第十九話 心理の迷宮
<南一局一本場 親:雨宮>
うしろから見ているカガミからでさえ、天馬の動揺は手に取るようにわかった。
呼吸が喘息気味にひゅっ、ひゅっ、と切れており、理牌するのに倉田や八木の三倍近い時間を要していたからだ。べつの意味でテンパっている。
それも無理からぬ話で、シマが稼いだ雨宮との僅差はあっという間に消滅してしまい、天馬の精神の拠り所はもうなくなってしまったのだ。
手を握ったり開いたりして、必死に緊張をほぐそうとしているが、返って逆効果のようにカガミには思えた。
固くなっているときは無理にほぐそうとするよりも、それを自覚し受け入れてしまった方が安定するのだ。自転車がある程度の速度を保っていないとバランスを崩してしまうように。
「ポン」
雨宮の手が天馬の2ソウを拾った。これで3フーロ。役は恐らく染め手。
<雨宮 牌姿>
???? (222)(789)(123)
打:4ソウ
一番安くてホンイツのみ。しかし、チンイツに一通も絡めば文句なく親ッパネ。
倉田が飛んでしまうのでツモや振り込みはありえないが、万一天馬からの直撃が取れれば、ほぼ勝敗は決まってしまう。
けれど幸運なことに、天馬はいまの2ソウ打ちで張っていた。
<天馬 手牌>
二三四四五六⑤⑥⑦⑦⑧北北
待ちは⑥-⑨ピン。ダマテンピンフだ。
リーチをかけなかったのは、ソーズをツモってきた時のことを考えた冷静さからゆえか、はたまた単なる臆病風か。
八木が①ピンをツモ切りし、ツモ番は再び天馬へ返ってきた。震える手がヤマへと伸びる。
その牌に、自然とカガミの身も強張る。
ツモ:5ソウ
ふ、とカガミは肩の力を抜いた。分かりやすい引き際だ。
これはもう、十中八九、アタリ牌だろう。
字牌は場にかなり安く、雨宮の待ちとして考えられるのは一枚見えている發と天馬が押さえている北のみ。となると、残りは自然と真ん中あたりのソーズということになる。
ここはオリるしかない。それが常道というもの。
一時の焦りに容易く身を委ねてしまうから、負けるのだ。
だがカガミの思惑に反して、天馬はなかなかアンパイを切り出していかない。
卓の縁を掴みながら、苦しげな息を吐き出し獣のような唸り声を上げている。
もしここが単なる場末の雀荘で、カガミがそこの客だったのならとっくにオリろと助言しているところだったが、残念ながら仕事上そういった肩入れはできない。
天馬はカガミの心配になど露ほども気づかずに、その牌を打った。
打:二萬
メンツを崩した。ベタオリだ。
正着手とはいえ、時間をかけすぎだ。なぜ、こんな場面で5ソウ切りで突っ込もうなどと考えるのか。
(男の人って、わからない……)
見栄やプライドのために命を落としてどうするというのか。
金を稼ぐために、あるいは何かを守るために闘っているはずなのに、どういうわけか身投げのような行為が賭場ではしばしば英雄視される。
カガミにはそれが、どうしても理解できなかった。
やがて、流局となった。
「ノーテン」
当然、手を崩した天馬は張っていない。八木も手牌を崩してしまう。
天馬の注意は当然、雨宮の手に注がれていた。結局、何待ちだったのか。
發か、ソーズのチュンチャン牌か……。
雨宮は手元に残った四枚を、パタンと伏せた。
「ノーテンだ」
「えっ」
「なんだ、張ってると思ってたのか?
クク、いやいや、なかなか来なくてさ。いやあ難しいな染め手は……クク、本当に難しい……麻雀は。
なあ、倉田」
倉田はにんまりとした笑顔を浮かべて頷いた。
手を倒す。
テンパっていた。
カガミは、ああと内心で手を打った。
そうだ、なぜこんなことに気づかなかったのだろう。
いま雨宮がイケイケ麻雀で点棒を稼いだところで大した意味はないのだ。
味方の倉田の点棒が不足しているのだから、下手にマンガンやハネマンをツモれば一気にハコテンの俵に足がかかってしまう。
いまここで最優先されるべきは、落ち目の点棒を補給してやること。
倉田の前に二本の千点棒が投げ出された。
遅ればせながら失策に気づいた天馬もアルミホイルを噛んだような顔をしながらそれを放り投げた。
「へへへ、悪いな」
倉田はこれで一安心、とばかりにそそくさと点棒をかき集めた。
「くそ……」
天馬の口から後悔の欠片がこぼれだしたが、しかしカガミの意見は反対だった。
やはりここはオリて正解だ。それはなぜか。
恐らく、雨宮は天馬が5ソウをツモった時点で張っていたはずだ。待ちは5-8ソウ待ち。
天馬が5ソウを引いた数順後に、雨宮は8ソウをツモ切りしている。
これは単に、ツモれば倉田が飛んでしまうからアガらなかっただけではないだろうか。
蛮勇を奮って5ソウを落とせば放銃、ベタオリすれば倉田の点の補充。
雨宮らしい精緻に計算された二段構えだった可能性が濃厚だ……。
しかし、この結果はむしろ最良。
確かにこれで倉田の点棒は6000以上。ツモではなかなか飛ばせないが、まだマンガン直取りという手段は依然として残っているし、親ッパネ直撃という悪夢は回避できたのだ。
ここはこれでよしとし、次の局に集中するべきなのだが……
(気持ちが折れてしまったか……)
天馬の背中からは、なんの熱も気迫も感じられなくなっていた。
(クク……)
憔悴しきった天馬を眺めながら、雨宮は自動卓に手牌四枚を落とし込んだ。
その中身は
7ソウ、北、發發
つまり、ノーテン……!
カガミの予想とは違い、あの時5ソウは通っていたのだ。
しかし、雨宮は絶対にこのブラフが成功すると確信していた。
オリるに決まっている。
自分の射程距離内に、ライオンが侵入してきて逃げない草食動物がいるだろうか。
(不可能なんだよ。
シマウマに博打なんてな……)
天馬:27300
倉田:3700→6700
雨宮:52200
八木:13800