俺は煙草に火をつけた。ゆらゆらと先端から煙は立ち昇り、俺の吐いた煙に巻き込まれて、画面に衝突し霧散する。
恩田は言った。煙草の臭いは嫌いだから吸わないで。
俺は少し考えた後、生返事をした。しかし煙草は唇に挟まれたままで、もう一度煙が画面にぶつかる。横で小さく咳き込む音が聞こえ、俺はまた少し考える。
恩田は語気を強めて言った。吸わないでって言ってるんだけど。
あー、と気のない返事が俺の口から漏れる。
恩田は今度は陰鬱な声で言った。…栗山、もう付き合ってあげない。
俺は漸く、据え置きの灰皿に半分も吸ってない煙草を捨てた。軽薄に謝罪の言葉を言って、前に向き直る。
恩田も鼻を鳴らすと前に向き直った。
加藤さんに告白してから一週間、俺は何も変わっていなかった。
今日も今日とて恩田と一緒に、自堕落な生活に溺れている。
数時間前。射幸心に導かれるままに赴いたいつものパチンコ店には、見たことのある野良猫がいた。昨日の今日とはいかないが、まさかこんなに早く再会するとは思ってなかったので、俺は不意打ち気味に気分が弾み、恩田に接触したのであった。
パチンコ店に複合的に出店された小さなフードコートで、うどんをチュルチュルと啜っていた孤独な女、恩田棗を発見し、半ば強引に昼食に合流したのが十二時過ぎ。
そして四時頃にパチンコ店を出た俺と彼女は、商店街を北に抜けた所にある駅前に足を運んだ。
恩田が本を買いたいと言ったからだ。買ったのは少女漫画。教養本などの活字は苦手なのだと言った。私の頭じゃ理解できないからと、妙に悲観した様子で言った。
駅前は娯楽施設、商業施設、他、多種多様な内容のビルが建ち並ぶ。交通の便も豊かで、周辺住民には欠かせない場所だ。待ち合わせ場所に頻繁に使われる円形の広場もある。俺達はそこの一角に座り、一息ついた。見渡せば、仲睦まじい恋人達、営業中のサラリーマン、互いを信頼し切っているように見える老夫婦が確認できる。
「…なあ、恩田」
隣で本屋の袋を手に提げて茫、としていた恩田が首だけ回してこちらを見た。
唐突に現われた意識だった。
俺は彼女に、加藤さんにそうしたように、身の上話を始めた。一度人に話して開き直ったのか、洗いざらい全てを恩田に話した。俺は彼女の創を知っているのに、彼女が俺の傷を知らないのは不公平だと思ったし、失礼だが、彼女には俺の事を伝播させる知人も友人もいないだろうと思ったのも理由にある。
失業、自殺未遂、家での生活。その他諸々。
恩田は最初こそは目を見開いた様子だったが、次第に冷静に話を促していった。
彼女の、あの手首の蚯蚓腫れ。俺はそれを思い出しながら喋った。恩田は、俺と同じように自殺に失敗したのだろうか。それとも、彼女なりのSOSなのだろうか。どちらにしても、多少の傷の舐め合いぐらいにはなるのだろうかと考えていた。しかし彼女には、特別俺に同調する気配がなかった。
「フーン。奥さんも冷たいね。もう栗山のこと愛していないのかな」
「どうだろうな…、でも昔は俺の嫁、結構嫉妬深かったんだぜ」
「なのに、今は保険金担いで死ねって言うんだ?」
「だよなあ。俺が死神と浮気しちまってもいいのかよ」
「それ、分かんない」
「ああ、俺も分からないよ。なんせ昔の話だ」
喉が渇いたので、俺は自販機に行くと言った。ついでに恩田にオーダーを聞くと、マックスコーヒーと言った。律儀に小銭を渡してくる。あんな甘いコーヒーよく飲めるなと思いつつ、俺はファイアを押した。
恩田のもとに戻って缶を渡すと、恩田は労いの言葉も無く受け取った。二人のプルタブを開ける音が重なる。一口つけてから、でもさ、と恩田は続けた。
「私は栗山が、間違っていると思う」
「そりゃそうだろ。計画をしくじったんだ」
「違う」
「…は?」
「その計画自体がだよ。もっと言うと、それを考えた栗山自身」
「…」
「栗山は逃げたんでしょ?」
「…うはは、言うねえ」
「家族を養っていく事にも、良い夫でいる事にも、尊敬できる父親になる事にも、栗山は自信を失ったんだと思う。違う?」
眠たげな瞳のまま、恩田は続ける。本当に、閑談の延長みたいに。ともすれば、うわ言のようだ。
「でも、逃げるだけなら普通に死ねばいい。事故に見せかけようだなんて小細工をする必要もなかったでしょ。だけど栗山は保険金を求めた。それは、何と言うか…家族を残して逝くことに対する罪悪感みたいなものが栗山にドーンとやってきて…」
もしかして、頑張って漢字を使っていたのだろうか。時間が経つに連れて、恩田のボキャブラリーはみるみる乏しくなっていった。要領を得なくなってもきている。
「それでその…罪悪感は、家族を大事にする栗山の思いがでてきたもので、だから、つまりそれがあるのなら、栗山はまだまだ仲直りできるチャンスを持ってるってこと!」
「…ああ」
最後まで言い切った。何とも言えない迫力に、俺は反射的に頷いてしまった。
息継ぎなしだったのか、恩田はトップランナーの競技終了後みたいに酸素を求めている。
…とどのつまり、恩田は俺を励まそうとしてくれていたのだろうか。
思えば、励まされた記憶は彼方にしか思い出せなかった。刹那、不意に胸が熱くなるのを感じ、俺は慌てて口を開いて誤魔化そうとした。
「そ、そうだ、恩田に俺の武勇伝を教えてやるよ」
「どんなの」
「あれは娘が四才か五才のときだったかな。娘が公園でおままごとやってたんだよ。俺と妻は付き添いだったけど。それで変なガキが『ぼくがおとうさんでゆうりちゃん』娘な、『がおかあさん』なんて言うからさ、俺カチンときて『じゃあ俺が息子』とか言って二人の間に正座してやったんだよ。かなりシュールだったと思うぜ。周りの奥様の誰かが言ったんだ。『栗山さん。お気持ちは分かりますけど、子どもの遊びですから』ってな。それからかも知れない。妻が近所付き合いに消極的になり始めたのは。何せ、だいぶ恥ずかしかっただろうからな」
「…栗山サイテーだよ」
「他にもある。その時ぐらいだったかな。娘がジャングルジムから落ちて頭を切った。俺は娘を抱えて病院に駆け込んだんだ。止血と傷口を縫う必要があるから、治療室に入ることになったんだけど、俺が付き添うと言ったら医者が言ったんだよ。必要ありませんってさ。だから俺はこう叫んでやった。血を流して泣いている娘に父親が必要ない訳ないだろう!どうだ、カッコイイだろ?」
「うーん、確かにそれはいい栗山だね」
「もうかなり薄くなってると思うが、娘のおでこの端にはまだ跡がある筈だ」
「娘さんはそのこと覚えてたりするの?」
「分からん。しかし俺の愛のシャウトを覚えていたら、今はあんなに冷たくないと思うよ」
「そう」
缶コーヒーを飲み干した。煙草を吸おうとボックスを取り出したら、恩田が睨んできた。さらに駅前一帯は禁煙区域なのを思い出し、溜息を吐いて箱をスーツに戻した時だった。
「おい、君は…栗山君じゃないか?」
「え?」
聞き覚えのある、野太い声に振り返った。そこには、紺色のスーツに茶色のネクタイを締めたメタボリックな初老の男性が居た。威厳のある反面、気の良い印象のある顔立ち。俺はこの人を知っていた。
「やっぱり栗山君じゃないか。奇遇だなあ。腕はどうした?」
「おお!お久しぶりです!いやー、腕なんかはへっちゃらですよ」
久永次男。俺の以前勤めていた会社の上司だった人だ。この人とは妙に馬が合い、飲みに連れて行ってもらうことも多かった。うだつの上がらなかった俺とは違い、優秀な人である。少々飲み癖が悪かったのが白壁の微瑕だが、俺はこの人が好きだった。
「おや?可愛いお嬢さんだね、…っといけない。これも今ではセクハラになるんだったかな。褒めても怒られるなんて世知辛い」
突然の加齢臭の波状攻撃――俺と久永さんのことだ――に、戸惑う恩田を発見して彼は言った。まずい。散々彼の前で愛妻家を謳ってきたのに、ここで若い別の女性に手を出していたなんて思われたら大目玉を食らうことは確実だ。きっと終電の時間になっても彼の説教は終わらないだろう。
何とか誤魔化さなければならない。恩田が俺の脇腹を細い指で密かに突いてくる。
「…ええっと、この子は俺の姪なんですよ」
「…は?んなわけないし」
恩田が低い声で呟いた。俺は偽装計画を台無しにしようとする恩田を後ろ手で静止させ、久永が今の呟きを聞き取れなかったことを目で確認し、嘘八百を並べ立てた。
「今、家に遊びに来てるんです。地元から電車何本も乗り換えて。今ちょうどこの街を案内してあげていたところでした」
「…うむ?君にご兄弟とかはいたかな」
いない。俺は中流家庭の一人っ子だった。
「います。話してなかったですか?」
「んー、そうだったか。姪さんか」
「姪です」
「そうか」
何処か釈然としないのだろう。久永は記憶の糸を手繰っていたようだが、諦めてその話題を捨てた。俺はホッと胸を撫で下ろす。恩田はほとんど今の問題に無関係だったからか、虚空を見つめていた。全く、もう一度溜息を吐きたい気分だ。
「まあそんなことより栗山君。久しぶりに会ったんだ。何処かで話でもしないか」
「ええ…俺としては嬉しいですけど」
恩田の顔を一瞥した。恩田は別段気にした様子でもなく、立ち上がって言った。
「私、帰る」
「あっ、悪いことしちゃったかな」と、本当に悪そうに久永。
「いやいや大丈夫ですよ!ほれ、帰り道分かるだろ?」
俺は一刻も早く恩田をこの場から逃がしたかった。彼女の背中を押して早く立ち去れという意思表示をする。彼女は押されたスピードによろけながらも止まり、振り返って、
「…じゃーね。叔父さん」
と嫌味ったらしく別れを告げて歩いていった。スウェットパーカーの腹部のポケットに両手を突っ込んで。
「こんにちは、山根さん」
「…最近よく来るな、君は」
喫茶ヤマタカ帽の戸を開けると、素敵な仏頂面が二人を迎えてくれた。この短い期間に全く違う人間を連れてくる俺は、彼の目にさぞかし珍妙に映っていることだろう。
窓際のテーブルに腰掛け、俺はアイスコーヒーを、久永はホットコーヒーを注文した。
「…で、どうだ最近は。逢紗子さんはお元気か?」
真面目な顔になって、久永が言う。逢紗子とは妻の名前だ。彼は俺の失業後の話をするつもりなのだろう。やはり気にかけてくれているのだろうか。
「その格好で居るということは、新しい職場が決まったのか?」
「いいえ。これは何と言うか、俺のプライドの最後の砦と言うか…」
「そうか…」
本当に残念そうに久永は溜息を吐く。俺が会社を立ち去る時も、彼は殆ど泣きそうだった。俺はその光景を想起しながら灰皿を引き寄せ、煙草に火を点けた。久永はそれを見て、首を傾げた。
「君は煙草なんか吸ってたか?」
「いや、学生時代に吸ってて、結婚してからやめてたんですけど…無職になってからは少し…」
「…まあ、自棄にはなるなよ。毒なだけだ」
もう既に一度自棄になっているのだが、俺はそのことを伏せておこうと決めていた。暴露した瞬間、朝まで説教コースは確定だ。しかしそれだけ心配されているのかと考えれば、俺はこの人に感謝の念しか浮かばない。
コーヒー二種が運ばれてきて、俺はミルクを開けた。
「そう言えば、富崎はどうしてます?」
「ふはは、君と彼は犬猿の仲だったな。君がいなくなって彼は喜んでたよ」
「やっぱりね。あいつは相当の奸物ですから」
「口ではね。僕には本心に見えなかった」
「ほんとですかあ?久永さんの眼を信じますよ?」
「そこまで言われると僕も自信がないなあ」
笑い声が閑散とした店内に響く。
「これから飲みに行きたいところだけど、明日も早いからな」
時計を確認しながら、久永は言った。テーブルの上にはカップとグラス。ミルクの空容器が転がっている。灰皿には潰れた吸殻が四、五本横たわっていた。
どちらからともなく帰宅の準備を始める。久永は携帯電話を取り出して俺に視線を寄越した。
「君は僕の番号を知っていたよな」
「ああ、はい」
「困ったことがあったら、僕に言ってくれ。君の為に何か考えておくから」
「え、あっありがとうございます」
俺は頭を下げた。彼は、そんなのはいい、と笑った。
店を出ると空気に冬の片鱗を感じた。もう数週間もすれば、皆口々に寒い寒いと呟く季節がやってくるのだろう。
黒い夜空の下で俺達は別れた。久永は駅の方向へ、俺は住宅街の方向へ。
家に帰ると、妻がある伝言を受け取っていた。
誰からのどんな伝言かと聞いた。妻は答える。妻が手に取った受話器の向こう側の人物は、とても懐かしい人間だった。
そしてその用件とは、通常ならまだ少し俺達には早いような内容だった。