デブシマ11話『鎮魂歌』
その白光はデブチィの視神経を貫通しただけではなく、思考回路を根こそぎフッ飛ばした。
起こった出来事とその寸前のシーンが繋がらず、どうとも反応できない。ただ呆けたように硬直してしまった。
そして勝負事においてその一瞬の怯みは絶対の緩みとなる。
腕が飛ぼうと足がもげようと生糸のごとき繊細なる意識を切ってはいけない。
その真理を思い出した時、カードはすでに不明の闇の中へと消えた後。
勝利への終電はデブチィの指先をかすめて走り去ってしまった。
これから先は、徒歩しかない。
影から己を付け狙う、鬼の牙に怯えつつ。
ぶわっとデブチィの額と言わず鼻と言わず、顔面のそこかしこで汗が噴き出した。わずか一瞬の間に十から二十老け込んでしまったのかと思うほど憔悴してしまった。
憎らしいほどふっくらしていた頬はやつれ、デブチィの知人が見たら引っくり返ってしまうであろうほど凹んでいた。
「おまえ…………………………………」
「アハハハ! すっごくいい顔してたよ?」
シマはカメラのファインダーから目を外し、ニカッと笑った。
きっとその中には、フラッシュで視界を潰された刹那のデブチィの顔が映っているのだろう。
「策士は策に溺れ、天才は才に溺れ、そしてこれから君は」
シマは手を差し伸べてディスプレイを示した。
デブチィの先攻だった。
「カードの海に溺れるんだ」
スー。
ハー。
深呼吸。そこからすべては始まる。
今度こそ落ち着かねばならない。
相手にしてやられたからって、そこですべてが終わってしまったわけではない。
ただ五分と五分の勝負に持ち込まれただけ。
ヒラで勝てばよい。ただ勝てば、すべて丸く収まるのだ。
今の場面だけを誰かが見たら、いかにもシマの上り調子に思うかもしれないが、デブチィは自らの経験とカンを鑑みれば流れはこちらにあると踏んでいた。
シマはイーブンに持ち込めた時点でいくらかツキを消費している。
そのハンデを背負いながら闘わねばならないのだ。
言うなら自分は無傷で、シマは手負い。
死に物狂いで向かってくるだろうが、気合と根性が結果に反映するとは限らない。バクチ場では逆に命取りになるケースが大半だ。
だからデブチィは初手でなにも考えずに二枚引いた。当然ハズレ。
神経衰弱は元々長いスパンと精緻な記憶力によって決まるのであって、決して一発で絵と絵を合わせるゲームではないのだ。
(これでいい。大切なのはペース。ゆっくりと自分の流れを引き寄せていけばいいんだ)
目の前の、すでに単なる餌ではなくなってしまった敵を睨みつける。 ぶちのめしてやるぞ!
「おまえの番だぜ」
「うん……」
しかしシマは再び口元に手を当てたり、髪をかき上げたりするばかりで一向にカードを開こうとはしない。その姿はカタログを前にした主婦のようだ。
画面に顔を寄せたかと思うと首をひねり、卓をトントンと叩き、「うー」とか「あー?」とか唸っている。
だんだんデブチィは苛々してきた。こんな勝負がこれ以上長引いたら精神が参ってしまう。
「おい、いい加減にしろよ。カードが透けて見えるわけじゃなし」
シマはふるふると首を振った。
「見えるよ」
「は?」
「わたし……実は超能力者なんだ」
大げさなしぐさで顔を覆うシマ。
「ううっ……この力のせいで……見たくもないものをずっと見てきたの……しくしく」
デブチィがキレた。
「黙りやァれ、この生まれ損ない野郎、いいから早くカードを引けって言ってるんだッ!」
「――そんなに怖がるなよ」
冷えた言葉が煮え切った柔らかい心に突き刺さった。
シマは指と指の隙間から、首を絞められたように沈黙した敵の様子を覗いている。
「なにを怯えているんだか。
不思議なことじゃないでしょう?
この世は弱肉強食。
自分だけ好きなだけ喰い散らかしといて、いざ負けて喰われるのはゴメンですなんて、ずるいよ」
目を閉じ、ふうっとため息をついて繰り返す。
「ずるい」
そうしてカッと瞼を開き、
「わたしはそうなりたくない――」
一枚のカードを弾く。
裏返りかけ、斜めになる札。
それに一瞥もくれずにシマは次のカードを叩く。
自分に迫る運命、それと出会うことが待ち切れぬかのように。
タンタンタンタン――!
円卓を手が縦横無尽に走り抜ける。
リンゴを丸呑みしそうなほどデブチィの顎が開け放たれた。
タンタンタンタン――!
両手を使ってタッチタッチタッチ。右下の獲得枚数が闇雲に増加し続ける。
腕の動きに合わせて肩と髪が小刻みに震える。
タンタンタンタン――!
一切の緩みや甘えを捨て去った表情は崩れる気配さえ見せない。
タンタンタン。それは鎮魂歌だったのかもしれない。
デブチィのサガによって殺され、ここまで辿り着けなかった命たち。
負ける時、誰もが願う。
勝ちたいと。
生きたいと。
倒したいと。
その願いを今、嶋あやめが代行する。
タンタンタンタン――!
タンタンタンタン――!
タタタタタタタタ――
タンッ!
五十二枚、そのすべてがオープンされていた。
たったひとつのミスもない。
卓上越しに二人の視線が絡み合う。
(嘘だろ?)
(ホント)
言葉にせずでも、意思は伝わった。
十分すぎるほどに。
「あ……あ……」
デブチィの全身がぶるぶると震え始め、痙攣を起こした腕が卓上の食器を弾き飛ばした。
呼吸が病的に荒々しくなり視線が四方八方へと飛び交う。
「逃げ道なんてないよ」
無邪気な天使が審判を下す。
「でも試してみたいなら、やってみなよ」
それがスタート合図だった。
座っていた椅子を黒瀬に投げつけ、太った肉男は背を向けて走り出し、黒瀬にぶつかった。
「え?」
パチパチとまぶたを瞬いて黒瀬と見つめ合う。
ドガッ……!
次の瞬間、垂直に蹴り上げられた黒瀬の長い足を五十顎にまともにぶちかまされ、デブチィは世にも珍しい天井とのキスを経験したのだった。
重力の蛇に身体を絡め取られ、堕ちていく。
逆さになったシマが、頬杖をついて微笑んでいる。
ああ、もう少しであの柔らかい肉をかみ締められたのに。
それだけが残念だ。
懲りることを知らない食人鬼は背中から卓に墜落し、最新の液晶も高級なクロスもなにもかも吹っ飛ばしてしまった。
立ち上がる気配は微塵もない。
後には座ったままのシマだけが残された。