デブシマ4話『リベンジ』
ぴょんぴょん飛び跳ねてみたがウンともスンとも鳴りゃしない。
ポケットを裏返して見ても出てくるのは糸クズぐらいのものだった。
「チェッ……」
電車もタクシーも使えないので、シマはひたすら夜の街を歩き続けた。喧騒とネオンの煌く繁華街を過ぎ、住民たちは寝静まって犬の吼え声ぐらいしか音のない住宅街までやって来ると、民家の間に挟まれた小さな公園を見つけ、そこのベンチに仰向けに引っくり返った。
「ハコテンだぁ――」
頭上では青い三日月に薄い雲がかかっている。
星の見えないこの街で唯一宇宙の存在を示す月をなにげなく眺めながら、息をひとつ吐く。。
気持ちいいほどの無一文であった。
シマはタネ銭を残すということをしない。一夜の勝負で持ち金のすべてを張ってしまうことも少なくない。
理由などないし、それが一番自分の生き方に見合っていると思っていた。
人がそれを愚かと呼ぶことも知っていた。
「デブチィ……か」
ピザの匂いが蘇ってくる。
「どうしようか……」
そう呟いた時、足元から名前を呼ばれた気がした。
聞き覚えのある声だ。シマは上半身を起こした。
「シマ、シマじゃんか!」
「やあ」
気安く手を振って挨拶すると公園の柵をひょいと乗り越えて青年が走ってきた。道路脇に乗ってきたと思しき車が停めてある。
黒スーツを着てるくせに遊び人風に髪を茶色に染めた彼はシマの前まで来ると破顔一笑した。
「チラっと見たらいるんだもんな、ビックリしたぜ。こんなところでどうしたんだ?」
シマは肩をすくめて寝転んだ。その動作だけで青年はすべて察したようだった。
「ハコったのか! ハハハ、え、おまえ、ハコテンかよ!」
「うるさいなぁ……。それより君、どうしたのその格好」
「あ、これ?」青年は自分の姿を見下ろした。
「聞いてくれよ、俺ついに仕事見つけたんだ」
「働いたら負けかなと思ってる」
「ニートめ」
「…………。で、何になったの。執事?」
「ハハハ、コーヒーなんて苦くて飲めるか。お得意さんはおまえだよ」
青年はそう言って笑って名刺を差し出した。
GGSジャッジ見習い黒瀬重樹……と書かれている。
賭博支援機構GGS-NET。
シマも度々お世話になっている、博打の場や清算の取り仕切りを担う組織だ。
黒瀬はじっと自分の顔を見つめてくるシマを不思議そうに見返した。
「どうしたんだよ」
「ツイてるなァ……」
「は?」
唐突にシマはベンチから跳ね起き、黒瀬に飛びついた。
「わっ! な、なにす」
「あのさァ」
シマはなにか悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべて、黒瀬の戸惑った顔を見上げた。
街灯の光の下、スポットライトを浴びたように二人の姿だけがくっきりと浮かび上がる。
「勝負したいヤツがいるんだ」
錆の臭いがする。
暗くじめっとした地下室にデブチィはいた。
いつもの膨れ上がった背広姿ではなく、今はゆったりとした和服に身を包んでいる。
引退した力士だと名乗っても大抵の人は頷いてしまうだろう。
彼は今、食卓の上に乗せられたものをニタニタ笑いながら見下ろしていた。
背筋の中身が、やってはいけないことを前にした興奮と焦燥で焼けている。
「や、やめて……お願い……」
それは異様な光景だった。そしてデブチィが毎夜のように望む景色でもあった。
まだ若い女性が全裸で机の上に仰向けになっていた。両手両足をテーブルに備え付けられた錠でがっちりと固定されている。
デブチィはフォークを手に取ると、彼女のわき腹の側にあったエビを突き刺してひょいっと口の中に放り込んだ。怯えた目つきが下から突き刺さってくるのを感じてますます楽しげに笑みを深める。
「やめろってな、どういうことだ?」
「わ、私が悪かったです……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「ふむ……」デブチィは口の汚れを涎掛けで拭った。
「おまえは牛やブタを可哀想だと思うか?」
「お、思います……これからは野菜しか食べません……」
「なぜだ?」
「は……?」
「野菜だって生きているよ」
「植物は……痛みを感じない……から、その……」
「なるほど。じゃあ麻酔をしてあげようか」
デブチィは片目を閉じて注射器の水を抜くマネをした。
「ひっ!」
「嘘だよ」
顔を近づけ、女の両目を真上から見つめた。
「た、たすけ」
「生のままが、一番おいしいんだ」
そうして手に持ったナイフを――
「絶対やばいよ絶対やばい。ものすごくやばくてとんでもない」
「君が闘うわけじゃないでしょーが」
「まあね……そりゃあね」
黒瀬はGGSから支給されたジープを運転しながら助手席のシマを横目に見やった。
シマは窓枠に頬杖をついて、窓の外、流線形の景色を澄ました顔で観賞している。
シマと知り合ったのは一年ほど前。
だが、この少女が怯える姿を一度だって見たことがない。
いつだって平気な顔で命銭を惜しげもなく張ってしまうのだ。
そうして勝っていくのだから、彼女の賭場での評判はすこぶる悪い。
「雪ん子が来たら、その日はもう仕舞いなんだ」
シマが現れた瞬間に帰ってしまう客も多く、ひどいと賭場に足を踏み入れた数秒後にはぽつんと一人取り残されているということさえあった。
ちなみに雪ん子とは、彼女の髪の色からついたあだ名である。
「でもよ、もし噂が本当だったら……」
ハンドルを握る黒瀬の手がじわりと滲む汗で滑りそうになった。
まことしやかに囁かれる今夜の対戦相手の異常な嗜好はシマにも教えてある。敗北者を襲うと言われている残酷な末路を……。
シマは少し開けた窓から入る夜風を浴びながら目をスッと細めた。
「ま、なんとかなるさ」
黒瀬は吐き出すように重いため息をついた。
「ったく……心配してやる甲斐がないな、おまえ相手じゃ」
「ありがと。でも、心配してるのはわたしだって一緒だよ」
「え?」
黒瀬は横目でシマのつむじを見た。
「君、わたしのことエコヒイキしたりしたらダメだよ。勝負が始まったら、わたしは選手で、君は審判なんだから」
「ああ、まァ大丈夫だよ。うん、それぐらいの節度は持ってるつもりだ」
「どうかなぁ……」
「へへへ」
黒瀬はその時、シマが自分を心配してくれているのだと思って内心うきうきと喜んでいた。
けれど、それは誤りである。
シマは窓ガラスに反射する自分の顔の向こうに敵のツラを重ねながら、こう思っていたのだ。
(たとえ誰であろうと、何者だろうと、
勝負の邪魔だけは許さない)
熱い血が身体を巡る音が聞こえる――