瞼を開くと、見慣れない部屋にいた。
不自然なまでに整った設備。別段目を見張る特徴のない内装。
カーテン越しの朝日が毛玉のように揺らいで見える。ベージュ色のカーテンが、その印象を強いものにさせているのかも知れない。
頭がガンガン鳴っている。まるで熱した鉄の小槌で頭を叩いているようだ。側頭部を押さえつけながら真新しい匂いのするシーツから身体を起こし、気付いた。
俺は服を着ていなかった。辛うじて下着は身につけているようだが、こんな真冬に裸で寝る理由が全く分からなかった。
「…どうなってるんだ…」
「…んん…」
隣で細い呻き声が聞こえ、俺は反射的に虚空を泳いでいた視線を音源に移した。
そこには、葵が身体を丸めて寝ていた。俺と同じく、裸で。
白い肩、未だ瑞々しい肌。俺はその無防備な姿を凝視しながら、必死に記憶を辿ろうとした。しかし酒を呑んでいたからか、全てを鮮明に思い出すことは出来なかった。
『―――…の都合でこの街に――けど……―――最近…――旦那が――…』
確か俺は、あの後もう一杯葵に付き合い、
『……―――高校時代――――私たち――……』
視界が何処までも捩れていくような感覚のまま、彼女に支えられて。
『――あそこに入―――電話――――…ふふ……―――』
断片的に会話の節々しか、それも朧気にしか思い出せない。
だけど、この状況から導き出せる結論は一つしかなかった。
俺は、葵と不倫してしまったらしい。
「…嘘だろ…」
その時、葵がもぞもぞと蠢いて、蕾が花開くように目を覚ました。蠱惑的に肩を揺らし、あ…洋介君、と呟く。
その声は、名を呼ぶだけで嬌言のように思えてしまう。
そして、共に秘密を共有した子どものような眼差し。
…気分が悪い。俺は波打つ声で葵に尋ねた。
「…俺は、お前と寝てしまったのか…?」
「…まあね」
悪戯っぽく唇の両端を吊り上げて、葵は肯定した。
喉が何か得体の知れないものに塞がれて、二の句が告げない。
―――俺は、許されない罪を犯してしまった。
その事実を知った途端、喉の詰まりが全身に波及した。腕が、足が、首が、五臓六腑が圧縮されるような感覚を味わう。歯軋りが、ごりごりと耳朶を削る。
「…あ、さ…こ」
その名前を、頸が締め上げられたように搾り出し、俺は深い後悔の谷底に突き落とされた。
どうして、どうして…俺は…この冬の最中、あの一人には広すぎるベッドに、妻を横たえてきてしまったんだ。どうして…光のない部屋に、妻を置き去りにしてしまったんだ。
彼女は寒いのが苦手だから、俺が横で寝て暖めてやらなければならないのに。
どうして…そんなことが出来るんだよ…。
俺は跳ね起きた。
突然の俺の奇行に、葵が短く疑問の言葉を口にする。しかし、そんなものに取り合っている余裕はない。
背後に真っ黒な三叉の槍を構えた悪魔がいるような錯覚。そんな強迫観念に駆られて俺は急いでワイシャツやスラックスを探す。床から取り上げて、ガチャガチャともたつきながら服を着ていく。
俺が部屋を出て行こうとしていることを察した葵が、面白そうに言った。
「なんだかドラマみたいよ、洋介君」
「…っ…」
何が父親だ。憂梨の言葉が本当になってしまった。
何が夫だ。俺は正真正銘、妻を、家族を裏切ってしまったんだ。
慌しく私物を探り、荒々しく空いているポケットに無差別に入れていく。その時、手が滑った。画面の開いた携帯電話が鈍い音を発して設備の角にぶつかり、床に転がる。
待ち受け画面は、妻と子ども達が顔を寄せ合った写真。
拾って、うつ伏せになっていた携帯電話を裏返すと、画面に疵がついていた。右上の端から左下の中点まで、何かを暗示するように家族を裂いていた。
「ぁ……」
俺はその透明な筋を指でなぞり、そのまま拳を固く握った。
「そんな変な顔する必要ないのに。洋介君は…――」
「やめろッ!」
改めて葵の口から俺の罪過が語られるのをむりやり制止した。それは葵にとって甘美な記憶でも、俺にとっては糾弾以外の何ものでもない。
「…なにかな」
大声に些か開かれた瞳を細め、葵は言う。
俺は気が動転していて、一刻も早くここから立ち去ることしか考えていなかった。
「…悪い、葵。俺はもう無理なんだ…。もう、無理なんだよッ!!」
悲鳴にも似た怒声を上げて部屋を出ようとした。
強引にドアをこじ開けた俺は、葵から逃げるようにして廊下に飛び出した。二部屋ほど離れた扉から出てきた若い男女が驚き怪しむ。
向かいの壁にぶつかり倒れそうになりながらも、膝に力を込めた。
右手に疵付いた携帯電話。左手に土色のコートを握りしめて。
歯を食いしばって、四十過ぎの男は衰え思うように動かない身体を無様に動かし、力の限り駆け抜けた。
嵐の後のように静まり返ったホテルの一室で、葵はベッドに腰掛けて溜息を吐いた。
「…行っちゃった。少しからかいすぎちゃったかも。…本当に、洋介君は変わってないなあ」
くすくすと手の甲を口元に添えて笑った後、身震いを感じ彼女は上着をたぐり寄せる。
「洋介君、本当に覚えていないのかな」
続いて膝丈のタイトスカートを。一度、男が出て行った扉を流し目で見る。
ブラウスのボタンを留めたところで、唐突に面倒くさく思った葵は、背中からベッドに倒れた。高くもなく低くもない天井がせり上がる。
左手を宙に掲げて、その薬指に輝くリングをこすりながら口を尖らせる。
「…だって、洋介君。いざって言う時にすごい怖い顔してそのまま黙って寝ちゃうんだもん。気が抜けちゃって、私も普通に寝ちゃったわよ…」
腕を下ろして、葵は体を横に回した。惰眠を貪ろうと言うのだろう。下着を露わにしたまま、彼女は寝具を被った。
「勘違いしてたみたいだけど…ま、今度言えばいっか…」
徐々に微睡んでいく意識の中で、葵は寝言のように呟く。
その唇には、微かに自嘲的な笑みが浮かんでいた。
「…あんな顔されたら、私も旦那のこと…少しは思ってみたくなるじゃない…」
カランカラン。
俺は喫茶ヤマタカ帽の、板チョコレートのように見える木製のドアを開いた。鼻腔に浸透するコーヒーの香りと、何故か西部劇のバーを思わせる懐かしい木の匂い。
「らっしゃい…何だ、栗山君か」
蓄えた灰色の口髭を撫でながら、山根さんはつまらなそうに言った。
しかし、俺がそれに返答することは無い。俺は項垂れたまま、山根さんの言葉を無視して奥のテーブルに腰を下ろした。ギ、と椅子の背もたれが苦悶の声を漏らす。
「…注文は?」
普段と何ら変わらない。昔はよく通っていたであろう、深みのある声で山根さんは言う。それには人に干渉する気配など微塵も感じられない。俺が見るからに意気消沈していても、だ。たとえ血みどろで現われても同じなのかも知れないと思う。
俺は掠れ気味に、コーヒー、と呟いた。自分でも驚くほど、皺嗄れた声だった。
蚊の鳴くような音量だったので、山根さんが聞き取れたかどうか一瞬心配になり首を回して見てみたが、彼は俺に背中を向けてコーヒーを淹れていた。
俺は煙草に火をつけた。光に群がる火取虫のように、天井のファンに煙は吸い込まれていき回転に巻き込まれて消える。…もう煙草も旨くない。気分を落ち着かせる効果も期待出来ない。溜息と共に煙は空気を濁らすばかりだ。
「コーヒーお待ち」
足音もなかった。山根さんは俺の横に立つと、慣れた動作でコーヒーをテーブルの上に置いた。そしてもう一つ。頼んだ覚えのないトーストも。
「…山根さん、俺トーストなんて」
「いいんだ。…なんでだろうな、どうしても君が、腹をすかしているように見えてね」
確かに、失意のままこの時間まで街中をうろついていた。朝は勿論、昼食も食べていなかったのだ。
「…やっぱり、あなたは超能力者だ。前も俺が来るのを予知してたって言ってましたもんね…」
「そうだな…」
「……山根さん、俺…――」
「おっと口を噤め。君の事情なんぞ全く知りたくもないよ」
俺の中の何かをキャッチしたのだろう。冷たいとも感じられる、平坦な声で山根さんは制止した。俺の唇は開きかけて、また閉じる。しかし数秒の沈黙の後、彼は続けた。
「…君が行き倒れみたいな顔をしている理由は聞きたくないが、」
俺はそんな酷い顔をしていると言うのだろうか。
「その顔は止めろ。店がしけちまう」
「…」
何故だろう。表情は渋面。言い方もぶっきらぼう。表面的には褒めるところは何処にもない。
だけど俺には、それが叱咤激励に聞こえて仕方がなかった。表情一つで人は変わる。病も治れば、心も立ち直る。そう言っているような、短い言葉だった。
「…努力は、してみますよ」
事実は曲げられなくても、前途は暗澹としていても、俺は笑わなければならないらしい。
甘みのあるトーストを、優しくかじる。
ガラスに向かって、笑顔を作った。
中年の男が商店街の真ん中で自分とにらめっこしている。買い物帰りの主婦達の奇異の視線を集めることは必須だった。ガラスに映った、俺の背後を通る子どもの目が不思議そうに俺を追い続けていた。
「…アホか、俺」
頭髪を手で乱す。誤魔化したい一心である。
ふと下を見ると、大型液晶テレビが目に入った。商店街唯一の電器店でディスプレイされている商品だ。
そこではニュースがやっていた。ちょうど天気の週間予報を表したグラフィックが映し出されている。翌日からの予報が先頭なので、今日はその前日。一日、表記されている日付から引いて、俺ははたと気付いた。
辺りを見回す。宵待ちの空の下、スーパーから溢れる光の他、目立った店舗はない。終業の時間が早い店があるのだ。しかし俺は見つけた。草花にゲートのように囲まれた入口から、未だ店内の光が見え、営業中だということを教えてくれている。そこは花屋だ。
「……そうだ」
…そう、今日はとても特別な日。十何年も前に交わした永い約束の日。
俺と妻の結婚記念日だ。
玄関で靴を脱ぎ、階段の手前を左に曲がってリビングに入った。
テレビは電源が切られており、天井は明かりがついてすらいない。ダイニング兼キッチンからの明かりで、家具が薄く影を落とすだけだ。その台所に、妻はいた。
彼女はこちらに振り返って、
「…あなた、おかえりなさい。昨夜は松原さんの御宅に泊めさせて貰ったんですね」
と美しい顔を綻ばせて微笑んだ。何か嬉しいことがあるから笑っているのか、何も嬉しいことがないのに笑うのか。
とにかくその微笑に、ズキリと胸が痛んだ。ついさっきまで、他の女と寝てきた夫を何も知らずに迎えている。しかも俺は松原の家に世話になると言う嘘の電話をしていたらしい。俺は俯きそうになるのを堪えながら、妻に尋ねた。
「…修太と憂梨は?」
「修太は部屋ですよ。憂梨はまだ帰ってきてません」
「そうか…」
何気ない会話をはさんでから、俺は後ろ手に隠していた物を妻に差し出した。
それは花束だった。妻に送ると言ったら、店員が見繕ってくれたものだ。
「わぁ…」
妻は静かに驚きの声を上げて、両目をしばめかした。
「…今日、俺達の結婚記念日だったろ?」
「…はい…」
穏やかに目を細めながら、妻はそっと花束を受け取る。少女のように花の匂いをかぐと、…いい匂い、と優しげに呟いた。そして花束を胸の前に添えて綺麗に笑う。
すると、自然と花と妻を比べてしまう。もっと奮発すればよかったかな、と思った。これでは花が可哀相だ。それほどまでに、妻を美しいと感じた。
知らず、俺の口元にも笑みが浮かぶ。
「洋介さん…」
嬉しそうに表情を緩ませて、妻は俺の名を呼ぶ。
そして彼女は春の日射しを思わせる声音で言ったのだ。
「ありがとう……」
その時だった。
手繰りの糸を失った人形のように、妻が崩れ落ちた。