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『最後の可能性』

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『最後の可能性』




 ――真に暗い闇が、そこに在った。影が、煙等の粒子が視界を遮る類のモノではない。確かに先の無い、明らかな無が、そこに在ったのだ。
 主観は苦悩していた。数多の、億千もの可能性を手繰り寄せようとも、その無を回避し得る先は存在しなかった。広がり続ける“面”をさらに包み覆う無は、いつしか目前まで迫っていた。そう、手の届く、その位置まで。
 主観は主観でしかない。感情も無ければ目的も無く。ただただ、“俺”としての価値観としてここまで見て来た。だから、無を見なければならない。他ならぬ“俺”の為、今も磨耗し続ける“俺”の為、これ以上意味の無い死を“俺”に与えるわけにはいかない。だから、見るのだ。
 何故ならば、無は目前に迫っており――。





「っぁああああ! 燃えろぉおおおお!」
 瞬間、開道寺の周囲に漂う空気が揺らいだ。比喩ではなく、現実に“ブレ”ている。非現実による現実への干渉。その、ありえない現象を、開道寺はたった一人で起こしていた。
 死にたくない。思えば、俺も含めてここに居る三人はその一点でのみ、共通した希望を持っている。俺は死にたくない、けど、他の二人だって死にたくないんだ。そりゃあ、必死にもなる。
 空気の揺らぎに対して、見た目としての炎は拍子抜けとも言えるほどに小さかった。ソフトボールほどの球体となった炎が、開道寺の手の上に浮いているのみ。
「同じセカンドとして同情を禁じ得ない、が、貴様は生きていてはいけない存在だ。やがては世の危険として認知されるだろう。……せめて苦しまないよう、一瞬で“爆ぜ奪る”」
 ――不意に、“主観”が目を覚ました。
 空気の揺らぎはさらに激しさを増し、ついにはここからでは開道寺の姿を確認することすら難しくなっていた。……だが、そこまでの高温に対し、俺の体には日焼け程度の火傷一つ出来ることはない。
 俺達は認知しているから。自然界のそれでは有り得ない炎が、俺たちに危害を加えないと、既に認知しているから。けど、それらを取り巻くこの世界は、認知していない。それもそのはず、そもそも存在するはずの無い非現実なのだ。認知出来るわけが無い。だから。
 空気が揺れる。コンクリートが熱で硬質化する。腐った肉が焼けるような臭いが、怪物から漂ってくる。
 開道寺と思わしき影が、ゆっくりと怪物へ歩を進める。それを牽制するように、怪物から三本の触手が放たれた。既に遅々とした動きをする余裕が無いのか、端から目標に向け最高速で飛来する超重量の肉塊。その光景を見て、ふと、大気圏に突入する隕石のようだと、俺は思った。
 次の瞬間、開道寺の手の上で浮かぶ火球が爆ぜた。まるで風船を膨らませたかのように、瞬時にその大きさを変えた火球は易々と三本の触手を飲み込み、収束する。その場に残ったのは眩い光と熱線のみ。三本の触手は、最初から無かったのだと、宙に浮かぶ火球が主張していた。
 ――ここではない。
 唐突に、主観が“俺”から離れてゆく。現実が展開されているということは、それは既に無とは相反する状況だ。故にここではない。
 さらに先、もう目前に。





 何の冗談だよ。俺は目の前で繰り広げられている現実を認めたくなかった。そりゃあそうだ、母さんは俺の日常だ。変人達の範疇に無い、唯一の日常、その象徴だ。母さんは俺を小さい頃から育ててくれて、“あんなこと”になっても全てを許容してくれて、毎日俺にカレーを作ってくれて。
 だから、俺は信じたくない。いや、信じるわけにはいかない。
「おいそこの銀髪男、もうこんな茶番は止めろよ。どうせアンタ等のことだ、また変な能力を持ったヤツを使ってんだろうが、そうはいかんぜよ」
「ほう、茶番と来たか。俺は思うよ、相羽光史、俺にとっては君が送っていた日常こそが、茶番極まるものだとな」
 銀髪の男――マティウス・ガーラック。ヤツが笑いを堪えながら、そんなことを言う。なんだそりゃ、さすがの俺でもこれには怒るってもんですわ。
 視線を銀髪男から母さんに移す。母さんはまるで俺がここに居ることに何も思うところが無いと、そう言いたげに無表情な顔を向けていた。その手には、母さんにとって一番似合わないはずの物、黒光りする金属の塊が握られている。
 ――見つけた。不意に、頭の中で声が聞こえたような気がして、瞬間、“俺”が消失する。“主観”がモノローグを侵食する。
 ……そうだ、今まで“主観”は“主観”で在り続けた。だが、彼のマティウス・ガーラックこそが、相羽涼子こそがこの先に広がる無の原因なのだとすれば、それは“主観”が受け止めなければならない。
 私が主観としての度を越えた介入を行ったことで普段の“俺”と空気が変わったのか、果たしてそれが察知出来るほどまでの変化かどうかはともかくとし、初めて目の前に立つ相羽涼子の顔に表情が走った。
「……誰?」
 相羽涼子は怪訝な表情を浮かべながら、ゆっくりと銃を構えた。
 なるほど、確かに私としての“主観”は、“主観”たるモノが生まれた時に一度、相羽涼子と邂逅を果たしている。ともなれば気付いたのも頷ける。
 私は今まで幾度と無く向けられてきた銃口を特に気にするわけでもなく、口を開いた。
「受け止めにきた」
 その言葉は、“あの時”に放った言葉。相羽涼子はそれに気付いたのだろう、驚いた顔を見せたが、それも一瞬。すぐさま無理矢理とも言える速さで無表情を装うと、“アレ”の傍にいるマティウス・ガーラックに意味の含んだ目線を投げかける。
 何をするつもりなのか。ここからは何も見逃すことの無いよう、感覚を研ぎ澄ませる。
 今を以ってしても、私は同じ時系列で同じ状況に立たされている“俺”の情報を共有していた。それ等数多に多少の差異があろうとも、基本的な流れは変わっていない。“俺”が一人この場に立ち、目前に相羽涼子とマティウス・ガーラックを捉えている。
 そう、やがては収束しているのだ、無に。だから私は、“主観”はせめて“俺”が耐え得る最善の無をと。言わば最後の可能性を、見極めなければならないのだ。
「相羽光史、俺の願いは既に言った。それを断るということはつまり、君の母親を裏切るということになる。それでも君は、母親の手を君の血で汚れさせるようなことになっても、断るのかね?」
「ああ……なるほど。それは避けなければならないな」
 飽くまで“俺”の価値観として、細かなことでも全て選定する。
「会長、“彼”は既に私の息子ではありません。おそらくは我々よりも高次に位置する、息子の価値観です」
「なんと」
 そこで、相羽涼子が冷静に現実を説明する。見れば彼女の瞳は、先程まで“俺”が感じていた冷たさよりも、さらに冷たくなっているように感じた。……私を“俺”と認めない、その行動がやけに悲しく思え、揺らいでしまった。
「なあ、母さん。母さんは最初から、“アレ”に関係してたのか?」
「貴方に母さんと呼ばれる筋合いは無いわ」
「……そう、か。母さんはもうカレーを作ってくれないのか」
 波が防波堤を超えるように、一瞬意識が浮き上がった“俺”は、その言葉を最後に考えることを止めた。
 そう、“俺”は脆い。肉体的にも、精神的にも脆すぎる。だからこそ私が、“主観”というクッションを未来に置かなければならない。“あの時”のように過度な負担をかければすぐ消えてなくなってしまうくらいに、“俺”は脆すぎた。
 だから、私は回避する。今“俺”が言ってしまったような言葉は、絶対に言わせたくない。しかし、その可能性が無いということに気付いてしまった。“主観”である故に、全ての可能性に於いてその言葉を放ってしまうのだと、そこからが無の始まりなのだと、全てが主張していた。
「涼子君、そろそろ茶番は終えようではないか。君の言う高次に位置する者が来ているのならば、それこそ好都合だろう。許可しよう、繋ぎたまえ、彼を。そして行く行くは我々の未来を、さあ、繋ぐのだ」
 マティウス・ガーラックが痺れを切らしたように、狂気を思わせる笑みを浮かべながら、柏木涼子に命令する。私を繋げと、そう命令した。
「はい。……痛いわよ」
「それは回避したいところではあるが」
 マティウス・ガーラックの言う意味を考えるのは他の可能性に回すとしよう。
 広い空間だからだろう、聞きなれた銃声はいつも以上に大きく聞こえ、私の両足には一つずつ穴が開いていた。
 避ける時間すら与えられず、私は両足から血を流している。同様に、億千の可能性に連なる“俺”もまた、同じように血を流していた。……なるほど、ここからは不可避の領域というわけか。
「痛がらないのね。そして、血を恐れていない。やっぱり、貴方は光史とは似て非なる者だわ」
 相羽涼子が私に歩み寄る。次の瞬間、私の両腕に穴が開く。
 私は痛みなどという概念に縛られはしない。何故ならば、私はそういう存在なのだ。“俺”からそう定義されている。だからこそ、私はこの後に続くだろう、数多の“俺”を思わずに居られない。この、両手両足を打ち抜かれる痛み、さらには唯一の肉親に裏切られる痛み、この二つを自らで受け止めなければならないのだから。
 相羽涼子の右手が、“俺”の目を覆う。
「――幻想投影《ファンタズムアイズ》」
 その一言で、“俺”の体から力が抜けた。





 いずれ全ての“俺”がここに到達することだろう。それまでに、この無をどうにかしなければならない。だが、今も続々と辿り着く“俺達”の結末は、全て同じものだった。……だが、それでも、と。
 億千の可能性をまとめ、私は今正に新しく生まれた線上に在る“俺”に情報を送る。あの“俺”が今のところの理想であり、言わばオリジナル。あれに賭けるしかない。
 しかし、“主観”であるが故に、私はわかってしまっている。これが、最後の可能性なのだと。



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