十四話目「竜魂」
そこは巨大な白い部屋だった。一つの家がすっぽり入るほどの大きさで、ぼくらはそこで暮らしていた。ときおり背の高い、白い服の人たちが入ってきて、いろいろな質問をした。寝ている間に見た夢のこととか、あるいは起きている間に見た夢のことだ(真っ白な壁に黒いヒトガタが踊っているのを、ぼくはよく見ていた)。
自分がいつからそこにいるのかはよく分からなかった。そこから外に出たことはないはずなのに、なぜかぼくは遠い場所の夢をよく見た。夢の中でいろいろな人と話している間は楽しかったけれど、起きている間の白い部屋はひどく退屈だった。
部屋の中にはたくさんの子供たちがいた。彼らはぼくと同じくらいの歳で、話しかけても何も答えてはくれなかった。毎日うつろな目で壁や宙を見ているだけだ……なにか面白いものでも見えるのだろうか。ぼくは踊る黒い影を見ても面白くはないので、いつも消灯よりも早めに寝ることにしていた。
そのころぼくは自分の名前を持っていなかった。ぼくが持っていたのは、首に下げた金属板に書かれた文字だけだった。それが自分の番号だということは知っていた。白い服の大人たちはぼくをその番号で呼ぶことすらなかったので、ぼくは自分に名前をつけることにした。
それを呼んでくれる人はいなかったけれど、あるとき部屋に新しい少女が入ってきた。
ぼくは金属板の裏側に彫った、自分の名前を告げた。
「それがあなたの名前?」
彼女は大きな目でこっちを見て驚いた。
「名前を自分につける子なんて初めて見たわ。誰もそんなことはしていなかったのに」
「必要じゃないからね。呼んでくれる人がいないから。でもぼくは違う」
「あなたが名前を教えてくれた代わりに、わたしも良い物を見せてあげる」
彼女は赤い懐中時計を見せてくれた。
「ここに移されるとき、こっそり手に入れたの。良いでしょう。わたしも名前を自分につけるわ。あなたが呼ぶために、必要だものね」
彼女は、時計の裏に自分の名前を彫った。
その名前を呼んだとき、ぼくは何かを思い出しそうになった。前にどこかでこの子に会ったことがある。そんな気になった。ここから出たこともないのに、そんなはずはない。
「どうしたの?」
少女が聞いたのでぼくが「いい名前だね」と言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ぼくたちの興味は名前のことから、外に出ることへと変わっていった。そしてこの部屋のことへと。
なぜここにいる皆は表情がないのか。話しかけても答えてくれないのか。どこからやって来るのか。そして、どこへ行くのか――外へ連れて行かれた子が戻ってくることはなかった。
あるとき一人の女性がやって来た。消灯のあとに人が入ってくることはなかったので、見た夢の話をしていたぼくらは驚いた。
きれいな人だったけど、どこか冷たい笑みを浮かべていた。彼女は、自分は魔女で、しかも泥棒だと冗談めかして言った。
それからその人はぼくたちが、何のためにここにいるのか教えてくれた。
「あなたたちは、不老不死の研究のためにいるんだよ」
「不老不死?」
「人間の体は死に向かって突き進んでいる。誰だってそれを認めたくないし、金や権力を手に入れた者はなおさらだ……あの世にはなにも持っていけないのだからね。彼らは手放すのが怖いんだ。それに、死ぬまで、いや死んだあとも戦い続けたいってやつらもたくさんいるしね。知っているかい? この国の皇帝は歳を取らないんだ。ずっと昔に竜の王様に勝って、この国と竜の力を得たからね。だけどその力は特別だ。皇帝の血族以外にはそれは強すぎて、体を焼かれてしまうだけさ。だからもっと手軽に、死なない体を手に入れようと、テンマはずっと昔から研究を重ねているというわけだ」
「テンマって」
「知らなかったのかい。ここのことだ」彼女は部屋を見回して言った。「ところで、あなたたちはここから出たくないか? 何度も外の夢を見ているはずだ」
初めて会うはずなのにどうして知っているんだろう? ぼくは驚いた。
「それはあなたたちの中にある魂が見せているんだ。あなたたちの中には、死んだ人間たちの魂が留まり続けている。そういう〈器〉として作られたからね。わたしと来れば、あなたたちを解放してあげるよ」
彼女がぼくに向かって、手を伸ばした。
「わたしは竜眼の魔女、ジョウゼ=ナァガ。あなたを導くものだ」
ぼくは魔女の手をつかもうとする。その腕を少女が抑えた。振り返ると彼女は怯えた表情を浮かべている。
「駄目よ。この人なんだか怖い。付いていっちゃ駄目」
「おや。そういうあなたはここから出たくはないと言うの? ずっとこの白い部屋で過ごすつもり? あなたたちは運良く自分を保てているようだけど、彼らはどうかな」ジョウゼは部屋中のうつろな子供たちを見ながら言う。「いつ彼らのようになってしまうか分からないよ。魂が混濁し、自分が誰かも分からなくなっていく。あなたたちの持っている〈自分〉なんてものはひどく不安定なんだ。わたしなら、あなたたちの人格が消えないようにできるのだけどね」
そう言って彼女は再び、冷たい笑顔を浮かべた。
「そして、あなたはわたしとともに外に出ることを選んだ」ジョウゼが言った。
「ああ。だけどあんたは」ぼくは彼女をにらんで言った。「ぼくらを助けなかった。利用しただけだった。そうだろ」
「お互いにとって最善の選択だと思っているのだけどね、セン」
「最善だって。あんたはぼくらを自分の道具にしたかっただけだ」
ジョウゼは背後に浮かぶ景色を眺めている。ガラス張りの壁一面からは、帝都の機械仕掛けの町並みと、建造物の隙間に覗く夜の空が見える。そしてそこに浮かぶ月も。
彼女に導かれてやって来たこの屋敷には、無表情の黒服の男たちが徘徊していた。どうやらここが、結社の拠点らしい。
「道具か……。まあ、それもあながち間違ってはいない。わたしの狙いはあなたの中にある、ある魂だ。それは強力な武器になりうるものだからね。しかし、セン。あなたの中の魂は次第に混濁しつつあった。このままでは数多の魂の中に、消えてしまう恐れがあったのだ。それはこのリュウキョウという場所にかかっている、大呪のせいだったのだがね――あなたの中の魂と大呪が、相互に影響し合っていたんだ。だからわたしは、あなたを一度この場所から遠ざける必要があったのだ」
そうして帝都の外へ旅立つぼくには当然、監視をつける必要があった。それにはミア――今ぼくの目の前で喋っているこの身体――が選ばれた。
ミアにジョウゼは自分の魂の一部を与えた。彼女本来の人格は奥底で眠らされ、あの白い部屋の子供達のような、人形じみた無表情がへばりついた。
「ジョウゼ。あんたの計画だけど、とんだ失敗があるぜ。ぼくの体の中にある、戦士だか魔術師の魂を手に入れたかったようだけど、ぼくはちょっと走るだけで息切れする体たらくだ。テンマに喧嘩を売るんなら、そこらの不良少年でも連れてったほうがまだましさ。ぼくがこうしてあんたについて来たのは、あんたに別れを告げるためだ。外に出してくれたのは感謝してるし、長い間面倒を見てくれたのにも礼を言う。だけど、ぼくはあんたの道具じゃない。破壊活動は勝手にやってくれよ。あんたにはいろいろ仲間もいるだろう? それにあんたはずっとテンマから逃げ果せているんだ、こんな虚弱少年の中の幻に頼るより、自分でやったほうが良いと思うね」
彼女は笑った。それはミアの声だったが、彼女はこんな冷たい表情を浮かべはしない。あの白い部屋で名前を呼んだときの笑顔とは、似ても似つかぬその顔に向かってぼくは言う。
「やめろ。ジョウゼ、ミアから出て行くんだ。あんたはぼくを傷つけるつもりはない。そうだろ? ぼくらを解放してくれ」
彼女は笑っている。ぼくは苛立ちとともに、恐れを抱く。本当にぼくが思っている通りになるのか? ぼくは彼女と決別するつもりでここに来た。しかし、ぼくはジョウゼのなにを知っている?
彼女は一体何者だ? いつから生きているのだろう? 彼女もまた、テンマの作り出した実験体なのか?
ぼくの中の魂など、最初からどうでも良かったのでは? テンマに忍び込んでぼくらを誘い出し、旅に出させたのも単なる気まぐれかもしれない。記憶をも操る高位の魔女が、手の込んだ悪戯を試みただけでは?
彼女の笑いが止まった。
どさりと、ミアがその場に倒れ伏す。
ぼくは駆け寄る。彼女は目を瞑って、力なく床の上に横たわっている。
「お望みどおり、彼女の体からは出てきてあげたよ。もうその体に残る意味もないしね」
後ろで声がした。
魔女が立っていた。
ぼくはミアを抱えてジョウゼをにらむ。
「ぼくらを殺すつもりか」
「言ったはずだ、あなたは〈器〉だと。わたしが欲しいのは、あなたの中にある魂だけだ。それはもうじき覚醒する。わたしはその後で、本来の体に戻すだけだ」
「本来の、体?」
「すでに分かっているだろう? 帝都の中心、地底深くで眠っている、この都全体に魔術をかけているものの正体が」
そうだ。ぼくはそれを知っている。
銀の竜。
他の竜とは違い石にはならず、未だ眠っているかのように横たわる巨大な竜。
「あなたの脳髄から魂を引き出してやろう。それは幸福なことだ、セン。あなたの中の魂はそう言っているだろう? 狭い器を抜け出し、元の肉体に戻ることを望んでいるのではないか?」
ぼくは答える。
「違う。ぼくの魂はあんたが嫌いだと言っている。あんたの思い通りにはならないってね」
ミアを抱えてぼくは走り出す。
部屋を出て、振り返るがジョウゼは追ってこない。いつでも捕まえられると思っているのだろう。下への階段を目指して進むが、向こうで足音がした。
一人ではない。何人もいる。
廊下の角に隠れると、男たちの影が壁に躍った。結社の人間だ。ジョウゼの仲間、いや手下か。
ぼくはミアを一度下ろして、背中に背負うと反対側に逃げることにした。おそらく彼らは銃器で武装している。魔術士もいるかもしれない。そしてなにより恐ろしいのはジョウゼ本人だ。彼女は人間を焼き殺す、炎の魔術を恐らくは使う。さらには、具体的な方法は分からないが、魂を操作する力もある。一方こちらはただの貧弱な少年だ。彼女はもうじきぼくの中の魂が覚醒すると言った。つまり今はまだ、殺すつもりはないということだ。しかし、動きを止めておこうと考え、攻撃してくるだろう。
反対側の階段にたどり着いて降りようとすると、下から足音が聞こえてくる。一人だけだ。辺りの気温が急に下がっていく気がした。長い髪の影が登ってくるのが見えた。
ぼくは上へ、上へと螺旋階段を進んでいく。肺が苦しく、顔を汗が流れた。リザの町をさまったときのことを、こんな状況なのに思い出す。
一番上の扉を開けると、風がぼくの髪を揺らした。
そこは屋上だった。端まで行くと見えるのは、ほんの少し欠けた月と、まもなく真夜中を指す時計台だ。そして広がる機械仕掛けの町並み。ずっと向こう側にははるか上空まで突き抜ける巨大な建造物群――あれがきっと、テンマの本社、そして宮殿だ。真下には大きな黒い穴が口を開けている。
「その穴は、千年前の戦いの最中開いたものだ」ジョウゼの声がした。「この土地は荒れ狂い、空は裂け、戦いが終わっても魔力で世界に付けられた歪みは戻らなかった。それが〈大呪〉の正体だ。分かるかセン」
ジョウゼは周囲に何人もの黒服の男たちを引き連れている。彼らの顔つきは一様にうつろだ。ジョウゼが魔術で操っているのだろうか。
「竜とはそれほど偉大なものなのだ。だが今はどうだ? テンマは機械の力で国中を覆いつくそうとしている。竜の力を機械と魔術で制御しようとしている。わたしはその冒涜を止めようとしているだけだ」
「さっきも言ったけどぼくは、あんたのことが嫌いなんだ。諦めてどこかで隠居しなよ。結構な歳なんだろう?」
ジョウゼの表情が変わった。
両目は銀色にぎらぎらと光り、瞳が縦一文字に走る。口からは牙がむき出しになった。怒っている。ジョウゼは憤怒しているのだ。ぼくにだけではない。恐らくはこの機械仕掛けの都に対しても。
周囲の男たちが銃をこちらに向けた。しかしジョウゼが一瞥すると彼らはそれを納め、後退した。
「わたしがやろう。この手で始めたことはこの手で終わらせなくてはな。何、今は殺さない。動けなくするだけだ……」
ジョウゼの口から出る息が燃えている。橙色の眩い炎だ。じりじりとこちらに向かってくる彼女。ぼくの背後には、地の底にまで続くであろう大穴が口を開けて待っている。
これまでか――これがぼくの旅の終焉なのか?
ぼくはミアを抱きしめる。そして、目を瞑ったとき――
「やー、なんかお邪魔ですかねえ。痴話喧嘩ですかい? それにしちゃ、ちょっと物騒だけどよ」
間延びした少年の声だった。
ジョウゼと黒服たちがそちらを振り向く。
「見晴らし良くていい所だな。こんないいうちに住んでんの? お前らから没収したらオレ、ここに住みてえな」
「無駄口を叩くな、イチナ」
後ろから一人の、長身の女性が言った。黄金色の髪に、臙脂の外套。
「あー分かってるって……なあ小母さん、そいつらオレの友達なんだよ。なんか悪いことしたのかもしんないけど、ボンボン育ちで常識知らずなんだ、許してくんない? 駄目?」
銀髪翠眼の少年はとぼけた調子で言った。顔をしかめてジョウゼが問う。
「誰だお前たちは。なぜここが分かった」
「……なんか不審者がいるって通報があったんで来たら、怪しいやつらがウヨウヨしてたもんでね。いきなり襲ってきたので、ちょっと荒っぽく挨拶してやったよ。……しかし、まさか帝都を騒がす噂の魔女がいるなんてな。大当たりってやつだぜ。それにしてもよセン、さっき会ったばっかりなのにまた出くわすなんて、お前となんか縁あるよなあ」
イチナが笑いながら言った。ぼくにはその笑顔が、なによりも頼もしく思えた。
イツと別れたあと迷ったぼくは、彼のしてくれた助言を思い出した。「迷ったら誰かに聞け」。それに従ってテンマ兵の駐在所へ向かった。そこでぼくらは、彼らと再会を果たしたのだ。
「あれ、お前ら。こんなとこで会うなんてなあ、元気?」
少し大きめの外套を纏った彼は、リザで会った少年、イチナだった。アサカさんにあれから結局捕まって、今ではこうして彼女の相棒を務めているという。
「ひでえんだよ、姉さんオレのこと人と思ってねえの。朝も夜もこき使いやがってよ。おまけにメシは少ない。最低の労働環境だぜ」
「文句を言うな。お前には脱走して帝都を騒がせた分も、しっかり働いてもらうからな。それからお前の首輪には発信機が付けてある。逃げてもすぐに分かるからな」
後ろでアサカさんがそう言った。イチナは苦い顔になる。
「分かってるって姉さん! 逃亡生活はもうこりごりだっての。……で、何の用だよ」
「ちょっと道を聞きたいんだけど。錫月通りってどっち行ったらいいわけ?」
「スズツキ? 聞いたことねえなあ。まあ西のほうじゃねえの? 響き的に……」イチナの頭をアサカさんが叩いた。
「痛え! なにすんだよ姉さん!」
「都民の案内も仕事のうちだ! 丁寧に答えろ」
「知らねえんだから仕方ねえだろ! オレは案内屋じゃねえよ!」
「イチナ、やっぱり別の人に聞くよ……」そう言ってぼくはイチナに手を差し出す。「仕事頑張ってね。多分また会うと思うから」
イチナはぼくの手を握る。「あ、ああ。じゃあな、そっちも旅頑張れよ。あー、オレも旅に出てえ」
そうして彼と別れて歩き出すと、去り際に声がした。
「うわ、なんだセン、なんか手に付いてたぞ。蝶の粉みたいなのがよ」
男たちが二人に向けて発砲した。
イチナの姿が影のように消えた。
アサカさんが高速で剣を振るった。
弾丸が弾かれる音がした。
男たちのうち二人がその場に倒れた――と言うか、床に叩きつけられた。イチナが目にも止まらぬ速さで、その場に殴り倒したのだった。
一方、アサカさんもたちどころに、残りの男たちを切り伏せた。
かつてイチナは、彼女を『人間とは思えねえ』と評した。それは確かに、間違いのないことだった。もっとも当のイチナもまた、人のことは言えないけど。
「……魔術か」
ジョウゼが呟いた。
「いいや、技術だ」アサカさんが剣を構えて言った。「人間の体には、戦うには余計な機能が多く付いている。反射や呼吸、そして精神の動き。そのすべてを排し、体を一振りの剣を化すのが、我が一族の体技だ。次はお前の体にそれを教えてやる」
「姉さん、何で敵相手にそんなことべらべら喋るんだよ。自信満々なのは良いことだけどよ」イチナが少し呆れて言った。
「お前のほうが無駄口が多いだろう。さてジョウゼ、言いたいことはあるか? まさかよく似た別人だ、などとは言うまいな」
魔女は再び笑みを浮かべる。
そして、耳まで裂けた口を開く。そこから橙色の炎が溢れ出る。
同時に時計台の鐘が鳴って、真夜中の到来を告げた。