「……それで」
「はい」
「それが何で、内密にする理由になるんですか?」
多分、相当ヤバイ顔と態度になっていたと思う。これが就職試験の面接であったとしたならば、合否を出す前に退室勧告がなされる、間違い無く。
「それが本当だとしたならば……いや、多分本当なんでしょう。それなら尚更、何故梔子高に事情を説明しないんですか? 主観ですけど、一番説明すべき人物なんじゃないかと思うんですが」
言いながらも、最悪のパターンが頭から離れない。多分僕でなくとも、最初にこのパターンを想像する。
もしも僕が予想していることが合っていたならば、僕の責任は重大だ。
「心配なさらないで下さい」
板垣さんが胸元からハンケチーフを取り出し、僕の額を拭った。心底心配している顔だ。今の僕は、宛ら締め切り寸前の漫画家のような顔でもしているのかもしれない。
「ミヤコ君が予想されている事は解ります。そして、その予想は否定させていただきましょう。仮にノマウス氏に最悪の事態が起こったとしても、千穂お嬢様がお亡くなりになったり、或いは存在そのものが消えてしまうようなことは、まずありません。保障します」
顔面で、空中を凪いだ。盛大な溜息を吐く。こんなに安心したのは、高校受験の結果発表を目の当たりにして以来だった。
「本当にミヤコ君は、千穂お嬢様を大切に思われているのですな。出過ぎた真似では御座いますが、私の方からお礼申し上げます」
「……別に、そういうわけじゃないですよ」
ポポロカ然り板垣さん然り、どうしてこう……。
「ええ、そうでしょう。おそらく貴方様ならば、それが千穂お嬢様でなくとも安堵したでしょうな。貴方様は優しい心をお持ちになっている。だからこそ、千穂お嬢様だけでなく、出来ればミヤコ君にも内密にしておきたかった」
僕が優しいかどうかは知らないが、とにかく最悪の予想は外れて良かったと思う。そうは言っても、それでも頭を抱えてしまうような理由があるのだろうが。
「一言で言えば、『調節』に御座います」
「調節?」
似たような言葉を聞いた記憶がある。確か、ポポロカが異空間同位体の同時滞在がどうのという話をしていた時だ。
「例えば、私共の世界やポポロカ君達の世界とも異なる、もっと別の世界での貴方と千穂お嬢様が、何かしらの理由でその存在を抹消されたとします。そしてその世界の異空間同位体が、抹消される前は仲違いをしている関係だった、と仮定しましょう。すると、異空間同位体が抹消された瞬間、彼らの『仲違いをしていた』という情報は行き場を失くして、他世界に流れてゆくのです。結果、この世界含むすべての世界のミヤコ君と千穂お嬢様の間に、大なり小なり仲違いをするような事態が発生するわけです」
「……違う世界の僕達の仲が悪くなるわけですか?」
「左様で御座います。尤も、情報は拡散するので、そっくりそのまま反映されるわけでは御座いませんが。せいぜい、ちょっとした小競り合いが発生するといった度合いが関の山でしょう」
他世界の僕達の関係性を、これまた他世界の僕達が引き継ぐってことか。
「そして現在、ノマウス氏の存在の定義があやふやになっております。他世界を転々とおられるため、存在しているのか、それとも存在していないのかを明確に出来ないのです。結果、これまでのノマウス氏を取り巻く関係性の情報は、半端に他世界に流れ出ております。おそらくはミヤコ君も、そういったものの残滓を、千穂お嬢様から感じ取られたのでは?」
そう言われてみれば、心当たりは、
……あり過ぎる、な。
「どうやら、察知はされていたご様子で」
「ええ」
〈ンル=シド〉騒動が始まってから梔子高と僕の間に起こった様々なことを反芻した僕は、どんな顔をしていただろうか? 少なくとも、そういった前兆があったということを、表情だけで理解させる程度にはアレな表情をしているようだが。
成る程ね。ようやく理解出来たぞ、畜生め。
つまり、これまでの梔子高の僕に対する行動の数々は、ノマウスの知識やその……夫の妻に対する愛情やら何やらを、梔子高が引き継いだからだってことだ。だから梔子高は、今回の件に対して妙に理解が早かったり、僕に対してあんなことやこんな……ええいクソ、思い出すまい、茹でダコになってしまう!
「もし万が一」
板垣さんが、良い按配で僕の意識を取り戻してくれた。
「万が一、ノマウス氏の身に、最悪の事態が起こったとします。そうすると、これまで半端に漏れ出ていただけだったノマウス氏の情報は本格的に拡散し、他世界の異空間同位体に影響を及ぼすでしょう」
ゾッとしたし、ボッともした。ちなみに「ボッ」とは、顔面に火が点く音だ。
半端な、それも拡散した情報の影響であれだぞ? おしどり夫婦にも程があるが、今はそれを冷やかすような真似はしまい。それは部外者に許された特権だ。
それが本格的に拡散などしたら、梔子高はどうなる?
「千穂お嬢様が、千穂お嬢様ではなくなりますな」
僕に降りかかる梔子高の情熱的な誘惑などどうでもいい……とは言わないが、それは大した問題ではない。
「情報拡散の被害を蒙った対象は、自分が情報拡散の被害を蒙ったことを自覚出来ません。ですので、これは千穂お嬢様に申告しなければ、千穂お嬢様本人の意識としては、何が起こったのか、或いは何かが起こったことすら自覚出来ないでしょう」
「でも、変わるんですね?」
「左様で御座います。或いは、これまでの千穂お嬢様の人柄など霧散してしまう可能性も御座いますな」
成る程、と思った。確かに、梔子高には聞かせられないし、聞かせてもいいが推奨は出来ない。
本人としては、気が付かなければ何も起こらなかったものと変わらないのだ。知らない方が良いこととも言える。知らない方が良いならば、好んで知らせはしないに決まっている。
でも、変わってしまう。
あの無難な微笑みも、長い年月をかけてようやく見つけた癖も、理屈っぽい喋り方も、やたらと僕の舌に合う料理も。
全部、変わってしまう。
高らかに宣言しよう。
「嫌ですね。断固拒否です」
瞬間。
板垣さんが、老紳士らしからぬ、高らかな笑い声を揚げた。
「ハッハッハ! いや失敬、流石はミヤコ君と申し上げますか……ハッハッハ!」
僕は、憮然たる面持ちでコーヒーを啜った。ええ、ええ。笑いたければ笑えばいいでしょうよ。
理屈屋でも何でもなくて、毎日毎日愛情の篭った弁当の一つや二つでも作ってきて、ことあるごとに僕を悩殺しようとする梔子高。
本心から、そんな梔子高は、気色が悪いのだ。強がりでも、照れ隠しでも、何でもない。
何だかんだで僕は、今の……厳密に言えば、少し前までの梔子高が気に入っていた。
理屈屋で、馬鹿みたいにご飯を食べて、常に無難な微笑みを浮かべていて、理解出来るような出来ないようなトンチンカンなことばかり述べて、そのクセ肝心なこととなると煙に巻く、ある意味では頭痛の種ですらある幼馴染。
そんな梔子高が、良いのだ。
それより何より、梔子高の変化は、梔子高本人の手で行うべきだ。そんな他世界の尻拭いみたいなことで、コロコロと変えていいものじゃない。
こんなワケ解らん事に、梔子高をどうこうさせてたまるか。
一頻り笑った後、板垣さんがハンケチーフで目元を拭う。楽しそうで何よりだ。非常に腹立たしい。
「出来るのかもしれませんな」
出来るさ。出来なくてもやってやる。
「そのようなことを曇り無き目で言える貴方様ならば。ミヤコ君ならば。見つけられるのかもしれませぬ。カスカ学会や私のような老いぼれでは思い浮かばないような、予想外の方法を」
すっかり冷め切ったコーヒーを、一気に飲み干した。