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第五審『Salvaged Life』

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 ツインベッドがこれほど恨めしく思ったことは無い。
 今の俺と妻にとって、この柔らかく暖かい愛の台座は、爽快な悪夢を提供する最先端アトラクションでしかなかった。近頃はソファで寝ることも考え始めている。
 十一月三日の朝は、俺が先に目を覚ました。薄い碧色の空、夜の名残のひんやりとした空気。もう幾年もこの場所でこのような朝を迎えてきた。それは妻も一緒だ。それを思うと、ここから離れたくないという郷愁にも似た感情も湧き出てくるのだった。
 横で死んでいるのではないかと思うほど、静かに寝息を立てる妻の顔を見る。
 妻は綺麗だ。年齢よりも若く見られることも多々ある。しかし、目元に小さく皺が現れたのは最近の事だった。
 妻は、パートを始めた。
 育ちの良い妻は、これまで働いたことがなかった。慣れない仕事内容や、職場の人間関係は心身共に負担となっていることだろう。だけどそれにも増して、家庭の問題が大きいに違いない。
 「……」
 俺は彼女を起こさないように布団をずらし、ベッドから立ち上がって一階に下りていった。






 「行ってきまーす」
 憂梨が登校する時間だ。玄関から、ローファーの踵を鳴らす音がする。
 ふと、テーブルに可愛らしく布に包まれた小さめの弁当箱が置いてあるのが目に入った。
 「おい憂梨?お弁当忘れてないか?」
 あっ、と気付く声が聞こえたので、俺は弁当箱を持って玄関に駆けつけた。
 「ほら、お腹がすいたら勉強できないものな」
 「ありがと」
 礼を言って、ようやく俺だと認識したのか、娘はバツが悪そうに顔を歪めて無言で出て行った。バタン、と扉の閉まる音。次いで自転車の鍵を外す音。その間、俺の顔はどうなっていただろうか。
 相当に傷付いた。娘は俺に対して益々冷遇するようになってきている。
 風呂は俺より必ず先に入るし、俺がバラエティ番組を観ていると、うるさいから、と言って問答無用で電源切るし、この間なんかは酷かった。何も考えずにトイレに入ろうとしたら憂梨という先客がいたのだ。娘は真っ赤な顔で激怒し、それから丸二日は口を利いてもらえなかった。よくよく考えれば、最初の一つは以前からだし、最後の一つは俺に非がありまくるのだが、それにしたって父親に対する敬意と言うものが全く無いのである。
 しかし、俺には修太という救世主がいた。彼が居なければ、とっくに挫けていただろう。小さな息子に頼る不甲斐無い父親の図、ここに極まれりだ。
 「いってきまーす!」
 「おう修太、行って来い」
 憂梨に遅れること十五分。元気いっぱいに道路を駆けて、集団登校の仲間達に合流する息子の輝く姿に癒される。
 子ども達が住宅の塀に隠れるのを見送ってから、俺は戸を閉めて、屋内に向きかえった。さて、俺も準備しなくてはならない。




 「…なあ、俺の革ジャンどこだったっけ?」
 「…クローゼットの左端ですよ」
 部屋の整理をしているのだろう。修太の部屋から妻の声が響いてきた。
 「ああ、あったあった」
 焦げ茶色の革のブルゾンを手に取る。何時買った物だったか、確か憂梨の生まれる前だった気がする。
 今日は病院の診断の予約があった。
 若い頃と比べると、なかなか怪我が完治しない。多少、否応無く持ち主に老いを感じさせる左腕である。もう数回は病院に通わなければならないだろう。
 ジーンズを履き、緩めにベルトを締める。肌着の上にシャツを着て、ブルゾンを羽織った。右腕は通すことが出来るが、左腕は出来ない。左肩に掛けるだけだ。あとは携帯、財布、診察券、診療の待ち時間を潰すための本などを持って支度は完了した。
 「病院に行ってくるよ」
 未だ二階にいる筈の妻に聞こえるように叫んで、玄関を出た。
 秋の風が、声に出せない朝の挨拶代わりに頬を撫でた。
 清杜記念病院への道のりは徒歩約三十分。住宅街を歩いていると、犬の散歩中の近所の夫人に出くわした。俺や妻よりも年上で、装飾過多で有名な人だった。犬も、意味不明な柄の服を着せられて迷惑そうだ。俺の中でこの犬のテーマソングは『大脱走』のテーマ。彼か彼女は如何にしてこの女性のもとから逃げ出そうか考えているに違いないと思う。
 「あら、栗山さんとこの旦那さん。お早うございますぅ。今日は意外と冷えますねぇ」
 「おはようございます、野高さん。確かに冷えますね…ワンちゃんの散歩も辛いでしょう?」
 「この子のことなら、全然そんなことありませんよぉ。それより、お怪我の方は大丈夫なんですかぁ?」
 「ええまぁ、これから病院に行くところでして」
 「そうですかぁ。早く直されたいでしょう。…あ、それより奥さん、駅前のスーパーで見ましたよぉ」
 「え、家内ですか」
 「はい、レジ打ち頑張っていらしてましたねぇ。ちょっと覚束ない感じでしたけどぉ…」
 微かにニヤついた顔で報告した。どぎついルージュが、怪しく光る。
 全く、耳が早いのか目が早いのか足が早いのか。こういう下世話な性格は、野高さんみたいな人には抱き合わせなのだろうか。
 基本的に物静かな妻より、俺の方が近所付き合いを担当していた。他の近隣の人達や、この夫人ともコミュニケーションは取れているとは思うのだが、今の野高さんの、妻を小馬鹿にしたような言い方に俺は腹が立った。
 「…ああ、どうも。では、診療の時間が近いんで、俺は行かせてもらいます」
 「あらイケない、足止めしてしまってごめんなさいねぇ。お大事にぃ」
 会話が終わり、俺と野高さんは逆方向に歩き出す。
 きっと彼女のことだから、俺が平日に私服姿でいる理由も、妻がパートを始めた理由も丸分かりなのだろう。そう考えると、さらに怒りが込み上げてくる。
 そしてそれを凌駕して、今の状況を作り出している自分自身に対して、腸が煮えくり返る思いがあった。
 ―――矛盾している―――。
 家庭を顧みない意識と、家族を大切に思う意識が、胸の奥で混在していた。






 診療室を出て数分、会計を済ませた。
 個人的には、加藤医師に診て貰いたかったのだが、別の医師が診療にあたった。患者の俺より、紙切れ一枚を信じているといった態度の、偏狭そうな俺と同年代ぐらいの医師だった。
 昼飯時である。ここはそこそこ大きな病院なので、どこか軽食でも振舞ってくれる所はないかと案内板を見た。二階からは病棟。俺が眠っていた病室に思いを馳せながら、視点を下げていくと、霊安室、という単語を見つけた。そこは死者が安寧を得る場所。生者が想いを吐露する場所である。
 予定では、俺はここに入る筈だった。家族がそこに立つ筈だった。
 しかし俺は生きている。家族も未だ足を踏み入れていない。
 「……ないか」
 結局、コンビニさえも無い。俺は諦めて歩き出した。
 ブリックのいちご味の紙パックジュースを買って、外の喫煙所に座った。誰かの見舞いなのだろう。幼稚園児ぐらいの子どもと、その母親が、土産を持って病院の出入り口に吸い込まれていく。俺にはそれすら無かった。前の事を思い出してばかり居るのは性に合わないのだが、流石に苦笑も出ない。吐く煙が無駄に重く感じるのは、何故だろうか…。
 吸殻を放り込んだ所で、視界の端に見たことのある姿が映った。
 ちょうど、病院の裏庭と正面玄関が見渡せる位置に喫煙所はある。そこから裏庭を覗くと、その人はゆっくりとした歩調で芝生の上を散歩していた。すれ違う患者と親しげに挨拶している。何となく会いたかった人に会えた。俺は嬉しくなって、その人に近づいていった。
 「こんにちは、加藤さん」
 名を呼ばれ、彼は緩やかに振り返って俺を見た。初めて見た時と全く変わらない、博愛の化身のような顔がそこにあった。少しふくよかな顔の皺は柔らかく、白髪は平和の象徴、鳩の羽根のようである。これ程白衣の似合う人間はそうそう居まい。
 「ああ、貴方は…」
 「前に運ばれてきた栗山です。栗山洋介です。お久しぶりですね」
 「これはこれは、加藤正彰です。お怪我の具合はどうですか?」
 「先生のおかげで順調です」
 「ははは…いけませんね。私のことは〝先生〟と呼ばないでくださいとお願いした筈ですよ?」
 「あ、失念。えっと…加藤さんはここで何していたんですか?」
 「散歩です。今日は雲もなくて良い天気ですからね」
 「あの、お時間ってありますか?」
 「?ええ」
 「じゃ、お話ししましょう?最近は、人との会話が楽しいんですよ」
 恩田と出会ってから、一度は満たされたと思った人恋しさは逆に肥大してしまったのだ。欲求は一度は満足しても、すぐに姿形を変えて、あるいはある一つの形態のままで、さらに大きくなって人間を襲ってくる。数ある欲求、その中でも人恋しさと言うものは、とびきり強力な代物なのだろう。
 一瞬時計を見ただけだった。俺の誘いに、加藤さんは快諾してくれた。




 目の前に広がるのは、地面に広がる芝生の緑と鏡映し海のような空の青のコントラスト。小高い丘から眺望する景色は、きっと患者達にもいい影響を与えていることだろう。
 真っ白なベンチに並んで座り、加藤さんと病院の事や政治の事を話していると、気になる物がチラリと見えていた。加藤さんの首の辺りの、日の光をキラ、と反射する鎖だ。
 「あの、それは首飾りですか?」
 「ああ…これは、こういう物です」
 加藤さんがシャツの胸元から引きずり出したのは、十字架だった。
 「加藤さん、クリスチャンなんですか?」
 「ええ、安息日には近くの教会のミサにも行きますよ」
 鬼に金棒とはこの事だ。優しい医者で、敬虔なクリスチャンだなんて、毛嫌いする方がどうかしている。それに、あの時病室で彼が神様に見えたのは、あながち間違いじゃなかったのだ。俺は大した理由もなく、感銘を受けた。
 そしてそれを追うようにして、加藤さんの言葉に相槌を打ちつつも、俺の中にはある衝動が生まれていた。
 ――この人に、俺の事を話したい。
 あの雨の夜、俺が搬送されてきた理由は自殺に失敗したから。俺が平日の昼に特に時間を気にする風でもなく談話に興じているのは仕事が無いから。そして俺が孤独を感じ、貴方に助けを求めるようにして此処にいるのは己の生きる意味が解らないから。
 加藤さんは牧師でも神父でも何でも無い。話を聞いて、この人は困惑するかも知れない。迷惑だと撥ね返すかも知れない。
 それでも俺は、彼は受け入れてくれるような気がした。何時にも増して優しく微笑んで、俺の翳を見てくれるような、そんな気がしたのだ。
 そして俺は切実とさえ思える衝動に駆られるままに、口を開いた。
 「…あの、加藤さん。…懺悔って訳でもないんですが、俺の話を聞いてくれませんか?」
 「?はい」
 「…俺、自殺し損なったんです」
 「……」
 加藤さんの顔は見ない。俺は彼が止めるまで、己を吐き出し続けるつもりだった。
 「お金も無くて、家にも居場所が無くて…。俺には何の価値もない。俺は今、自分が生きている意味が全く視えない。…確かに俺は父親ですよ。妻がいて、子どもだって二人いる。でも、その自身でさえ希薄になっていく。時々、真夜中に目が覚めて思うんです。実はもう、俺はとっくに死んでいて、幽霊になって皆に迷惑をかけているだけなんじゃないかって…。可笑しいですよね。飲んで、食べて、煙草だって吸っていると言うのに、幽霊だなんて」
 加藤さんは、黙って俺の独白に耳を傾けていた。
 滔々と、どれほど話し続けていただろう。一先ず喉が渇いたので、ジュースを口に含んだ。水分を得ると、気分が落ち着く。俺はそのまま口を閉ざしてしまった。
 加藤さんも沈黙を保ったままだ。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。彼からは、何かを表そうという動きは無い。ただ、隣で座っているだけだ。太陽に似ている、と思った。何も言わなくても、何ら意思を汲み取れなくても、ただひたすら温かい。丘を吹きぬける風に、芝の匂いを感じながら、そう思った。
 「…俺は、まんまと引き上げられちまったのかな…神様の船に」
 ポツリと、自然に言葉が紡ぎだされた。
 「沈没船引き上げるのって、サルベイジって言うんでしたっけ。…あっけないですね、俺は。簡単に掬い上げられた」
 その時、加藤さんが漸く沈黙を破った。普段と変わらない、穏やかな声で。
 「確かに、引き上げられたと、貴方は思うかも知れません」
 「はい」
 「沈み行く貴方は失態を冒し、再び地上に連れ戻されたと」
 「…」
 「主の御心を知るなど畏れ多い事です。ですから、私には真実が分かりません。…けれど、私はこう思います。貴方は、選択した死を失敗したのではない。貴方は、死ぬべきじゃなかったのです。生きてするべき事があった。だからこそ今、此処に居る」
 「…そうなんでしょうか」
 「それに、さっき貴方も言ったのではありませんか?」
 「…?」
 「サルベイジと言う言葉には、〝神の救い〟と言う意味もあるんですよ」
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