自慢ではないし自慢にもならないが、学校から僕の家へと続くこの帰宅路は、人通りが少ない。そして今日という日もその御多分に漏れる事なく、今ここで無差別殺人鬼に出会おうものならイイ感じにヤバイ程度に、人通りが少ない。今という時間だけを見据えれば、僕しか居ないという言い方の方が正しい。
だから、見間違う筈は無い。同じ事を何度も言うが、そこには確かに、僕しか居なかった。
だがしかし、気が付けば、目の前に何かがあった。
そして僕は空を見つめていたわけであり、空を見つめている以上、僕の目線は上に注がれていたわけであり、目線が上に注がれている以上、目の前に現れたソレは上にあるものであり、上にあるものである以上、重力という絶対摂理の働いているこの地球上に存在するソレは、その慣性に則って、
「~~っ!?」
「む」に濁点を付け加えたらこんな音になるのだろうという声を漏らし、僕はソレの下敷きになった。
何が起こっているのか解らないやら何が乗っているのか解らないやらで、すっかり混乱してしまった僕は、何をするよりも先に、まず、
「……痛い」
阿呆の子のように、感じた事をそのまま言葉にした。
乾してあった布団、ではないだろう。遭遇した事は無いが、多分布団とかそういう柔らかいものは、下敷きになったところでそれほど痛みを伴うものではないだろうと思う。
サッカーボールか軟球か? いや、その線も薄い。それらの物であれば確かに傷みも伴うのだろうが、下敷きになるほどの面積を伴ってはいない。
どうあれ、作法に則りしっかりと目を瞑りながら、鼻も頬も押し付けんばかりの情熱的なキスをコンクリートと交わしている状態をいつまでも続けていては、事態はいつまでも進展しない。宛らノタクリテスのように地面を這いながら、僕は下敷きという屈辱的な現状を脱した。
そして、見た。
顔面蒼白、という言葉がある。
想定外の出来事や、恐怖、不安を感じるような事態に直面した時、人は顔面から血の気を引き、蒼だか白だかの顔色になるという事を解りやすくした言葉である。
そして、白ならともかくとして蒼は幾ら何でもないだろうと、これまでその論をせせら笑っていた僕の今の顔色は、それはそれは半分から上が蒼く、半分から下が白かったことだろう。
最初、それはマネキンか何かかと思った。限りなく人間に近い造形をしていたものの、まさか突然人間が、電車の座席のちょっとした隙間に強引に入り込む中年女性のように空間に割り込んで来るとは考え難いし……いや、それを言ってしまえばマネキンであろうがカネキンであろうが、自然の摂理に全力で反抗してこの空間に召還されていい物質など無いのだろうが、とにもかくにも、僕はそれを生きて呼吸する人間だとは思わなかった。
甲冑、と呼ばれるものだと思う。痛さを増していた原因はこれかと舌を打ってしまうくらいに、見るからに頑強さを主張している白金の甲冑を、肩、胴、腰回りに装着していた。
──ここまでの説明で落着したのであれば、 僕だって「あの、大丈夫ですか?」程度の声くらいは掛けたと思う。場合によっては肩を揺すったりだってしただろう。そして、それがマネキンである事をしっかりと確認して、道端に寄せておいて、帰路の続きを歩くのだ。場合によっては、通りの自販機で缶コーヒーだって買った筈だ。
出来ない理由があった。
血である。
調理をしていたら指を切ってしまったとか、食事をしていたら唇を噛んでしまった等々の理由で片付けられる量ではない。
べっとり、だ。バケツでぶちまけられたのではないかというような夥しい量の血が付着していた。そのあまりの量に、最初は血だとすら思わなかったほどである。が、しかし、その生暖かい鉄分の香りは、ソレである何よりの動かぬ証拠となっていた。
ソレは甲冑に。
ソレは四肢に。
ソレは顔面に。
生きているかもしれない証拠であり、死んでいるかもしれない証拠でもあった。血液とは、生きとし生ける者すべてに分け隔てなく備わっているものであり、そしてその生きている証明である血液が、これほどまでに散乱しているという事は……。
「き、救急車っ!」
言いながら携帯電話を取り出し、しかし救急車の要請は百十番だったか百十九番のどっちだったか知らん、携帯電話から救急車って呼べたろうかなどという雑念が邪魔をして、中々行動を起こせない。生半に冷静さを残しているせいで、「救急車を要請する」という正しい結果は導き出せているものの、導き出した結果に辿り着くまでのシーケンスがまるで纏められない。携帯電話からの要請は場所の特定が出来ないため、近くの民家に駆け込んで呼んでもらうのがスタンダードなのだが、その方法すらも思い当たらなかった。
「Э……ё……」
呻きだった。
何度も同じ事を反芻してしまうようだが、ここには僕と、生死不明のマネキンもどきしか存在しない。そして僕は狼狽こそしているものの、呻き声を上げる理由なんて無い。従って呻いてなどおらず、ならば他に呻く事が可能である存在は一つしか無い。
「ёヾб……?」
起き上がっていた。
わずかに残っていた冷静は、そこで尽きた。
「ひぇっ!?」
僕が机の脚でフローリングを擦ったような悲鳴を上げ、「彼女」が何事かと僕の方を見た。
一目で解った。この人は、女性だ。
赤液をふんだんに浴びせかけたその顔立ちは、それでも美しい曲線を描いた女性特有のものであり、険しさを纏ったその表情は、それでもあどけなさを残す女性特有のものだった。ショートにまとめた頭髪もまた赤液に塗れてこそいるものの、その光に映える栗色は、普段ならばさぞかし瑞々しいのであろう事を想像するに難しくはない。甲冑の胸板部分の造形は、女性にしか無い部分を上手に覆うように模られており、甲冑で守られていない部分もまた、インナーやズボン越しに見ても、男性的なごつごつとした肉体ではない事を彷彿とさせた。
美人の範疇に納まるだろう。彼女が美人ではなかったら、この世の美人にカテゴライズされている女性は、その七割がたくらいが嘘になる。
……とまぁ、冷静でいられたならばそういう文面が出ていたのであろうが、些か冷静さに欠けている僕が幾ら思春期とはいえ、こんな時に「お、この娘めちゃ可愛いじゃないの」などという自然な反応を期待するのはお門違いである。
「ЭヾЯΞ~~……? ~υηⅷ?」
──逃げれ。
そう僕に囁き掛けてきたのは、僕の中に住む二人の僕の内の一人である。人はそれに良心と邪心という名前をつけているのだが、この逃亡を推薦した方がどちらなのかは、ちょいとよく解らない。どちらにせよ、同じ事を言うであろうからだ。
「τεζ?」
「あ、あの、あの……」
「……δηξη」
何が起こっているのか解らないやら、何を言っているのか解らないやらで、退行の一つでもしてやろうかと、半ば開き直りにような発想まで浮かんでくる。
先ほどから彼女の口から出て来る音は、そのどれもが理解出来ないものだった。ハングル語の響きと逆再生ビデオの音声を足して二で割ったような感じだと言うのが、一番近しい表現なのかもしれない。当然、何を言っているのかが解らない以上、彼女が僕に何を聞いているのかも解らないし、そもそも何かを聞いているのかどうかすらも理解出来ない。
不意に、彼女が、背中を上背から掻く要領で背中に手をやり、その掌で何かを掴むと、バイオリンを奏でるように上に持ち上げていく。
血塗れの剣が現れた。
──逃げれ。
──逃げれ。
衆議一決。異口同音。
ここに来てようやく、脳内の僕と現実の僕の意見が合致し、すぐさま逃亡の決定が成される。が、時既に遅しであって、僕の腰はとっくの昔に脱力の限りを尽くしており、僕は逃げる事も抗う事も出来ない状況に陥っていた。
やっぱり出た、という感じである。
実を言えば、全くの予想外というわけでもなかった。白銀の甲冑、血塗れの体と来れば、むしろソレが無い方が不自然だと思えるほどに、僕はその返り血に染まった剣の存在に説得力を感じている。
何かを斬ったのだろう。何かを斬ったからそれは血に塗れているのであり、血に塗れているのだから、それは本物なのだろう。
十余年という短い生涯での尺取りになるが、実際に見た刃物の中で、最も巨大で危険な刃物は何かと問われれば、それは鉈であるとこれまでの僕は答えていた。斧や剣なんてものは、漫画や図鑑などで見た事はあるものの、所詮それは映像であり、直に目の当たりにした刃物と比べてみれば、どうしてもこれらの存在が鉈を上回る事は出来ずにいたのである。
鉈など、比較対象にすらならない。
今、目の前で、美しいとさえ思ってしまうほど残忍に輝輝とする白刃は、あまりにも刃物らしすぎて逆に刃物に見えないほどのスケールを持って、僕の目の前で仁王の如く存在を主張している。
彼女が剣を横一文字に構えた。血糊と血糊の隙間に僕の顔が映っている。
何かを、言った。
人の口腔内で作り出される音かと問われれば、首を傾げてしまうような音だった。
眼球に罅が入ってしまったと、最初にそう思った。
小枝を踏んだ時のような音を立てて、まず最初に剣に小さな罅が出来た。その罅が、今度は剣全体に広まったと思えば、遂に彼女の腕にまでその鋭角線が走る。
罅は、まるで植物の根のように地走りを続け、彼女の端麗な顔を、胴を、足を、縦横無尽に駆け巡り、遂に彼女の体は罅だらけになってしまった。
四肢から。頭から。
罅が、蜘蛛の巣のように周りの風景にまで広がっていく。壁に、家に、空に、余すところなく、心地良い音を止める事なく、広がっていく。目を擦ろうと瞼を下ろせば、瞼にまで罅が入っているのが解った。
空から、空の欠片が降って来る。
音も無く砕け散った破片が地面に散らばり、蒸発するように光の粒になって消えていく。空を見上げれば、ドーム状になった罅の鋭角線が、頂点から綺麗に広がるように割れていくのが見えた。空が割れた先に、全く同じ空が広がっていた。
やがて、家が割れ、壁が割れ、彼女が割れ、僕が割れ、剣が割れ。
すべてが砕け散った後、すべてが何事も無かったかのようにその場に鎮座していた。