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自殺予告

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 最初に言っておくが、この文章は「小説」だ。「小説」なのだからこの物語は当然フィクションである。普通に小説を読むことができる読者たちならばこんなこと言われなくてもわかるだろうが、残念ながらこの文章は新都社にアップロードされる。新都社の読者たちは字が読めていると見せかけられていることが奇跡に思えるほどの文盲ぞろいだ。文脈が読めない、意図が把握できない、誤読をする、そんなことは当たり前だ。そんな糞共のために、しっかりと強調しておく。この物語はフィクションです。実在の団体・人物・サイト・その他とは一切関係がありません。わかったか能無し。能無しってのはこの文章を読んでいるそこのお前のことだよ。自覚しとけ、クズ。

 俺は「オナニーマスター黒沢」が大嫌いだ。「男装少年」が大嫌いだ。「病ん×デレラ」が大嫌いだ。全部どうしようもないくらいくだらない。なんでこんな低レベルな作品が好評を博しているのか、理解に苦しむ。この作者ども全員まとめて大きな石で頭蓋骨をかち割り、その中の脳味噌を地面にぶちまけて踏みつけたらどんなに爽快なことだろうと思う。
 それだけじゃない。俺よりたくさんコメントを貰っている文芸作家の連中全員を大いに憎んでいる。みんな秋葉で加藤に刺されて死ねばいい。
 これは嫉妬だ。強烈な嫉妬だ。魂を焦がし、身をよじるほどの嫉妬だ。こんな糞つまらない連中の作品がもてはやされていると思うと、この新都社とかいうサイト自体も憎らしくてたまらない。できることなら潰してやりたい。
 だから俺はここで「自殺予告」をする。「殺害予告」ではない。俺の嫉妬の対象全員を殺すよりも、嫉妬の大本たる自分を殺したほうが手っ取り早いと判断した。

 さて、死ぬ直前に書くのだからこの文章は遺書ということになるのだろう。遺書というのなら、俺も天邪鬼ではない、世間一般の遺書の形式にのっとって書くべきだと思うのだが、なぜ自分が死のうと思ったのかという一般的な遺書の文面において主眼とされる場合の多い部分はすでに冒頭に書いてしまった。なので、以降は俺のことを知ってもらうための文章とする。それは、多くの自殺者に共通する願いであろうと思うので。

 孤独とはまるで慢性の病気みたいなもので、普段は意識しないでいるのに、あるときふと何かのきっかけで、堪えられないほどに全身を蝕まれる。
 雑踏の中で孤独を意識することは、あまりない。
 雑踏の中ならば、自分以外にも孤独な人を見つけることができるからだ。
 あの人も孤独を連れて歩いているのね、なんて勝手なシンパシーを得たりなんかして。その人が待ち人と会って仲良く手を組んで歩いていってしまっても、それはご愛嬌。その待ち人と会うまでは、孤独であったことには違いはないのだ。
 しかし、部屋にひとりでいるときはそうもいかない。そのときは正真正銘、ひとりきりで孤独の奴と対峙しなければならない。
 俺は東京都杉並区高円寺南二丁目四十番地五十号「白川荘」一〇四号室に住んでいるのだが、四畳半で窓も小さい家賃三万五千円のボロアパートで、ただひとり孤独と対するのは、本当に耐え難いことだ。
 だから俺は、発狂しないためにある方策を考え出した。
 孤独を擬人化することにしたのだ。
 そうすれば常にひとりの現状から、常に二人に。孤独はどんなときでも(トイレに入ってても)付きまとってくるから、常時最低人数は二人。こうすることによって、孤独である限り俺は孤独ではなくなるのだ。
 そう、俺は“孤独”と“孤独”に“孤独”することにしたのだ。
 孤独は今日も俺に話しかける。
「やあ、またやってるね。絶望ごっこは楽しいかい? 嫉妬して嫉妬して嫉妬して、自分の実力なんて棚にあげて嫉妬して、嫉妬に苦しむ可哀相な自分に自分で同情して、それで何か高尚な、悩める文学青年にでもなったつもりかい?」
 そうそう、言い忘れていたが孤独の性別は男だ。
 こういう時に安易に異性の幻を作ってしまう愚者のなんと多いことよ。異性には決して心を全て打ち明けたりはできないのだ。本音で話すのなら、同姓に限る。
 いささかこいつは本音を露わにしすぎるようだが。
「うるせえな、わかってるよ。この絶望が所詮ごっこに過ぎないってことくらい。才能がないと思ったならとっとと就職でもなんでもすればいい。専門学校中退のフリーターだからといって、働き口がないわけじゃない。小説家の夢が絶たれても死ぬわけじゃない。つまり今の俺は夢って言い訳に甘えてるだけなんだってことぐらい、わかってるよ」
「ははっ、わかってるよわかってるよって夫婦喧嘩をする夫みたいだね。お前の苦労はわかるよ、お前の気持ちもわかるよ、でも、俺にだって言いたいことくらいあるんだ……本当は何もわかってやしない! 相手の意見を聞く振りしてただ自分の意見を言いたいだけだ……今並べ立てたごたく、君は一つも信じちゃいないんだろ? 嫉妬して嫉妬して嫉妬して、嫉妬している自分が醜いことをわかったつもりになって、それをわかっている俺はまだ醜くないなんて思っているんだろ? まさにその心がけこそが醜いね! たまらないよ」
 今日も“孤独”は口さがない。奴の言葉の嵐に直面すると、俺はいつも言葉を失うのだ。語るべきことがないときには引用に頼れ。小説技法の基本だ。そんな基本、聞いたことないって? 当たり前だ。俺が考えたんだから。

 死ぬるばかりの猛省と自嘲と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一連の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸けていた。
(太宰治「東京八景」)

 五十嵐が窓から飛び降りたのは、それから数週間後の話だ。
(伊勢カツラ「ラストメンヘラー」)

 いったい言葉が何者であろうか、何ほどの値打ちがあるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託すに足る真実なものが果たしてどこに有り得るのか、すべては虚妄の影だけだ。
(坂口安吾「白痴」)

 絶望はオロカ者の結論と申します
(あすなひろし「青い空を、白い雲がかけてった」)

「明日こそ、伝えきるさ!」
 明日なら、きっとなんとかなるさ!
(トリポカ「電波少女★VIPPER化計画」)

「ねえ長島……“ゆでガエル”の話って、知ってる?」
「なんだそれ」
「あのね、熱湯にカエルを放り込むと、あわてて飛び出すでしょ」
「そりゃまあ、そうかな」
「でも、水から少しずつ温度を上げていくと、気づかないでそのまま煮えちゃうんだって」
「へえ」
「あんたはそれよ」
「……キッツイなあ」
(古橋秀之「ある日、爆弾が落ちてきて」)

 溢れろ僕の涙、僕の威厳のために
(フリッパーズ・ギター「やがて鐘は鳴る」)

 僕の職業は、作家です。
(佐藤友哉「世界の終わりの終わり」)

 ……いまひとり寂しくとり残されて、
 我はたたずみ、吐息をもらし、涙し、
  自失し、そして世を去る
 鋭き痛みととめどなき悲惨の中に
(フィリップ・K・ディック「流れよわが涙、と警官は言った」)

 そうさ、俺は誰にも邪魔されず自由に
 勝手気ままにしていられるのさ
(つげ義春「山椒魚」)

 人生はたった一度かぎりだ。それゆえわれわれのどの決断が正しかったか、どの決断が誤っていたかを確認することはけっしてできない。所与の状況でたったの一度しか決断できない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三、第四の人生は与えられていないのである。
(ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」)

エクソシスト漫才より
ブラッディー 「削除シーン復活しねーの?」
フリードキン 「こんな話がある。
 画家のボナールが博物館で逮捕された。
 彼は自分の絵が気に食わなくて手直ししてたんだ。
『俺はボナールだ!作者のボナールだぞ!』
 警官は言った。
『おやめください、この絵はもう博物館のものです!』
 わかるか? もう映画は観客のものなんだ。ディレクターズカットなんか作んねーよ!」

半年後にディレクターズカット(糞)リリースしたフリードキンさん。
(2ちゃんねるのどこか)

「人生が物語(ロマン)のように明晰で論理的で脈絡があってくれればいいのに」
(ジャン=リュック・ ゴダール「気狂いピエロ」)

 思い出がいつも美しいのは、今のこの現実も、いつか思い出となって美しくなると思うためだ。
 そうでなけりゃあ、生きていようなんて思えないだろう?

「文脈も文意も無視したでたらめな引用はやめたまえよ。僕までわかっていないと思われるじゃないか。まったく、君は自分の言葉で語ることもできないのかい?」
「自分の言葉なんてあるものか。俺が語る言葉は全部、今までに見聞きしたものから来てる。俺の作品は全部、引用と、剽窃と、盗作でできている。知ってるかい? 古代ギリシャにおける詩人の自由な精神の結晶といわれたホメロスの作品は、ほぼ全てが当時の常套句で出来ていたらしいぜ。又聞きだけどな」
「やれやれだね。ところで、最後のは一体どこからの引用だい?」
「俺のオリジナルだ」
「道理で」
 孤独は肩をすくめる。
 さて、そろそろ読者の連中も俺の自分語りに飽きてきたか?
 おい、今このページを閉じようとしたそこのお前。そう、お前だよ。
 閉じようとなんかしていないって? ちらっとくらい思っただろう。なんだこの気持ち悪い文章、こんなものを読むのは苦行にも等しい、なんて思っただろ。嘘とは言わせない。
 そうはいかねえぞ。お前たちは読むんだ。この文章を。無理矢理にでも読ませてやる。その腐った脳髄に無理矢理言葉をねじ込んでやる。
 予告しておく。
 この文章の結末は、自殺を敢行する期日、場所の公開だ。俺はここで公開したことに忠実に従う。宣言したとおりの期日に、宣言したとおりの場所で自殺する。つまり、君たちには俺の自殺を目撃するチャンスがあるというわけだ。止めるチャンスもあるかもしれない。とにかく、ひとりの人間の死に立ち会うことができるというわけだ。もし俺の自殺に立ち会いたいのなら、最後まで読むことだ。
 どうだい、興味が出てきたか?
 新生児の誕生に立ち会いたいと思う気持ちと同じくらい、人の死に立ち会いたい気持ちってのはあるはずだ。
 だから君たちにはまだまだこのどうしようもない文章に付き合ってもらう。俺にはまだまだ書きたいことがあるのだから。
 そうだ、俺には書きたいことはいくらでもあるぞ。書きつくしてやりたい。だけど、すべてを書くことなんか到底できっこない。そんなことをするには一生涯にも匹敵する時間が必要だ。だから、諦める。すべてを書くことは諦める。その代わり、すべてではない何かを書くことにしよう。

 文章講座を書きます。
 文を書くってことは料理を作るようなものだ。はじめにレシピを用意して、あるいは用意せずに、冷蔵庫から食材を取り出して、調理を始める。冷蔵庫ってのはつまり自分の経験か、あるいは他人の経験だ。見たこと聞いたこと考えたこと読んだこと教わったこと。食材を調理する腕は人それぞれ。とても手早く、それも綺麗に調理していく人もいるし、のたのたゆっくりと、丁寧にやる人もいる。これが男の料理だ! なんていって鍋に材料をどうみても適当にどかどか放り込む人もいるかもね。料理には不測の事態が付き物だ。手が滑って材料を落とした、手元が狂って指を切った。電話がかかってきて焦がしてしまった、などなど。さて、完成した料理を味見する人もいれば味見しない人もいる。味見をしない人は、味なんて見なくてもわかると決まって言うけれど、さて来客はどんな反応をするだろうね? 当然その反応を見る人も見ない人もいる。
 お料理文章講座おしまい。
「なんともまあ、よくもこんな酷いたとえができたもんだ。何一つぴったりくるものがないじゃないか。ある意味芸術だね」
「俺は芸術家だからな」

 恋愛小説を書きます。
「はぁはぁ、転向初日に遅刻しちゃうなんて、サイアクだよー!」
 トーストを加えて駆ける制服の少女がいる。
 彼女が曲がり角に差し掛かったとき……
「やっべぇ遅刻遅刻――」
 どーん!
「きゃっ」
「うわっ」
 パンツが見えてる。
「うわ、ちょっともう、何見てんのよ!」
「痛え! この野郎!」
 喧々轟々、噛み付きかねない剣幕で両者罵りあいにらみ合い、だけど登校の時限は迫っているので惜しみながらも二人は分かれて走り出すのです。
 そうして分かれたとき、彼女は気づくのだ。どこか胸の奥に、得体の知れぬ温かい感情と、名残を惜しむとげみたいなものが芽生えていたことに。
 彼も気づく。
 そのとき二人は恋に落ちたのかもしれない……しかし、恋なんてものは所詮は錯覚、愛は錯誤、恋愛なんてとどのつまりは錯乱にすぎないわけで、ああ、ぼくはわたしはなぜあの人にこんなにも心苦しめてしまうのだろうといわれても、そんなこたぁてめぇのちんこまんこに聞いてみりゃ話が早い、勃った濡れた以外の答えがあるはずもないのであって、もしも本当の愛なんてものがあるとしたら、それは性欲のことなのです。
 それ以外の俗に恋愛感情といわれる心の様々は全部言ってみれば妄想の類、誰かが考え出したフェティシズム、イズムは主義、つまりはイデオロギーに過ぎないわけで、自分でひねり出した妄想で脳内麻薬をどばどば出してるオナニー状態、けれどそもそも「恋愛」なるものの起源自体が中世ヨーロッパ、イスラム流の恋愛詩にかぶれた騎士連中が編み出したオナニー法のようなものなので、別に不思議なことではありません。中世の騎士たちはイスラム伝来の愛の詩を読んで、愛とは届かないからこそ価値があるなどと誤解して、積極的に手の届かない女性=領主の妻や修道女なんかに恋したわけです。本末転倒です。しかしこの本末転倒こそが今日まで続く恋愛観の一部を形作っているのもまた事実です。
 ちなみに冒頭の女の子はぶつかって転んだ時に膝擦り剥いて、破傷風になって死にました。男の方は女の子を失った喪失感から首を吊って死にました。悲劇です。読者は泣きました。悲しい小説ですね。書店員さんに全米が泣いたってPOPを作って陳列してもらいましょう。
 恋愛小説終わり。

「素晴らしいね。恋愛どころか小説の意味すら履き違えている。形式の問題じゃないよ、理念の問題だ。小説ってのは伝えるものだ。伝えてはじめて価値があるんだ。宮沢賢治も言ってたろう、読者の方々の眼に触れるまでは、この文章もインクの染みにすぎません、って。いささかうろ覚えだがね。わかるかい。君の小説には読者がいない。読者がいない小説ってのは小説とは呼べない。紙ゴミさ。ただ君は文章によって何かを攻撃したいだけだ。そうして敵を作って、心の安定を図りたいだけだ。君の文章は自分のために書かれているんだ。私小説の形式だけを冒涜的に濫用した結果だ」
「それでも、俺は小説を書くんだ。書きたいんだ」
「小説……ねえ。僕にはどうも、今まで君が書いてきた駄文の中に小説と呼べるような代物はなかったような気がするんだけど。「おひとり様の時間」これはまぁまだマシだ。少なくとも小説にしようとした意図は見える。でも、それだけだ。意図が意図で終わってちゃ駄目だよ。作者の意図ってのは読者に伝わってはじめて、だ。君はこの作品で何を伝えたかったのかちゃんと答えられるかい? 一瞬で即答できないのなら、それはもう独りよがり、オナニーだよ。「魔法少女」パスだ。そもそも読むに値しない。文章とすら呼べない。文章ってのは構成ああるものだからね。だけどこれにはそんなものはない。ただ生のままの情念を気ままに書き散らしただけだ。勢いといえば聞こえはいいが、実際にはじゃがいもを生のまま賓客に提供するようなもんだ。失礼なんだよ。他は――もう言うまでもないね。これで一端のウェブ作家気取りだっていうんだから笑えるね。腹が捩れるようだ。こんなに笑えるなら君、お笑い芸人って名乗ったほうがいいんじゃないかな? それにしては芸に工夫がないけどね」
「これからさ!」
「そらきた、未来の話だ。君は苦しくなるといつもそれだ。何か勘違いしているようだから言っておくけどね、いいかい、未来は君の思うような可能性で満ち溢れていたりなんかしない。可能性ってのはそうなるであろうことがらのことだ。ありえないことは可能性とは言わない。未来は単に未確定なだけだ。なるようになる、とも云えないが、ならないようになったりはしない。滝は突然逆流を始めたりはしないし、空の雲は落ちてこない。そういうことなんだよ。収まるべきところに収まるのさ」
「なら、未来を変えてやる」
「未来を変えるだって? なんて幸せなおつむをしているのだろう! 未来はそもそもが川の流れのように変わり続けていくもの、我々はその中をただ押し流され、時には岸へ近寄ったり遠ざかったりしながら、それでも川下のほうへ向かっていくだけ。そしていつ力尽きて沈んでしまうとも限らない。ここで終わりなんて地点はどこにもないのさ」
「それなら、いますぐにでも終わらしてやるよ」
 そしてようやく“孤独”は満足したようににっこりと笑った。俺は、ここにいたってやっと、彼の笑顔が好きだったことに気づいた。

 俺は十二月三十一日大晦日、JR高円寺駅のホームから、十二時三十三分通過の中央特快東京行きに飛び込む。タイトルには自殺予告とつけたが、正確に言えばこの文章は自殺予告ではない。心中予告である。
 俺は心中する。たった一人、“孤独”と心中する。俺が唯一愛した者と。そしてこの文章は遺書として新都社に残り続け、永遠にお前たちクズ共によって読まれ蔑まれ笑われ続けるだろう。

 それが俺の本望である。

 それではさよなら、グッド・バイ。
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