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十二話目「幻想月」

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「満月? おたくら満月を見に来たのか」イツが紙煙草をふかしながら言った。「そいつは、なかなか危ないぜ。現に何人も消えてるんだよ、満月の日にさ。なぜかって言えばあれには呪いがかかってるわけ。ずっと昔からな」
「〈大呪〉……」ぼくはつぶやく。
「そう。そういう危険物が頭の上に乗っかってるわけだ。ここに住んでるやつらはそんなの、気にもしねえが。まあ、誰が損するってわけでもねえからな、満月を見てどっかの好事家がくたばってもさ……。だからここのやつらも、あんたらを無理には止めないだろうし、オレも邪魔するつもりはねえ。野暮だしな」
 イツの話によると、アイレンの空――というか大気にかかった魔術が、満月の光を浴びてまぼろしを映し出すらしい。それこそが話に聞いた、呪われた月の正体だ。見たものはたちどころに魂を奪われてしまうという。直接見なくても、他所からやって来た人間が満月の日のたびに何人も、発狂したり失踪したりしている。それでもイツが言うように、満月を見ようとやって来る人間は少なくない。なぜだろうか。アイレンの満月にはそれほどの魅力があるのだろうか。
「……だが、月を見るためだけに、ここへ来たってわけなのかい」イツが尋ねた。
「いえ、帝都を目指してやって来たのです」
「帝都……〈リュウキョウ〉か」
 イツは紫煙を吐き、巨大な竜のほうを見やった。朝の光に照らされて、枝葉の生い茂る巨体はますます神々しかった。
「あそこは、特別だよな。竜どもの、王様が死んだ場所だ……。千年経っても二千年経っても、王様の魂がずっと残り続けてるわけさ。オレも帝都に行こうかな、おたくらと一緒によ。蝶を仕入れなきゃいけなかったんだ。さて、どうすっかなあ」
 彼は首を捻って、考える。
「まあ、一つ言えるのは、おたくらが行ったらきっと何かが起こるってことだけだ。そいつは分かってるんだ」
「何か?」
「キズナの交わり、さ。おたくらが、過去に関わった何かとまた出会う。そういう感じなんだよな。いいものか悪いものかは分かんねえよ、ま、縁は異なもの味なもの、ってな」
 過去に関わった何か。それはあの魔女のことだろうか。
「まあいいや。行くかどうかは成り行きで決めることにするか。それでどうすんだい? ほんとうに、満月を見て行くのかい?」
 さて、どうしたものだろうか。
 イツの話を聞く限り、とてつもなく危険なもののようだ。無難に考えれば、とっとと帝都へ向かうべきだろう。
「危なそうなのでやめておきますよ」
「そうかい? だが、もしどうしても見たいってんなら、ひとつ方法があるんだがな」
「方法?」
「呪われた満月を見る方法さ。手間はちょっとばかりかかるけどよ。まあオレの顔を持ってすればちょいちょいってな」
 と言ってイツはにやりと笑った。

 ぼくらは二十二階の塔の、一番上にいた。
アイレンの夜景が一望できる。宝石をちりばめたような町の明かり。そして、ずっと向こうに見える巨大な影――帝都だ。機械仕掛けの都市が延々続いている。
 頭上に輝く満月は未だ普通の大きさで、なんの変化もない。
 周りにいるのは、なにやら偉そうな顔つきの紳士たち、そしてどこかの令嬢らしき女性たち。誰もが演劇の開始でも待つように、待ち遠しく空を見ている。
 傍らに立っているのは赤い服の魔女たちだ。屋上の四隅に立って、何かを唱えている。
「結界さ。月に魂を持っていかれないように、地上につなぎ止めておくわけよ。帝都にゃ、魔女の結社がいくつもあるが、こいつら〈紅色灯団〉には金持ちのパトロンがついてて、こういう無茶を聞いてやってるわけ。で、オレはそのカシラと親戚でさ。このくらい朝飯前なわけ。高い金払って雇う金持ちさんにゃ悪いけど、帝都に来るたび、いろいろタダで見させてもらってるよ」
 ぼくらが空を見ていると、やがて光の色が変わっていった。それまで淡い青色だった月光は、徐々に赤色に変わりつつある。
 数分ののち、あの〈紅竜の目〉の日のごとく、月は深紅に染まった。
 変化はそれにとどまらなかった。月が次第に、大きくなってくる。こちらに近づいているのだ――まるでぼくを見つけ、にじり寄ってくるかのように。あれは意思を持っている――そう感じた。そんなはずはないのに。
 深紅の目玉のように月はこちらを見据え、逃がさない、と言わんばかりだ。
 一同から感嘆の声が挙がり、そのあとは静寂が辺りを包んだ。ぼくも息を呑んで月を見ている。手を伸ばせば届きそうな位置にそれがある――血にまみれたように赤く、空を多い尽くすほどに大きい月が。
 あそこに竜の魂が眠っている。体はすでに石と化したが、彼らはまだ消えてはいない。何千年もそこに居続けるのだ。ぼくを見ているのは彼らだ……。
 赤色がぼくの視界を塗りつぶした。意識を失いそうになりふらつくが、ミアが支えてくれた。
 我に返ると、空の月はすでにもとの大きさに戻っている。
 周囲の見物人のうち何人かが倒れていた。結界がなければ、そのまま魂を持っていかれたのだろうか。
 町の中からはいくつかの光が空に舞っていった。それらは月へ向かって飛んでいき、やがて見えなくなった。
 ぼくに向かってイツが言う。
「あれが無防備に、見物に来たやつらの魂さ。どうだいセン、見ものだっただろう? 命を賭けて見るほどの価値があるかどうかは、分からないけどよ。だが、あれを何度も見たいってやつは多いんだぜ。夢にあの赤くてでかい月が、繰り返し出てきたりするんだ……だからこうして、金払ってまで見たくなる。考えてみりゃ、空に馬鹿でかい広告出してるようなもんだからな。ま、いい商品かもな……呪いと言えど」

 その後ぼくらは一軒の屋敷へ訪れた。建物は高層で、大穴の淵に建っていた。穴の底は真っ暗で見えなかった。鉄橋が架かっているが、下に落ちればそのまま地の底にまでまっさかさまといった感じで、顔には出さなかったが怖かった。
 屋敷の主はキタメさんという女性だった。イツの叔母であるという彼女は、〈紅色灯団〉の頭首であり予知の魔術の使い手だった。貴族の顧客も多いという。
「イツ、あんた、まだいろんなところをふらふらと歩いているのかい」
「まあ、そうさ」夕食の席で彼は、久々に再会したキタメさんにそう答えた。「自分が行きたいところはどこか、よく分かんないんでね」
 キタメさんはため息をついて、
「あんたのそういうところは親譲りなんだろうね。うちの一族はずっとそうなのさ。あたしが一番、落ち着いているってことね」
「だが叔母さんだって、オレくらいの歳のころは旅をしていたんだろう」
「昔の話さ」
 ぼくはキタメさんに例の魔女のことを聞いた――帝都の魔女には詳しいだろうと思ったからだ。外見的な特徴――髪や目の色、そしてあの冷たい眼光を伝えただけでキタメさんは、「こいつかね」と一枚の写真を見せてくれた。
 それはまさしくあの女性の写真だった。
「今テンマが追いかけているのがこいつ、〈ジョウゼ=ナァガ〉さ。〈竜眼〉なんて呼ばれているがね」
「その人はなにをしたのですか」
「破壊工作さ。テンマの研究所から何かを奪ったりもしているようだね。貴族、それもテンマ内部の人間にも協力者がいるようだけど」
「ジョウゼ? 叔母さん、ジョウゼって言ったら」イツが言った。「〈首切り魔〉の協力者と言われていたあのジョウゼか?」
「そうさ。それだけじゃない。もっと昔の事件、例えば五十年前の連続少女殺人にも、関わっていたと言われているんだ。当時の新聞にこいつの写真が出ているよ」
「つまりそいつは、五十年以上生きてその外見ってわけかい?」
「魔術を使っているんでしょうか?」ぼくは聞いた。
「どうかね。そういう魔術を使える人間はまずいないからね」とキタメさん。「テンマはそれをどうにか、人工的に作ろうとしているようだけどね」
「大きな声じゃ言えねえが、こいつはテンマの関係者かも、ってことか」
 写真の中のジョウゼを見ていると、あの体が凍りつくようなまなざしを思い出してしまい、ぼくは思わずぶるりと震えた。ミアを見ると、珍しく彼女もまた緊張したような表情を浮かべている。
「ま、とにかくこいつには注意するんだね。道で会ったら逃げることさ」
「そうします」
 まさかテンマと敵対している魔女だったとは。確かに、うかつに近寄らないほうが良さそうだ。
 しかし、それでもぼくは、帝都へ足を踏み入れることをやめるつもりはなかった。
 その日はひさびさにやわらかいベッドで眠ることができた。部屋の窓から大穴の底が見えなければ、もっと落ち着いて眠れたかも知れないけれど……。

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