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美人論(作:飯倉さわら)

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 美人は性格が悪い、との説がある。
 この説の起源には、1940年代後半に作家のアイザック・アシモフがアメージング・ストーリー誌に発表した短編の一節が一人歩きしたという「SF起源説」や、同年代にニューヨーク・ポスト紙のエイプリル・フールのコラム欄が始まりという「新聞起源説」がある、とされている。
どちらにしても出自が定かでないことや、美人の美しさに隠されて「美人は性格が悪い説」の正否についてこれまで言及されなかった。
 私は、この説を理論的に証明していこうと思う。

 先ず美人を含む、女性全体の性格を考えてみる。
 結論から言えば、女性はおしなべて性格が悪い。
 具体的な例証はあなたが男性であれば両手でも間に合わないくらい挙げられると思う。
 もしあなたが女性であって、この結論に腹を立てているのであれば、人の話を最後まで聞かずして腹を立てるのが、果たして良い性格なのか自問してみることをお奨めする。
 それではあまりにも手抜きという批判が来てしまいそうなので、これからその証明を始める。
 先ず、女性は不思議なほど理論的な思考が出来ない。これは一見、性格の良さと関係ないように見えるが、正しい理論構築ができない精神に友愛、正義が生まれるはずがない。
 例を挙げて説明しよう。
 女性は死ぬまで若さを追求したがる。
 その熱情は男性側から見て圧倒されるものであり、これを発電や何かに利用できない物かと考えさせるほどである。
 閑話休題。
 若さと言っても、目に見えるものもあれば、精神的なものもある。
 男性は精神面に若さを与え、それがやがて外見に及ぶと考えているが、女性は何はともあれ外見に若さを与え、それが内面に及ぶ(また及ばなくとも良い)と考える。
 方法論の違いだけであって、たどり着く目的地は一緒である。
 男性が精神的若さを保つ努力のため、それを助ける道具を買おうとすると女性は途端に馬鹿にし出す。
 あなたがオープンカーや、釣り竿、人によってはオオクワガタを欲しいと願い、妻または恋人に話したとすると、
「ふーん。あなたって精神的にまだ子供なのねー」
という答えが返ってくるに違いない(そしてこの言葉を浴びせられた経験はどなたにもあると思う)。
 しかしこの場合の女性の常套句である、精神的、という言葉はそもそも間違っている。
 精神というものは科学の範疇には入っておらず、二十一世紀にもなってもその実在が証明されていない。そんなありもしないものを評価軸にするのに無理がある。
 例えば、
「霊的にあなたのステージは高い、低い」と人を評価するようなものである。
 このように、女性が意味を考えずに正しい言葉を使えないほどの思考を持つように至ったのは、やはり幼少時代が決定的な役割を果たしたと考えられる。
 思春期を迎えると、女性の方が男性よりも早く二次性徴を迎える。
 大人へと近づきつつある女の子は、今まで同程度であったはずの男の子が、いつまでもゲームやプラモデルや昆虫に夢中であり、下卑すべき存在に映る。
 男の子は、ゲームやプラモデルや昆虫に夢中のため、自分たちが馬鹿にされているとも気が付かず、ゲームやプラモデルや昆虫に熱中したまま大人へとなっていく。
 この無邪気さを内包したまま成長した男性はすべからく性格が良さにつながるわけだが、本旨と逸れるため割愛させていただく。
 さて男の子を馬鹿にしている女の子ではあるが、家に帰れば「お父さんが一番」となっている。しかし女の子は、子供特有の澄んだ眼と、聡明さで、それがあくまでも建前上だけのものだと気が付き、矛盾を矛盾のまま受け入れてしまうのである。
 かようにして女性は早々と理論的に考える訓練を放棄しているのである。
 その責任は男性側にもあるという考えも立ち上がるのだが、本旨と逸れるため割愛させていただく。

 さてようやく、非常に性格の悪い女性の中の「美人」という存在に目を向ける。
 美人とは何か?
 読んで字のごとしで、美しい人である、のだがそれでは不十分なので、人の顔の美について定義しなければならない。
 人の顔の美しさを定義付けるにはどうすればいいのか?
 これを考えるのに、面白い実験がある。
 顔の輪郭、そして目、鼻、口、眉毛など構成部分の大きさと位置の平均を取り、それを当てはめたモンタージュ写真を作ると、美人の顔が出来るのである。つまり、もっとも平均的な顔の作りの集合体が美人である。
 しかし皆さんも経験があるように、世の中の物事の多くは平均的な物が溢れているのだが、平均的な顔である筈の美人だけは何故か多く溢れていない(これは何ごとも例外はあるというたとえの証左の一つだろう)。
 残念ながら、美人の比率は女性全体のどの程度なのかを示すデータはない。が、私の経験的には約五%ほどだと思える(これは個人的見解だが、それほど外れていないはずだ)。
 その希有な存在が、二十倍の勢力を持つ平均的顔の造作から外れた女性の中に放り込まれるとどうなるであろう。
 その答えの前に、先ほど私が申した「美人とは何か、平均的な顔の持ち主である」という言葉を思い出して貰いたい。
 美しいか、そうでないかは平均値の位置の問題であり、現在美人の者もその位置が変われば美人ではなくなる。これを逆に考えると、不美人が一致協力して平均値をずらす事ができる。たとえば常に顔を腫れぼったくし、口もとはだらしなく開け、鼻の穴を押し広げるなどの努力により、女性の多くが美人の基準に入ることができるように考えられる。
 この平和的解決が、実際には行われていない。
 さて先ほどの答えだが、現実には美人は不美人の妬み嫉みにあい、苦しんでいる。
 なぜ平和的解決が出来ないのか不思議なものであるが、これは性格の善し悪し以前に、女性の本質が非常に暴力的なものだからであろう。
 暴力が本質の女性だが、美人を虐げるのに腕力を使うことはなく言葉を使っている。
 その言葉は皮肉にも、
「美人のくせに何々」である。
 ほんの少しでも美人が忙しくすると、
「美人のくせに、落ち着きがない」で、逆は、
「美人は男が勝手に手を貸すからと思って、怠る」となる。
 他にも、
「美人のくせに、軽薄だ」
「美人は男の方から手をさしのべると思って、すましてるな」
「美人のくせに、自分の意見を持たない」
「美人は男が賛同するはずだと思って、自分の意見をごり押しする」
 等々。
 まるで全ての男性が美人に手をさしのべたがっているような印象を受けられるかもしれないが、それは違う。言葉の暴力の凶器として使われているだけなのである。もしもあなたが棍棒で殴られたとしても、その棍棒に罪が無いのと同じである。
 さてここまでお話しすれば、もうおわかりだと思うが、性格の悪い女性の中でここまで虐げられた美人の性格が良いはずがない。
 多くの美人は、不美人の相反する言葉(命題と言い換えても良い)の最大公約数的な性格、つまり八方美人という洒落にならない(なっているのだが)ほどの悪い性格になってしまうのである。
 何事にも例外が存在するように、中には人の言葉にも負けずに、己の信条を貫き通す人もいる。しかし、人の言葉に耳を貸さないような性格が良かろうはずもない。
 よって美人は性格が悪いのである。

 さて結論は出たが、私の心は晴れない。
 やはり美人は性格が悪かったのだ、と声高に叫ぶ気にはなれない。
 これは被害者、加害者が生み出してきたものだからである。
 いくら本能的なものとはいえ、多数の者が少数者をなぶるのが正義であるはずがない。
 集団病理ともいえる「美人いじめ」を撲滅するには、全女性が美人になるしか方法は無い。
 これは全男性が望んでいることであり、全女性が美しくなることに、いかなる協力も(金銭的、肉体的、時間的負担が無いものに限り)惜しまないと断言できる。
 それは男性の持つ、平和を愛する心と正義感の発露であることを、最後に付け加えておく。
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