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デブシマ12話『シャレた死に方』

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 風に乗っていい匂いが鼻腔をくすぐった。
「お父さん! カレーだよカレー!」
 手を引かれる娘が飛び跳ねて喜びを全身で表し、デブチィの表情も自然とほころぶ。
「チカね、あれが好き! あれが乗ってるやつ!」
「とんかつ?」
「うん!」
「あんまりお肉ばっかり食べてると太るよ」
「いいの、だってチカ太らないもん!」
 ハハハ、とデブチィは気持ちよく笑った。
 娘には自分の遺伝子があまりいかなくてよかったと思う。
 きっと将来は料理が好きないいお嫁さんになるだろう。
 そして自分は娘の作ったカツカレーを食いながら、旦那と将棋を打ったり、孫のおむつを変えたりするのだ。
 ああ、なんて幸せなんだろう!
 自分ばかりこんないい目を見ていいのだろうか。
 なんとなく世界中の不幸な人々に申し訳なく思ってしまう。
 それほどにデブチィは至福に包まれていたし、またそれが永劫に続くことを確信していた。
 夕闇の中、親子は連れ添いながら家へと向かって歩いていく。
 どこかで五時を告げる鐘が鳴り、カラスが電柱の上から飛び立ち、別れの挨拶を交し合う子どもたちが三々五々に散っていく。
「でもね、お父さん。チカ思うんだ」
「なんだい」
「チカたちはご飯を食べるでしょ。それって命を奪ってるってことだよね」
 デブチィは驚いて愛娘を見下ろした。いつの間にそんな難しいことに思いを馳せるほど成長していたのだろう。
 頭を撫でてやり、優しい声音で言う。
「そうだよ、だからちゃんと食べ物には感謝しなくちゃならないんだ。いいね?」
 うん、わかった。チカ、そうする!
 そういう返事が来ると思っていた。
「感謝なんかされたって、死にたくないよ」
 娘はただ前を見ている。
「ありがとうで殺されたら、たまらないよ」
 デブチィは戸惑ってしまい、なんと言えばいいのかわからなかった。
「チカ?」
「だからわたしは謝ったりしないし、許してもらおうとも思わない。
 生きてる限り、なにかを傷つけちゃうことは避けられない。
 傷つくこと、傷つけられること。
 悲しくて辛くて苦いけど……それでいいんだ」
 チカはデブチィの手をそっと振りほどき、トトトっと二、三歩小走りに進んで振り返った。
「ね、そうでしょ。 ……デブチィ?」
 ワンピースを着たシマが、そこにいた。
 喉を張り裂かんばかりの絶叫がほとばしった。




「――悪夢を見たのかな?」
「ひィ!?」
 頭上からシマが見下ろしているのを見て胃が破裂しそうだった。
 苦しげにあえぎながら辺りを窺うと、見慣れた地下室にいることがわかった。
 いつも見下ろす位置に、今度は自分がいるのだった。
「最後くらいさ、いい夢を見れたらいいのに。
 でも、きっとわたしたちにそんな資格はないんだよね」
 食卓に盛り付けられたデブチィの周囲をシマがぐるぐると回っている。
「わかってるんだ、それぐらい、わたしだって」
 デブチィの唯一動く部位である首がシマに合わせて巡る。
 その視線が、彼女の右手に握られたナイフに釘付けになっている。
「人ってどこがおいしいのかな。やっぱり肩とか? ふともも?」
 シマはぺたぺたとナイフの腹を手のひらに当てながら、首を傾げる。
「シマ……さん」 
「ん?」
 デブチィは掠れた声で懇願した。
「助けてください……」
「そう言われて君は誰か助けたことがあるの」
 シマは怒っていなかった。ただ疑問だから聞いてみたという表情と態度で、それが一層デブチィの恐怖を煽った。
「バクチ打ちの最期としては、なかなかシャレてるんじゃない? ホントに食べられて終わっちゃうなんてさ」
「もう二度と人を食べたりしない……」
 ふぁあ、とシマがアクビを漏らした。
「そうだ、俺の全財産。それをやろう。二億なんてはした金じゃ済まないぜ。俺をここで殺したらその在り処がわからなくなるぞ」
「いらない」
 即答だった。
「お金が欲しくて闘ってるわけじゃないから」
「じ、じゃあなんのために?」
 シマは足を止めた。ナイフを額の前にかざし、答えを探すように刃を見つめる。
「君が人の肉を食べるっていうなら、わたしは人の心が食べたいのかも。
 恐怖、憎悪、嫉妬、激怒、焦燥、失望……。
 人の心の奥の奥まで、知りたい。
 そのためには闘うのが一番いいんだ。
 そこまでしなくちゃ、本当のことなんて一つもわかんないから」
 両手でナイフを構え、振り上げる。甲高い悲鳴。
「まずは小指から」
「やめっ――!!」
 やめなかった。



 くちゃくちゃ。くちゃくちゃ。
 ペッ!
 カランコロン、と指の骨は下水溝の中に落ちていった。いつか誰かに発見されるのかもしれないし、永遠に沈んだままかもしれない。
 シマは手の甲で口を拭うと運転席の黒瀬に顔を向けた。
「あんまりおいしくない」
「そりゃあな、生だしな」
「ちぇっ……期待ハズレだよ。あーあ……」
 ふかふかの背もたれに頭を沈めると、そのまま眠ってしまいそうになる。
 ねえ黒瀬、とシマは呼びかけてから続けた。
「デブチィはもう再起不能……かな」
 なにを馬鹿なことを当たり前だろ、と黒瀬が怪訝な顔で見返してきたのでシマは目を逸らした。
 デブチィは強かった。それは瞬間記憶がどうとか、ということではなく精神的な面で敵対する値打ちのある相手だった。
 自分の意思だけを頼って闘い、そして敗れた。
 言葉にすれば容易いこんなことができる人間と自分は生涯で何人出会えるのだろう。
 数少ない同胞たちと――。
「なあ、そろそろ焦らすのやめろよ」
「え?」
 黒瀬はだらしなくニヤけていた。
「どうやって勝ったんだよ、あの三回戦。一発勝ちなんて尋常じゃないぜ」
「ああ……」
 シマは額に手を当てた。と思うと手を口に当て直し、前方を見据えている。
「そんなに複雑な話なのか?」
「ふふ……簡単だよ」
「うん?」
「デブチィが記憶力に自信を持ってるっぽいって思ったのは最初に出会ったブラックジャックの時。時々変な張り方してた。
 あの人はカンや運を頼りにしてない」
「どうしてわかる」
「カン」
「ちょ、おま」黒瀬は笑った。
「それにさ、なんていうか、手ぶらって感じじゃなかったんだ、最初から。わたしがけしかける前から、たぶん勝つだろう――そんな顔で張ってた。不自然な余裕っていうか」
「へえ……じゃなんでブラックジャックで仕掛けたんだ?」
「やりかったんだもん」
「……それだけ?」
「それだけ」
「あの夜、俺に会わなかったらどうするつもりだったんだよ」
「倒す日付が今日より未来になってただけだよ」
「……おまえってホント、すげえ自信家だよな」
「それが取り得ですから」
 悪戯っぽく微笑みシマを見て、黒瀬の鼓動が早打ちになる。
「まァいいよ、デブチィの能力に気づいた経緯はわかった。最初に負けたのも想定内ってわけだ。じゃ二回戦は? あれも全部仕組みだったのか」
「ううん」
 それっきりシマが先を続けようとしないので、黒瀬はやきもきした。
「ううんって、どういうことだよ」
「二回戦は、なんのタネも仕掛けもなかったよ。デブチィの瞬間記憶を利用して、彼が目を逸らした瞬間に開かれていたカードの位置を変えたぐらいかな」
 だから、とシマは言う。
「あそこで負けてても、おかしくなかった」
「…………。よくやるぜ、ホントに」
「ありがと」
「ああ、褒めてるよ。で、三回戦は?」
 いよいよ肝心のところ、と黒瀬が身を乗り出してくる。
「それもやっぱり簡単なんだ」
 シマは額に当てていた手の裏側を黒瀬に突き出した。
 小さな手のひらにすっぽり隠れるようにデジカメが収まっている。
 今、その画面には勝負直前に不意を突かれた黒瀬が映っている。
 シマが十字キーを押すと、今度はデブチィの真剣な顔と円卓が映った。
 液晶ディスプレイの中で、ひん剥かれた五十二枚のカードも。
 シマは再びデジカメを口元に運び、次いでなにか考える時の癖のように額に手を当てた。
 視線はずっと、デジカメを追っている。
 車内にずいぶん長いこと、二人の笑い声が響いていた。




「でもよ、よく気づかなかったな、デブチィのやつ」
「記憶力はデブチィの生命線だったから、それを奪われてビックリしちゃったんだよ。
自分がこれからどうするか、そればっかり考えていて、わたしが写真を撮ったってことの意味まで頭が回らなかった。
 あの時のデブチィにとってデジカメはフラッシュを焚いて自分の目を潰す以外の使い道はなかったんだよ」
「精神力で、やつはおまえに及ばなかったってことか」
「うーん……ま、そういうことにしておこうかな」
 黒瀬は改めて隣に座る少女に感動していた。
 どんな時でも諦めず逆転への道を模索し続ける。
 生きるということに対して真摯なこの女の子と、もっと話がしたい。
 もっと知りたい。
 もっと……。
「あのさ、シマ」
 黒瀬は急にバックミラーを注視し始めながら言った。
「その、なんか、突然だけど、これからヒマ?」
 しきりに前髪を気にしながら、さりげない様子を装う。
 緊張している風に見えないかどうか、気が気ではなかった。
 シマは目線を上げて何か考えているようだったが、
「うん、なにか食べにいきたいなぁ。おなかすいちゃった」
「おう」
 車の速度が少ゥし上がった。
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