フォーク=パンク
「我々は債務不履行の世界に居る」このようにしてクルーグマンは廃れ切った原罪をもう一度持ち出そうとする。「悪いのは誰だ、キリストを殺したのは誰だ、ユダヤ人ではないのか」「いや、そうではない。キリストは全ての負債を背負って天に召されたのだ」このようにして新たなるパウロが――多重債務や連帯債務などのあらゆる債務を背負わされることになる――新たなるキリスト像を産む。そしてすべては伊瀬カツラ氏の書く筋書きのように進行される。「最初に罪があり、そして我々は正しい道を選ぶのだ」また氏を追う人々によってこういったヴァリュエーションも書かれる。「我々は正しい道を選ばないから、最後に罰を受けることになるのだ」(また、こう言い換えることもできる。「最初に謎があり、そして我々は正しい答を得るのだ」)つまり彼らはザムザを捨ててパウロを選び、ユダヤ人ではなく異邦人へと移り変わる。やがてそれは異人と非人に至る。『城』のアマーリアの家族たちが言うように、「赦しを得るためには、まず罪を確定しなくてはならない」のだ。
このように、全ての人は故郷を失くした人に過ぎない。右翼も左翼もそういった人々であるが、ただし双方に異なる点があるとすれば、それはノスタルジーによるイデオロギーの解釈の相違である。「かつて十全なる国家というものが存在したのだ」あるいは「かつて十全なる民衆というものが存在したのだ」というプラトニックな少年愛的思考。しかし我々は倒錯者プラトンを断罪するだけでは事足りない。
空港閉鎖を引き起こした「This Bike is a Pipe Bomb」というバンド名が示すのはまさにこの点に於いてのことである。(*1)右翼テロリストか、左翼テロリストか、異邦人テロリストか、ではなくパンク・バンドであり、バイクはパイプ爆弾であり、フォークはパンクである。彼らは「かつてフォークソングというものが存在した」と世界を解釈した後、「いや……まてよ、パンクというものもあったはずだ」と呟く。ダブルバインドによって拘束された患者に精神科医は新たな病名を付ける。フォーク・パンク、社会民主主義、ネオレフト……
フォーク、カントリー、ブルース、演歌、唱歌といったものは時代劇、西部劇、スコットランドのキルトなどのあらゆる「伝統文化」と同様に捏造されたものに過ぎない。(「さあ、民謡を歌いましょう」と言うようになってから、我々は「さあ私達の歌を歌いましょう」とは言えなくなってしまった。)これらのイデオロギーはロック、パンクといったものに受け継がれたものであるが、それらも同様に虚偽である。「Blues Subtitled No Sense of Wonder」と歌われるのはこの意味においてである。「我々は故郷を失ってしまった」という悲哀は何の考えも無しに新たなる名前をそれに与えるのであるが、それには何の意味も無い。同じようにして新たに書かれるセンスの無いおとぎ話には何の価値も無いだろう。しかし酷にも倒錯者パウロは新たな物語を綴ることを命令する。
そんなことよりも、次の曲に耳を傾ける必要がある。この奇妙な曲はどこの国の音楽なのだろう、スコットランドか、アイルランドか、中国、アメリカ、ユダヤの音楽だろうか。
(*1)http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN200902170012.html?ref=ng