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第十一審『遭難』

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 冬至は過ぎたが、まだまだ日照時間は短い。
 早くも日の暮れかけた空に浮かぶ、紫色の羊雲を眺めて息を吐いた。
 視点を地上に戻すと、眼前の建物の大きな自動ドアから、若い人達がぞろぞろと出てくる。学生服、セーラー服、ブレザーや私服。皆様々な格好をして、屋内と外気の気温差に体を震わせていた。この後さらに学習するために夕食を食べに行くのか、それともカラスが鳴くから帰るのか。それぞれの思惑は、俺には分からない。
 「…そうか。このベンチが、恩田のいた場所なんだな」
 錆びついた手すりと傷んだ木材の部分を肌に感じながら、俺は呟いた。
 「うん」
 語り終えた恩田のために、飲み物を買おうかと立ち上がったが、またもやコートの裾に違和感を感じ振り返ると、やはり恩田が人差し指と親指でささやかに摘んでいた。
 「どこに行くの?」
 「いや、君に飲み物を買いに」
 「いい、いらない」
 恩田はコートの裾を下に引っ張った。まるで、行かないでと言っているように。俺はその指示を受けて再びベンチに座る。
 両者とも、閉口。
 今度はさらに色が濃くなり始めた紫色の空を見ていると、隣から短い悲鳴のような音が聞こえた。
 それは恩田の涙に濡れたしゃっくり。彼女は腕を両目にあてて泣いていた。
 「恩田…」
 「ひ…っう…」
 大泣きと言うには押し殺され、さめざめと言うには制御できずに、彼女は微かに歯を食いしばって泣く。目の前で若い女性に泣かれるなんてのは、約二十年前の逢紗子以来で、俺はどうしていいか分からなくなった。
 「…そんな、悲しいこと思い出すくらいなら無理に話さなくてもよかったんだが…」
 そう愚痴とも宥めとも分からない台詞を言いつつ、俺は恩田にハンカチーフを手渡した。
 彼女は受け取ると、勢いを失いかけた涙を拭き、ついでに豪快に鼻をかんだ。チーンという月並みな効果音と共に、ハンカチーフが揺れる。
 「…別に、大丈夫。ただ単に、私が話したくなっただけだから」
 まだ少し鼻をぐずぐずさせつつ、恩田は赤い目を擦った。
 「だから、別に同情してほしいなんて思ってないし、いらない」
 「…」
 単純に話程度に受け止めてくれと言うことだろうか。それなら、物語には感想が必要だ。
 「そうか、なら同情はしないぜ。…でもな、感想ぐらいは言わせてもらうよ。いいか、これは俺の実直な感想だ。打算もクソもない、率直な意見だ」
 キョトンと、猫みたいな仕草でこちらを見る恩田に向けて言った。
 「形はどうであれ、そんな奴と別れられた君は、十分賢しいよ」
 「え…?」
 「知ってるか?馬鹿っていうのはな、目盛りのずれた天秤と小さい物差ししか持ってない奴のことを言うんだ。今はもうジジイの、俺の中学の担任の受け売りだが。賢い人間ってのは必ず鏡を持ってるらしい。それを言うなら、恩田は鏡を持ってる。君自身を見つめ直すことが出来ているだろ?その分、その男はまるで出来てない。そのうえ眼鏡まで曇ってるときた。そんなのは全然ダメだ」
 「でも結局…私は捨てられて…」
 「大丈夫。俺だって始めは妻にこっぴどく振られた。けれど俺は諦めなかったんだ。俺は自分を鏡で見直して、妻にアタックしていったんだよ。逆に俺と妻のつり合いを量る天秤は忘れてきちまったけどな。そう言うのを阿呆だって担任は言ってた。…しかし、何もその男を追いかけ回せって言ってるわけじゃない。そいつはやめておけ。その男は、世紀末にくる筈だった大馬鹿野郎さ。恩田は自分を見つめ直して、また新しく歩き出せばいい」
 「…そうなのかな」
 「ああ…っていうのが俺の感想なんだけど」
 「…フゥン、よく分からないけど、わかったよ」
 帰宅の時間だからか、ベンチの周りは人通りが多くなってきた。もしかしたらこの中に、例の男がいるかも知れないな、と思う。しかしそんなものは、もはや恩田には無用な心配になりつつあるようだ。
 「…なんか、栗山に話したらすっきりしちゃった。人に話すのは初めてで不安だったけど…栗山に話せてよかったと思うよ」
 視覚を混乱させるかのように目まぐるしく行き来する人々を、穏やかに眺めながら恩田は言う。
 「そいつはよかった」
 「うん…。そうだ、私、もう帰る」
 「あいよ。じゃあ俺も帰るかな」
 俺と恩田は時間をかけて立ち上がった。恩田は、じゃ、と言って西に進路を取る。俺は南に。そして数メートルほど間が空いた時に、栗山、と呼び止められた。俺は恩田に顔を向ける。彼女はダウンジャケットのポケットに両手を入れ込んだまま、
 「…今日は…、ありがと」
 と言った。その時、恩田の唇が、本当に小さくミリ単位で緩く弧を描いたような、そんな気がした。






 俺は重大なことを忘れていた。
 憂梨の誤解のことである。
 住宅街の道端でふと気付いたのだ。もし憂梨が誤解を抱いたまま、妻に告げ口でもされたら…、考えただけでも背筋が凍る。妻は激怒するだろうか、いや、彼女のことだから悲嘆に暮れるに違いない。まさか、そのまま離婚なんてことも…。
 「…不味すぎるぞ…それは」
 俺は駆け足で家を目指した。
 忍者のように扉を開けて、玄関を見ると、娘のローファーが綺麗にそろえられている。既に帰宅しているようだ。さらに心臓が寒くなるのを感じながら、リビングに入ると、修太はテーブルの上で学校の宿題をしていた。その奥では妻が台所に向かっている。一度湯気の立つ鍋の様子を見てから、振り返って言った。
 「…お父さん?お帰りなさい。お風呂は沸いてますよ」
 「あ…ああ、ただいま」
 「?どうかしたんですか?」
 「いや、なんでもない」
 俺は背を向けて廊下に身を隠した。
 …おかしい。特に妻の様子に変わったところはない。だけど憂梨が衝撃の発言をする時間は十分にあった筈だ。と言うことは、憂梨は妻に何も言っていないのか。
 あごに手をあてて考え込んでいると、娘がトイレから出てきた。俺を発見すると同時に、夜叉のような目付きになる。氷点下の冷眼を無言で俺に向けながら、二階へ上がっていった。
 「……うわ」
 出来れば夢であって欲しいと思っていたが、これは間違いなくままならない現だった。
 もしかしたら、憂梨はこれ以上家庭の状況が暗黒になるのを懸念して、黙っているのかも知れない。はたまた下衆な考えだが、娘はカラオケで自分のしていた行為をばらされたくないから、俺への対抗カードとして未だに抱えているという可能性もある。
 俺が憂梨の不徳の行為を妻に言えば、娘は俺と恩田のことを暴露するかも知れない。
 逆に憂梨の視点に立ってみれば、自分が父親の裏切りを白日の下に曝せば、父親は自分の後ろめたい秘密を母にばらしてしまうかも知れない、ということだろう。
 しかし、それは傷み分けということにはならない。事実ではないとは言え、確実に俺の方がダメージを受ける。するとやはり憂梨の心境は前者と捉えるほうが正しいのだろう。
 ―――あの時の憂梨の顔が、脳裏に浮かぶ。
 …ただ、思春期の娘の心に大きな傷を与え、あまつさえ娘がその痛みを必死に抱え込んでいる。
 真実とは相違であっても、その痛みは紛れもない現実なのだ。
 俺は真っ白に指の関節の骨が浮かび上がるほど、拳を握って震わせていた。


 それからは最悪としか言いようがなかった。もっと酷い事は何処にでもある。しかし俺には、今の状況を形容するには、最悪の二文字以外考えられなかった。
 誤解を解こうと思っても、憂梨は聞く耳持たずだった。声をかけても、すぐさま自室に逃げ込んでしまうのだ。
 娘のその赤黒い空気は重く食卓に充満し、修太でさえも難しい顔をするようになった。
 妻は娘の態度が心配になり、何かあったのか聞き出そうとしたが、何でもないと撥ね返され、困惑した表情を俺に向けるばかりだった。
 そして俺は、何も出来ないで、胸を幽暗たる色に濁らせていた。



 自棄、と言えば言いのだろうか。
 一週間が過ぎたある日の夜、俺は駅の裏の居酒屋に一人でいた。一応成人なのだから恩田を誘ってもよかったが、俺は無性に一人で呑みたくなったのだった。
 憂梨のこと、家のこと、将来のこと。
 恩田や加藤さん、久永との会話で上塗りしていた、その下にある現実。俺があえて見ないようにしていた間も、蓄積されていった家族の歪み。
 酩酊感にも、紫煙にも、それらは全く紛れてくれない。
 「……」
 オレンジ色の電球がゆったりと店内を照らしている。カウンターの対岸には、仕事帰りのサラリーマンが紅潮した顔で語り合っていた。奥さんの愚痴を言い、子どもの自慢をし、明朗に笑う。
 何故か、胸がざわつく。
 「…くそ…ッ」
 俺は立ち上がった。店主がチラリと、皺の寄った目で俺を見る。
 会計を済ませて、外に出た。目の前を電車が走り去る。轟音と、遅れて風。冬の澄んだ空気に包まれて気持ちがいい。天を仰ぎ、深く息を吸った。
 何処に行こうとしているのか。自然と足が進みだす。

 街の光が渦を巻く。

 ふわふわと浮遊しているような感覚で、俺は夜道を彷徨う。
 
 角を曲がったところ。民家の庭からはみ出した木の枝を避けようとしてふらつき、足がもつれた。ぐらり、とバランスを失う。
 ドッ。
 「きゃ」
 色濃く驚きを含んだ、女の声。通行人の一人にぶつかってしまったようだ。
 謝って、道を譲って、歩き出さなければならない。そうしなければいけないのに、俺はそのまま体重を通行人の柔らかい体に預けていってしまう。
 「ち、ちょっと…何ですかっ?……え?洋介君?」
 ずるりと頭をもたげて、声の主の顔を半眼で確認する。
 …ああ、酷く、偶然だ。この数十年会った事なんてなかったのに、この数ヶ月間で二回も会うことになるとは。
 若々しい顔の眉を心配そうに下げる四十路の女。
 「ねえ、大丈夫?」
 大橋葵。旧姓・弓納持。童顔でお茶目だった、高校時代の恋人だ。
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