デブシマ最終話『少女と悪夢』
おい、ちょっと飲みすぎだぞ。
そう言って嗜めていたのは自分の方ではなかったか。
黒瀬重樹は居酒屋のボックス席の中でぐでんぐでんに伸びきっていた。
天井がメリーゴーランドのように回転している。意味もなく黒瀬はへらへらと笑い、コップをまた斜めに傾けた。
「気持ちよさそうだね」
視界一杯にシマの顔が広がる。
黒瀬はあらん限りの集中力を駆使して自分の頭を支えている柔らかいものの感触を楽しんでいた。
(膝枕なんて夢みたいだなあ……へっへへへ)
「酔いすぎ。車で来てるのに」
「いいんだよ」
「よくない」
怒られるのが嬉しい、俺は変態なんだろうか。
でも幸せだからいいや――
「まったくもう」
呆れるシマなんて初めて見たかもしれない。眉を下げて困ったように焼酎をなめている。
「いいんだよ」黒瀬はふふふ、と笑い繰り返す。
「どっか泊まろ」
「いいよ」
あっけらかんとシマは答えた。その余裕たっぷりのあしらい方が気に障って、黒瀬はぎろりと睨みあげた。
もっとも膝枕の上からいくら凄んで見たって滑稽なだけだったけれど。
「襲っちゃうぜ、俺、おまえのこと」
「ぶっ飛ばすからいい」
常識的に考えれば男性であり、常人を遥かに凌駕する身体能力を有するジャッジに相対してただの女の子が勝てるわけがないのだが、シマがやると言うと途端に不思議な現実味が湧いてくる。
きっと自分はそこに惹かれたのだ、と思った。
「シマ、俺をぶっ飛ばす必要はないぜ」
「ふうん、どうして?」
薄笑いを浮かべながら、シマは焼酎を再び煽った。
「結婚しよう」
ぶほっ!
ジェット噴射みたいにシマが含んでいた酒を黒瀬の顔目がけてぶっ放した。
「え、なに? 今なんて?」
黒瀬は起き上がり大真面目に顔を拭いた。
「俺のお嫁さんになってくれ」
「えっと……」
シマは両手の指を合わせて親指同士を糸巻きみたいに回し始めたが、そんなことしたって上手いセリフが出来上がるわけがない。
黒瀬は精悍な顔つきをして額に汗を浮かべている。
ガチであることは火を見るより明らかだった。
「よ、酔いすぎだよ黒瀬? しっかりしてよ。頭大丈夫? 変なトコ打ってない? さっきテーブルにガーンいった時、すごい音したけど脳震盪起こしちゃったんじゃ」
「シマ」
黒瀬は柄にもなく正座までして、膝の上の拳を握り締めていた。
「俺は本気だ。初めて会った時から好きだった」
ストレートすぎる。だが単純すぎてかえって切り返しにくい。
シンプルイズベスト、その恐ろしさをシマは味わっていた。
「初めて会った時って……」
「俺が鬼に憑かれた時だよ」
その時、一瞬シマの横顔に厳しい色が走ったけれど、黒瀬は自分の口上に全力を挙げていて気づかなかった。
「おまえは俺を正気に戻してくれた。忘れてないだろ?」
「忘れられない」
それもまた同胞の物語だったから。
「黒瀬……」
「おう」
「わたし、さっき人の指をガムみたいにくちゃくちゃしてたんだよ」
「俺だって腹減ったらそうする」
「どうしようもないバクチ狂いだよ」
「全力でサポートする」
「生意気で、人の言うこと聞かなくて、かわいくないよ」
「かわいい。すっげえかわいい。めっちゃかわいい」
シマは黙り込んだ。
「シマ、俺のこと嫌いか」
「嫌いじゃない」
「俺のこと好き……じゃないよな。
でも好きになってもらえるよう努力する」
「黒瀬」
「結婚が早いっていうなら、付き合おう。ただ俺はもうおまえ以外の誰かを好きになる気はないから、結婚しても後悔しない」
「黒瀬」
「多くは望まない。ただ俺は、俺のことを思っていてくれる人が欲しい。その人が朝、俺を起こしてくれて、テキトーに作った味噌汁と納豆ご飯が食べれれば、それで俺の心は満たされる」
「黒瀬……」
シマの目の焦点は黒瀬に合っていなかった。
どこか遠いところを見ていた。
そこにいる誰かに相談していたのかもしれない。
酔っ払い二人が、肩を助け合いながら路上を歩いている。
シマと黒瀬だった。
シマの顔も赤いけれど、黒瀬はもう一人で歩くこともおぼつかない。
これでジャッジが勤まるのか、と思われるかもしれないが、彼は自分の体内のアルコール濃度を制御できる。
だからこれは彼が好き勝手に酔っているだけなのだ。まさしく酔狂というやつだった。
だがちょっと油断しすぎたらしい。
なにが現実でなにが頭の中の出来事なのか、よくわからなくなってきてしまった。眠っているのか起きているのか、その境界線がひどく曖昧だった。
シマがなにか喋っているような気がして聞き返すが、なにも言っていないと言われてしまう。
と思ったら頬をぺちぺち叩かれて、大丈夫かと確かめられる。
いい気分だった。三日月がうっすらとした雲から顔を出し、夏の終わりの涼しげな夜風が髪をさらっていく。
「幸せだ、シマ。俺、おまえといるだけで幸せなんだ」
頭のどこか冷静な部分で、きっと明日の朝起きたら恥ずかしくて死ぬだろうな、と思った。
シマはふらふらしながらも、きちんと黒瀬を支えながら歩いていく。
「ねえ黒瀬」
「うー?」
「気が狂ったことある?」
これは夢なのかもしれない、と思った。
「ねーよ」
「わたしはね、あるよ」
「へー」
「夜中に飛び起きてさ、手当たり次第のモノを叩き壊したことある?」
黒瀬はがっはっはっはと大声で笑った。
変な夢だ。
「ある!」
「ホント?」
「うそ!」
そうしてまたがっはっはっはと笑うのだ。
そんな黒瀬に言っているのか、あるいは独り言なのか、シマは続ける。
「きっとわたしはやめられない。
勝負しないとわからないから。
自分の形、あるべき姿、そういうもの。
ねえ、気づいてる? わたし酔ってないんだよ。
お酒もクスリも気持ちよくしてくれないんだよ。
これ酔ってるフリなんだよ。わたしっていつもそうなんだよ。
ねえ黒瀬……。
わかってくれる?」
「わんわん!」
黒瀬は自分に向かって吼えてきた犬に怒鳴り返していた。
シマは顔を伏せて引きつった笑みを隠した。
「バカ……」
その夜以降、黒瀬重樹は嶋あやめに会っていない。
翌朝は路上のゴミ箱にケツが挟まった状態で起きた。自分で挟まったのか介抱が面倒になったシマに捨てられたのかは依然として謎だ。
ただわかることがひとつだけある。
「フラれた……」
「またかよ黒瀬」
同僚の一人にからかわれる。
「違うよ、今度は本気だったんだ」
「いつもそう言うよなオマエ。もうこれから恋はしないから、結婚してもへっちゃらさ――いい加減にしないと刺されるぞ」
「うるさいな、言ってる時は本気だからいいんだ。フラれた後に気が変わるんだ」
「そういうところが、おまえのモテねえ理由な気がするなァ……」
「オマエだってモテねえだろ。知ってるぜ、カガミさんの娘さんに最近ちょっかい出したろ」
同僚の顔が青ざめた。
「どうして知ってる」
「ふふふ……まァ親父さんには黙っといてやるよ。で、どこまでいったんだ」
「どうもこうもない――」同僚は苦々しそうにタバコを踏み潰した。
「口は利かない表情は変わらない。まるで人形だぜ」
「マグロだったのか」
「そういうことじゃねえ! 一も二もなく拒否られたんだよ!」
「噂の通り、ホントの冷血人形か……」
「ああ。あの女の気持ちがわかるやつがいたら会ってみたいね……」
「超能力者だぜ、きっとそいつは」
そうして二人はフゥ……と新たなタバコに火を点けるのだった。
黒瀬は思う。これでよかったのかもしれないと。
シマは誰かの側にいて添い遂げるような生き方は似合わない。
花瓶の中よりも風吹きすさぶ荒野に生えている方がいいのだろう。
自分は彼女の大地にはなれなかった。
窓の外で紅葉が散っている。
春が訪れるのは、まだ先のことだ――。
【賭博鬼食録デブシマ 完】