デブシマ6話『罪』
神経衰弱。
52枚のトランプをバラバラにして広げ、めくっていく。同じ数字が出たらそのペアを手に入れられる。
ゲームが終わった時、持ち札が一番多い者の勝ち。
黒瀬の言った通り誰でも知っているシンプルなゲームだ。
完全な運ゲーとも言い切れない。ゲームが進むにつれて記憶力がモノを言うからだ。
しかしこの場にトランプはない。
「デ……蟹場さまのご要望におり」
うっかり仇名を口走りそうになった黒瀬の顔をデブチィがぎろりと睨んだ。
「勝負はこのディスプレイ上で、デジタルに行われます」
「なんで?」
間髪入れぬ反問。シマは不服そうに口をすぼめている。
「普通にトランプでやればいいじゃん」
おいそこはスルーしろよめんどくせえ、と黒瀬はアイコンタクトを送るがシマは無視した。
「まさかジャッジとグルとかないよね」
よく言うものだ。むしろ知り合いなのは自分のくせに。
デブチィはふふふ、と意外にも渋い笑い声を立てて顔を歪めた。
「こんな体だろ、昔から賭場でイカサマを見つけても素早く動けなくて現場を押さえられず悔しい思いをしたもんだ。GGSはイカサマを押さえれば適切に処置してくれるが、発覚しないものは放置しやがる。だから最初から間違いがないように、デジタルでやっちまおうってわけだ」
「わたし、手品が得意に見えるかな」
「ああ、すごくな」
「そう? ふふ……」なぜかシマは嬉しそうだ。
「ま、いいよ。で、黒瀬さん。ハウスルールはあるのかな」
「ええ、ございます」
「え、あるの?」
聞いておきながらシマは驚いて黒瀬の顔を見上げた。
神経衰弱にどんなルールを加える余地があるというのか。
黒瀬はごほんと咳払いして話し出すタイミングを作った。
「勝負は三回戦に分けて行われます。先に二勝した方の勝ち。
これは一回戦のみでは、真の実力を発揮できないケースもあるとGGSが判断したため取り付けられたルールです」
黒瀬はそこで一息間を開けて続けた。
「基本は一般的な神経衰弱と把握してもらって構いません。
ゲームはこのように」
液晶ディスプレイ一杯に不規則に並べられたカードが表示された。
「ディスプレイ上に表示されます。シマ様、カードに触れてみてください」
シマの指が液晶にちょんと触れるとそのカードがゆっくりと裏返った。ダイヤの8。
最近の科学技術は日進月歩という言葉さえ音速でぶっちぎっているようで、カードはどれも本物と間違えて爪でひっくり返してしまいそうなほどだった。
「ルールというのは、この液晶を使ったならではのものです。
ゲームを始める前に、一度すべてのカードをオープンします」
カードがすべて表向きになった、と思ったら次の瞬間には元に戻っていた。
「この一瞬の間にどれほどのカードを覚えることができるか、あるいは間違った記憶に踊らされてしまうのか。
通常よりも一層の記憶力と、自分の判断を信じる冷静さが必要になってくるでしょう」
黒瀬は説明を終え、黙り込んだ。
シマはデブチィを一瞥してから、またカードの群れに目を落とした。
「ねぇ、ひとつ聞いてもいい」
「どうぞ」お辞儀した黒瀬の前髪がキザったらしく揺れる。
「あ、ちがう、デブチィさんに聞きたいの」
「なんだ」
早く勝負を始めたいのか、デブチィはそわそわしていた。
シマはじっとデブチィを、その茶色がかった虹彩を見つめながら、
「人を食べるって本当?」
と聞いた。
「俺の噂を聞いたのか」
「うん」
シマは彼女にしては珍しく無表情で、円卓の上の引っかいたような傷を見ている。
「負けた人を生きたまま食べる……んでしょ?」
青写真の中みたいに、しばらく誰も動かなかった。
「……昔、コックだったんだ」
黒瀬とシマの注目を浴びながら、デブチィは分厚い顎を動かして喋り始めた。
「これでも天才と言われてな、自分の料理が美味すぎて喰いまくってたら太っちまったくらいなんだ。
でも、あるとき、物足りなくなった。一度そう思い始めるとこの世のどんな珍味も砂と変わらなく思えた。
気が狂いそうだったよ。自分に何が起こったのかわからなかった。
でな……俺には一人娘がいたんだ。」
黒瀬がすっかり話に聞き入ってしまっていて、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「あんたよりいくつか若かったかな……。
精神を病んで家に篭りきりの俺に自分で作った料理を出してくれてさ、励ましてくれるんだよ。
俺のカミさんは娘を産んですぐ死んじまったから、二人きりの家族だったのさ。
でも……」
デブチィは言葉を切って、眉をひそめた。
「おいしくなかったんだ、娘の料理。
それが悲しくてな、一生懸命作ってくれたのにおいしく感じられなくて、死にたくなった。
娘は気にしないで、って気丈に笑ってくれたよ」
黒瀬はちょっと感動して目尻に涙を浮かべていた。仕事中でなかったら鼻を啜っているところだ。
シマは冷えた目でデブチィを射抜きながら、彼の秘密を暴いた。
「娘さんは、美味しかった?」
デブチィは顔を俯けて、ため息をついてから、
「もちろん」
歯茎の奥まで見通せるほど笑んだ。
「なにせ俺が育てた、自慢の娘だからな」
デブチィは天井を仰いだ。体重の移動に伴って高級な椅子が文句を言うようにぎしっと軋む。
「満たされた……」
懺悔は続く。
「俺の飢えは満たされたんだよ……その時、確かに。
それからだ、俺が人を喰い始めたのは。
そしてアンタの想像通り、俺は博打で負かした人間を喰らっている。
……変態だと思うかい」
「それを決めるのはわたしじゃない」
「ほう、じゃあ誰が決めるってんだ。法か? 神か?」
「わからない」
シマはぽつんと乾いた声で呟いた。
「いつか裁かれる時が来るのかな」
正義はいつか、自分たちの前に立ちはだかるのだろうか。
その目に決して枯れぬ激情を湛えて――
「で……負けたらわたしも食べられちゃうんだ」
「そうなるな」
「君は何を賭けるの」
「二億」
デブチィは円卓の下から二つのアタッシュケースを引っ張り出した。どうやら事前に運び込まれていたらしい。
「命を賭けるには十分な額だろ」
「そうかもね」
シマは一度もトランクを見ようとはしなかった。
視線は縫い付けられたように、デブチィの顔から外れない。
ロックオンを済ませたライフル銃のように。
「じゃあ始めようか、神経衰弱」
桃色の唇を赤黒い舌が拭った。