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九話目「街道の夜」

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 カスガさんと別れたぼくらは、ウガンの外れに向かって進んでいた。ここからは、電車ではなく歩きで隣の町まで行くつもりだった。
 なぜかというと、まず一つ目の理由は、電車賃を節約するためだった。手持ちの旅費はまだかなり残っている。しかし予期せぬ出資やスリの心配、そして現在収入のないぼくたちの状況を考えると、節約するに越したことはない。
 二つ目の理由は――こちらが主だ――少しゆっくり、移動をしてみたくなったから。歩くということは、辺りの「世界」と密接に触れることだとぼくは思う。車や電車では素通りしてしまう情報を、多く取り入れることができる。一度、町だけでなく、その間の街道を歩いてみたかった。夜になったり疲れてしまったら、通りがかりの車に乗せてもらえば良い。

 ウガンの通りをゆくと、雨は次第に弱まってきた。しかし背後を振り向けば、依然灰色の重い雲が町に覆いかぶさっている。常に晴れることのない中心部から外側へ進むに連れて、雨はだいぶ弱まっていた。駅前ではなかなか見られなかった町の人たちも、徐々に増えている。
 ぼくらは地下街へ入った。ところどころ天井から水漏れしている。中には商店が並び、夕飯の買い物だろうか、主婦らしき人が何人かいた。中心地で感じた退廃的な雰囲気は、大分薄れている。案内板を見て、迷わないように慎重に進んだ。
 少し進んで空腹を感じたぼくらは、近くにあった食堂に入った。
 何人かが隅の机で酒を飲っている。注文を済ますとぼくは、隣にいた髪の長い男性に話しかけた。もう食事を終えようか、というところだ。
「地元の方ですか? あの、ぼくらは旅をしている最中なんですけど」
「ああ。こんな町に、よく来たね」
 笑って彼は、カスガさんと同じことを言った。
「ええ、もの好きなもので。駅の辺りはぜんぜん人がいませんでしたけど、ここはそうでもないですね」
「そうだな。あの辺りは、雨が多いし、年寄りばかり住んでるからな。外からの客もお前さんたちのような、〈もの好き〉くらいしか来ないからな。まあ、この町で繁盛してるのは傘屋くらいだな」
 ぼくが、歩いて隣の町まで行くつもりだと言うと、
「サホまでか? けっこう遠いぜ。ちょっとした冒険だな。今から行くと途中で夜になっちまうかもな。まあ、疲れたら拾ってもらえばいい。車はあまり通らないだろうけど、しばらく待てば大丈夫だろう。だがあの街道には何もないぜ」
「それでもいいんです。道がそこにあるのなら、歩いてみたいとぼくは思うんです」
「その冒険心、殊勝なこったな」彼は笑った。半ば呆れていたのか、あるいは本当に感心していたのかは分からないけれど。
「ま、この地下街をまっすぐ抜ければ、雨が降ってない町の外れまで行ける。ああそうだ、その傘売ってくれないか? これから駅まで行かなきゃならないんだが、手持ちのがこれでな」彼は傍らの、骨がやや曲がっている傘を見せた。「完全にぶっ壊れるまで新品は買わない主義でな。貧乏だからよ」
 ぼくは買ったばかりの大きな黒い傘を、男性に無料で譲った。捨てようかと思っていたものだから、かまわない。
「どうもな。じゃ、冒険がんばりな」と言って彼は店を出て行った。

 地下街を出ると、なるほど、空は薄曇りだけど雨は降っていなかった。背後を振り返ると、灰色の重たい雲と、降り止まぬ雨の柱が見えた。
 そのまま進んで町の端に流れる川を渡ると、そこはどこまでも広がる草原だった。
 ぼくらの進む道が地平の向こうに続く。それに沿って電柱が立ち並んでいるほかは、なるほど確かに何もなかった。ときどき、数台の車が砂煙を上げて走っていく。
 ぼくらは辺りの風に揺れる草や、広大な空を見ながらぼんやりと歩いた。
 ウガンの町が見えなくなるころに日が暮れた。茜色の光が空と草原とぼくらを染める。ほどなくして夜の闇が辺りを包んだ。空はウガンとは、うって変わって雲ひとつなく、月が明るく平原を照らしていた。
 次第に、脚が痛くなってきたので、街道から少し離れた場所へ行き、そこで横になった。
 日が落ちてから、通りがかる車はなくなった。このまま誰も来ないのなら、ここで野宿するしかなさそうだ。
 しかしそれも悪くないかも知れない。虫の声だけが鳴り響く、月下の草原。なかなかの贅沢じゃないだろうか。気温もそれなりにあり、風邪をひく心配はなさそうだ。
 視界いっぱいに、宝石のような星が輝いている。幸福とは、こんなちっぽけなもので良いのではないだろうか。そう、ぼくは思った。美しい場所が世界の中に存在しており、その一部として自分がいる。それは奇跡と言っても良いだろう――今宵はなんだか、哲学的なことを考えてしまうようだ。まあ、いつもそうか。
 ミアを見ると、すでに目を閉じている。ぼくもそろそろ眠ろうか。それとも、この星空をもっと見ていようか。
 どちらか決めあぐねているうちに、ぼくはまどろみの中に落ちていった。

 声がした。
「セン」
 ミアの声だ。
 ぼんやりと、くぐもっている。
 ぼくは目を開けず、聞いている。
「記憶を取り戻したい?」
 ああ、どうだろう。いつかは、取り戻さなくてはならないものかも知れない。それがいつかは、分からないけれど。
「それがセンにとって、幸せなこと?」
 さあ、分からない。自分が誰か分からないのも、案外悪くはないものだとぼくは思う。そうして漂っていることも、嫌いじゃない。だけどいつかぼくは、それを知りたくなるのかも。
「それが悪いことだとは思わない? 失った記憶が、センにとって忌まわしいものだと」
 忌まわしいもの? もしかしたら、そうかも知れない。だけど、忘れてしまったのだから分からないよ。
「それが忌まわしいものだから、センの頭の中から消したのかもしれない……〈誰か〉が」
 〈誰か〉か。それはいったい、どこの誰か――
 ――今さらながら、ぼくは気づいた。ミアがこれだけ多くの言葉を話すのは始めてだ。
 だから、きっとこれは夢だろう。あるいは……ミアではない別の人間が喋っている……誰が?
「……あなたがもし帝都であの人に会うのなら……わたしは…………」
 彼女の声が薄れていく……ぼくは眠りの中に再び落ちていった……

 月が赤く染まっている。
 その下に立ち並ぶ、天を突く建物。
 鉄でできた都が、どこまでも広がっている……上へ上へ、外へ外へと。世界のすべてを、覆い尽くすかのように。
 別の記憶が浮かぶ……新聞の文字が見える……〈首切り魔現れる〉……そうだ……何者かが、人間の首を夜な夜な切って持ち去っている……なんに使うというのだろう……誰かが言った「ぼくは彼を捕まえなくてはならない……それがぼくの使命だからね……」
 草木が茂る屋敷の中庭……咲き乱れる薔薇の生垣の前、立っているのは……長い髪の女の子だ……顔がよく見えないけれど……彼女がぼくに微笑み、何かを言っている……声は聞こえない……
 ……桜の木の前にぼくはいる……ぼくはどこにいたのだろう。ミアと電車に乗る前ぼくは何をしていた……桜の花びらは風に舞いぼくを包む……
 暗い部屋の中、誰かの声がする……女の人の声だ……高いガラス張りの天井から、赤い月が覗く……
 ……見たまえ、美しいだろう。竜の目だ。かつてこの地をを支配していたのは竜たちだよ……今はもういない……だが竜の魂はああして灯り続けている……そう、死んでも魂は消えない。人間だってそう……君の中にも……の魂が……
 ……赤い光に照らされるその顔は、ぞっとするほど冷たく、そして美しい女性のものだった。


9

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