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第二十九話 悪魔の秘策

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 言うまでもないことだが、負けたい人間などいない。
 一部の狂人は別として、誰であろうと破滅が懸かった勝負では全力を尽くす。
 それこそ使える血、動く細胞を総動員してだ。
 だからこそ敗北に迫れば迫るほど、その心はあがき苦しむ。
 逃げたい本音と、逃げられぬ現実の板ばさみとなり、万力で締め付けられるように軋むのだ。
 四月の夜だというのに、天馬の顔にはびっしりと玉の汗が浮かんでいた。
 それをうざったそうに袖で拭うが、またふと見ると元に戻っている。
 南場の半ば、差は四万。
 まだまだ射程距離と言葉にするのは容易いが、逆転まで途方もない道のりが待っている。
 さっきまで雨宮が感じていた焦燥を今度は天馬が背負うことになった。
 真剣勝負では優勢と劣勢が嘘のように入れ替わる。キャッチボールのように。
 この呪われたボールを相手に投げ返さねばならない。
 いままで以上の冷静さと大胆さを発揮するのだ。
 しかし、その決意が肩に力を入れてしまうことになった。
 天馬が震えを隠すために力強く打った牌で、雨宮は手を倒した。
「ロン……三色ドラ1。6800の一本場は7100」
 カンチャン待ちの二萬で振り込み。


 天馬…11600→4500
 倉田…13800
 雨宮…58400→65500
 八木…20200


 誰も何も言わない。野次も飛ばない。
 粛々と点棒が移動していくことが、かえって天馬の心にさざなみを立てた。
 罵倒されたりした方がまだマシだ。その心の隙を突くチャンスがあるかもしれない。
 けれど徹頭徹尾ガードを完全にされたら、なにもできない。
 この三回戦、天馬はイカサマを暴き、破れかぶれのハイテイ単騎も成功し雨宮から親マンを直撃した。
 それでもまだ足りないというのか。
 まだ勝たせてはくれないのか。
 全力は尽くした。
 もうなんの策も残っていやしない。
 天馬はわずかに残された点棒に目を落とした。
 まくるしかない。
 まくるしか……
 でも、できるだろうか。
 天馬の肩から、なにかに吸い取られたかのように力が抜けていった。




 南二局二本場、雨宮は手うちわで風を胸元に送りながら、手牌を見つめていた。
 大物手はいらない。二本場なので、親の40符2ハン以上か、八木か倉田のタンピンドラ1の4500でちょうどケリがつく。
 あるいはこのままなにもせずに場を流したって、ラス親を蹴れればそれで終了。
 鉄板レースだ。まず負けない。
 そんなリードに目を奪われて、雨宮はすっかり忘れていた。
 天馬に二度もしてやられて、彼に意識を集中させすぎてしまっていたのだ。
 そいつは静かに、時を待つ……。





「……カガミ、音楽を消せ」
「どうかしたのかよ、雨宮」
 雨宮の様子が異常だった。天馬の声に反応せず、眼球が固まったように動かない。
「早く消せ!」
 カガミはシマから預かっていたアイポッドの電源を落とした。
 最初は誰もなにが起こっているのかわからなかった。
 少しして、どこか遠くから吹きすさぶ風のような音がしていることに気づいた。
 そしてそれが、この書斎の中からすることに……。
 雨宮の鼻筋にすっと汗が流れた。
 彼は天馬の斜めうしろの本棚の間を指差した。
 その先にはまだまだ書架が続いているはずである。
「カガミ……ちょっと見てみてくれ。どうなってる?」
 皆がその事実に気づいた時とカガミの報告がほぼ同時だった。

「燃えています」

 ゴォオオオ……
 オオオォォォォ……
 勝負に夢中で誰も気づかなかった。
 この部屋の温度が、異常であるということに。





「おまえの仕業か……!」





 搾り出すような雨宮の言葉を受けて、嶋あやめは笑っていた。





「シマ……?」
 わけがわからず呆然と天馬はシマを見上げたが、彼女は一瞥もくれない。
「煙の臭いは香水でごまかした。火が爆ぜる音は音楽で」
「おい、どういうことだよ……?」
 シマはなにも答えない。本棚に寄りかかって前髪に指を絡めている。
 雨宮がキッとカガミに突き刺すような視線を飛ばした。
「カガミッ!! 火をとっとと消して来いッ!!」
 雨宮の怒声が飛んだが、カガミは動かない。
 直立不動の姿勢で、その場に釘付けのまま。
 それを見て雨宮は烈火のごとく怒り狂った。
「貴様ッ……ジャッジでありながら、一方に味方するつもりか!」
「そうではありません」
「じゃあどういうことだ!」
「火の手が天井に達しています。個人の力では消化は困難です」
「それをなんとかするのが、おまえの仕事だろうが!!」
「申し訳ありません。しかし、ゲーム続行に支障はまだないかと」
「こんなところでゲームを続けるわけにいくか! どこか別の場所に……」
 雨宮は二の句が継げなくなった。
 気づいたのだ。
 自分は怪物の口の中で、外に出ようともがいているのではない。
 すでにここは、胃袋の中なのだと。
「席を立ってはいけない……」
 シマの言葉が、忍び寄る炎の音に飲み込まれていった。
「君が作ったルールだ。……責任を持とうよ、自分の言葉に」
 天馬が我慢できずに声を荒げた。
「おい、怒るぞ! どういうことなのか説明してくれよ、シマ!」
 ようやくシマが天馬を見た。
 冷たい目で。
 さっきまで自分を励ましてくれた人物とは思えないほど。
「まだわからないんだ」
「わからねえよ」
「バーカ……!」
「え……?」
 シマは咥えていたタバコを手のひらで握りつぶした。
 指の隙間から砕けた灰がパラパラと零れ落ちる。
「GGSの取り決めでは……この勝負はわたしと天馬VS雨宮、倉田、八木ってことになってる。
 その中で、勝負の途中で、わたし以外の全員が死んだら、どうなると思う?」
「どうなるって……」
「わたしに流れ込むんだよ、賭け金が。雨宮の財産すべてがね」
「財産……?」
 シマはそこでちょっと黙り込み、雨宮をちらりと窺った。
「言ってなかったっけ」
 雨宮は答えない。シマはにっと笑った。
「じゃあ教えてあげよう」
 そうして、この勝負の勝者に財産を相続させると雨宮の祖父が言い残して往生したことを告げた。
 金の話の間、天馬は微動だにせず、呆然としていた。
 そんなことどうでもよかった。それよりも知りたいことがあった。
「最初から……それを狙って、オレに近づいたのか」
「そうだよ」
 あっけらかんとシマは答えた。なにが悪いのか、と逆に聞き返されそうな声音だ。
「火を放った時……まだ東場だったよな」
「うん」
「オレの勝ちの目は残ってたよな」
「少なくとも局に余裕はあったね」
 燃え盛る炎の音が遠く聞こえた。
「信じてくれなかったのか、オレを」
「うん」
 かみ締めた唇から、血がにじんだ。
 オレのすべてを出し尽くしても……
 オレはまだ信じてもらえないのか。
 誰からも……。
「ま、火が回る前に勝負が終わっちゃったらわたしの負けかな。だから頑張ってね、天馬」
 シマは背を向けて部屋を出ようとした。平然として悪びれもせず。
 天馬はその背中に向かって声を張り上げた。
「散々偉そうなこと抜かしておいて……最後はこれかよ……!
 人を裏切って、恥ずかしくねえのかっ!!」
 シマは足を止めた。
「わたしは君のなに。お母さん?
 どうしてわたしが、君を助けなくちゃいけないのかな」
「だって……」
「そういう君は誰かを助けたことがあるの?」
「…………」
「君は勝手な期待をわたしに押し付けているだけ。
 悪いけど、そんなものに応えてあげるほどお人よしじゃないんだ」
「オレは……」
「人を信じるってことは君が思っているよりも」
 シマは扉を開けて、少しだけ振り返った。



「もっと重たいことなんだよ」


 
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