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内的『宗教』体験

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 驚くほどの快晴が三日ほど続き、そして次の日はどんよりと曇った。その日は朝から視界が黒いフィルターをかけたようで、湿り気を含んだ空気は肌に纏わり付いてどろりと流れるように感じた。その日一日だけが何か暗幕のようなものに包まれた非日常的な心地さえしたが、何かお化け屋敷のような安っぽさを拭うことはできなかった。
 その男は何かの舞台に貸し出したような、誰もいない大学のキャンパスにあるベンチに一人で座っていた。まだ少し降り続けている雨の隙間をぬうようにしてその男が吐き出した煙草の煙が立ち昇っていた。そしてその黒いギャバジン地のコートに身を包んだ長身に、何か嘘のようなものを感じずには居られなかった。


 果伯と言うその男の特異ぶりを言う前に、まずその舞台背景だったその大学について語らなければならないだろう。それは今でこそ座禅の授業などがあるちょっと変わった人文系大学に見えるが、元々はれっきとした仏教系の大学であった。山に囲まれた郊外にあるために地元の人が多く通うので、聞いた話によると実際の仏教関係者は半数以下とのことだった。しかしそんな大雑把な数字は属する場所から見れば0パーセントにも50パーセントにもなりうるのだった。というのは僕がある種の興味本位からその50パーセントを眺めることのできる特殊な場所に居たからだった。移民区域に住んでいる人間には日本の人口比率の大半を移民が占めているように見えるような錯覚だろう。

 興味があるといってもそれはあの男に会った上での結果的なことであって、入学当初などは多くの人がそうであるように偏見にまみれていた。特に僕なんかはその頃ブッダ本来の思想にかぶれていて、多くの大乗仏教を信仰するような人を何かエリート主義のような観点から見ていた。現在の意識をぺらりと反対に裏返したように僕はそのような人々に全く興味の無い様を装っていたが、まだ見えない正反対のものに惹かれるように彼らに何かと注意を向けていたのだった。まあ入学式の後に見た何やら仰々しい漢字を並べたようなのやカタカナ英語のサークル群などは注意を向けずとも目を引くものだったが。



「名前を書くだけでも良いんでお願いします!」

 熱心なサークル勧誘を行う薄いピンク地のワンピースの膨らんだ肩のデザインに軽くウェーブをかけた茶髪を乗せた女は、後になってわかったのだが、ある宗派の信者によって構成されるダミーサークルの筆頭勧誘員。いや、そもそもがその宗派の少年部の勧誘係達によって計画的に組織されたサークルだったようだ。彼女の熱心さといえば彼女も僕と同じ入学生だったのにもかかわらずサークル勧誘をしていたほどだ。






「おい、あの女を見てみろよ。さっそく男なんか連れてやがる」

 あの入学式からしばらく経ったある日、僕は授業に空きができてしまったのでキャンパスに出てタバコを吸っていた。するとあの黒いコートの男がそう声をかけてきたのだった。彼は何やらうれしそうな含み笑いをしてから、その後饒舌にその女について語ったのだった。次々と一つのサークルの真実を暴くその男の口ぶりは実に軽妙で一切の躊躇もなく、しかし何故そこまで知っているのかと僕が訪ねると、俺もその宗派に属してるからだという意外な応えが返ってきたのだった。宗派という単語が出るやいなや彼は話をいきなりそこまで拡大させて、あの女の父親は宗派の中の幹部役員で彼女は一人っ子だから婿捜しにやっきになってるんだと言った。


「カルチュラルアクティビティーを行うサークルっていうのはその親父さんが今風の大学に則って付けた名前なんだけど最高すぎるよな。たしかに宗教体験はカルチュラルアクティビティーだよ!」


 顔に皺を作り、膝を手で打ちながら大声で笑うその姿はあの第一印象からは想像できるようなものではなく、僕はぼんやりとした違和感を抱えながらぼうぜんと相づちを打っていた。僕は宗教なんかは大した愛着も無いのだったがそこまでずばずばと一つの物事に対する皮肉を言われると何だか腹の中がぐるぐると濁ってくるように感じた。そして彼は何故自分が信仰している宗教の内実をそこまでばっさりと言えるのかも理解に苦しんだ。

 僕は彼から目をそらしてもう一度あの女が居たところを見た。校舎のすぐ近くに置いてあるベンチで談笑する彼女のそばに一人の男の姿があった。さっき言われたときは気がつかなかったほどに垢抜けていたその男に僕は見覚えがあった。彼には入学当初よく話しかけたことがあった。入学式の後の説明時に隣に座っていた彼に声をかけると、彼は聞き落としたことをいちいち僕に聞くのだった。同じ高校だったやつが一人もいないから頼れる奴が居てくれてよかったと言っていた。その後彼とは違う学部だったのであまり会わないようになり、だんだんとキャンパスや校舎内で会っても挨拶すらしないようになっていった。

 一度だけ一般教養の授業で彼と一緒だった時のことを印象的に記憶している。広い講堂にけっこうな人数が入っていた。前の方に彼の姿を見つけたので隣に座ろうとしたがもう隣には人が座っていたので後ろの方の空いてる席に座った。彼の背中を眺めていると茶髪の男が彼の隣に座っていた男に声をかけて、その男は彼と肩を並べるように席を詰めたのだった。三人掛けの机に男が三人並んでいるのはなんだか笑える絵だったが、その後ろにも友人と思われる三人の茶髪群団が占めてからはなんだか悲惨な様子となり、授業が始まってもそのあたりは騒がしかった。
 講堂の前方は普通そういった騒がしさとは無縁であるべきだったが、あまりにも人が多いためにその喧噪が前方まで波及していて彼のような地味な人間にはそうとう堪えるのではないかと思えた。授業を進める女講師はいっこうにそれを咎める気配もなく、授業はダラダラと流れていくのだった。
 その時彼が急に膝の裏で椅子を蹴り上げるようにして立ち上がると、机の上の文房具類をかきあつめるようにして鞄に詰め、そのショルダーバッグを肩掛けにして机の間の縦の道をさっそうと講堂後ろのドアへ向かって歩くのだった。彼はいきり立った様子で僕の顔なども見ることもなく、一番後ろの机を角に羽織った半袖のシャツをなびかせて中の洗いざらした黒いTシャツを見せてから扉の奥に消えていった。その後少しの間だけ静まりかえっていた教室は女講師が彼を咎めて追いかけるというドタバタな様相の後に再び沸き上がった。特に茶髪の一団は立ち上がるほどで、一人はそれをドアまで見に行く始末だった。

 彼にはその時の地味な外見の印象が強すぎたためあの女と居るときのその風貌の変化に最初は気づかず、そしてそれがわかった後でも違和感がぬぐえずにただなんとなくその様子を見ていることしかできなかった。





 そんな漠とした回想から僕を現実に引き戻したのはこのような呪詛だった。


「そこら中からニーチェが顔を出す……あの女もそうだ、隣の男もそうだ……皆超人の顔をしている……けれど司祭の衣を着て……最高の皮肉じゃないか……」

 彼は丈の長いコートで覆った膝に顔を埋めて泣き笑いのように低い声でつぶやいていた。さっきまでの気性はどこかへ飛んでいったかのように見えた。

 後になって聞いた話だが彼の大学在学中の専攻は哲学で、卒業論文の題材はニーチェの哲学の延長としての現代の宗教批判であったらしい。その内容は、宗教が道徳へとすりかえられ、それが表面上元の姿に戻ろうとしている運動があったのと同様に、現代の宗教も道徳から更に単なる社会集団へとすりかえられ、そしてそれもまた同様に道徳への回帰を欲しているとのことだった。彼らは道徳を標榜し、他のカルト集団からの差異化を図ろうとするのだが、もはや堅固な道徳など存在しないのでその本質的な差異は無いのだと言い切ったらしい。

 そして宗教をそのように変容させたのは他でもない、彼が尊敬するニーチェそのものだった。

「ニーチェが司祭の衣を着て…………」




 その時の僕は動揺を紛らわすために大学の広々としたキャンパスへ視線を向ける。中央の通りから外れた図書館へと向かう道を歩く女の人は見憶えがあった。彼女はああして講義の間の時間を潰すためにいつもあの通りを往復しているのだった。いつだったか僕が近くを通り過ぎた時彼女はこんなことを言っていた。

「この学校には誰も思いやりのある人がいない……仏様のお慈悲をわかっている人なんて誰もいない……」

 彼女の挙動は周囲の目を引き、そしてまた人を寄せないような一種異様なものがあるのだったが僕にはこの言葉が一時耳にこびりついて離れないのだった。


 後日その女のことを彼に話してみると返事はあっけないものだった。


「変な宗教でもやってんだろうな」

9

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