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八話目「雨の町」

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 ぼくらが乗った電車は、ウガンへと近づいていく。雨ばかり降る場所と聞き、しとしとと、小雨がいつまでも続くような光景を想像していたのだが、実際は異なっていた。
 町が平原の向こうに見えてきたとき、ぼくは呆然とした。立ち並ぶ灰色の建物群の上に、ぽっかりと灰色の雲が浮かび、豪雨の柱が町に向かって降り注いでいる。まるで空に開いた穴から、水が流れ落ちているかのようだ。
 町の中心地から離れると次第に雲は薄くなっていき、雨も小降りになっているらしかった。しかし、ぼくらはまさにこれから、最も雨勢の強い所へ突入しようとしているのだ。
 電車が雨と晴れの境目に進入すると、途端に百万の小石が屋根に降り注ぐような音が、ぼくらを襲った。ぼくはため息をつき、ミアに言った。
「この町じゃ、天気予報を気にする必要はなさそうだね」
 ウガン中心地に進むにつれて、雨はやはり強くなっていった。
 それにしても、この降り方は普通じゃない。まれに牛の背を分けるほど、くっきりと晴れと雨の境が存在している場合もあるそうだ。しかしこの町は〈雨の町〉と呼ばれている以上、もう何年もこうして雨が降り続いている。いや、もしかすると何十、何百年も前からこうだったのかも知れない。
 ひょっとすると、何かの魔術のせいではないだろうか。例えばこうだ。ひでりが続き、町に住む魔術師――あるいは住民が雇った魔術師――が降雨の魔術を使ったところ、それが失敗し、過剰に雨を降らせてしまった。
 しかし、その場合でも、何十年にも渡って空が曇り続け、止まない雨が降り注ぐ、ということがあるのだろうか。ぼくは魔術について詳しくは知らない。だけど一人の力では、到底無理だろうと推測はできる。何人か、あるいは何十人かの魔術師が力を合わせても、果たして可能だろうか。いずれにしても、こうして放置している以上、解くことは困難なのだろう。きっとこの先もずっと、ここは〈雨の町〉であり続けるのだ。

 やがて着いた駅舎は、空と同じ鉛色の大きな建物だった。電車を降りたのは、ぼくらだけのようだ。だだっ広い駅構内には傘屋がいくつかあった。
 「あんな町に行くなんてモノ好きだな」というイチナの台詞を思い出す。確かに、これほど豪雨が降り注ぐと知っていたなら、ぼくもここを訪れようと思わなかったかもしれない。
「これもまた、旅の醍醐味かな」
 そう口に出してみるも、外に降る滝のような雨を見るとため息しか出ない。
 厳密に言うとぼくは濡れるのが嫌なんじゃない。濡れた服なり髪なりを乾かすのが面倒なんだ。
 さてどうしようか――駅の入り口で少し考えていたけれど、ぼくは意を決して、駅構内の傘屋で大きな傘を買った。店主はひどく顔色が悪く、ずっとうつむいていた。態度が悪くても、客には困らないに違いない。

 僕らは家々の軒下を、傘をさして進んで行った。濡れないようにしていても、足元で跳ねる水は防げない。
 雨もやに包まれた道に、ひと気は無い。町全体が鉛色に塗りつぶされている――地面も、建物も、空も、町そのものも。その色とじめじめした湿気が体と心の中にまで入り込んできそうな、そんな場所。しかし、実際進んで見ると、この町がそれほど嫌というわけではなかった。この淋しげな風景――退廃的〈デカダンス〉と言おうか――は額に収め飾っておきたいほどだ。まるで絵のようで、そして自分もその一部として存在している――そんな錯覚さえ与える場所が、ぼくは好きだ。もっともここはちょっとばかり、歩き辛いけれど……

 しばらく中心地から歩くと、徐々にだけど雨は弱まってきたようだ。このまま進めば小降りになっていくだろう。
 道の端にバスの停留所があった。屋根と壁だけの簡素なものだけれど、休憩には足りる。
「ちょっと休んでいこうか」
 声をかけるとミアは無言で頷いた。
 近づいて、ぼくは先客がいることに気づいた。黒いコートに、帽子を深くかぶっている女性。彼女はぼくらを認めると席を詰めてくれた。
「外から来た方ですか?」と、彼女。
 ぼくはリザから来たと答える。
「珍しいですね。この町にやって来るなんて」
「はい。知り合いにも、もの好きって言われました。しかしすごいですね、ここは。常にこうなんですか」
「そうです。駅の辺りはもっと雨が強かったでしょう。この辺りは大分、ましというところですね。ときどき、小降りにもなりますしね」
「なるほど。これは、もちろん自然のものではないですよね。魔術か何かですか」
「おそらくそうでしょうが、定かではありません。聞いた話では、この町ができた当時からこうして、雨が降り続いているようです。……ああ、申し遅れました。わたくしはカスガと言います……流れの魔女です」
 彼女は帽子を取って、会釈する。黒色の瞳だ。アキウと会ったときもなんとなく感じたけれど、魔女の目の中には、灯りがともっているような気がする。嫌な感じではないし、ごく弱い気配だ。だけど、確かに何かの力が存在している……ぼくが人見知りなだけだろうか。あるいは、これが魔力というものだろうか。ともかく、こちらも自己紹介する。
「ぼくはセン、こっちはミアです。カスガさんは、どういう魔術が使えるんですか」
 いきなりこの質問は不躾だったかも知れない、と言ってから思った。魔女に対しそうしたことを問うのは、楽士に対し得意な曲を尋ねるようなものなのか。あるいは、女性に年齢を聞くようなものなのか。どちらかは未だに分からないけれど、カスガさんは嫌な顔をせず、答えてくれた。
「見えないものが見えるのがわたくしの力です。例えばこの雨の空には魚が泳いでいますね……雄大な赤い、硝子でできたような魚。一匹ではなく何匹も……」
 と言って、夢でも見るようにぼんやりと、彼女は空を仰いだ。
 ぼくには、灰色の重い雲が見えるのみだ。
「それはすばらしい。ぼくも、リザで酔ったとき見えたものがありましたよ。丁度そのような……」
 と声をかけても、カスガさんは反応しない。依然空を見ているのみだ。
「どうしたものかな」
 ぼくはミアに言うが、彼女は首を捻るだけだ。しばらく待つしかなさそうだ。

 数十分後、カスガさんは「戻って」来た。
 こちらを見て、「失礼。わたくしとしたことが」
「ずいぶん多くのものが、見えたようですね」
「ええ。一度何かのきっかけで見始めると、次々に現れてきます。この世界と重なるようにして、透明の世界がもうひとつ存在しているのです。触れることはできないけれど、わたくしはそれを見ることができます。輪郭が現れ、次いで色が現れ……一度そちらの世界へ行くと、しばらく帰って来れなくなってしまうのです。いつの日か、永久に行ったままになるかも知れません」
 それはいささか恐ろしいことに思われた。しかし、彼女はそうは捉えていないようで、にこやかに話す。
「そう言えばセン君。あなたは」カスガさんが言った。「妙な感じがしますね……なにやら、魔術がかかっていませんか。それもどうやら、普通のものではないような……詳しくは分かりませんが……」
 やはり、ぼくの記憶がないのは魔術の仕業だ、という憶測が当たっていたようだ。
「ああ。それなら前に、ある蝶売りの人にかけてもらった魔術でしょう。何でも〈縁〉をつなぐとか……」
 ぼくはそう言ってごまかそうとした。カスガさんはどうやら、信じてくれたらしい。
「なるほど。それはおもしろい魔術ですね。……ときに、お二人はこれからどちらへ?」
「帝都へ向かうつもりです。この国で一番の都市に。カスガさんは、行ったことがありますか」
「はい。わたくしは帝都の生まれですので。八つのときに引っ越してしまいましたが」
「そうなんですか。どういう場所でした、帝都は」
 ぼくが問うと彼女は、半ば見た夢を語るような調子で話し始めた。
「まるで要塞のような場所、と言ったらいいでしょうか。鉄でできた、巨大な機械仕掛けの都です。わたくしが住んでいたのは帝都の端の方ですが、それでも何層にも連なる大都市でした。あの町はずっと昔から成長を続けています。きっと今はわたくしがいた頃より、さらに広大になっているでしょう」
 そう言われてぼくの頭には、リザを何倍にも複雑にしたもの、という印象が沸いた。ひどく迷ってしまいそうだ。
 次にぼくは、テンマ財閥のことを聞こうと思った。アキウに「世間知らず」扱いされたのが若干悔しかったのと、今後旅をする中で支障をきたさないために。
「テンマの本社も帝都にあるそうですが」
「はい。中枢部に宮殿とともにあるといいますが、行ったことはないです。そこに入れる人は限られますからね」
 宮殿。そうだ。ぼくはこの国の皇帝のことすら知らない。国の起こりすら知らないのだ。これほど重大なものごとが消失しているとなると、ぼくにかけられたらしい魔術は、相当強固なものだろう。まるでこの雨の町にかけられた魔術のように。

 それから、カスガさんはぼくに、帝都やテンマの話をさらにしてくれた。
 この巨大財閥は魔術の研究を盛んに行っているらしい。帝都では規格化された魔術を、人間に埋め込んだりしているそうだ。そうしてテンマの警備隊は強化されているという。近年では、機械による魔術の制御技術をも確立しているらしい。
 帝都はどこまでも広がり続けているそうだ。いずれこの国の全土が、機械仕掛けの都市に覆われるかも知れない。
 少し前にあったテンマ本社での騒ぎは、情報が錯綜しているため事実は定かではないが、研究所で起こった何らかの事故らしい。やはりイチナが何か関係しているのだろうか。

「おや。雨が少し止んできましたね」
 カスガさんが言ったので見ると、確かに雨は小降りになり、空も少し明るくなったようだ。
「では、この辺りでわたくしは失礼します」
「どうもありがとうございました。ああ、それからカスガさん、あと一つだけ」ぼくは記憶の中にあった一つの風景を、彼女に尋ねた。「帝都では月が赤くなることがありますよね。それが前にあったのはいつですか? ぼくはそのとき、帝都にいたはずなんですが」
 すると彼女はやや怪訝な顔をして、
「セン君、君が何歳か分かりませんが、それはないですよ。なぜなら、月の赤くなる〈紅竜の目〉の日が最後にあったのは……五十年前ですから。きっと思い違いでしょう」
 何だって? どういうことだろう。自分の年齢なんて覚えてないけれど、ぼくは当然、五十歳を超えてなどいないだろう。あの記憶は、誤りなのだろうか。いつの日か見た夢を、実際に見たものだと勘違いしているだけなのか。
 思案にふけるぼくを他所に、カスガさんは空を見やる。また何かを〈見た〉らしい。
「では失礼……あの大きな魚が、逃げてしまうので……」
 そう言うと幻視の魔女は、雨の中に消えていった。


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