15.生きていく理由 <2.11>
15
国王ウルが倒れ、裏で国を操っていたカルツは自ら命を絶った。
後ろ盾を失った兵士達は、ロイの超人的な力の前にあえなく降伏し、ウルと共に牢獄に捕らえられた。
城に残っていた老女ベリアは、彼女を捕らえようとした民衆によってカルツの死と計画の失敗を知らされ、彼らの目の前で舌を噛み切り、この世を去った。
革命の成功に人々は歓喜した。彼らは自分達を導いたロイに心から感謝し、彼の前に跪いてロイを称えた。
ロイの指示のもと、奴隷として労働を強いられていた民衆は全て解放された。強制的に一つの建物に収容されていた女達も全て解放され、離れ離れになっていた家族あるいは恋人達は、数年振りの再会に涙を流した。
革命から数週間が経った。
生気を取り戻した人々はそれぞれ自分達の住居と食事を確保し、元の生活を取り戻しつつある。
新たなネティオ国王となったロイは、レイリと信頼できる数人の人々と共に、城で暮らし始めていた。
かつてウルがいた寝室の大きなベッドに腰を下ろし、ロイは手を組んで考え事をしている。
部屋のドアが静かに開き、レイリが入ってきた。彼女の顔の前には薄いベールがかかっている。ウルの蹴りを受けた顔の怪我は、まだ完治していない。
「ロイ」
「ああ、レイリ」
「ちょっと、いいかな」
「……うん?」
訝しげに顔を上げたロイの横に、レイリは腰を下ろした。ロイはレイリの顔を隠すベールを少し持ち上げ、唇に軽く口づけた。
「サナがまた、部屋にいないの」
心配そうな顔でレイリはロイを見つめた。ロイも表情を曇らせる。
「そうか……また、屋上かな」
「多分……」
ロイは立ち上がり、ベッドに座ったままのレイリに手を差し伸べた。
「行こうか」
レイリはロイの手を取り、腰を上げた。
「うん」
二人は城の屋上に向かった。ネティオの中心に建ち、国内で最も高い位置にあるこの城の屋上からは、国中の景色を見渡す事ができる。
サナは立ったまま壁にもたれ、ぼんやりと遠くを眺めていた。
彼女は革命の日からほとんど食事を取っておらず、その体は目に見えて痩せていた。遠くを見つめる目にも力が感じられない。
屋上に着いたロイとレイリは、ゆっくりとサナに歩み寄った。
「サナ」
その声で二人に気付き、サナは緩慢な動きで二人に顔を向けた。力なく微笑み、再び顔を逸らして小さく呟く。
「……ありがとうね、匿ってくれて」
レイリが首を横に振る。
「匿うだなんて……」
「本当ならあたしは今頃、牢獄にいてもおかしくないのに」
ロイが目を見開いた。
「何を……君が捕らえられる理由なんて、どこにもない」
「そうかな」
サナは自嘲気味に笑った。ロイとレイリは顔を見合わせる。
少し間を置いて、ロイが一歩前に出た。
「サナ……これを」
言いながらロイは手を差し出した。彼の手の平の上には、布に包まれた石が乗っている。ウルを倒した際に回収した、伝説の石だ。
サナはそれをちらっと見たが、首を横に振った。
「その石はロイの物だよ。最後の継承者が持つ……そういう決まりなんだ」
「最後の継承者なら、ウルだ」
「あいつに持たせるわけにはいかないよ」
「……僕だって、正式な継承者じゃない。君に無断で、勝手にこの石の力を得たんだ」
「……でもね、あたしにはそれを持つ資格はないよ。この国を救ったロイには、その石を持つ資格があると思う」
ロイは口を結んだ。一歩前に踏み出し、サナの手を取って強引に握らせる。ロイを見上げるサナに、ロイは真剣な表情を向けた。
「サナ。誰が何と言おうと、君はこの国の……そして僕達の恩人だ。君がいなければ、僕もレイリも今ここにはいなかった。君がいなければこの国の誰一人として、自由を得る事はできなかったんだ」
「そうよ、サナ。私達、本当にあなたに感謝してる。お願いだから、そんなに自分を責めないで」
「……ありがとう、二人は優しいね」
サナは少し寂しそうに微笑を浮かべ、二人を見た。
「あたし、この国を出ることにするよ」
「えっ?」
「この国には残れない。あたしは一度、皆を裏切った人間だから」
「そんなこと――」
「残れないよ、ここには」
空を見上げるサナの目には涙が浮かんでいた。ロイとレイリは返す言葉を失う。
階段を上ってくる足音が聞こえた。
ロイ達が振り返ると、三人に気付いた一人の男が礼をする。
「こちらにおられましたか、ロイ様、レイリ様。そろそろ会議の時間です」
「ありがとう、すぐに向かいます」
「お待ちしております」
男は再び礼をし、踵を返して階段を降りていった。
ウルが王位についてからはほとんど使われなくなっていた会議室に、ロイとレイリを含めた十人ほどの男女が集まった。
「国民は徐々に、元通りの生活を取り戻しています。この数週間で、住居や日々の食事を心配する国民はほぼいなくなったと言っていいでしょう。ただ問題は……精神的な側面です」
「そう……この五年間で、自分の大切な人を失った国民は多くいます。そして、暴力による支配の下にあったとはいえ、多くの国民はそれを目の当たりにしながら見殺しにしてきた。国民同士の信頼関係を取り戻すには、計り知れないほどの時間がかかると思われます」
「まあ、我々も同じだからな、それに関しては……。何もできず、多くの人を見殺しにしてきた。自分を含め、人間を信用できなくなっても不思議ではない」
そこで発言が切れ、しばし部屋が静寂に包まれた。黙って聞いていたロイが口を開く。
「……僕も同じです。父を、母を……そして多くの友人を理不尽に殺され、僕はただそれを怯えながら眺めているだけでした」
視線がロイに集中した。各々の顔に、それぞれ驚きの表情が浮かんでいる。身体を張ってこの国を救ったロイの言葉とは思えなかったのだった。ロイは続ける。
「人の心は弱い……だけど、それは決して責められる事ではありません。それはこの国の人ならば、誰もが深く理解している筈です。許せないのはその弱みにつけこんで僕達を弄んだ者達です。そして、彼らは一掃された」
皆が一様に真剣な顔で頷く。
「この国と僕達に起こった事は、もう消すことのできない事実です。ですが、生き残った僕達はこの事を乗り越えていかなければならない。悲劇が二度と繰り返されないように、後世に伝えていかなければならない」
「勿論、そうです」
「決して忘れてはならない……」
ロイは皆の顔を見回し、穏やかに微笑んだ。
「もう暴力に怯える必要はないんです。乗り越えていきましょう。この国はきっと大丈夫です」
皆が力強く頷いた。隣に座っているレイリも、ロイの顔を見て微笑み、頷いた。
サナの出立は次の日の夜明け前だった。
黙って出て行こうとしたサナが裏口の扉を開けると、そこにはロイとレイリが待っていた。
サナは困ったような顔で笑う。二人も微かに笑った。
「これから……どこに向かうんだ?」
「とりあえず、スントーに行こうと思う。この石、やっぱり返そうと思って。その後は……考えてないかな」
「……本当に行くの? ここで私達と一緒にこの国で――」
「ごめんね、レイリ」
レイリの言葉を遮り、サナはレイリを軽く抱き締めた。体を離して小さく微笑んだサナを、レイリは目に涙を浮かべて見つめる。
サナはロイに顔を向けた。
「頑張ってね、ネティオ王」
「……気が向いたらでいい、いつでも戻ってきてくれ。ここは君の故郷なんだ。君が救った国なんだ」
「ありがとう」
サナは少し無理をして微笑み、息を吐いた。その表情が徐々に曇っていく。
「……あたしさ」
「うん?」
「今度のことで、何もかも失った。今までの自分の生き方も、これからの自分の生きる道も全部。あたしの全てだったカルツは幻想で、今はその存在さえこの世にいない」
「サナ……」
「この数週間、屋上から空を眺めながら……何度も思ったんだ。なんであたしは……それでも死のうとしないんだろう。なんで生きてるんだろうって」
淡々と語るサナに、二人は気のきいた言葉をかける事ができなかった。黙って彼女の次の言葉を待つ。
「あたし、前にロイに言ったことあるよね。この国の人達は人として生きていると言えない……ただ夢も希望も目的もなく、生にしがみついてるだけだ……って」
ロイは無言で微かに頷いた。サナは自嘲気味に笑う。
「今、その台詞がそのままあたしに返ってきたよ」
サナは微笑みを浮かべたまま、一つ瞬きをした。彼女の目から涙がこぼれ、頬を伝った。
レイリの目にも涙が滲んでいる。
ロイが一歩前に足を踏み出し、サナの肩に手を乗せた。
「サナ……それは何もおかしいことじゃないだろ? 理由がなくたって、僕達は生きるべきだ。まして、君の力を必要とする人はまだ沢山いる筈だ」
「……そうかも、しれないね」
サナはロイの手を握り、ゆっくりと肩から離した。
「あたしがこの先、誰かの役に立てるかどうかはわからないけど……せめて、もう二度と……この力を間違った事には使わない。それだけは約束する」
ロイは頷いた。サナが苦笑を漏らす。
「立場逆転だね。あたしがロイに説教されるなんて」
「あ、いや……」
ロイは途端にまごつき、助けを求めるようにレイリを見た。レイリとサナは顔を見合わせ、笑った。
「じゃあ、あたしは行くよ。いつまでも仲良くね、二人とも」
「本当に、時々は顔を出してね」
「大丈夫だとは思うけど、気をつけて」
サナは笑顔で二人に手を振り、背を向けて歩き出した。
ロイとレイリは、サナの姿が見えなくなるまでその場に立ち、彼女を見送った。
「……少しだけ、安心した」
「何が?」
レイリが横にいるロイを見上げ、ロイも顔をレイリに向けた。
「サナ、大丈夫なのかなってずっと思ってたの。もしかしたらこの国を出て、一人で……死ぬつもりなんじゃないかって」
「そうか……」
「でも、そんなことはなさそうだった。だから、少し安心したの」
「そうだね、彼女はきっと……自分で自分の命を絶つなんてことはしないよ」
ロイの確信めいた言葉に、レイリは目で説明を求めた。彼女の視線に気付き、ロイは一つ息を吐いて顔を上げた。
「石の力で、僕は全ての感覚が発達してる。僕がウルを倒すと同時にカルツは自殺した……あの時、彼はその直前まで、サナと言葉を交わしてた。その会話が僕には聞こえていた」
レイリは無言で続きを待った。
「カルツは、サナに……君が本当に好きだった、無事で良かった、と言い残して死んだんだ」
ロイは唇を噛み、その場に腰を下ろした。レイリもそれに倣い、隣に腰を下ろす。
「僕は耳を疑った。サナを騙し、彼女の人生をいいように弄んだ男の言葉とは思えなかった。今更何を言ってるんだと思った。都合が良すぎると思った。でも」
ロイは首を横に振った。
「僕には、その言葉が嘘には聞こえなかった。大体、死ぬ間際に嘘をつく必要なんか、ないんだ……そうだろ?」
レイリは頷いた。その場を見ていない彼女も直感で理解した。カルツの言葉に嘘はなく、サナはその最期の言葉を受け止めた。
だから彼女は生きている。今も彼の望み通り、無事でいる。
「僕にはカルツの考えは全くわからない。何故自分の大切な人を騙して利用する事ができたのか、何故最後はあんなにあっさりと全てを諦めたのか、そもそも何故この国を壊そうとしたのか……理解できるところなんて一つもない」
「私にもわからない。きっと、サナも同じだと思う」
「カルツは僕達の敵だった。僕にとっては両親の仇でもあった。僕個人としても、この国の王としても、彼を認める事は決してできない。だけど、今サナが生きているのはきっと……彼の最期の言葉があったからだ」
ロイの目からは涙が流れていた。
その涙が、カルツの呪縛から逃れられなかったサナへの哀れみの涙なのか、最後に真実の愛を手にした彼女への祝福の涙なのか、それはロイ本人にもレイリにもわからなかった。
「……そうだね」
レイリはそっとロイを抱き締めた。彼女の目からもまた、涙が流れていた。