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ロリータ複合体

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 『露出狂王みく』のストーリーはいたって単純明快、「キェルケゴールとナボコフは性倒錯者のカス野朗達だ」といテーマが全体を貫いている。作品の主なモチーフとなっているのがキリスト教で、これが現代の病苦としてのロリコンを揶揄しているのである。

 「みく」がキリストの現代の姿であるのはその一糸纏わぬ姿から見て取れる。幼女の姿を取ったキリストとはパウロによって歪曲されたキリスト像の極みであり、カトリックのマリア信仰と混交され、処女性と本来のアナーキストであるキリストとのヘトロセクシャル――男性と女性と幼児性の三位一体――が見られる。彼女はぺドフィリアやエフェボフィリアなどのあらゆる罪科を背負わされたキリストである。

 ナボコフの『ロリータ』はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における「神が存在せねばすべてが許されてしまう」といった名句を明らかに追従するものである。しかしナボコフの誤りは、自分があらたに鋳造したキリスト像によって神に接近できるというものであった。これはキェルケゴールの逆説弁証法と同じものである。禁欲主義によって接近することができないのであれば、我々は異常性欲をもってするしかない、と言うわけだ。彼らの単純な思考は現代のロリコンと全くもって同じである。どうせリア充の女たちは俺に振り向かないのだ、それよりも幼女達はなんて良い笑顔を俺に向けてくれるのだろう。父がだめなら母だというまさしくカトリックの倒錯ここに極めりといった状況である。

 この作品が今後もどのようにしてこういった愚かなキリスト教徒たちを断罪するのかはわからない。そしてまた本来のキリスト、つまり現代の幼女にどのように接近するかを示すのかもわからない。しかし重要なのはキェルケゴールのように外の不条理を見ずに実存主義(ヒキコモリ)に陥るのでもなく、またナボコフのように積極的に虚像を追い求めるのでもない。キリストとは一切の関係を拒絶する者であるから、我々がそれに関係を求めるのは誤りである。我々はただ児童ポルノ法という踏み絵を拒絶するだけではなく、自らを含めた全ての幼女への関係を断ち切らなければならない。
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