。僕は彼女によって支配されようとしている。
 そのときふと、床に落ちた本がぱらり、と音をたてて一ページめくれる。
 視線を落とす。風もないのになぜ、と思う。
 もう一ページ。さらに一ページ。
 だんだんとページのめくれる速度は増して行き、ついには最後のページへ到達する。
 彼女は口の端を吊り上げる。僕は目を見張る。
 最後のページは白紙ではなかった。
 そこに書かれていたのは――
6, 5

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