民主万能主義
「人間が、世界と歴史における自分の位置を自覚するのは、イデオロギーにおいてなのである。(*1)」つまりは、「理論的」見地からしてDJ ERIERI氏が新たに提言したネオレフトは彼の批判するファシズムやユダヤ教的ユートピア思想と同様のイデオロギー《虚偽意識》である。また、こう言わねばならないだろう――「DJ ERIERIはヒトラーやパウロと同等の倒錯者である」――と。それは氏の批判する新自由主義よりもあまりに人道的すぎる所以である。
「スターリン批判」以後の社会主義は、現在の新自由主義批判以後の資本主義と似たような様相を呈する。階級‐格差主義から人格‐人道主義へと移行を促し、人格的ヒューマニズムに目覚めた社会主義者たちはそれをもってさまざまな個人崇拝を断罪する。それはさながら小泉崇拝批判のようなものだったのだろう。「《社会主義》という概念はたしかに科学上の概念であるが、ヒューマニズムの概念はイデオロギー上の概念でしかないのである(*2)」からそれは、イデオロギーによるイデオロギーの断罪でしかない。
こういったヒューマニズムがキリスト教ヒューマニズムとの迎合であったのは――崩壊直前のソビエトでウラジーミル1世の988年の洗礼を記念したロシア正教千年祭が行われたことが象徴するように――無神論を掲げたソビエトの宗教弾圧が緩和されたことから明らかである。後期資本主義社会におけるヴィーガンや動物愛護(マニ教的菜食主義とトーテミズムの復活)、ハリウッド映画による善悪二元論の啓蒙とその衰退(グノーシス主義とキリスト教によるカタリ派の追放)など、現在でもキリスト教ヒューマニズムとシステムには綿密な繋がりがある。また、前章で述べたように『ロリータ』などの新たなる福音書の系譜もこれに連なるものである。これらのイデオロギーの観点からすると物事は単純な様相を帯びるが、アルチュセールの言うように科学的に見れば社会は「複合体」なのである。この場合キェルコゲールの言うような「あれ(右)か、これ(左)か」なのではなく、そんなものは存在しない。
「市場ではなく、民主だ」という発言はあらゆる民主的「自由」をよりいっそう魅力的にするものである。こういった民主原理的思考はその機能を万能化するのだ。「リベラルな民主主義こそが普遍的なイデオロギーである。」あるいは、「キリスト教的な人道主義こそが普遍的なヒューマニズムである。」彼らはホロコーストや宗教戦争を起こすのがこのイデオロギーの欠陥であることを絶対に認めない。彼らは「高度な民主主義」が「高貴なドイツ人」とどれほど似た響きを持つか絶対に気づかない。「何かを捨てることとは何かを選ぶこと」なのだから、ナチズムの血縁主義や大地信仰を捨てれば我々は士農工商と四民平等(*3)を得るのだ。もちろんリベラルな民主主義は穢多と非人を選ぶことも「寛容」する。ここに民主主義の強烈な命令が潜んでいる。「ナチを捨てて、非人を選べ」
(*1)ルイ・アルチュセール『マルクスのために』(訳)河野 健二, 西川 長夫, 田村 俶 平凡社 1994年
(*2)同上
(*3)これらは儒教の人道的教えに由来するものである。