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十話目「旅の楽士」

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 目を覚ますと頭上には藍色の空が見えた。東の空は白み始めていて、夜明けが始まろうとしている。暁は哀愁をもたらす夕焼けとは違い、これから一日が、そして何かが始まるという希望を与えてくれる。
 服は朝露で濡れていた。空気はひんやりと冷たい。体を起こすと草が風で波打っている。広大な海の只中に寝そべっているような錯覚を覚えた。
 朝の風景を眺めているうちに、昨晩の夢が蘇る。一部は忘れてしまったけれど、ミアの声、帝都の光景、謎の女性。そのどれが現実で、どれが夢なのかは分からない。しかし、やはり帝都に記憶の鍵はあるようだ。
 ひとまず帝都で、自分の記憶を探そう。取り戻したその記憶が本当に忌まわしく、あえて魔術で消したものだとしたら、再び忘却の魔術を使える人を探し、消してもらおう。そうしてまた旅に出よう……。
 そこまで考えて、思いついた。ぼくはもしや、何度かこの仮定を繰り返しているのではないだろうか。自己の記憶を取り戻す旅を続け、そして取り戻した記憶に押しつぶされそうになり、再びそれを消す――カスガさんが言った、五十年前の〈紅竜の目〉の日からそれを繰り返しているとしたら――
 いや、それはないだろう、とぼくは頭を振った。五十歳を過ぎてなおこの外見? どう見てもぼくはまだ十代後半といったところだ。だけどもし、そういう魔術があったとしたら? 老いざる体を手に入れる魔術だ。仮にそうだとしたら、ずいぶん妙な人生もあったものだ。
 まずは、あの女性を探そう。凍てつく笑みを浮かべたあの人物を。どうやら魔女と思われる――しかし、アキウやカスガさんの、ともし火のような魔力を宿した目とは違う、氷のようなまなざしだった。
 ふと横を見ると、ミアはまだ目を閉じて寝息を立てている。
 彼女もずっと、ぼくとともに彷徨い続けているのだろうか。ぼくらの関係は、結局何なんだろう――いや、今のところは旅の相棒でかまわない。ぼくはそう思った。
 しかし本当に、この顔が五十を過ぎた人間のものだとしたら、驚くべき魔術だ。どんな若作りも足元に及ばない。相当良い商売になりそうだな、と思ってぼくはミアの顔を見つめていた。
 すると彼女が目を覚ました。しばらく見詰め合ってから、ぼくが言った。
「おはよう」

 ぼくらは車が通るのを待った。
 昇ってきた太陽で服が乾いたころ、一台の車が通りかかり、〈沙歩〉の町まで乗せてくれた。街道を進むにつれて草はなくなり、ごつごつした荒野へと変わっていく。ウガンが湿りの町だったのに対し、サホはひどく乾いた町のようだ。隣の町なのに気候がそれほどまで違うとはどうも不自然だ。この〈帝国〉の大自然には、やはり何かが干渉しているらしかった。
 やがて太陽が空の天辺に昇るころ、地平線の先に石造りの町が見えてきた。家々の壁面は白く灼け、陽炎が町全体を包んでいる。
 乗せてくれたおやじさんに例を言って降りると、砂混じりの風がぼくらに吹き付けた。外套や帽子に身を包んだ人々が辺りを行き交っている。この砂風から身を守るためだろう。ぼくは飛んでくる砂礫にうんざりし、早々に安宿を探して入った。
「この辺りでそろそろ、新しい服を買ったほうが良いかもしれないね。この服じゃ暑すぎる」上着の砂を掃いながらぼくは言った。「荷物が増えるのは望むところじゃないけどね」
 ぼくらは町へ行き、鞄と新しい衣服を買った。ついでに干し肉など保存の効く食料と水も。それから一応、銃を買おうかと思ったけれど高かったのでやめた。
 帽子と黒い外套に着替えたぼくは、我ながら〈旅人〉らしい格好だと思った。日光を防ぎ、風通しは良い。
 ここから西には荒野が広がっていると、雑貨屋の店主が教えてくれた。横断鉄道とバスが荒野の向こうの〈アイレン〉という町まで続いているらしい。僕は今日この町へ宿泊し、明日の朝発つことに決めた。

 サホの町を歩くと、意外にも草木が多く生い茂っていた。町のあちこちに井戸があり、水路が張り巡らされている。防風林のおかげで、町の中にはあの砂風も来ない。
 石壁に沿って路地を行くと、水の流れる音に混じって音楽が聞こえてきた。
 弦楽器の音色に乗った、どこか寂しげな、それでいて懐かしい歌だ。

〈あの日誰かが口ずさんだ
 音色は風に乗り
 今も砂漠の只中を
 彷徨い続けている……〉

 石作りのアーチをくぐると、一人の楽士が地べたに座り、歌っていた。彼の着ている、ぼろぼろに色あせた外套を見て、自分なんてまだ〈旅人〉の端くれだな、とぼくは思った。
 一匹のぶち猫が彼の前に寝そべっている。歌を聴いているのか、あるいはただ休んでいるだけなのか。

〈記憶の彼方に沈み行く
 赤い月の下
 僕が見上げるその空へ
 君は飛んでゆく……〉

 赤い月――楽器をかきならし彼が歌う言葉は、偶然だろうけど、どこかぼくの過去とつながっているようだ……。
 曲が終わると、ぼくは拍手をした。楽士は頭を下げてにこりと笑う。
「ありがとう。客がこいつだけじゃ、じゃっかん寂しかったものでね」と、猫の腹を撫でながら彼は言った。
「いい曲でした。その楽器は初めて見るのですけど、どこのものですか」
「こいつかい?」彼は、弦楽器を見せてくれた。林檎の種を半分に割ったような形で、糸巻きが八つ付いていた。弦は四対あり、二本同時に弾くようになっているらしい。
「西方の国のものだ。〈ブゥズキ〉、とか言うそうだよ」
「今の曲はあなたが作ったものですか」
「ああ。僕は町ごとに歌を作るんだ。今のはここに来るとき、砂漠の中で浮かんだ曲さ。さっきここで詞をつけたってわけ。ぱっと頭に浮かんでくるんだ――誰かの意思が飛び込んでくるみたいに」
 ぼくは自分の記憶と歌詞が、少しばかり合っていたことを伝える。すると彼は頷いて、
「じゃあ、君の記憶が僕の中に入ってきたんだろう。そして歌に乗り、君をここに引き寄せたんだ。歌っているとよく、そういうことがあるのさ」
 どうやら彼はイツと同じく、魔術的な才能を持っているらしかった。
「ああ、僕はクラマっていうんだ」彼は帽子を取って挨拶した。髪はぼさぼさの赤毛だった。「まあ見ての通り、旅の楽士って感じさ。ふらふらと風の向くまま彷徨っている。今は帝都からアイレンを通ってここへ来たところさ。何度行っても帝都には驚かされる。あそこにいると後から後から、音楽が湧き出して止まらないんだ」
 ぼくは彼から帝都の話を聞くことにした。
「あの場所には国じゅうの全てが集まってくる。人間もね。この国の人間はみんな、生まれた場所から出ようとしないんだ――僕のような、流れ者の楽士や魔術師なんかは別だけど、だいたい町から出ずに一生を終える。だけどそんな人たちも、あの都にだけは行きたがるんだ」
「それはやはり、多くのものがあるからですか?」
「それもある。だけどやっぱり〈タイジュ〉のせいだろうね」
「タイジュ?」どういう字を当てればいいか分からず、聞き返すと、
「大きな呪文。あるいは大きな呪い。それで〈大呪〉。誰がかけたのかも分からない壮大な魔術。世界そのものに大してかかっていると言ってもいいね。それは何十年、何百年、いやこの国ができた、千年前からかかっているかも知れない。例えばこの乾燥地帯。あるいは東のウガンなんかもそうだ――帝都の周りのあちこちに、そうした場所が存在している。住んでいる人は、あまりその奇妙さを意識していないけどね」
 やはりあの豪雨は魔術のせいだったのか。
「帝都にもそういう〈大呪〉がかかっていて、国中のものが集まり、循環しているんだ。人間で言うとここさ」クラマさんは自分の心臓を指差した。「きっと人の〈魂〉そのものが引き寄せられているんだろう。だからあれほどまでに拡大を続けていられるんだ」
 人間の魂。ぼくは不意に思い出した。平原で見た夢の中の女性が言っていたことを。
 魂は消えない――君の中にも魂が――
「どうかしたのかい?」
 クラマさんがそう尋ねる。ぼくは首を振って、
「いえ、何でもありません。それよりもっと、帝都について話してくれませんか。あるいはその〈大呪〉について……」
「そうかい。じゃあ、これは噂だけど――テンマ財閥は〈大呪〉を制御することが可能らしい」
「それは」ぼくはカスガさんから聞いた情報を思い出し、言う。「機械による魔術の制御技術を使って、ですか」
「いいや。もとから可能だったのさ。つまりだ。〈大呪〉をかけたのがテンマの人間じゃないか、ということさ。もっと言うと、テンマ公爵の血族――つまりは皇族、もしかすると初代皇帝が建国時に、国にかけた。そういう話だ」
 テンマとは皇帝と繋がる一族なのか。だからこの国一番の大財閥として存在していられるというわけか。
 いや、それよりも。一人の人間が本当に、世界を歪ませるほどの魔術を使えるのだろうか。
「ありえないとは言い切れないんじゃないかな。初代皇帝は〈竜〉と渡り合うほどの魔術を使えたそうだ。だからこそ、この帝国を築くことができたんだ。それに、その末裔である現皇帝もテンマ公爵も、何十年も前から歳を取っていないという話さ。そんな彼らなら世界に魔術をかけることくらい、たやすいのかも知れないよ」
 歳を取らない――その話を聞いて、ぼくは自分自身のことを考えずにはいられなかった。しかし貴族、皇族という柄だろうか、このぼくが。
「歳を取らないなんて」ぼくは内心の困惑を振り払い、尋ねた。「そんなことが本当にあるんですか?」
「この目で見たわけじゃないからね。陛下もテンマ公も、滅多に人前には姿を見せないし」
「なるほど……ほかに何か、帝都についての噂はありますか?」
「そうだね、テンマが〈天使〉を作ろうとしている、っていう噂かな」
「天使?」リュウズの町で入った見世物小屋――ぼくの脳裏にそれが浮かんだ。
「ああ。体ひとつで空を飛ぶ人間、それを作るのが目的らしい。この前の研究所での事件は、なんでもその試作品を狙った泥棒が起こしたものだって噂さ。どっかの企業が雇ったって話もある」
 なるほど。その隙に乗じてイチナは逃げ出したのだろう。そしてアサカさんと交戦し、リザまで逃亡したというわけか。
「それから……こっちはもっと信憑性がない、なかば都市伝説だな。帝都にはいくつもこういう噂があるんだけど。テンマ本社の地下には巨大な縦穴があって、その底には何か恐ろしいものが眠っているらしい」
「恐ろしいもの?」
「それが何かは知らないけど。まあ、こんなところかな。くだらない話なら、まだいくらでもあるけどね。音楽を聴きに来た人がいろいろ教えてくれたんだ――人間の顔をした犬の話とか、テンマの実験体が下水道をさまよっているとかね。じゃあそろそろ、僕はおいとましようか。ここからずっと東を目指して行こうと思うんだ……ああ、そうだ君たち。アイレンに行くのなら一つ気を付けたほうがいい……満月の夜は、外で音を出しちゃ駄目だ。月が君を襲ってくるよ」
 そんな一言を付け加えてクラマさんは歩いていった。
 その後姿はやはり、〈旅人〉のものだった。



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