雨が降っていた。
しかしその粒は細く柔らかで、あの夜とは違い、何かを哀悼しているようである。あくまで印象の問題だが、それは確かに正しかった。
何時の時代、何処でもそうだろうが、此処の空気は重たく悲哀に満ちている。
水銀のように悲しみが沈黙と共に垂れ落ちてくる。そしてドロリと胸を覆われる感覚に、子供の頃の祖父の葬儀を思い出した。あの時も今日のような、秋雨の降る夜だった。
池添幸四郎は死んだ。
俺の高校時代の同級生だった男は、交通事故現場に居合わせたそうだ。その後、彼は一般人ながら救助に向かい、他の走行車に撥ねられて絶命した。
正義感の強い男だったから、この結末は彼に相応しい最期と言うべきなのか、自らの性が招いた悲運と言うべきなのか分からない。けれど、俺は前者であって欲しいと思った。池添の信念は、運命ごときに左右されないものだったと思いたかった。
深々と漂う冷気の中、弔問客は小声で挨拶や言葉を交わす。彼の勤めていた配線会社の同僚や重役、親戚などの面々。真摯に池添の死を悼む様子から、俺は彼がどれほど信頼されていたかを思い知る。
式場の外で煎茶を啜っていると、彼らの会話が流れ込んできた。
「可哀相に…。まだ子ども達も小さいのに…」
「…史亜さんはどうするんだ?未亡人ではあまりにも酷だ」
「分からないわ。…しばらくは喪に臥すことしか出来ないと思いますよ」
俺は振り返り、棺の横に佇む遺族に焦点を合わせた。
きっと何度も頬を濡らしたことだろう。それでも涙は枯れることなく、むしろ泣いてばかりではいられないと言う思いを嘲笑うかのように、止め処無く流れ落ちてくるのだ。悲泣に暮れる池添の妻とその子ども達を眺める。
…俺の家族は、こんな風に泣いてくれるのだろうか。妻は俺の名をひたすら唱え、憂梨や修太は無様に泣き叫んでくれるのだろうか。ちょうど、おとうさんがしんじゃった、おとうさんがしんじゃった、と幼い声で連呼する、小学生ぐらいの少年達のように。
病院の裏庭、芝生の上で説教をした、加藤さんの言葉を思い出した。
本当に、俺には生きてするべき事があるのだろうか。
家族をこの厳しい嵐の海のような現世に残さない事。憂梨の花嫁姿を見る事。修太の成長を見届ける事。定年後、妻を海外旅行に連れて行く事。
様々な、俺の義務や願望が思い浮かぶ。それは、自殺を決意した日から胸懐の奥底に仕舞い込んできた俺の夢、または未練でもあった。
しかし現在の状況、目下の指針は家族を悲しませない事なのだろう。
もし、俺の死が、池添の家族のように妻や子ども達を悲痛のどん底に突き落とすのなら、最後の最後まで生き抜いてみるのも悪くないと思った。
「おい、お前洋介だな?」
感傷に浸っていた意識が引き上げられる。
声のした方を見遣ると、小太りの男が分厚い手をブラブラと振っていた。脂の浮いた顔は人懐っこい。生え際が後退したおかげで、元々広かった額は世界地図が書けそうなぐらいに広大に見える。喪服は膨張し、黒色特有の引き締まった感じがしなかった。
妻に伝言を預けたのはこいつだ。俺はかつての高校の友人、松原博実に近づいていった。
「久しぶりだな、ひろみちゃん」
「からかうなよ。…にしても驚きだ。まさか池添が、な」
「あいつ俺達の中では一番がたいよかったのにな」
「ついでにアレもでかかった」
「ああ、全くだ。修学旅行で見たあの野郎のは未だにトラウマだぜ」
周囲が沈鬱とした雰囲気に心を沈めていることを知りつつも、自然と緊張感の無い展開になってしまう。
微かに笑い合う俺達を睨みつける女の目には、大の大人が不謹慎だぞ、と書いてあった。
松原は自分達の場違いな空気を吹き飛ばすかのように、大きく咳払いをした。ついで、
「こえーこえー、お前といるとつい青臭い頃に戻っちまう」
と、微妙に口元を曲げた。その意地の悪い笑顔を見ながら思う。
俺は今、自分のことで手一杯だから、名前も顔も朧気にしか覚えていなかった古い友人を悼む余裕がない。自分でも薄情だと思うが、それは仕方のないことである。しかし松原は違うだろう。
こいつはもう池添の突然の死を乗り越えたのだろうか。それとも初めから何の感慨も受けてはいないのだろうか。もはや旧友に対する思いは無くなってしまったのだろうか。
「そう言えばさ、弓納持とかにも会ったぞ。たぶん中にいる」
「…弓納持か」
「お、そう言えばお前らそうだったな。甘酸っぱい思い出でも思い出してるのか?」
「…んなわけあるかよ。俺には最高の嫁がいるんだぜ?俺は愛妻家で恐妻家で気弱な亭主関白だ」
「あー、お前の嫁さんすっごい美人だったからなあ。どうやってお前があんな可愛い人を射止めたのかって真剣に悩んだりしたよ」
「ま、そこは俺の溢れ出る魅力のおかげだ」
「うはは、気色悪いこと言ってんじゃねえって」
再度、此処が死者を葬る儀式の場であることを忘れたように言葉を交わす俺と松原。俺は、あの頃の野望や思想を冗談を混じらせて語り合った昼過ぎの教室に居るような錯覚を覚えた。セピア色の、目を閉じて感じたくなるような美しい記憶だ。
その時、華のない男の会話に、女の声が交じってきた。
「何を楽しそうに話してるの?」
しなやかに黒を纏った四十路の女が歩いてきた。唇を緩ませて、俺と松原の前に立つ。
噂をすれば何とやら。弓納持葵だ。高校の時は、童顔だが、優秀な容姿を持つ女生徒だった。それは今も変わらず、角度によっては三十代に見える。
高校三年の時、俺と弓納持は交際していた。文化祭では、格好つけてビートルズの真似事何かもした。俺の名曲『レット・葵・ビー』は同窓会などでも話題として好評を博した。ファーストキスの味は、直前まで青菜炒めを食べていたおかげで葫臭かったが、それすらももはや心のアルバムが埃を被っているような始末だ。
しかし、俺達の進路は違った。そのことですれ違いも起き、二月の初め、俺達は別れたのだった。
大学生時代にでも再会すれば、多少気まずい関係だっただろう。だけど俺達は既にいい年になってしまった。今はもう、華咲く昔話の中の一輪程度にしかならない筈だ。そしてそれは事実でもある。
「高校の話さ。久しぶりだな、弓納持。って今は違うんだったな。何だっけ?」
「フフフ、今は大橋だけど。何だか水臭い感じがして嫌よ。葵でいいわ」
フレンドリーな性格は変わっていないらしい。ショートカットの髪型や童顔も変化無しだが、口調が大人の女性っぽくなった。それに所作が上品だ。…それはそうか。俺が脱皮出来ていないだけなのかも知れない。皆それぞれ思い思いの人生を送ってきたのだ。色褪せた面影を重ねる方が可笑しいのだろう。
再び感傷の風に吹かれていると、弓納持が言った。
「それにしても、本当に久しぶりよね。洋介君、松原君も。私達って、今では恥ずかしいくらいに青かったよねえ」
「全くだ。臭い台詞を何の躊躇もなく吐いたりしてな」
「お前だけだよ洋介。懐かしいなあ。聖子ちゃんが結婚した時は、世界の終わりかと思ったよ」
ささやかに、三人の口から笑いが漏れる。
もう心臓は動いていなくて、口も聞けないけれど、池添の幽霊が松原と弓納持の間で、腕を組んで大笑いをしているような、そんな気がした。
「…ねえ、変な言い方だけどさ。同窓会を開いているみたいだね。池添君も参加して」
読心術の心得でもあるのか、俺の思考をスキャンしたかのように弓納持がポツリと呟いた。松原も大きく頷いて言う。
「そうそうそれでさ、これから高校の奴ら、っても俺達同じクラスだった奴ら五人ぐらいしかいないけど、集めてパーッと池添を忘れるために飲みに行こうっていう話があんだ。洋介もくるだろ」
「そりゃ勿論」
話がまとまると、松原は煎茶を喉に流し込んだ。俺もそれに倣う。黙祷するように黙った後、松原は哀傷の表情を浮かべた。
「…そういえばあいつ言ってたよなあ。ジジイになったら、三人で新時代の遊びをしようってさ。まあ、もう無理なんだけどよ」
そう言う松原の目尻には、いつの間にか涙の玉が揺れていた。おっと…柄でもないな、と声だけで笑いながら、指先でそれを拭う。隣では弓納持も、苦しいような悔しいような顔で俯いていた。
「……」
俺は自分を恥じた。笑い合った下らない冗談も、明るい飲み会の提案も、全て旧友を失った悲しみを紛らわす為だったのだ。そんなことにも気付かずに、俺は何を考えていたのだろう。古い友人を痛む余裕がない?それは仕方のないこと?馬鹿を言うな。酷いのは俺ではないか。
俺は式場に入っていく松原の丸い背中と、その奥に見える遺族の姿をもう一度見据え、畜生、と口の中で低く唸り声を上げた。弓納持が、大丈夫?、と俺に声を掛ける。
外では、寂寞とした闇から降る雨が、てらてらと濡れた葉を揺らしていた。